クロヒツジと、すれ違いざまの悪口
「黒い羊、だ……」
三人で情報端末室の掲示板前に座って自主練習を行っている最中、露木美鈴は不意にそんなことを口走った。
「なんだよ。真面目に練習してると思ったら、隠れてゲームを──」
「違う! バンド名の話……!」
吉澤の指摘に、露木は顔を真っ赤にしながら叫んだ。普通にうるさいので、ギターに集中していた渡辺も手を止める。
「何? マイクラでもやってたの?」
「だから違うってば……!」
露木は懸命に首を振って否定した。顔が真っ赤になっている。
「じゃあどういうことなんだ?」
「白い羊の群れに交じる黒い羊って、鼻つまみ者って感じじゃん? だからわたしたちにちょうどいいんじゃないかなって思って」
露木は胸に手を当てながらそう言った。吉澤と渡辺は思わず顔を見合わせる。
「……なるほど。俺は鼻つまみ者じゃないが、まあいいだろう」
「いや、吉澤も中学の時──」
口を挟もうとした渡辺を、吉澤は黒い目でけん制した。
「……なんでもない」
「? でも、ちょっとそのまんますぎるかもね」
露木は真剣な顔をしてそうつぶやく。三人はしばらく長考したが、ウルフカットの女子がやがてハッとしたように顔を上げた。
「じゃあ、カタカナで『クロヒツジ』はどう?」
「「……!」」
奇妙な沈黙が流れた。渡辺は額に汗を浮かべながら、諦め気味に笑う。
「やっぱダメ……?」
「めっっちゃ良いと思う!」
「お前はなんて天才なんだ」
「二人とも私に甘すぎない?」
そういうわけで、バンド名は『クロヒツジ』に決まった。三人は顔を見合わせると、ニヤリと笑った。
「よし! じゃあクロヒツジ命名記念、ということで音合わせするか!」
「命名記念……ふーちゃんの前いたバンド名と同じだね」
「『冥冥』やめろ」
「内輪ノリすぎるだろ。軽音部の悪しき風習だ」
「美鈴のせいだから」
「ひどい……!」
「さすがは外道だ」
三人は軽口をたたき合いながら、互いに向き合った。渡辺と吉澤はそれぞれギターとベースを持って、露木はドラムスティックを持って。
「いったん通してみるぞ。カウントは露木が取ってくれ」
「分かった。……はい、ワンツースリーフォー」
いつもの廊下で、『クロヒツジ』は初めて音を合わせた。
*
斜陽が窓からオレンジ色を映し出す中、三人はとぼとぼと廊下を歩いていた。夕焼けが彼らの背中を切なげに映し出す。
「上手く行かなかったね……」
露木は廊下でぽつりとつぶやいた。このまますべてが順調にいくかのように思えたが、バンド活動はそう甘くなかった。『音が合わさる』感覚には程遠く、リズムも終始微妙にずれていた。
「仕方ない」
しかし、吉澤は努めて前を向いた。
「まだ練習室にも入ってないし、大事なのは初めて三人で音合わせしたってことだ」
「うーん……私がもっと上手くならないと…」
「あ、テントウムシ」
それぞれが思い思いにしゃべる中、前からとある人物が歩いてきた。ギターケースを背負った水色の髪の女子だ。
彼女はおもむろに顔を上げると、すれ違う瞬間に薄ら笑いを浮かべた。
「寝取り女──」
「!」
その言葉ははっきりと三人の耳に届いた。刹那、渡辺は強い眼差しを向ける。
「おい、文句があるなら直接言えや」
彼女は低く迫力のある声にはじめて振り向いた。一年生No.1バンド『NOTHING』のリードギターを務める早坂氷織だ。お嬢様然とした仕草と水色のロングヘア―が目につきやすく、渡辺と露木にも見覚えがあった。
「何よ。ワタシは何も言ってないわ」
彼女は目を眇めると、とぼけたように口を開いた。
「とぼけんな。さっき『寝取り女』って言っただろ」
「まあ落ち着け」
吉澤は怒りの収まらない相棒をたしなめつつ、水色髪のお嬢様の前に出た。もとよりトラブルが起こることは承知の上だ。処理はすべて自分が行う。
「えっと──誰だ?」
「早坂氷織。NOTHINGのギターですわ」
彼女はそう言って可憐に頭を下げた。吉澤は彼女を見て口元を引き締める──水色の髪、長いまつ毛に桜色の唇。スタイルもよく、まったく本筋に関係ないが胸も大きい。
「まあ、渡辺さん」
早坂は「あんたには興味ない」と言わんばかりに吉澤を押しのけると、ウルフカットの狼に向かって薄ら笑いを浮かべた。
「ずいぶんと浮かない顔ですこと。他人に喧嘩なんか売ってる場合なのかしら?」
「は……喧嘩売ったのはそっちの方だろ!」
「落ち着け」
吉澤はヒートアップする渡辺をなだめると、早坂の方に向き直った。
「……あのな、坂本さん」
「早坂ですわ」
彼女は顔色一つ変えずに訂正した。
「名前を間違えるなんて、人として──」
「君はあいつのことを浮かない顔と言うけどな、さっき初めて廊下でアンプも繋げずに合わせただけなんだ。まだ始まったばかりの新興バンドなんだから、そっとしておいてくれよ」
吉澤はうまくその場を収めようとしたが、早坂はニヤリと笑みを浮かべた。
「それは言い訳だわ。本当に相性のいいバンドなら、最初から不思議と音が合わさる」
彼女はそう言って口を押えた。上品な振る舞いは淑女そのものだが、人を見下す目をしている。ふんと鼻息を鳴らすと、なおも得意げに語った。
「これはワタシの持論だけれど、初めての演奏が一番重要なのよ。バンドの立ち位置、相性、長所、短所が如実に表れる。ね、渡辺さん──」
「ゴミみたいな持論だぁ」
彼女の呟きに、早坂のみならず吉澤と渡辺もあっけにとられた。まるで遅効性の毒を塗ったように、露木は不気味な笑みを浮かべる。
「……なんて? 露木さん」
早坂はあくまで笑顔に努めたが、またしても目が笑っていない。先ほどよりも拳に力が入っている。しかし露木は一ミリも怯まず、渡辺の前に立った。
「前のバンドにいた時、初めて合わせた時はすごくよかったよ。でも、結局その日がピークで、すぐ解散した。これで反証としては十分じゃんね?」
「…………」
彼女は自信たっぷりにそう語る。しかし早坂は何を思ったのか、肩を震わせている。
「……アーハッハッハ!」
すると、お腹を押さえてけらけらと笑い始めた。露木の顔から笑みが消える。
「何かと思えばくだらない経験則だわ──バンドの解散? それは一人のせいではなくって? ねぇ、渡辺さん」
早坂は意地悪な声色でそう言うと、にやにやしながら渡辺の方を見やった。
「あれでしょう? メンバーの一人が彼氏を寝取られて、そのままなしくずしにバンドの雰囲気が悪くなって、解散したってお話……ねえ、なんとか言ったらどう?」
早坂はそう言うと、目の前にいるウルフカットの女を見下すような目で捉えた。
「全部お前のせいなのに」
「!」
バンド仲間がボロクソに言われているのを見て、露木はたまらなくなった。何も知らないくせに、気を良くしてあれこれ好き放題言いやがって──。
「この……」
「やめて、美鈴!」
露木はこぶしを握り締めて前に進もうとしたが、渡辺が腕で抱きかかえるようにして制した。
「あいつの言ってることは……事実だから」
「!」
渡辺は弱弱しくつぶやいた。自分が元彼と付き合ったせいでそのバンドの先輩は体調を崩し、解散した。早坂に絡まれてもぐっとこらえるべきだった。何を言い返してもそこに後ろめたさがあるのならば意味はない。ただ自分のだらしなさ、ふがいなさが浮き彫りになるだけだ。
「美鈴も、私のせいにしていいから。変な気とか使わないで……」
渡辺は腕をそっと離すと、うるんだ瞳で彼女を見つめた。うすうす気づいていた。多少変わった性格とはいえ、五月中旬にもなってバンドに所属していないということの不思議さ。
全て、自分の所為だったのだ。
「…………やっと身の程を知ったみたいね」
水色髪の令嬢はそう言うと、天然パーマの男子に目を向けた。
「ねぇ、吉澤くん……だっけ。実際、アナタはどう思う?」
こうしている間にも日は沈んでいき、廊下はますます暗くなる一方だ。
「…………」
吉澤は腕を組みながら沈黙していた。胸からこみあげてくる笑いが抑えきれず、早坂はお腹を押さえて笑い始めた。
「……アッハッハ!」
もっとズタズタにしてやりたい。このおもちゃ、壊しがいがある。この場においては自分が圧倒的優位、つまり一番だ。さあ、お前はどうする──怒りに身を任せて手を出すのか? それとも、つまらない持論でも展開するのか?
なんでもいい。もっと、ワタシに優位性を実感させてくれよ──!
「別にどうも思わないぞ」
吉澤は顔色一つ変えずにそう言った。彼女は薄ら笑いを浮かべていたが、途端に動きを止める。
「……は?」
思わぬ返答に早坂は間抜けな声を出した。吉澤はその様子を見ながら、彼女の真似をしてけらけらと笑う。
「そんなのどうだっていい。な、うちの篠原に連絡先を書いて渡すも紙飛行機にして飛ばされた、と巷で話題の早坂さん」
「……!」
早坂は頬を赤く染めると、身をよじるかのようにのけ反る。吉澤はそれを見ると、ぶはっと笑い声をあげた。
「こいつは傑作だぜ! お前如きが篠原とくっつこうだ? 百年早いわ!」
「ワ、ワタシと渡辺さんを一緒にしないでよ! 寝取りとそれは違うでしょう!?」
彼女は顔を真っ赤にしながら声を荒げた。しかし、吉澤はあくまで冷静に首を横に振る。
「一緒にはしていない」
「うるさい! そもそも、アナタには関係のないことじゃない──」
「そう。関係ないんだ」
吉澤はじわじわと距離を詰めた。
「お前もそうだぞ。早坂氷織──渡辺のことは、お前とは関係がない。噂話を耳にしただけで、他人を傷つける特権でも手にしたつもりか?」
彼女は額に冷や汗を浮かべている。吉澤は呆れたように呟いた。
「ばかばかしい。そんなくだらないことに神経を使う暇があったら、そのギターのチューニングでも合わせたらどうだ」
「!」
吉澤はギターケースを指さしている。早坂は額に汗を浮かべながら、目を見開いた。
「まったく……何を言うかと思ったら」
彼女は精一杯の苦笑いを浮かべた。しかし吉澤は沈黙を貫いたまま、こちらを見つめている。
早坂は不気味な間に得も言われぬ寒気を感じると、ギターケースを床に下ろした。
「ウソでしょ……チューニングは完璧のはず…………」
「嘘だよ」
吉澤はそう言うと、わざとらしく目をそらした。お前のチューニングなんて知らねえよ、とでも言わんばかりに天然パーマは薄ら笑いを浮かべている。
「お前────」
早坂は顔を紅潮させると、怒りで身震いした。
こいつ──ワタシをコケにしやがって!
「ふん。まずはオーディションを勝ち上がってくることね」
早坂はそう吐き捨てると、ギターケースを背負い直した。
「もし何かの間違いで上がってきたら、その時は──夏ライブでぶっ潰してやるわ」
水色髪のお嬢様は吉澤の顔をキッと睨みつけた。こいつは絶対殺してやる。どんな方法を使ってでも制裁を加えてやる──!
「こちらこそ。返り討ちにしてやるぜ」
吉澤は得意げな笑みを浮かべると、くるりと後ろを振り返った。
「え?」
そして、キョトンとする彼女の顔を指した。
「ウチの渡辺が!」
一斉にみんながウルフカット女子に注目する。全員の視線を感じながら、彼女は小さくつぶやいた。
「……私?」