第五幕:幸せの崩壊
ねえ、あなた。私はアドラーよ。
そして、アドラーを愛するシャーロキアンの一人なの。
なのにーーアイリーン・アドラーと名乗っている。
第四幕では、キャロラインとの思い出を語ったわね。
彼女は私を救ってくれた。
なのに私はーーその恩を、結果的に裏切ることになった。
1910年頃。叔母さまの体調が悪くなった。
足腰が弱り、椅子に座りっぱなしの日も増えた。
やがて遺産分配の話まで持ち上がり、
私たちは郊外からロンドンのマリルボーンの家へ向かうことになった。
でも私とキャロラインは、馬車で直接向かわなかった。
少しだけ“変装ごっこ”を楽しむことにしたの。
ええ、あの頃の私たちには、まだ世界が遊び場に見えていたのよ。
キャロラインも私の真似をして変装がうまくなった。
それがーー本当の悲劇の始まりだった。
神さまの逆鱗なんて、最後の最後にしか分からないものね。
オックスフォード・ストリートの広い歩道を、
キャロラインは堂々と歩いた。
ブルネットのウィッグを自分で用意し、
まるで本物のアイリーン・アドラーのように胸を張って。
私はキャロラインとして彼女の後ろを歩いた。
金髪のウィッグをかぶって、笑いを必死にこらえながら。
通りには馬車の車輪の音、果物売りの声、人々の笑い声。
あの雑踏の中を、私たちは自分たちだけの芝居のように歩いた。
「あなたのアイリーン・アドラーよ」とキャロライン。
彼女は歩きながら、少しすねたように言った。
「彼女を笑うってことは、あなた自身を笑ってるのと同じよ。」
「それでも、笑っちゃうわよ。叔母さま、きっと驚くわ。」
「驚きすぎて、逆に元気になればいいけど」と私たちは笑い合った。
その時よ。
前から、煤で顔を黒くした浮浪者が歩いてきた。
服は何枚も重ね着して膨らんでいた。
目だけが異様にギラついていた。
キャロラインは不安になったのか、道の端へ避けようとした。
私も後を追おうとした。
でもーーその男の方がずっと早かった。
彼はキャロラインの腕を掴むと、
横を走る馬車道へと乱暴に引きずった。
「やめて!」
声を上げたけれど、それはただ空気を裂いただけ。
ーーアイリーン・アドラーは、そのまま馬車に弾かれて横転した。
私の悲鳴は、街の騒音にすぐ飲まれた。
私ができたのは、それだけ。
キャロラインが運ばれていくのを、
私はただ立ち尽くして眺めていた。
足が動かなかった。
本当は分かっていたのよ。
狙われたのはキャロラインじゃなくて“アドラーの姿をした誰か”ーーつまり、私だったと。
怖かった。
キャロラインのそばに駆け寄ることすらできなかった。
石畳には血が広がっていた。
「大丈夫……きっと大丈夫……」
自分にそう言い聞かせるしかなかった。
その時、叔母さまの屋敷の家政婦が私を見つけた。
金髪のウィッグをつけた私を、キャロラインだと思い込んで。
そのまま腕を掴まれて叔母さまの家へ連れていかれた。
叔母さまは私を抱きしめた。
キャロラインの代わりとしてか、ただ震える一人の少女としてかは分からない。
「どうしたの、ーー? 何があったの?」
そう私の名を呼びながら。
私は泣きながら答えた。
「浮浪者が……キャロラインを……
私、狙われたのは私かもしれないのに……
ブルネットの髪は……私がつけるはずだったの……」
叔母さまは何も言わずに、私の金髪のウィッグをそっと外した。
「キャロラインがどこの病院か、すぐ調べさせるわ。
あなたは……少し横になりなさい。」
震える声でそう言った。
私は頷くだけだった。
金髪のウィッグが、床に落ちて静かに揺れた。
(こうして、第五幕は金髪のウィッグで幕を閉じる。)




