第拾伍話:消失
「……ある種の才能なんだろうけど……琴音のタイミングの良さって、ホント、すんごくズッコイって思えるわね……」
不満を宿した瞳に件の少女を映し、ぽつりと愚痴りながら瑞穂は成り行きを見守っていた。
またも。或いは、当然の如く。今現在、その陰陽師は丑寅の山という因子に、戦力としては、ほぼ無力化されていた。そのため、目の前で躍動する少年と少女、二人の剣士の足を引っ張らないように立ち振る舞うよりは、他になかったのである。
あの夜と同じように。絶好の時機で現れた、その剣士。
彼女は開眼して間もない第六感で異変を感じると、自らの意志で凶事の発生した、この場所へと駆け付けたのだ。
そして、その行動が今宵も再び、戦況を好転させる起点となったのである。
源琴音。
その少女の登場に、丑寅は完全に虚を突かれてしまったのだから。
何がその身に起ったのか。彼女から攻撃を受けたという、その事実を把握するよりも、赤一色に塞がれた視界と、その部分から感じる痛みという感覚に八卦衆の一員は動転する。
「――ぐあぁァッ!」
苦痛を叫び、顔面に開いた傷口を片手で押さえ、抱き寄せた清美を払い飛ばす。悶える。
慢心の招いた痛恨のミスに、架せられた罰則は、切り札を産み出すはずであった部位の損傷。
突き出された少女の白刃は真一文字の傷口を丑寅の顔に刻み込み、その両目を赤を零す一線で結んでいた。
「姫川さん! 大丈夫!?」
残心もそこそこに、斬り込んだ琴音は、八卦衆と共にいた少女に呼びかける。
「慎太――!」
しかし、清美にその声は聞こえてはいない。それは少年を想う心故か、それとも。そして、痛みを訴えた少年に寄り添おうとした動きも、唇の動きも、不意に止まっていた。発条の切れたカラクリ人形のように。突然に全ての動きを清美は止める。
刹那。その少女は再び邪気をその身から発していた。先ほどよりも明らかに濃密な瘴気を辺りに漂わせる。
「詩緒!」
「ちっ!」
少女の身体に異変をもたらしたモノの正体を、二人の歴戦の退魔師は看破していた。
それは丑寅の呪術が、姫川清美の身に行使されているということ。
少女を鬼へと変える論理が、少女の内部で実行されているということだ。
召喚者。今回の元凶たるその『魔』に、止めを刺すべく駆け出していた黒衣の滝口は、直感的に、行動を転換していた。
「チっクショウがぁァッ!」
片手で上半分を覆われた八卦の剣士の顔。しかし、それで十分に止血ができるはずもなく、その隙間から血は漏れ、流れ落ちる。その痛みを訴えるとも、憤怒とも取れる咆哮を丑寅は上げた。
空いた片手で背後から小太刀を引き抜くと、無闇矢鱈とそれを振り乱す。八つ当たりの如く、刃を振り回す。
「ブッ殺す! ブッ殺す! 誰だァ! 俺を斬ったのは!? 死ねよ!」
その太刀筋と同じく、狂ったように八卦の剣士は悪罵する。しかし、それは当然の行動でもあった。無様に見えようが視界を奪われた彼には、虚勢を張りながら、そうするより防衛手段はなかったのである。
その少年に駆け寄ろうとして、不意に言葉を失い、立ち尽くした少女。自身にとって切り札であるはずの、その少女にも盲目の剣士の凶刃は流れる。その存在に配慮する余裕すら、丑寅は失っていた。
「姫川さん! 逃げて!」
彼女を護るべく、自身が負傷させた慎太郎と清美の間に琴音は立つと小太刀を受け止める。
響いた刃音に消されないように、清美の意識を呼び戻すように琴音は叫ぶ。
しかし、次の瞬間には、逃げろと叫んだ琴音自身が、横から駆けつけた滝口に抱えられ、その場から逃がされていた。
「――え!?」
詩緒に抱きかかえられた琴音が見たのは、人のものではない殺気を放つ鬼女の姿。
その異形は、寸分違わず、琴音のいた位置へと鋭く尖った爪を振り下ろしていた。
「あああああああああああああああああああああっっっっ!」
背後から獲物を襲ったはずの一撃を空に振るい終えると、ソレは絶叫し、身を不気味に、異常に痙攣させる。
絶叫は、やがて意味不明の言語へと変わっていた。
その呻きと共に、口からは唾液とも胃液とも判別できない液体を辺りに吐き散らしながら、ソレは奇怪に身を捩る。
そこには、日常の世界で琴音の一つ後ろの座席に座る、内気な少女の姿はない。
「――浅かったか」
距離を取ると、琴音を降ろし、詩緒は背後を振り返った。
「何?」
少女の異変に琴音は困惑する。彼女に解っていることは、その日常の世界に生きているだけのはずの少女が、此の世ならざるモノに変わろうとしていることだけだ。
かつて純真なものでなかったにしても、この少女に想いを寄せた、あの少年のように。
「アイツは目で鬼を召喚するのよ。あの清美って娘は、心に鬼を宿してたみたいね。利用されたのよ……」
二人の傍に駆けつけた陰陽師は教える。
「え?」
呆然と、その言葉を琴音は受け止めていた。
「――だったら、改めて元凶を排除するまでだ」
横にいる二人の少女を他所に、独り呟くと、詩緒は鬼切を構え直し、強襲をかける。言葉通りに一目散に丑寅を目掛け、黒衣の滝口は距離を詰めていた。
「……眼球の完全なる破壊ができなかったから、不完全とはいえ、呪術の発動を許したみたいね……」
敵との距離を一足に詰めた滝口の背中を追いながら、瑞穂は独り言のように呟く。
その言葉通り。琴音の刃は丑寅の目を斬り壊したのではなく、その表面を斬り裂いたに過ぎなかった。
詩緒の目の前。丑寅との間に、その影はふらりと現れる。知性というものの欠片も見せない異形は、ただ本能のままに、滝口の前に立ち塞がる。
まだ、少女の姿をした鬼は、大事な者を守るべく、恐ろしい形相で敵を睨みつけた。
「――それじゃ、私のせいで……?」
琴音は自分の行動が招いたと感じた現状に、恐る恐る口を開く。
それは例え人を守るためとはいえ、他人を真剣で斬り殺すという行為に対する、躊躇というよりは、拒絶が無意識に働いてしまった結果だったのかも知れない。
少女剣士はそう自分の行動を省みる。
「……あの時に琴音が滝口として『魔』を排除することが出来たのだとしたら。アイツの息の根を止めることが、できてたって言うのなら。いいえ。その目を完全に斬り壊すことだけでも、できたって言うのなら――そうかもね……」
滝口の少年から、滝口見習いというべき少女へと。陰陽師の少女は視線を動かす。
ショックと後悔が見て取れる、その少女の顔。しかし、瑞穂は敢えて冷たく幼馴染みの少女を突き放した。
だから。
心優しい彼女には、非情な選択を無理矢理に強制させる、この世界は不向きなのだと陰陽師は思うのだ。
兄の凶行を止めたい。琴音のその気持ちに共感できるも、彼女を知るからこそ、この世界は過酷な現実を彼女に突き付けるに決まっていると瑞穂は認識する。
ここで、彼女を拒絶することが、最善の対処法なのだ。もし、この世界に彼女が居続けるというのなら。それは、誰かのように、拒絶と、孤独と、闇を少女が育むということと同義なのだ。
そう瑞穂は思うのだから。
「――あんなバカは一人で十分なのよ」
フォローはしない。痛いのはお互い様なのだから。
瑞穂は泣き出しそうな顔をした少女から、目を逸らすと、戦う少年を眺めた。
「ちっ!」
ソレは予想以上に手強い。
細い少女の形のままで在りながら、速く、鋭い。
元凶を討つべく刃を振るおうとする詩緒に、襲い来る清美。
鬼切の動きは鈍る。丑寅のこの生ける盾は、何よりもまだ、少年には『魔』ではないのだ。
「姫川清美! 意識しろ! お前はお前だ!」
滝口の声はしかし、無常に響くのみだった。
その声は、愛おしいと想う何かを守護し、詩緒と交戦するソレには届かない。
だが、別の何者かを、彼の声は刺激していた。
「ったくよォ! うぜぇよォ! 渡辺ェ! 無駄なんだよォ!」
何かを悟ったように丑寅は吼える。目を覆っていた片手を外す。
手の軌道に沿って、朱の飛沫が散る。その液体の源泉は赤い直線で繋がれた両目。
赤に染まり、一部損壊した眼球が二つ、露わになる。
不気味に何かの記号を眼前の空間に浮かべたそれは、明らかに義眼であると、今は教える。
しかし、その目に宿る力が生きていることを、同時にそれは教える。
「アヒィヤァハッハアアッ!」
奇声のような笑声を上げながら、丑寅は感知していた瘴気を構わず実体化させるべく、ありったけの魔力をその装置に籠めた。
「――腸捩じ切れるくらい可笑しいぜ! 渡辺ェッ! 綺麗事並べてんじゃねェ! 人間全部お前みたいのだったら、それこそ異常なんだよ! 人はなァ! 溺れ! 善がり! 弱く! 醜いのが本質なんだよッ!」
暴走。八卦の剣士の感情の昂ぶりは辺りに地獄を産み落そうとしていた。
それは丑寅になかった異能を彼に与えていたのだ。闇を強化する力。まだ鬼ではない思念を、強制的に鬼に変える力を、である。
それは極、限られた一空間にのみに関与したものに過ぎなかった。
しかし、その僅かな空間に、それぞれがそれぞれを圧迫し、押しつぶし、臓物を撒き散らし、肉塊に変えるほど犇く無数の異形を産み出す。それでも留まることなく新しい異形は召喚され、また新たな圧死体を造り出す。
人ではない存在の織り成すものとは言え、互いの身で互いを圧死させる阿鼻叫喚の惨劇を展開させながら。そして、それは徐々に徐々に、その範囲を拡大していく。
この世界の全てを、その地獄絵図へと塗り替えていこうとするように。肉塊と異形とが、みっちりと詰まった空間は大きく大きくなっていく。
「うっ――」
「――何よ、あれ!?」
その光景に、少女は嘔吐を抑え。
その光景に、少女は唖然とする。
詩緒はその暴走した召喚者の魔力に当てられ、心の闇を活性化させられていた。
それを神氣で押さえ、黒衣の滝口は抗う。
飛びそうになる詩緒。それを必死に繋ぎ止める。
その中に在って。
「姫川清美! お前はお前だ! 他の何者でもない!」
しかし、彼女は彼女であると。少年の鈴がそうであったように、詩緒は清美に伝えていた。
その小さな銀色の鈴を付けた腕を伸ばしながら。
その少女を少女として救うために。
僅かな距離に在る、クラスメイトの少年と少女。
そこには遮る物など何もないはずなのに。
だが、見えない壁は存在していた。
「私は――……そう……姫川、清美……」
その壁の向こう。詩緒の伸ばした手が、決して届きはしない彼方で。その少女は微笑った。
「――優しいのね、渡辺君は――」
その背後には丑寅の産み出した、地獄が広がる。しかし、一瞬。清美を取り巻く空間は、神々しく澄んで見えた。その微笑みに後光が差したようだった。
清美は応えたのだ。
闇に染まった自身を呼ぶ、少年の声に。
取り戻したのだ。姫川清美という自分を。人を愛するという清い、純粋な心を持った少女を。
「――ありがとう。だから――」
霊妙な表情の中。
清美の脳裏に浮かんだのは、愛しい少年を誘惑した双眸を刳り抜いた、愛しい彼の香りを吸った鼻の削がれた、愛しい男と愛を交わした唇を糸で縫い塞いだ、死化粧を彼女自身が施した親友の死顔。
「――だから、姫川清美は染まらなきゃ――ごめんね――」
謝罪を最後に。清美の神氣は失せる。
清美は受け入れた。それこそが自分の終わりなのだと。闇に染まった自分が、在るべき姿なのだと。
その少女の華奢な体を破裂させるように、強大な邪気がそこから膨れる。
「俺の勝ちだなァ! これで!」
その邪気に丑寅は嗤う。朱に染まった顔を歪める。
邪気は巨大な何かを形成していた。姫川清美であった異形は、此の世に産み落とされていた。
「アハッハハァァア! 喰らえよ! 清美ィ!」
慎太郎は命令を下す。
視界を奪われた丑寅にも解る。その清美であった何かは、圧倒的な力を持つ異形であると。
「喰い散らか――」
高笑いの余韻を残し。
そして、そこでその声は、その命は途切れた。
丑寅の下半身だけが、校庭には残る。上半身はこの世から消失していた。
その足元、姫川清美という少女の形をした皮膚が風に舞う。それは人間が脱皮したのだとしたら、そういう正に抜け殻の生皮だった。
その皮から産まれた丑寅の切り札は、安藤慎太郎という少年の上半身を一飲みに喰らった鎌首をもたげる。
それは見上げるほどの巨大な白蛇。
獲物を映す双眸の間に、姫川清美に酷似した少女の上半身を生やした大蛇。
それもまた、鬼の一つ。姫川清美という少女の愛憎が産んだ『魔』に他ならなかった。
その『魔』は、召喚者を失い、ようやく終わりを告げた地獄絵図から抜け出した鬼たちを従えるように、この世界に君臨していた。




