第三幕:二人の恩人
ねえ、あなた。私はアドラーよ。
そして、アドラーを愛するシャーロキアンの一人なの。
なのにーーアイリーン・アドラーと名乗っている。
第二幕では、アイリーン・アドラーになるために頭を丸めた。それなのに、私の歌が下手すぎて、ショックを受けた事を話したわ。
何年も惨めに生きていた。
あなたに、そう言っておけば、
物語として聞こえがいいけど、
そんな私にも救いがあった。
恩人とも呼べる二人の存在があったの。
一人は、私と年の離れた裕福な叔母さま。父にお金を貸してくださって、あの屋敷に住まわせてくれた女性ーーエミリー叔母さま。まるでアイリーン・アドラーのように知的な方。彼女は常に余裕で、私にさえ気にかけてくれた。
もう一人は、私の親戚ーー従姉妹キャロライン。
彼女は私と年も近く、打ち明け話も何度もした。少しそそっかしくて、考えるよりも、身体を動かすの。
屋敷で使用人と同じ扱いをされそうになった時、彼女が私の権利を主張してくれたーー。
彼女たちの優しさ。
時には面倒に思ったりもしたーー。
それでも、彼女たちは私を裏切らないでくれた。
だけど、私は彼女たちの全てを信頼できない。世界は残酷で完全に信じたら、必ず傷つく事になるから。
あなたも頼りすぎは良くない。
これはあなたの為に言っているの。
確実なものなんて、この世に一つもないのだから。なに一つ。
私がアドラーを自分の仮面にする事で、現実は少しずつ変わっていく。
周りの目が変わり、代わりに変なモノでも見るような諦めになった。
親戚のたらい回しが減っていき、
私の居場所がなくなっていった。
知性ビンタをやりすぎたかもしれない。
どんなに権利を主張しても、
持たざる者はガマンし続けなきゃならなかった。
どうしてもーー耐えられない。
このまま仮面をつけていけば、
それは救貧院か慈善施設に行かなきゃならない事でもあった。
私に残されたもう一つの価値。
これを消費されるのも、耐えきれない。
何も悪いことはしてない。
本当に、残酷よ。
ある日、叔母さまの屋敷で厄介になっている時の事だった。
屋敷の二階にある居間で、叔母さまと紅茶をご一緒させてもらってたーー。
その部屋の暖炉には火がくべられ、パチパチという音と、心地よい熱気が部屋を満たしていた。
壁には、深紅の壁紙が貼られ、その上には金縁の額に入った風景画がいくつか飾られていた。
窓は大きく、厚手のベルベットのカーテンが引かれていた。外は暗かった。
部屋の中央には、ソファとアームチェアが並べられてた。
叔母さまはアームチェアに。
私はソファの端に座っていた。
その前には小さなコーヒーテーブルが置かれていた。
アームチェアに座っていた叔母さまが、ゆっくりと顔を上げて私を見た。
「ーー。あなたが喜ぶか、分からないけど。贈り物をさせてほしいわ。」
彼女は私の頭を眺めてた。
ーーアドラーになるために私が髪を切った事をすごく残念そうにしていた。
「叔母さま。お気になさらず。すでに、過分に頂いてますわ。これ以上、甘えてしまったら。ふふ。
私は子どもじゃありませんーー」と私は言った。
強がり?
そうかもしれない。
でも、叔母さまの近くにいても恥じない人になりたかったの。ーー子どもみたいでしょ。
あの人に、甘えていたらーー戻れないかもしれないと思ったの。
一度でも、弱みを見せたら、そこから一気に崩れていきそうでーーまあいいわ。
それで叔母さまは、私に贈り物をしてくれた。
アイリーン・アドラーのようなブルネットのウィッグを。私の手は震えた。
「叔母さまーー!これはーーいただけませんーー」と私は断った。
もらう事に慣れてしまったらーー!
私は、私は何もかもをーー失ってしまうからーー。
「これは、ーー。あなたの為じゃないの。そんな頭をして、屋敷を出入りされたら、私の迷惑になるの。
だから、ーー。受け取って。お願いだからーー」と叔母さまは悲しそうに微笑んだ。
私は大した礼も返せなかった。
ただーーそのウィッグを胸に抱いてた。
それから自分の部屋へ戻った。
鏡を見たかった。これを身につけた自分の姿をーー。
鏡の中にいたのは、アイリーン・アドラーだった。
彼女の目は、輝いてた。
そして不思議なことに、彼女は私に話しかけてきたの。
信じる?
彼女は、アイリーン・アドラーが鏡の中から、私に話しかけた。
内容は、こうだった。
「なんて可哀想なーーなの。
私は......あなたを見てきた。
そして......いつも考えさせられる。
何の罪があって、
神さまは、あなたを苦しめているの?
知らないうちに、
何かーー罪を犯したの?
気をつけておけば良かった?
ーーバカらしい。
神さまの逆鱗なんて、
神さまにしかわからない。
そんなの、気をつけようがないわ。
ねえ......そんな事より、私たちはやらなきゃいけない事があると思わない?
」
鏡の中のアドラーは、私の様子をジッと見ていた。でも、答えなんて決まっていた。
「私をこんな目に遭わせたーーあの男を後悔させてやる。」
「ーーそう。私たちならできる。
きっと見つけ出す。きっとーーきっとよーー復讐の女神は私たちの味方ーー」
そう言い終えるとーーゆっくりと、鏡の中のアドラーが私の中から消えていったーー。
(こうして、第三幕は鏡により幕を閉じる。)




