第拾壱話:飛翔
「あンの馬鹿ッ!」
柳眉を吊り上げた少女は、自身が住んでいるマンションの屋上へ飛び出すと同時に怒号する。
彼女の手により勢い良く開かれた鉄扉。その扉は反動した力でさえも、その重みで殺しきれずにいた。開かれたままのような余勢で鉄枠に衝突すると、彼女の背後で悲鳴のような大きな音を上げる。
今回の異変の中心に在りながら。しかし、馬鹿と罵った滝口に、蚊帳の外へと追いやられていたことを陰陽師は悟ったのだ。
瑞穂は感情に任せるままに、ずんずんとフェンスに向かう。そこに文句をぶつける相手がいるかのように歩く。
昼間。少年と交わした言葉が虚しく、少女の脳裏を過ぎっていた。
今後の指針となるはずだった最後のやり取りでさえ、虚言であったのだろうか。
そう考えると、彼女を支配している感情は、益々、強くなる。
いつもの少女であれば。少年を幼い頃から知る彼女であれば。
少年の性格を熟知しているからこそ、半ば諦めに似た感情が働き、ここまでの憤怒は覚えなかったはずである。
しかし、違うのだ。
今、少女がそれを自身に決して許さないのは、あの時に垣間見えた少年の笑顔を錯覚だとは認めたくないからだった。
それは渡辺詩緒という少年が、賀茂瑞穂という少女に初めて見せた、温かい人間味の溢れた表情だったからだ。あの時、常に滝口であり続ける人物は、唯一人の少年として、少女に接したはずなのである。
それでも一人、行動する。絶対的に不利な状況だと知りながら、戦場に赴く。微笑んだ上で、少年がそういう行動を選択したのだとしたら。
確かにそれは、標的とされた少女を守ろうとする優しさなのかも知れない。
だが、彼女の求める優しさの質は、それとは全く異なるものなのだ。だから、その場合であっても瑞穂の怒りが失せることはない。
自分を特別扱いするな。間違いなく少年に、そう宣告したのだから。
少女には戦う力がある。大事なものを、自らの手で守る力があるのだ。
かつて、陰陽師の少女が好意を抱いていた相手。詩緒の兄、渡辺柾希という滝口。彼の死に直面し、世界の裏から目を背けた瑞穂。
その彼女を立ち直らせたのは、本来の彼女に戻したのは、陰陽師として再起させたのは。何より、その自分に『できること』を気付かせてくれたのは、その少年なのだ。
だからこそ。その種の優しさに甘えるつもりは、瑞穂には毛頭無いのである。
「……上等だわ。私が誰なのか、アンタにも教えてあげる必要があるようね」
フェンス際で呟くと、寝静まった街に在る、小高い丘の方へと視線を注ぐ。
そこに建つのは瑞穂たちが通う学校。そして、陰陽師の少女が見つけた異変のある場所であった。
だが、その場所に『魔』の存在する気配も、魔術行使による魔力――陰陽師である彼女にとっては陰陽五行の氣の変化――も感じられはしない。
しかし、自身が導き出した現状、そこで繰り広げられているであろう滝口の戦いを、瑞穂は確信していた。
それは何も、彼女が得意だと豪語する占いを行い、その結果を信じているからではない。
占いを行なおうとしたから知りえた事実。それを基にして、冷静に推理した結果である。
瑞穂がその現実を看破した要因。
それは琴音から送信されたメールが発端であった。
明日、友人を連れていくので、その友人に占いをしてあげて欲しい。そのメールには、そういう内容の文面が書かれていた。
そのメールを受けた時の少女は、嬉々とした。賀茂瑞穂という少女の趣味は、専門書や道具の収集を含めた、占い全般。正にその腕を、苦労して集めた道具の数々を、久々に披露する機会が訪れたのである。
この来訪者に備え、暖気運転に風水を行なおうとして、彼女は知ったのだ。
大地に在る龍脈の僅かな変化を、である。
この時、明日に備えた準備運動とばかりに、何の家具もない渡辺詩緒という件の少年の部屋を、如何に運気を高められる部屋に改造するか、などという他人の趣味や生活を全く無視した想念を抱かなければ。それを実際に行動に移し、この土地に流れる龍脈を読もうとしなければ。その事実には気付きはしなかっただろう。この街の高低図を開いた彼女が感じた違和感は、それほど些細なことだったのだから。
龍脈。
陰陽道では地理の分野に含まれる、風水という思想。龍脈とは、その思想体系で言われる、大地に存在する氣の流れのことである。
太祖山から始まり、山脈を伝い、龍穴に至る氣の流れ。その龍脈の流れを利用し、福を招く。それが広く世間一般的に知られる風水の目的である。
瑞穂が見つけたのは、その流れに在る不可解な支流であった。
氣の流れである龍脈も、水の流れである河川と基本は変わりはない。だが、少女の感じたこの街の『現状』の龍脈には、その不思議な分岐が存在したのだ。
その変化に対し、直感的にある推論を思い付くと、瑞穂は大気に在る陰陽五行の陰の氣を読んでいた。
生は陽。陰は死。陰陽師が探ったのは、大気に存在する死者の残留思念――それは所謂、霊能者の曰く、浮遊霊と呼称される類のモノの動きである。
そして、その龍脈の問題の分岐点に、それが集約するように流動していることを感知したのだ。
龍脈。死者の残留思念。
一種、全くの関連性のない二つの事柄。
だが、少女には心当たりが存在する。
その二つの異なる言葉を結ぶ鍵は『山』。
山上他界。死した霊魂は山へと向かい、そこから冥府へと至る。日本三大霊場、日本三大霊地、日本三大霊山。例え心霊などという分野に興味がなくとも、この国に住む人間ならば、一度はその名前を耳にしたことがあるであろう山、恐山。その山こそがこの思想をもっとも如実に体現している場所である。
然して、龍脈は山脈に沿って流れるもの。
つまりはその分岐点には、不可視の『山』が確かに存在しているということなのだ。
今尚、その集約して行く陰の氣を感じながら。
「――召鬼法。制鬼、刻鬼、召鬼、使鬼に合わせて、八卦の力で寄鬼とでも言うべき能力も持ってるわけね……道理で高が一つの高校校舎にあった思念で呼んだにしては、鬼の頭数がやけに多かったわけね」
瑞穂は独り、妙に納得して、滝口が戦闘を行なっているであろう八卦衆の能力を分析する。
卦名は艮。対応方位は東北。そして、司る自然界の力は、山。
不可視の山の正体。それは八卦衆の山を司る剣士。その結論に陰陽師は至っていた。
では、滝口が動いているという憶測の裏づけは果たして。
それも琴音からのメールに因るものなのだ。
そこに八卦衆、山の剣士がいるとして、何の目的があるのか。そう彼女が推測を立てようとした、その時。
瑞穂の携帯がメールの着信を再び告げたのだ。
そこには夕刻の少年の行動が書かれていた。
「……私を信用したのなら……こういう事態にこそ、私が必要なコトくらい理解してるでしょうが!」
小声で愚痴りながらも、その集中は途絶えない。
瑞穂は空間に印を切る。
それは晴明桔梗。
セーマン。そう呼ばれることもある、陰陽道の代表的な呪術記号。陰陽五行の理を宿した図形、五芒星である。
稀代の。そう呼ばれる彼女にとって、その図形を描く行為は、体内に周囲の五行の氣を取り込み、自身の氣に変換する魔力増幅儀式なのだ。
続けて空に放った呪符に、瑞穂は念を籠める。増幅した魔力を宿す。
「舞え! 鳳よ!」
命令と共に、紙片には仮初の命が吹き込まれる。それは五彩の色を持つ美しい鳥へと変じていた。
まだ間に合うはずである。鬼の放つ禍々しい邪気は、まだ感じられないのだから。
少女には、そう信じることしかできない。
瑞穂は詩緒を知るからこそ、彼の狙いが理解できているのだ。
滝口の少年は、敢えて敵の術中に陥るつもりなのであろうことを。
言葉の文でなく。少年は山の剣士の持つ、召鬼法をわざと受けるつもりなのである。
「失敗したら殺せって!? 冗談は態度だけにしなさいな!」
だからこそ、最悪の事態も考慮して、自分の後釜を準備しようとしたのだ。しかし、そんなことは瑞穂にとっては、有り難迷惑な、余計なお世話でしかない。
少女を背に乗せた大鳥は、力強く羽ばたくと、月空へと飛翔する。
そして、一目散に彼女の通う学校へと舞った。
◇
「主の親族は息災であったな」
軽々と豪腕を以って、巨大な斧を振るいながら大隈は意味深に笑った。
「それがどうした?」
こういう場面に於いて。その台詞が持つ意味は、身内に危害を加えた、もしくは、危害を加える準備がある。そういう意志表示であり、精神的な揺さぶりをかける常套手段である。
だが、詩緒はそれを気にも留める素振りもなく、唸りを上げる戦斧に意識を集中していた。
触れれば、いや、掠った部分でさえ根こそぎ奪うような凶悪な一撃を、少年は恐れることなく極めて最小限度の間合いで避ける。
「ほう。肝が据わっているのか、冷酷なのか――」
薄く笑みを浮かべた顔で、回避された斧を手首の力だけで反転させると、そこから袈裟斬りの要領で大隈は振り降ろす。
「――気にはならんのかっ!?」
渾身の一撃。気合いの変わりに続けて吼えた言葉。
地をそのまま二つに割るような衝撃が、中庭に拡がっていく。
立つことを許さないような揺れ。あたかも地震さながらの大地の震え。
大隈の重撃は常識を逸する力を見せていた。
だが、その攻撃に晒されながらも、黒衣の滝口は普段と変わらぬ動きを見せる。
その一撃の後の隙とて、逃がしはしない。
震える大地を蹴ると、まだ斧を振り下ろした直後の大隈の脇を駆け抜ける。抜き際に聖刀を閃かせる。
「……家族など捨てている。それでも、もし、何かあったのなら、滝口としてお前を排除するだけだ」
振り向き様に血振りをし、冷たい視線を背中を見せる巨漢に詩緒は向けた。
鬼切。その刀身を濡らしたのは、その大男の血である。
「くくくっ……主は吾が、それで潰えたとでも思ったか?」
むくりと巨躯を立てる大隈。その脇腹には深々と刀傷が生まれ、臓物が零れていた。
それを手の平で体内に押し戻しながら、四天王である滝口は、一介の遊撃の滝口を見下ろす。
「吾がは不死身よ。だが、この痛みは返さねばな……。両手、両足をもいで達磨にでもしてやろうぞ……」
厳つい顔を醜く歪める。それだけに深手を負いながら、その顔には一抹の苦痛も現れはしない。
「……達磨か。その男の駒になるよりは幾分かマシだな」
大隈に戦慄し、ただ成り行きを見守っていた慎太郎を一瞥し、詩緒は無表情に返した。
「戯言を」
「達磨ならまだ、お前たちを噛み殺すくらいはできる」
「試してみるか? 小僧?」
にたり。鬼の形相を浮かべ、大隈は嗤う。
「……なるほど。お前たちが鬼切を欲しがるわけだ……」
その笑みに、瞬間、感じた異形の気配を、詩緒は見逃さなかった。
「……その程度じゃ、死ねないか……だが、鬼切ならば、お前たちを容易く斬ることができるのは実証できた」
ゆっくりとその刀を大隈という人の姿を借りた鬼へと向け、詩緒は呟く。
「生きて帰れたのなら、平井万葉に伝えろ。――渡辺詩緒。お前を殺す人間の名だ、と」
「その刀が在るからとて、もう勝ち誇るか! 浅はかなり! 小僧!」
大隈は咆哮を上げる。相応しくない、その手の退魔の宝具を振り上げる。
その斧の名は『雷鳴』。源頼光四天王の一人、坂田公時の振るった、雷神の力を宿したとされる鉞。
「……兄の、蒼司の友人の遺品だ……厄介なモノが到達する前に、それだけは返してもらおう」
身を低くし、襲い来る巨漢との距離を自ら詰めた黒衣の滝口は感知していた。上空にある強力な破邪の力の存在を。
高速で落下する大斧を使う腕。狙い通りにその腕を斬り飛ばすと、直後、跳躍する。
「な!?」
痛みではない声を発する大隈。利き腕を斬り落とされたことよりも、その瞬間に知った力ある存在の飛来に驚いていたのだ。
甲高い声で鳴く、炎塊。つい先の瞬間まで詩緒のいた場所に、その塊は急降下して飛び去る。大隈の体を勢い良く跳ね飛ばし、炎上させる。
夜空を裂いて飛来したもの。
それは炎を纏った大鳥であった。
<武器解説>
雷鳴:坂田公時は幼名『金太郎』が有名です。その生い立ちの逸話には、雷神が深く関与しています。…実は金太郎の持つ鉞に名前などありません。いや、僕の調査不足なのかも知れませんが…というワケで、この武器の名前は世木の完全なる創作によるものです。ご了承くださいませ。




