革命的な音
渡辺は露木と一緒に駅前まで来ていた。頭の中で先ほどのやり取りを振り返っていた。すれ違いざまに悪口を言われることはこれまでもあったが、あそこまではっきりと聞こえるように言われたのは初めてだった。しかし、だとしても絶対に言い返してはいけなかった──二度とこのようなことは繰り返さないようにしなければ。
「それはそうと、ぶち殺す……………」
「?」
渡辺はさっきのこもった声でつぶやいた。バイトに旅立っていった吉澤への怒りだ。彼は舌戦を仕掛けてくる早坂氷織に対して格の違いを見せつけたものの、最後の最後に全責任を押し付けてきたのだ。
「いや……人のせいにするな。私が情けないからだ」
渡辺はぼそぼそと何かを言いながら、駅前の広場に腰を下ろした。悪いのは吉澤か、不甲斐ない自分自身か──どうしたって後者だ。
「ねえ、美鈴」
「……?」
「助けてくれてありがと。吉澤にも伝言しといて」
渡辺はそう言うと、おもむろにエレキギターを取り出した。露木は立ったまま、辺りを見渡す。
「それはいいけど……ここで歌うの?」
「うん」
駅前の広場には多くの人が行き交っている。彼女はギターのチューニングを合わせながら、口元を引き締めた。
「学校の人と違って、その辺の人は私たちのことなんか知らない。だからいい」
「────」
露木はきょろきょろと辺りを見渡しながら、夕焼けに腰を下ろした。スカート越しのアスファルトはひんやりしていて、冷たい風が頬を叩く。彼女が赤いボディの『ATELIER Z』を構えるのを、露木はドキドキしながら見ていた。
「andymoriで『光』」
通りがかるサラリーマンの興味のなさや単語帳を構えた学生の冷ややかな視線を燃料に、彼女はギターをかき鳴らすことに決めていた。大きく息を吸い込み、歌声はよどんだ空気に放つ。パワーコード、ソウルフルで大きな息継ぎ。少しかすれた低音だが芯がある。つづいて彼女はUNISON SQUARE GARDENの一曲──『Simple Simple Anecdote』をノンストップで奏で始めた。その情熱を雑音にする者、煙たがる者、立ち止まる者、背中で腕を組む者──それらが溶けて街にまじりあう。
「…………」
カチューシャの少女はスーパースターでも見るかのような目で、ギターボーカルの一挙手一投足を眺めた。本当にカッコいい──悪いうわさにも負けず、音楽に全力で身を投じる姿は燦然と輝いて見える。露木は懸命に歌う彼女の横顔を、いつまでも見つめていた。
どうか、ありのまま奏でてほしい。あの時見つけた情熱は本物なのだと、そう信じたいから。そうして、その背中を支えるから。
*
「……ごめん」
渡辺はエレキギターを片付けた後、そうつぶやいた。先程の熱唱に気を取られていた露木は不思議な顔をして振り向いた。その時に強い風が吹いて、思わず目を閉じる。渡辺は深々と頭を下げながら、ガサガサの声で謝罪した。
「ちゃんと謝ってなかったから。美鈴のバンドを解散にまで追い込んで──」
「いや……全然気にしてないから大丈夫」
露木は染み入るような笑みを浮かべると、小さく呟いた。
「それより、ふーちゃんはすごいね」
「え?」
「弾き語りも、終わった後の拍手の大きさもそうだけどさあ」
露木はそう述べると、茜色の空をぼんやりと眺めた。
「よっしーはラッキーだったと思うなあ。ふーちゃんに出会えて」
露木がそう言ったので、思わず渡辺は口を挟んだ。
「そんなことない。さっきの二曲目も、吉澤に教えてもらったやつだし……誘ってくれた時もそう。私は……」
「いや? よっしーは巨大な才能を預かる代わりに、ふーちゃんにお布施を払ってるんだよ!」
「私って神的存在なの!?」
「冗談だよ。でも……ふーちゃんって、ほんとにすごいから。自信持ってね」
露木は力強くそう言い切った。
勇気を出して練習室に忍び込んで、圧巻の歌声を聴いた時。
彼女の才能を信じた。
性悪女に臆せず言い返し、駅前で堂々と一曲を歌い遂げるのを間近で見た時。
彼女の強さを信じた。
「そ、そう…………」
彼女は伏し目がちに顔を赤らめるのを見ながら、露木は思わず笑みをこぼした。何が『嫌われ者』だ。
わたしは今の彼女を信じる。過去が過去なら、今もきっと今のはずだから。
*
オーディションまで二週間。この日、クロヒツジは初めて練習室で音を合わせることになっていた。さっそく三人はそれぞれの位置につくと、チューニングや、マイク、アンプの音量、椅子やスネア、ハイハットの微調整を行う。中でも一番目を輝かせているのは天然パーマのベーシストだ。しかし目の下はクマだらけで、指も絆創膏が貼られている。
渡辺楓香は自分の手元に目を落とした。──今日は遂に練習室での初演奏だ。家や廊下で座って演奏している時とはわけが違う。良い音響だからこそ、自分の力量もはっきりとわかる。言い訳できないし、逃げることも許されない。
『クロヒツジ』としての活動がスタートしてからも自分に対する風当たりは強くなるばかりである。しかしそのおかげか吉澤と露木にはあまり飛び火しておらず、今のところ一人ですべての汚名を背負っている状態だ。つまるところどうにでもなる。
それに、早坂のようなウザがらみをしてくるような奴は、吉澤が撃退してくれるのだ。どこでその技術を手に入れたのかは分からないが──頼もしいことこの上ない。
「じゃあ、準備ができたらサイレントでタイミング合わせるぞ。四小節終わったら、露木にはでっかい声でカウントしてもらって」
「……らじゃー」
そのやり取りに頷き、渡辺はエレキギターを構えた。少し足が震えるが、きっと武者震いだ。この曲はベースから始まる。
早坂だのなんだの、雑念は払え。今はロックンロールの時間だ。
「…………よし」
吉澤はタイミングを取ると腰を低く落とし、慣れた手つきでタッピングを始めた。地を這うようなスラップベースで、音粒が細かく運指に手間取っている様子もない。
渡辺は目を見開く──上手い。短期間で別人になったみたいだが、今にして分かる。目の下のクマや指の絆創膏は血のにじむような努力によるものだったのだ。
「ワンツースリ────フォー!」
RGさながらの号令を皮切りに、渡辺はすべての神経を研ぎ澄まし震える指先を合わせた。何度も練習したフレーズだ。こんなものはお茶の子さいさいで、問題は歌が入るところ。コード弾きとはいえ歌いながらだと相当難しくて──。
「…………!」
渡辺はぶわっと音の波に引き込まれた。この全能感はなんだ。リズムががっちりハマって、ロックサウンドが息をしている。彼女は無我夢中で歌越えをマイクに載せる。もはや無我のセンセーションだ。今日はよく喉が開いている。ドラムもリズムキープが安定しており、足元のキックがすごくいい。後ろから背中をそっと支えてくれるかのようで──吉澤は、動きがうるさい!
『~~~~~~~~~~~~~』
天才ボーカルはギアを上げた。ロングトーンもハイトーンも。個々ではパッとしなくても、がっちりとその『音』がハマった時──革命が起こる。すべてがここのためにあったのだ──何も考えるな!
『──こんな夜には手を振って、バイバイ』
賽、番、葛藤、後悔、希望、情熱、逡巡。巡り巡って音に灯す。
誰もが追い求める究極のロックンロールとはすぐ近くにあった。
さよなら/クロヒツジ 作詞作曲 吉澤瞬
ラブソングを歌ってみたりして
何十億分の一だって
当たるわけないのに
どうしてそんな顔ができるの
奪って泣いて道の途中で
何度だって夢も変わって
「今日を生きたいよ」
なんかどうでもよくないよ、バイバイ
「何も言えないね」
こんな夜には手を振って、バイバイ
*
初めての演奏が終わったあと、練習室には妙な沈黙が流れた。渡辺はギターを手にしたまま手元に視線を落としている。
「…………」
彼女は探り探り後ろを振り返った。ドラムセットを前にした露木がタオルで汗を拭きながら、こちらを憧憬にも似た表情で見つめている。
「さっきの演奏……」
渡辺は彼女と顔を見合わせると、やがて互いに指をさした。
「……めっちゃ良くなかった!?」
「それな!」
二人はパーっと明るい顔で興奮気味に語った。あそこのフレーズが、あるいはサビ前のミュートが、などと言い出せば切りがない。
「ね、吉澤──」そう言って振り向くと、天然パーマはベースを構えたまま固まっていた。よく見ると、身体が小刻みにブルブル揺れている。
「……った」
「え?」
「最高の演奏だった!!」
彼は涙交じりに顔を上げると、大きく両手を広げた。
「なんて一体感! 渡辺はさすがの歌声だ! 露木のドラムはたまに走ってたけど!」
「ごめん、よっしー……反省するよ……」
「ま、それもさっきの演奏に比べたら些細なもんだ! よくやった!」
吉澤は柄にもなく大きな声を出して喜びを全身で表している。
「……音楽で興奮してる人って、はたから見たらこうなのかもね」
「嫌なこと言わないでよ」
渡辺はそう言いつつも、心底楽しそうな吉澤を見てほっと胸をなでおろしていた。これほどの情熱を持っている男をロックバンドの世界に引っ張り出せた自分は多少感謝されてもいいのでは、と的外れなことを考えたりもした。
「じゃあ、細かいところを修正していくか」
「うん」
「らじゃー!」
その後、三人は軽く部分練習を行ってから練習室を退出した。ウルフカット女子は恥ずかしながら、このバンドの未来を楽観視した。ぶつかって擦れて、重なって、一つの塊になって──廊下で合わせた時とはまるで別物だ。
「じゃあ、わたしはこの辺で」
練習の帰り道、露木はいつもと違う交差点で立ち止まった。人も車も多く往来する、いわば市街の中心地だ。
「あれ? 違う道で帰るの?」
「いや────ほら、予備校だよ。中間テストもすぐだし」
露木はそう言うと、カバンを背負い直した。
「じゃあ、そういうことだから。またね、ふーちゃん、よっしー!」
彼女はぶんぶんと手を振った。渡辺と吉澤もまた、手を振り返す。
「…………」
二人は後ろ姿を見送った後、思わず顔を見合わせた。
──中間テスト。今から一週間後に控えており、「寝取り女のいるバンド」という称号以上にバンド活動を阻害する存在だ。もちろん落第点を取れば補習が待ち構えているし、オーディションに全力投球していた彼らがテスト勉強をしているはずもなく。
「よし、吉澤…………」
渡辺はそう言うと、肩をポンと叩いた。
「走って帰るぞ」
「おう!」
二人は最短距離で帰宅し、柄にもなく勉強した。