第弐話:学舎
人の想いは遷ろうもの。儚いもの。
だが、同時にその真逆のものでもある。
人の想いは不変のもの。強固なもの。
だから。
時に、想いに強く囚われてしまった者は人の道を外れる。
それは決して倫理的観点だけから述べている話ではない。
彼らは、彼女らは。人の理から抜け堕ち、魔性のものに変ずることもありうるのだ。
それは世界の裏の現実。
それは人の世を乱すこの世ならざる存在、『魔』の在り方の一つ。
◇
夜の闇に、その大部分を支配された施設。
少年と少女は注意深く辺りを窺いながら、ゆっくりとその内部を歩んでいた。進行方向右手側。そこには整然と並ぶ窓に混ざり、一定間隔に引き戸の配されていた。
二人の左手側には窓のみが続く。光源は非常灯以外は、そこから差し込む月明かりだけだった。
二人はこの施設の関係者であった。身に纏う制服がそれを示している。
それは白を基調とした学生服。この学園の制服である。
その学生服姿の二人は、共に美しい容姿をしていた。並び写真に納まれば、この学園のパンフレットに学生モデルとして、十分過ぎる役割を果たすであろうことが容易に知れる。
なまじ、そこそこの契約金で外部のモデルを雇うよりも、遥かに好印象を見る者に与えることが誰の目にも明らかなほどに。いや。ともすれば莫大な契約金でトップモデルを雇うよりも、その効果は高いのかも知れない。
創り物。そう見紛うほどに整った容姿。黒髪。その少し長めの前髪が切れ長の目にかかるも、その真っ直ぐと前を見据える、黒い瞳に宿る強い意志を少年は感じさせる。彼はその小冊子に於いて、涼しげに理性、誠実さを演出するのだろう。
対する少女は色素が少し薄いのか、透るような白い肌と自然な美しい亜麻色の長い髪を靡かせていた。そして、そこに在る、見る者を魅了する知的ながら生き生きとした表情。彼女は味気ない小冊子を華やかに彩り、見る者に明るく楽しい学園生活をイメージさせるだろう。
尤も。その少年は、人前に出る行為を酷く避ける嫌いがある。例え、この学校の教職員や運営に関係する者が本当に二人に白羽の矢を立てたところで、そのようなことは、実際には在り得ないことなのだろうが。
二人の歩く足音だけが、薄暗い廊下に反響していた。日に焼け、亀裂等は見当たらないものの、年季の入った建物であることが一目で知れる壁面に、その音が染み入るように木霊する。
不意に、少年の数歩後ろを行く少女が口元を左手で押さえた。
吹き出しそうになった笑いが、噛み殺されるも抑えきれず、そこから漏れる。刹那、辺りと全く異なった雰囲気が辺りを包んだ。日の当たる日常にあるような笑顔が、そこに浮かんでいる。
「……どうした?」
歩みを止めず、顔だけで背後の少女を見遣ると無表情に少年は訊ねた。こちらは依然、対照的に、辺りと同じ闇の気配を纏っているようだった。
「アンタ、本当に白が似合わないわね」
何がそんなに彼女のツボに嵌っているのかは定かではないが、涙目で少女はそう呟いた。学級が違うためか、少女は少年のその姿に未だ見慣れてはいないのだ。
「……帰れ」
変わらない表情で冷たく言い放つと、少年は再び視線を前方へと戻す。
「……で? なんで突然に高校に通う気になったのよ?」
不気味さ。夜の校舎にあるその様相を意とも感じさせずに、背中を向けた少年に少女は訊ねた。こういった場面に於いて、恐怖に少年に寄り添うのが彼女のような美少女の定石なのかも知れないが、生憎と少女はこのような状況に慣れていた。否。より深い闇の中に、その身を置くこともあるのだ。この程度の状況は、彼女にとって日常と何ら変わりはない。
「お前には関係ない」
一頻り笑い終えた少女のもたらした問いに、少年は即座に返す。それは疑問の答え、にはなってはいないのだが。
「高認受けるから、高校生活分は滝口に専念するって言ってなかった?」
しかし、少女は少年の態度に気分を害することなく会話を続けた。
二人の関係は長い。友人関係、というほど親密ではないのかも知れないが、その関係は幼少時代にまで遡る。これしきのことで一々、四の五の文句を言っていたら、この少年とはまともに付き合えないことを熟知しているのだ。
「お前には関係ない」
少女の続けた疑問に返されるのは、先と一言一句変わらぬ少年の答え。
「関係なくはないわよ! アンタのために私まで転校してあげたんだから!」
その返答に少女は柳眉を吊り上げた。しかし、僅か二言目で感情が認識を凌駕したようだ。
「……頼んではいない。お前が勝手にしたことだ」
しかし、少年の態度は何一つ変わらない。
「偏屈で無愛想なアンタ一人だと、余計な問題を起こすでしょ!? 間違いなく! アンタにはそういう認識や予測が出来ないの!? そうなると琴音にも問題が及ぶかも知れないでしょうが!?」
源琴音。彼女の幼馴染である少女の名前。その少女が通うこの学校に、二人が転入して来たのはつい一月前のことである。
それは、その琴音という少女が『世界の裏』を知ってしまった夜から、一週間が経過した日のことであった。
実際のところ。疑問を口にしながらも少女には少年の考えは推測出来ていた。
世界の裏。それに引き込まれてしまった際に琴音は――。
「くだらない話は後にしろ」
少年の言うこの言葉を要約すると、後で一人で勝手にほざいていろ、ということなのだが――そう会話を断ち切ると、少年は手にしていた刀の柄に右手をかけた。
刀。この国が誇る、芸術の域にまで高められた武器である。そして、それは彼らの魂でもあった。
少年は滝口。滝口とは、平安の世に設けられた退魔の役目を担う武家のことである。彼は現代に生きる紛うことなき武士なのだ。
何時でも瞬間に抜刀出来る姿勢を維持し、警戒したまま辺りを窺う滝口の少年。
そして、その視線が前方にある教室の扉の前で止まる。
「……室内、ね」
少女が先程までと打って変わり、真剣な面持ちで口を開いた。
その言葉に少年は頷く。何かの気配を二人は察した。
魔力――この世ならざる力の波動。直後、それを感知した少年の口が開く。
「――来るぞ」
その呟きが合図だった様に、静寂の帳を破り校舎内部に剣呑たる音が響いた。
二人の警戒していた教室。その廊下に面した扉を、窓を破壊し、教室内部から姿を現す異形。瘴気に混ざり、血の臭いがその室内から流れ来る。
その異形の影は一つではなかった。
力任せに開かれた隙間からその姿を晒すのは、大小、様々な形状をした鬼の群れ。
その異形たちの姿を視認するや、少年は抜刀し駆けていた。古雅で美しいその刀身が閃くと共に、朱と鬼の首が宙を舞う。
「詩緒! コイツらは!」
後方。叫ぶ少女は、制服の内ポケットから紙片を取り出すとそれを宙に放つ。
「爆!」
そして、その艶やかな唇が奏でる起動命令。
その命に忠実に従い、突然に爆ぜる紙片。火種など存在しないのに、小規模な爆発が発生する。巻かれた異形の数体が砕け散る。
否。大気に火気は、存在するのだ。
陰陽五行。その火行の火気が。少女はその力を行使する術者。陰陽師。
「解っている。変じたものじゃない。召還者がいるはずだ」
言葉を返しながら、また一つ、二つと少年の刃は、鬼の首を一刀の元に刎ねる。
校舎の廊下。迫り来る敵の群れ。限られた空間でありながら、詩緒と少女に呼ばれた少年が見せる絶技に確実に鬼の数が減る。
だが、その群れは途切れはしない。次々と教室内部から殺陣の舞台と化した、その通路へと現れる。
「……まったく、厄介なことをしでかしてくれるわね!」
悪態を付きながらも、少女は舞うように鬼の繰り出す打撃を避けた。
ただ回避運動を行うわけではない。その動きに生じた風に、魔力を籠めるべく、素早く詠唱する。
「木行に命ず! 風を以って裂け!」
自然現象を意のままに操るべく、命じられる力ある言葉。その言葉に生まれる真空の刃。それは巨躯の鬼の体を易々と真一文字に割り、さらには後方に控えていた鬼の群れを裂く。
「ちっ!」
舌打ちし、少年は敵の群れを見据える。途絶えることなく、未だ鬼は現れ続けている。
滝口の眼光が一層強い力を放った。
その群れの向こう。そこに異形と異なる影を、詩緒は確認したのだ。
それは外套を靡かせ、戦場に背を向ける。
仕事を終えた。そう言わんばかりの悠々とした動作を見せ、歩き出す。
自分たちがこの場に現れた時機に合わせ、何かしらの術式の魔力の波動の後、鬼の瘴気が発生した。それは、つい先ほどの事。ならば、それらを此の世に呼び寄せた術者はすぐ近くにいる。その可能性は容易に予測できたことである。
「――奴か」
呟くと、滝口は敵の囲いを存在しないもののように駆け出した。少年の進路。そこに立つ鬼が次々と切り伏せられる。
「ちょっと!? 詩緒!?」
少年のその動きに少女は非難染みたの声を上げた。
「ここはお前に任せた。俺は元を叩く」
言いながらもすでに、少年は鬼で作られていた囲いを突破し終えている。
「アンタ、正気!? か弱い美少女を置いて、それが男の子のすること!?」
抗議の台詞は続くも、少年の耳には届きはしないことを悲しいかな少女は知っている。
彼女の能力の高さを認めている。それだからこその行動であろうが、窮地は窮地。納得が出来ていないことは、その表情で知れる。
「……強力な術の使える状況じゃないでしょうが。適材適所の有利性を無視してるわよ……」
断末魔の呻き。そう嘆く少女の後方で、その耳障りな騒音と共に鬼の体が一つ、崩れる。
「何!?」
状況を把握出来ずに、振り返る少女。その視線の先に小柄な人影が在った。
「大丈夫!? 瑞穂!?」
少女の名前を呼ぶ凛とした声が、鬼たちの唸る声を抜けて彼女に届く。声の主は一振りの刀を携えた、幼さの残る可憐な少女であった。彼女が鬼を斬り捨てたのだ。
「琴音!?」
それは瑞穂にとって、全く予想外の増援だった。その刀を手にする少女こそが、先の話題の少女だったのだ。
「なんで貴方がここにいるの!?」
瑞穂はその疑問をそのまま口にしていた。
「放課後に貴方たち二人が、そろって姿が見えなくなったら、それは疑問に思うわよ。それに――」
会話をしながらも、琴音は戦闘を繰り広げる。乱戦にありながら、危なげなく次々と彼女を襲う攻撃をかわし、刀を振るう。
その身のこなしと太刀行きは、つい最近まで普通の一女子高生だったにも関わらず、すでに達人の域にあった。それは世界の闇で『魔』を討つ者たち、滝口の中でも彼女並みの動きを見せうる者が、果たしてどれほど居ようという水準である。
「――学校に今日は嫌な気配がしていたでしょ? 校舎内の空気が澱んでいるみたいな……」
琴音の感じていたその気配。滝口の少年も陰陽師の少女も、学園を覆ったその異変を察して調査すべく、ここに現れたのだ。それはこの世ならざる何かの気配。瘴気だった。
「……鋭いのね」
ぽつりと瑞穂は呟く。
本来ならば、この少女をこちらの世界には引き込みたくはない。それが陰陽師の少女の本心であった。そういう意味では、こうもこういった通常に感じられない感覚が鋭いのは考え物である。
「だったら、何と無くだけどこういうことなのかな? って、部活の後も残ってたのよ!」
また一体、鬼を葬り琴音は言う。
そして、困ったことに、この少女剣士は行動力もある。
琴音は瑞穂の望みに反して、こちらの世界に介入する決心を固めているのだ。
それは彼女をここまでの剣客に、世界の裏の気配を察する感覚を有する人間に育て上げた人物の凶行を止めるための決意であった。
「仕方ないわね……琴音! 速攻で片付ける! フォローして!」
ぼやきに続く指示。それは、そうすることで、彼女の介入を早々と終わらせる決断でもある。この場限りの暫定的なものでしかないのだが。
「何をすればいいの?」
鬼の群れを割り。瑞穂のすぐ傍にまで辿り着いた、滝口見習いとでも言うべき少女は訊ねる。
「少し集中して詠唱するから、露払いをして!」
認めたくはないものの、それを安心して頼める実力があることは知っている。
「任せて!」
即答する少女。その応答を待つまでもなく、瑞穂は空間に晴明桔梗を描いていた。
「……こんな持ち場を任せた詩緒が悪いんだからね……」
すでにこの場からは見えない相方に責任を転換して。瑞穂は森羅万象に強制的に影響を与える力ある言葉を言い放った。




