三者面談
その日の放課後、赤髪のギャルは後輩を玄関で待ち伏せていた。
「せっかくだから、腹を割って話し合ってみない? まだちゃんと話してないでしょ」
高嶺はそう言いながら微笑を浮かべた。計画通りだ──渡辺楓香は夏ライブ出場が決まってもあまり喜ばず、むしろあの日のことを思い出してナーバスになり、早めに自主練を切り上げると踏んでいたのだ。
「もちろん、あたしも元カレが一番悪いって知ってる」
赤髪のギャルはそう言うと、後輩に向かって手を伸ばした。
「だから、ちゃんと仲直りし──」
「!」
渡辺は高嶺の手を払いのけると、校門に向かって駆け出した。
「ちょ、ちょっと!」高嶺はとっさに叫んだ。まさか一度ならず二度までも先輩を前にして逃げ出すとは……なんという粗相だ。
「……!」
しかしアスファルトの上には無数の石ころが転がっており、運動習慣のない渡辺を転ばせるには十分な環境だった。
彼女は右足をひっかけると、勢いよく前に倒れた。顔面から倒れることは免れたが、膝のあたりがずきずきして顔をしかめる。
「大丈夫!?」
高嶺が走って駆け寄るも、渡辺はよく見なくてもアスファルトで膝を擦っていた。周りに人もいないし、保健室までは距離がある──。
「……!」
高嶺は周りを見渡すと、人目に付かない木陰を見つけた。ここなら涼しいし、おそらく誰にも見つかることは無い。
「じっとしてて」
そう言って彼女はお姫様抱っこで後輩を持ち上げると、木陰に移動させた。芝生なので、アスファルトの灼熱に体力を奪われることもない。時折涼しい風が吹いてくる。
高嶺はウルフカットを芝生の上に下ろすと、傷口の血とばい菌を水で洗い流した。ハンカチで水気を拭い、傷口に絆創膏を貼る。
ばっちり傷口をふさぐことができた。よし、これで大丈夫なはず──。
「先輩……」
渡辺は芝生の上に座りながら、応急処置を施された傷口を眺めた。──愚かだ。先輩から逃げて、逃げて、転んで……おまけに応急措置をしてもらうなんて。
「先輩……」
渡辺は膝をたたむと、スカートに顔をうずめた。こんなに優しい先輩の気持ちを無碍にして、自分はなぜ保身ばかり考えているんだ。
「これじゃ、本当に嫌われ者だ──」
視界がにじんで、先輩の顔は見えなかった。
見たくもなかった。
「あ、お疲れ様です。愛理さん」
ほとんど聞きなじみのない落ち着いた声が耳に飛び込んでくる。
渡辺は顔を上げなかった。誰であってもこんな顔は見せたくない。
「て、あれ……渡辺さん? 大丈夫?」
「さっき転んじゃって絆創膏貼ったとこ。それより、夏帆ちゃんはこんなところでどうしたの?」
「さっきまで中庭にいたんですけど……バンドメンバーと喧嘩した、っていうか」
夏帆と呼ばれた彼女は苦しそうにそう言った。しばしの沈黙を経て、高嶺は口を開く。
「その話聞かせてよ。でも──ここだと暑いし、場所変えよっか」
「?」
*
数十分後。渡辺と高嶺、もう一人の軽音部生は街中のカラオケボックスに来ていた。ウルフカットの一年生は机を挟んで、赤髪ギャルと向き合っている。その隣にはもう一人の先輩がいた。
「ルーム代はあたしが奢ってあげるからね! さあ、歌え歌えい!」
「……先にこっちの話を聞いてもらってもいいですか?」
彼女は呆れながら髪をかき上げると、アイスフロートに口をつけた──水石夏帆。黒髪の毛先にかけて青色のグラデーションが施されており、左耳に何個もピアスの穴が空いている。目の彫りが深い、二年生の副部長だ。
渡辺もさすがに存在を把握しており、何となく見た目だけで怖い先輩だと思っていたが──かなり可愛い声をしている。
「あ、夏帆ちゃんの相談会だったもんね。ごめんごめん」
「貴重な時間貰っちゃいますけど、すみません」
「大丈夫。話してみて」
高嶺に促されるままに、水石は複雑な胸中を明かした。バンド内で自分以外の二人がボーカルの男子を取り合っていること。それに伴い険悪な雰囲気が続き、ついに大げんかをしてしまったということ。
「話していてもらちが明かないので、つい怒り任せに『解散』というワードを出してしまって──それから、ほかのメンバーは部活をやめるって言って聞かなくて」
「なるほど……」
高嶺は頷きながら、それとなく身をこわばらせていた渡辺にフロートを飲むように促した。溶けるとおいしくないよ、と言わんばかりに。
「あ、ありがとうございます……」
「しかし困ったね。引き留めるのにも限界はあるし……思い切ってメンバーを総入れ替えしてみるのはどう?」
「……他の楽器はともかく、ボーカルはどのバンドでも引っ張りだこです」
「NOTHINGみたいに他の部活から持ってきたら?」
高嶺の言葉に、水石は目を丸くした。
「他の部活……ですか?」
「うん。ボーカルの針宮くんの喉の調子が悪いとかなんとかで、代わりのボーカルを用意する予定なんだって」
渡辺は人知れず驚いた。NOTHINGは一年生ナンバーワンのバンドで、早坂氷織という問題児を抱えてはいるものの実力は折り紙付きだ。スタイリッシュなロックナンバーはメインボーカルの針宮創を中心に構築されてきたもので、彼がいないとなるとスタイルの変更は免れないだろう。
「で、どうなの?」
「部外者を入れたってろくなことにならないですよ。コネクションもないし」
「うーん、そっか……やっぱり、一個のバンドを続けるって難しいよね」
高嶺は腕を組んだ。これは軽音部に限った話ではなく、プロのバンドでも人間関係が原因で解散することは多々あるのだ。ただ仲がいいだけでもダメで、たとえば部長の西村陸斗が組んでいるバンドはあまり仲が良くないものの一年生からずっと同じメンバーで活動しており、賞をいくつももらっている。つまるところバンドにおける相性は単純に仲の良さだけで測られるものではないのだ。
「…………どないしよ」
水石は難しい顔をしていたが、ひらめいたようにウルフカット女子の顔を見た。
「ね、渡辺さんの意見を聞きたいんやけど」
「……え?」
彼女は思わずそう訊き返す。藍色髪の先輩は頷いた。
「遠慮しなくていいんやで。うち、噂とかどうでもいいと思ってるタイプやし」
水石の優しい口ぶりに、渡辺は胸を打たれた。まさに理想的な先輩だ──こんな自分を気遣ってくれるなんて。
「お気遣いありがとうございます……でも、私に言えることは何もないです」
渡辺はうつむいたまま呟く。アドバイスをひねり出そうとしたが、思いつくはずもなかった。だって──自分は二つのバンドを解散させた張本人なのだから。
「そんなことないやろ。別に些細なことでも──」
「いつも……人を傷つけてばかりだから!」
彼女はそう叫ぶと、あふれ出る涙を押さえつけるようにテーブルに突っ伏した。落ち着いて、という水石の言葉も届かない。
「軽薄で、軽率で、私は……先輩から逃げて……一回もちゃんと謝らないで……逃げてばかりなんです!」
「楓香ちゃん──」
高嶺は後輩の名前を呼んだ。彼女の涙、聞いたことないほど大きな声、過去と向き合う姿勢──やがて、気づかされる。自分はまだ彼女のことを諦めていなかったのだ。
「私は噂通りのクソ女です。先輩の彼氏と付き合って、先輩を傷つけて──」
「楓香ちゃん、もう大丈夫だから……」
「すみませんでした……!! たくさん迷惑を掛けました。もうこんなことは二度としません。ごめんなさい、ごめんなさい……」
水石は罪悪感に押しつぶされそうな彼女をただ茫然と眺めた──もちろん知っている。高嶺の彼氏が写真部で出会った渡辺と仲良くなったあと、高嶺を振ったということを。
しかし……それは渡辺が悪いのだろうか。集団であることないこと吹聴し、一人の高校生を精神的に追い詰めることこそが本当の悪なのではないか。
いつもバンドメンバーが持ってくる話題にしてもそうだ。「あいつ、LINEで告白して付き合ったんだって」「前の彼女は浮気して別れたらしいよ」「裏では嫌な奴なんだって」「あいつ、カンニングしたかもしれないらしいよ」──くだらない! 恋愛なんてやりたい人が勝手にやればいいし、それを他人がとやかく言うのは野暮だ。少しでも良心を持っている人なら、誰でもわかるはず。噂話は、ろくでもないということ。
そして──奴らが語る『青春』とは、総じてクソだということだ。
「楓香ちゃん」
しばらくの沈黙の後、高嶺はテーブルと壁の隙間を器用に通り抜け、渡辺の隣に腰を下ろした。泣きじゃくったままうなだれる彼女の背中をゆっくりとさする。
「そこまで思いつめさせちゃってごめんね。でも──知りたかったんだ」
彼女はそうつぶやくと、後輩に肩をくっつけた。
「吉澤くんと一緒に帰ったのも……楓香ちゃんがどんな子なのか、どう思ってるのか、噂話は本当なのか……全部知りたかったからなんだよ」
渡辺ははっとして顔を上げた。その様子を見て、高嶺はニヤリと笑った。
「そして今日、確信した……全部悪いのは、あたしたちの元カレ──女たらしのクズだということに……!!」
「「!?」」
流れが一気に変わった。高嶺はネイルが剥がれてしまうほどに右手こぶしを握り締め、邪悪な笑い声をあげている。
「どんな手を使ってでも、いつか必ず『地獄』を味わせてやる……あたしたちが味わった以上のものを……!」
赤髪ギャルの豹変具合に、渡辺は本能的な恐怖を感じた。対する水石は、すべてはここに至るまでの布石だったのか──と、自分勝手に納得した。
「……まあ半分冗談だけどさ。楓香ちゃん」
高嶺は一通り怒り終えると、渡辺の方にくるりと向いた。後輩はしゃくりあげるような肩の動きが徐々に落ち着き、今では瞼を晴らし余韻のように鼻をすするばかりであった。
「ありがと」
高嶺は縮こまる後輩の頭をポンポンと撫でた。彼女は露骨に目をそらしたが、その手を退かすことはしなかった。
「…………」
水石はその様子を見て呆気に取られた。自分は経験がないのでわからないが──恋愛には、人を強くさせるという側面もあるのだろう。
今の渡辺楓香には、かつてしばしば見せていた斜に構えるような姿はどこにもない。
「ね、夏帆ちゃん。面白い提案があるんだけど」
赤髪のギャルは水石に向かって話しかけると、ネイルのはがれた人差し指をピンとたてた。
「クロヒツジって、三人しかいないんだよ。ちょうどリードギターの席が空いててさ──ここまで言えばわかるかな?」
赤髪のギャルは後輩を試すような目で見つめる。水石はようやく話の意図を理解した──先輩は自分をクロヒツジに入れたいのだ。
「夏帆ちゃんが入ったら、吉澤くんも喜ぶと思うんよね。楓香ちゃんはどう?」
「ぜひお願いします。私が泣いてたってことだけは、絶対内緒にしてくれれば……」
渡辺はすぐに首を縦に振った。水石は何を考えているかいまいちわからなくはあるが、自分に向ける視線がほかの人のそれとは明らかに違った。
彼女と一緒にバンドができるなら、それ以上のことは無いと考えたのだ。
「よし♪ じゃあ、さっそく決まりということで──」
「ちょっと待ってください……!」
水石は大きな声で叫ぶと、空になったコップを見つめた。
「たしかに、あのバンドはもうほぼ解散状態で。恋愛にうつつを抜かして内部崩壊とか馬鹿やなあと思うけど、それでもうちはあの二人が大好きや。小学校六年生で引っ越してきて、それからずっと一緒だった。離れたくない。今のうちがいるのはあの二人のおかげ」
彼女はテーブルに顔をうずめると、ぽろっと呟いた。
「他の人と組むくらいなら、音楽なんて辞める」
水石の重々しい言葉に、部屋には沈黙が流れた。モニターでは流行りのアーティストが新曲の宣伝をしており、廊下からは下手くそな歌声が流れてくる。
高嶺はしばし顎に手を添えて考え事をしていたが、やがて何かひらめいたように顔を輝かせると、カラオケのデンモクを手に取った。
「渡辺さん、リクエスト!」
赤髪のギャルはそう言うと、マイクを取って後輩に渡した。
「ちょ、えっ……!?」
「これで、完全仲直りってことで☆ バンドのステッカー挟んでるし行けるっしょ!」
高嶺は部屋の隅においてあるギターケースを指さす。渡辺は狼狽した。
「え……私が歌うんですか!?」
「うん♪ 楓香ちゃんの歌ってすごいんだよ。だから、夏帆ちゃんに聴かせてあげて」
高嶺は自信たっぷりにそう言った。渡辺は覚悟を決めたように頷くと、手渡されたマイクを握る。
「……え?」
予想外の事態に困惑する水石をよそに、先程まで泣きじゃくっていたウルフカット女子は左手で溶けたフロートの残りを喉に流し込んで、その場に立ち上がった。
「夏帆ちゃん。あたしもね、夏帆ちゃんの気持ちは尊重したいんだけど……決断するのは楓香ちゃんの歌を聴いてからでも遅くはないんじゃないかな」
「え? いや、うちは……」
「大丈夫。聴けばわかるから」
高嶺はそう言って譲らないので、水石は困惑しながらも頷くことにした。モニターの画面が切り替わり、本人映像と共に音程バーが表示される。『ジターバグ』──もちろん言わずと知れたELLEGARDENの名曲だ。楽曲が始まる前の静けさは喧嘩別れした後の帰り道にも似ていた。渡辺楓香は無音の海の上に立つと、まるでそこがステージでもあるかのように目を閉じて、大きく息を吸った。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~♪」
「!」
水石は思わず肩をびくっと震わせた。なんという声量だ。ハスキーがかったノイズは脳天を突き刺し、あるいは右ほおをストレートで撃ち抜く。際限なく身体が火照って、そのリズムに支配される。憧憬も吸い込まれるようなピッチと、心臓に直接触れるかのような声の体温。何度その洪水に飲まれそうになったか。あわよくば自分を飲み込んで、見たことのない場所へと連れて行ってほしいくらいに。
「────」
魂の旋律。水石は口をぽかんと開けたまま『天才』を眺めた。渡辺は『寝取り女』という噂話を隠れ蓑にして、とんでもない才能を持っていた。
「どう? 夏帆ちゃん」
間奏中、高嶺は耳打ちしてきた。水石は何も言えずに俯く。その歌声が自分の心を震わせているのは確かだ。どうしようもなく心が高鳴るのを感じる。あのバンドが解散して二人を離れ離れになるくらいなら、自分も軽音部をやめるつもりでいた。しかし、その考えは一瞬にして変わった。
渡辺楓香はすごい。彼女の隣でギターを弾けるのなら、それは光栄なことだと──そう思わされるほどに。
ジターバグ/ELLEGARDEN