白い結婚?いいえ、あなたは騙されています
いろいろ混ざってるけど時代背景は近代~現代初頭くらい?
なので主人公含めてダークです。
まだ風に粉雪が残る春先の午後、閑古鳥の鳴くロイ・マルチネス法律事務所の前に、新品の蒸気自動車が止まっていた。
貴族や政府機関の独占していた蒸気自動車が一般にも流通されるようになって十年以上が経つ。だが実際に所持している庶民は非常に珍しい。今でも車より馬に乗る人間の方が遥かに多い。
「なあロイ、このお茶薄くね? お前、こんなお茶お客に出すの?」
「お茶は薄くないっすね。薄いのはチャンドラー先輩の頭だけっすわ」
「はっはっはっ、このハゲ頭は成功の証だぞ」
二十代半ばにしてピカピカにハゲ上がった頭を撫でるチャンドラー。並みの男はハゲと言われると怒り狂い余計にハゲ散らかすが彼は違う。
かつてチャンドラーはウソから一つの成功を得た。学生最後の年、就職活動をしていた時の話だ。彼はダメ元でアート王国最大手の弁護士事務所を受けた。しかし、事務所総出で新人を囲む圧迫面接という難関を前に上手くいかなかった。そして退室時、緊張で頭を下げすぎた拍子にカツラを落としてしまった。
『面接にヅラ着用だと!?』
『キサマァ、真実と法を尊ぶ弁護士の面接にウソをついて臨んだのか!』
『いいえ、ウソとは言って欲しくありません! 言葉が違います! 私は大切な面接ために精一杯着飾ってきたのです!!!』
強面の面接官達の顔がそれまで以上に険しくなった、というか完全にブチ切れていた。恐怖が緊張を振り切ったチャンドラーは、気づくと胸を張って答えていた。逆ギレである。
たまたまこの強気な答弁と姿勢が気に入られて無事就職できたが、これによってチャンドラーは自分を偽ることの愚かさを学んだ。今でも面接時の先輩弁護士を思い出して身体が震える。嘘は無用な問題を招くのだ。
故に、チャンドラーは自分を恥じない偽らない。
今では誠実で気持ちのいい男として評価を得ている。
「その誠実っぽいって評価が困ったことになっててなぁ」
「あっ聞きましたよ、今年5件目ですって? なんか先輩が完全に離婚専門弁護士になったって聞いたけどマジだったんすね。いやーデカい訴訟にありつけて羨ましい」
「羨ましくねぇだろ! 貴族の離婚弁護なんて負け確のクソ仕事じゃねえか!」
「怒鳴られてもウチ弱小事務所なんで。お貴族サマの仕事なんて回ってこないから知んねっす。てか仕事自体ないんすけどね」
泣き崩れるチャンドラーを無視してロイはお茶のおかわりを淹れる。
「先輩ごめん、やっぱ薄いわ、これ客に出していい茶じゃねえわ。実はマジで金が」
「そんなことはどうでもいい聞いてくれ、大変なんだ」
「ええ~、パイセン金貸してくれよぉ」
オンボロ事務所=マイホームで暮らすロイと違って、チャンドラーは所属事務所だけでなく本人も人気の売れっ子弁護士だ。仕事が入りすぎて嬉しい悲鳴なんてロイとは無縁のもの。学生時代には表に出せないような事まで散々世話になったが、心の中では「愚痴りに来たなら帰れ」と唾を吐く。
だが聞いてみればチャンドラーの悩みは確かに深刻だった。
彼が抱えるのは『白い結婚案件』。
白い結婚とは二種類あるが、どちらもいわゆる偽装結婚のことだ。
ロイのような一般法律事務所が抱える『庶民の白い結婚案件』は、基本的に移民が市民権を獲得するために行う結婚詐欺を示す。
元移民が結婚してから五年以内に離婚した場合、この偽装結婚を疑われる。国から訴訟を起こされて負けると市民権を失う。
だからこの弁護を請け負った弁護士は、偽装結婚でないことを証明する。結婚前にどれくらい交際期間があったか。デートはどのくらいの頻度でしていたか。どんな思い出があるか。余所に恋人はいないか。給料は全て家に入れていたか。エトセトラエトセトラエトセトラ。
これらを物証にて示し、愛の存在を証明して奪われそうになった市民権を守るのだ。それが『庶民の白い結婚案件』と呼ばれる。
対してチャンドラーのような一流法律事務所が抱える『貴族の白い結婚案件』。こちらは貴族間で行われる政略結婚後の離婚問題を示す。
貴族社会において愛のない結婚など珍しくもない。結婚前は愛などなくて当たり前。愛は捨てるか結婚してから育め。――誰もがわかっているはずなのに、近年貴族の離婚が急増していた。
「おかしいと思わないか! 貴族の裁判費用は莫大だ。なのに負けると分かっていてどうして離婚する! 慰謝料と生活費だっていくら取られると思ってんだ! 裁判官はちゃんと見るとこ見てっからな! 誠実なハゲが弁護についたってお前の印象よくなんねぇよ! 負けて当然なのに恨み事言われんのツレェーんだよ!」
「あ、立った立った、茶柱が立った」
「仕事の依頼やるから真面目に聞けって!」
依頼と聞いてロイの目の色が変わった。
ただし、依頼と言っても弁護の依頼とは言っていない。
「お前、せっかく足洗えたのにまた危ない仕事してるらしいじゃないか」
「ぴ、ぴひゅ、ひゅーひゅー」
「わざとらしい、って口笛吹けないのかよ。変なとこ不器用だな」
一流弁護士らしくチャンドラーの目が鋭くなった。下調べは完璧である。
ロイの法律事務所は閑古鳥が鳴いていた。それこそこのままでは食っていけない所まで追い詰められていた。
そこで始めた副業が、余所の弁護士事務所や探偵事務所の調査員。それも解決できない難件の情報を非合法な手段で手に入れる違法調査だ。
ロイ法律事務所から人を遠ざける、外道、鬼畜、スケコマシ、といった悪評が消えないのはこれのせいもある。
「近年の貴族離婚はマジで多すぎる。この流れは誰かが仕組んだと睨んでいるんだ。裏に何があるか探ってくれ。きっとそれがこれからの裁判で役に立つはずだ」
「考えすぎじゃないっすかね」
「先輩の話聞きながら鼻毛抜くなよ」
話を聞いて真っ先にロイの頭をよぎった言葉は『ノイローゼ』。
離婚に大した理由なんていらない。
夫婦なんて互いに顔を見たくなくなったらそれで終わりだ。
(チャンドラー先輩、あんた疲れてんだよ)
そう診断した。
「それより久しぶりだし飲み行きましょう、もちろん先輩のおごりで――」
「まずは前金、調査費の足しにしてくれ」
と言葉を遮って、テーブルの上にバッグと契約書が順に置かれた。
バッグの中身はロイが目にした事もない大金。
しかも成功報酬には更にとんでもない額を提示されていた。
既に怪しい臭いがぷんぷんする。しかし、
「不肖の後輩めに全てお任せください」
ロイ・マルチネス。
天涯孤独の元孤児にして飛び交う銃弾の中でも踊れる男。
金のために命を懸けるなど朝飯前だった。
手のひらをくるりと180度回転させて頭を下げる。
「ふふふ、安上りな男で助かるよ」
「え、今なんか言いました?」
「ああ、言い忘れたけど、この件に俺は一切関わってないから、そのつもりでな」
「契約の後でソレは汚ねぇすよ。本気でやばい山みたいじゃないすか」
***
「ひゅー! 貴族ってのは金払いイイんだねぇ。チャンドラー先輩、普段どんだけ稼いでんだよ。着手金だけで十年は遊んで暮らせるぜ! ……でも負け裁判だって費用はもらえんだし、貴族がどうして離婚するかなんてほっときゃいいのに。夫婦喧嘩は犬も食わねぇって知らんのかね」
ロイは高額紙幣の詰まったバッグを抱えて笑っていた。
ただ、チャンドラーの貰っている契約金よりロイの暮らしぶりが心配になる。
どう見ても大人が十年も遊んで暮らせるような額は入っていない。
限界まで質素に暮らして五年がいいところだろう。
「しっかしパイセンの事務所も案外つかえねーな」
受け取った過去の訴訟資料を読み漁る。チャンドラーは『流れ』と言った。つまりどこかに関連性と始まりがあるはずだ。
だが、資料のほとんどは黒塗りで読むことができなかった。まるで東洋から伝わるのり弁だ。貴族への配慮だろう。裁判所に保管されている正式な書類以外、多くの弁護士事務所はその記録を抹消してしまう。
「そっか、知りすぎたり口滑らせても消されるのか、だっはっは、貴族こわっ!」
実際、弁護士にとって笑い事ではない。人権運動なんて言葉も聞くようになった時分だがまだまだだ。貴族にとって庶民の命は軽い。脅迫に使えるネタを持っていると他の貴族から狙われる場合もある。時には裁判所の記録すら抹消される。
とりあえず、この数年の間に離婚裁判を起こした貴族の特徴は把握できた。後は当事者を探して話を聞くしかない。ロイは煙草に火をつける。仕事を受ける条件にチャンドラーから借りた愛車のレバーを握り、がこがことボイラータンクへ水を送る。
「いゃっほー! 今日もかっ飛ばすぜぇー!」
初めて車を手に入れたロイはこどもの様にはしゃぐ。
それにこの時代、運転免許制度なんて上等なものはまだ存在しない。
とあるパーティーの会場となるお屋敷前。
ロイは最新の蒸気自動車(他人の物)を見せびらかすように、サイドミラーを覗き込んでオールバックにした髪に櫛を入れていた。陽気な鼻歌まで聞こえてくる。
新型車の所持は現代貴族のステータス。貸し衣装屋で借りた貴族服と伊達メガネも存外様になっている。元々顔立ちは整っており、スラム育ちで身体も鍛えられている。なかなかの貴公子っぷりだった。
あとは適当に脛に傷のある弱小貴族を一人ピックアップして弱みを握り、新興貴族として共にパーティー会場へ入るだけだ。
「ふぅー、金で爵位を買える時代に貴族を名乗る価値はあるのかねぇ」
「クソ貧乏人の君が心配することじゃないよ」
ロイの吐いた煙を払いながら小太り男が隣にやってきた。
待ち合わせていた貴族。彼が今日の案内人だった。
出会って五秒だが若干キレ気味である。
「まったく安物の煙草はこれだから。で、例の物は?」
「これ? パーティー終わったら渡すから安心しなって、アシュトン君」
「……ハァ、君と知り合いだったのが僕の不運だ」
アシュトンは見せられた写真に顔を青くした。写真には、アシュトンが女装した少年と仲睦まじく手を繋いでいる所が映っている。こんな物が出回ったら爵位を継ぐ前に父親から勘当されかねない。今にも射殺しそうな目で睨む。
「ちなみに、男に女装させる意味はあるのかい? 女と付き合えばいいじゃん」
「そんなの僕の自由じゃないか、どうしてみんなほっといてくれないんだよ」
「その通り、誰が誰を好きでもいいと思う。それはいい。あと100年もすればそういう時代になっていくと思う。でも、ケツほじくって喜んでるヤツとは仲良くしたくないのが人の心情だろ。アナルセックスは不衛生だと唱える人に、ゲイを差別するなって言うのは論点のすり替えじゃん?」
アシュトンから表情が抜け落ちた。禁句に触れたらしい。
「死にたくなかったら、その臭い口は閉じた方がいいよ。僕にだって何もかもどうでもよくなる日がある」
「すぐに拳銃チラつかせるのは貴族と軍人の悪い癖だぞ」
まともな仕事が来なくともロイとて弁護士。人脈は横へ上へとそれなりに広い。それこそ裏にも。力の弱い貴族の倅が簡単に消せる相手ではない。――が、自暴自棄になった乱射魔と殺し合いは御免だった。
「なんか思ったより雰囲気暗いな」
会場の内部は落ち着きのある空気に包まれていた。
「そういうパーティーを探して連れて来させたんだろうに」
「ストリッパーとか呼ばんの?呼ぼうよ」
「呼ばないよ。貴族を何だと思ってるのさ」
当然ながらどのパーティーに参加するかは資料から熟考した結果だ。
今回のパーティーの参加資格は、バツイチ以上、離婚調停中、独身、このどれかに該当する男性のみ。普通のパーティーに参加したところで男の本音は引き出せない。
アシュトンとは中で別れる。ロイはシャンパン片手にパーティー会場を練り歩く。誰かと深い会話をすることはない。怪しまれないように一人でも多くの人間の会話を盗み聞きするのだ。
話されている内容は、いくつかのグループに分かれていた。
女性と上手に付き合う方法。
冷めた夫婦仲を修復する方法。
新しい再婚相手はどう求めればいいのか。
離婚裁判について。
離婚裁判後の生活について。
ロイは最後の話題を頻繁に出すグループに目をつけた。
パーティの開始から二時間ほどすると、結局ストリッパーがやってきた――というかロイが勝手に呼んだものだ。
最初は入り口で揉めていたが、今日集まっているのは女に鬱憤を溜めた男ばかり。ストリッパー達は会場内へ招かれ、明かりが暗くなった。男達は熱狂し、箍が外れていくのが分かる。
ロイはこの隙に目標と定めた人物へ近づく。
デュポン子爵。
親切を装って身の上話に乗ると、彼は三年前に離婚したという。
元嫁は派閥の貴族から紹介された女性で、ドレスデン伯爵家の次女だった。
美しい女だったがベッドの上ではあまりに淡白でそそらない女であったと。
そしてその頃、今回に似たパーティーでよくこんな事が囁かれていたとか。
『妻と別れたい、金も地位もあるのに好きな女とヤレないなんて世の中どうなってんだ!』
最低な言い分だが、デュポン子爵以外にも他の貴族から押しつけられた嫁に不満を抱いている男性貴族が大勢いた。
パーティーで何度も妻達の不満を漏らす内に、ヨソの家の不満にも同調してしまうようになり、夫婦仲が悪くなる家が増えていったという。徐々に会話すらなくなり、性交渉を持てなくなれば、もはや離婚しかない。
しかし、いざ離婚裁判となってようやく男達は自分の失敗に気づく。
妻は性交渉の拒否を認めず、証拠もでない。
側室の拒否は正妻の権利であり、裁判では有利な材料とはならない。
そして夫は性欲を抑えられず離婚成立前に浮気をする。
これでは裁判で勝てるはずがない。
男達は多大な代償を払うことになった。金という形で。
「そら、やり手のチャンドラー先輩もお手上げだわ」
「どうしたロイ君」
「いえ。ささ、もう一杯。ここは最後まで吐き出してしまいましょう。いつまでも毒を溜め込んではお体を崩してしまいますよ」
「ありがとう。君は若いのに気が利くな……しかし、裁判で負けた理由はそれだけではなかったのだよ」
学生時代、チャンドラーから金を借りるために磨いたごますり技術は伊達じゃない。愚痴りながら酒の回ってきたデュポン子爵は饒舌に口を開いた。
「あの女は、まだこどもがいなかった理由を一方的に私に押しつけ、種なしだと言い出したのだ」
「それはまた……最悪ですね、その女」
「分かるか、分かってくれるか、男なら私の苦悩が分かるだろうッ!」
「その三段活用はくどいっす」
貴族にとって世継ぎを作るのは国へ対する責務の一環である。
その責務を果たせないとは外聞が悪い。
公開裁判でなくとも人の口に戸は建てられないのだ。
下手を打てば、再婚の見込みがなくなる。
負けると分かっていても裁判を早急に終わらせるしかなかった。
そう言ってデュポン子爵は一気に酒を呷った。
「う、うおおっ、泣ける」
「デュポン子爵、あなたもでしたか」
気づけば、ロイとデュポン子爵を囲む男達がいた。
恥ずかしくてずっと黙っていたが、彼らも裁判までの流れと、裁判で早期に負けを認めた理由が同じだったのだ。
逆らえない高位貴族の嫁をもらうが嫁はベッドで協力しない。こうした下位貴族の集まりに出ている内に気が大きくなり、愚痴を重ねる内に家庭不和へと至る。そして離婚裁判では、種なしの噂を潰すために女の要求する慰謝料で手を打った。
(手口が同じ? でもおかしいだろ)
ロイは、肩を抱いて互いの不幸を慰める貴族達を冷めた眼で見ていた。
次々といろいろな話が出てくるが、離婚の後に金を毟り取られて貧しくなっても、潰れた家の話がひとつもなかった。
もらった嫁を突き返すなんてひと昔前なら不可能だった。今でこそ高位貴族が前ほど傍若無人な振る舞いをできなくなったが、派閥の上の人間の面子を潰して金だけで許されるものなのか。
金額によっては納得する家もあるかもしれない。しかし、嫁を出した家とは別に、紹介したという人物はどうだ。伯爵家の女を紹介するということは、同等以上の家格を持つ者だろう。伯爵、辺境伯、公爵、侯爵、王族。誰もがプライドのために人を殺せる立場の人間だ。
(許すか? 許さんよな、オレでも許さん、あ、三段活用うつってる)
そう思って確認してみると、彼らに嫁を紹介した人物達はそれほど爵位の高い者ではなかったという。更に新しい疑問が生まれる。もっと情報が必要だ。
しかし、人が集まってくるにつれて問題が発生した。誰もロイの顔を知らないのである。いくら新興貴族を名乗っているとはいえ、誰も知らない人間が爵位を授かることはあり得ない。「あいつは何者だ」と囁く声が増えていった。
(引き時だな)
「ところでその……皆さんに聞きたいのですが……」
「なんだね」
「本当に種は有ったんですか」
デュポン子爵を筆頭に貴族達が揃って手袋を振りかぶった。
ロイは尻尾をまいて逃げ出す。
あやうく決闘ではなく処刑がはじまるところだ。
会場の外で高級煙草を吸っていたアシュトンを回収して助手席に乗せる。
「あははは、君は何をやってるんだい。でも、同じような愚痴を僕のいたグループでも聞いたなぁ」
アシュトンは夜の広場で約束の写真を燃やしながら安堵の笑みを浮かべる。
だが、ロイの話を聞くにつれて笑みは薄れていった。
「その話詳しく」
「いや、僕はこれ以上関わりたくない。君に協力したくもないし。ちなみに、今度僕に付きまとったら、ママに頼んで豚のエサにするからね」
「こえーよ貴族」
アシュトンがロイから逃げるように闇へ紛れる――と同時に、追手の車のライトが路上を照らした。ロイは素早く車に乗り込みアクセルを踏んだ。
***
調査を進める内に、離婚をしている家は、高位貴族から嫁を貰った男爵・子爵が主だと判明した。一代限りの騎士爵と伯爵位以上の貴族はほとんど離婚していない。
「貴族社会は詳しくないけど、ターゲットを選別してるみたいだな。こりゃマジでチャンドラー先輩の勘違いじゃないのかぁ……ちぇ、適当な報告上げて先輩のノイローゼで済ませるつもりだったのに」
煙草を咥えながら呟く。
そう考えるにも根拠がないわけでもない。
数年前から、パーティーで妻を貶めるような発言をする男が存在した。この夫婦の不仲を煽る存在がいたのは間違いないが――その正体が掴めない。まるでロイと同じく、貴族でもない人間がパーティーに忍び込んでいたみたいに煙の如く消えている。
そして嫁を紹介している貴族。彼らには共通点があった。
皆、カイエン公爵の親類だったのだ。
「カイエン公。カイエン派閥のトップ。外務大臣で超金持ち。貴族からの信頼も厚い。隙無し完璧おじさん。……オッサンってほどの年でもないか、いや、やっぱオッサンでいい年か」
どうでもいい事を悩みながらフィルターだけになった煙草を灰皿へ押しつける。
チャンドラーの感じた『流れ』の関連性、辿って着いた先はカイエン公爵。
しかし、カイエン公が派閥の貴族に嫌がらせをする理由がわからない。
離婚慰謝料や生活費狙い?
カイエン公からすれば、そんなものは小銭。金絡みの案件ではない。
カイエン公はアート王国を代表する大貴族にして、二十代で亡き公爵の跡を継いだ若きカリスマなのだ。
「…………待てよ、そうでもないかも」
一度否定しかかった答えをもう一度見直す。
離婚している女房側、伯爵家の娘が最も多かった。もし派閥の伯爵家から金の無心をされたら、そんな家があまりにも大勢いたら、天下のカイエン公といえど支援しきれないのではないか。
そして、庭先のミントが如く新しく生えてくる男爵家や子爵家より、古くからある伯爵家を守ることを優先したとしたらどうだろう。ブルーブラッド。貴族主義者にとって尊ぶべきは混ざり物の少ない清く古き血だ。
利益は慰謝料だけの問題に収まらない。
婚姻を機に、多くの貴族は何らかの支援を引き出す。そこで、最初から上手くいかない結婚を仕組んでいれば、結果を知っている方はいろいろと空手形を切れる。嫁を捨てた貴族は相手の家に強く出られなくなるのだから。
問題は最初から娘を犠牲にすると決めていなけばならないことだが――
「よーし、次は伯爵家にでも探りを入れますか」
ロイは旅支度をまとめて車に詰める。
依頼を受けてから四ヵ月。巡った地域は数知れず。チャンドラーがボロボロの旧車で我慢している間に、彼よりも新型車の運転技術は上手くなっていた。
上機嫌でドライブをしながらドレスデン伯爵領で情報を集める。そこでも最新モデルの蒸気自動車が効いた。車に乗ったまま路を歩く女性に声をかければ、どんないい女も目にハートを浮かべてついてくる。
「チャンドラーパイセン、ありがとぉー! シートはちゃんとクリーニングしてから返すからねー!」
今日も車上でイイ想いをしたロイは、女を下すとアクセルを全開にして叫ぶ。
チャンドラーの車を借りてから、女を騙してヒモをしながら全国を回れるのではないかと思うほど世間のチョロさを感じていた。庶民の生涯年収では10回人生をやり直しても買えない。最新自動車こそ最高のナンパアイテムである。
しかしやはりと言うべきか、調査内容までは甘くない。伯爵家の屋敷で働くメイドを引っかけて話を聞いてみるとおかしな事が分かった。
離婚して実家に帰っているはずのドレスデン家の次女がいない。別荘で療養しているという話だったが、そちらを訪ねると今度は次女の名前の書かれた墓を見つける羽目になった。
しかも、墓石はボロく隠されていた。掃除はたまにしかされていない。そもそもどうしてドレスデン家の墓地とは別の場所に埋葬されているのか。
誰もが口を噤む中、その理由を墓守の老婆だけが教えてくれた。昔は伯爵家の別荘でハウスメイドをしていたらしい。
「この子は不憫な子でねぇ。せっかく伯爵様が拾ってくださったのに……ここに来てからも元気だったのに突然……無理に明るく振る舞っていたのか……」
老婆は優しい手つきで墓石を撫でる。
「拾われた。もしかして次女は養子ってことか」
そんな記録は見ていない。ロイは首を捻る。
「ああ、顔も綺麗だったしすごく頭の良い子で。引き取られたのはこの子だけだったけど、確か妹がいてこっそり面倒見てたみたいだよ」
「いい娘さんだったんだな。ちなみにその妹さんはどこにいるか分かるかい」
「ここから南に行ってみっつめの町だったかね」
「サンキュー、婆さんは長生きしろよ」
「あんたに言われんでもあと百年は生きるよ」
「ははっ、ならオレが墓を磨きにくる必要はねえな」
車なら町三つなど遠くない。老婆の証言もすぐに裏が取れた。
聞いた街で探すと特徴の一致する女性が見つかった。噂の姉と同じで美しい娘だった。姉は遠くへ行ってしまいもう会えないが、今でも手紙と仕送りをしてくれると嬉しそうに話してくれた。
「死ぬ前に用意してたんだろうなぁ、言えねぇけど……」
その場に居づらくなって街を離れる。
流石に今回ナンパは自重した。
ロイも親無しの元孤児、傷の絶えない人生だった。
似た境遇の女とは遊べない。
姉の死を知り、悲しみに暮れていたら抱いて慰める選択肢もあったかもしれないが。
それから他の離婚したという伯爵家の娘達も探る。
どこも似たような状況だった。
離婚しているのは養子の娘ばかり。
しかも養子である事実を隠されていた。
記録もなく、養子になった時期は重なっている。
現在は口封じをされたか、みな消息不明か死亡済み。
離婚の慰謝料や毎月送られてくる生活費は、彼女達の生死を隠すために使われている。利益はなさそうどころか、各伯爵家が負担を背負っている。
「関連性か……これが一連の計画によるものなら、娘達はみんな……」
手口が共通なら結果も同じだろう。
そして自分も既に踏み込み過ぎている。
貴族は周囲を嗅ぎまわる犬に敏感だ。
首筋にチリチリと焼けつくような焦燥感が走る。
誰かに命を狙われ、常に後ろをつけられているような感覚。
「ククク、このスリル、たまんねぇわ。オジキをハメてやった時を思い出す。しかし、ここまで来たら根っこまで押さえとかねぇとオレが死ぬな。ったく、先輩はどこまで予想してたんだか……」
ロイは命の危険を感じて――笑った。
孤児だったロイが高等学校へ通えたのは、生きるために何でもする度胸と頭の良さを買われて、スラムを牛耳るマフィアがバックについたからだ。将来は組専属の弁護士になる予定だった。その組は抗争で全滅したが。
ちなみに抗争の原因は謎とされ、今尚、地元警察が調査を続けている。
***
「新入り、ダックスじゃねぇ! プードルだ! 愛犬のラスティちゃんを視ろ!」
「サーセン親方!」
ロイはカイエン公の屋敷へ忍び込むため、植木職人に弟子入りしていた。学生時代、生活費を稼ぐために多くのバイトに勤しんできたが、公爵家の中に入れる程の料理や執事のスキルは持ち合わせていなかった。身元を証明する必要もある。かろうじて潜り込めたのが植木職人だった。
親方に怒鳴られながら屋敷の人間とすれ違う。メイドがくすりと笑った。
カイエン邸へ忍び込むのに、植木職人の職務内では不可能。庭を自由に歩けても屋敷へ入る許可は下りない。そこで選択した手段がハニートラップだ。ロイは既に一人のメイドと肉体関係を結んでいる。
メイド達は皆住み込みだ。『月が昇ったら会いに行く』と言えば、メイドはこっそり自室の窓を開けて夜を待った。声を押し殺した情事を終える。メイドが寝ついた後は、帰るフリをして屋敷の中を探索する。
屋敷の間取り、警備の巡回などを順に調べ、三度目の探索となる夜、ロイはついにカイエン公の書斎へ侵入した。
「こういう時は部屋で一番ランクの低い絵画の裏って決まってんだよな~」
違法捜査も手慣れたもの。金を持った悪い人間は大抵似たような場所に秘密を隠す。ロイは額縁の欠けた絵画を壁から外すと隠し金庫を開けた。
カーテンは閉まっている。オイルライターに火をつけ、暗闇の中でカイエン公の隠し事に目を通す。
「これはこれは……」
と驚いていいのか。カイエン公は隣国のランス共和国と通じていた。
金庫に隠されていた書類には、カイエン公の亡命。亡命後に共和国協議会の特別顧問としての地位を約束する旨が書かれていた。
「公爵ほどの地位の人間が亡命する意味あんのか? 最後はお友達を連れて公国でも興す気かよ」
「そんな愚かな大望など抱いておらんよ」
突然、後ろから声をかけられてロイはナイフを構える。
扉を開ける音も人の気配もなかった。
なのに、部屋の入口に壮年の男が立っていた。
「何者だ、と聞くのは野暮だな。貴様、中央の犬だろう」
「お会いできて光栄です、カイエン公。でもオレはそンな大層なもんじゃねえ。どこにでもいる庶民の味方、町の弁護士さんさ」
中央の犬、そう呼ばれる職業は意外と少なくない。
ただこの場合、問われているのは国王以外の誰でも国家反逆罪で逮捕できる特別高等警察だろう。
「嘘が下手だな。その赤毛混じりの金髪、濁った灰色の眼、西の貧民区出身者だろう。貴様のような薄汚い犬が弁護士資格など取れるものか」
「それが生まれつき要領がよくてね、悪い大人に拾ってもらったのよ」
「マフィア……つまり私を脅すネタを探しに来たのか、この不良国民が」
「売国奴に言われたくねぇ」
カイエン公が壁にかかっていた細剣に手を伸ばす。
会話を続けるために、ロイは降参とばかりにナイフを床へ捨てた。ついでに帽子とマスクも脱ぎ捨てる。
「冥途の土産に教えてくれ。何でこんなことをしてるんだ」
「……貴族にも人として生きる権利を与えるためよ」
カイエン公が会話に乗って来たことで、ふうっと息をつく。
貴族というやつは誰も彼もが承認欲求の塊。
つまりは『語りたがり』だ。
「人とはなんだ。人と動物の違いはなんだ。それは愛だ。しかし、貴族は愛を持つこと許されていない。つまり貴族は人ですらない。私はそれが許せなかった。国民が人権などという言葉を掲げ、自らの価値を獲得しようと動きはじめたこの時代に、どうして貴族がそれ以下に甘んじなければならない。なのに、下位の貴族どもは自らの血が尊いと勘違いしたままだ。……人は痛みを知らねば何も学ぶことができぬのだよ」
胸を押さえ、苦しむように語るカイエン公。
「計画はまだ始まったばかりだが、いずれ痛みを知った貴族達は己こそが不自由だと知るだろう。そして自由を謳歌する庶民を羨む様になる。貴族達は自ら地位を捨て、争うこともなく、この国は平和に民衆の物へと移り行くだろう」
「あんた、貴族制を、王国を終わらせる気か。だが……」
自分に酔っている風に見えなくもないが、カイエン公は本気だろう。既に計画とやらは始動しているのだから。
この話で、ロイが気になるのは『カイエン公の始まり』だ。
ロイが子供の時からカイエン公は愛妻家で有名だった。幼い頃から想いを寄せていた侯爵家の娘と結ばれた時は、全国紙の一面を飾った。地元では一週間も結婚パレードをしていた。そんな男がどうして愛がないと嘆くのか。
「カイエン公の嫁さん、もしかして病で死別したんじゃないのか」
「そもそも死んでいない。離婚もしとらんさ。今どこにいるかも知らんがな」
「それって……」
夫人は亡くなったと新聞で報じられている。実際、その姿はもう十年近くも世間から消えている。しかし、真実は違ったようだ。
「私には、二人の幼馴染がいた。ひとりは女、ひとりは男だった」
目を閉じたカイエン公の顔が悲痛に染まる。
カイエン公には二人の幼馴染がいた。
三人は仲が良く、次第に惹かれ合っていった。
しかし、男が二人に女が一人。
その関係は初めからどこかで崩れる運命だった。
「三角関係、なんて言葉があるが、全てが綺麗な正三角形というわけではないのだな。奴ではなく私こそが彼女と結ばれたはずなのに、いつの間にか私という点だけが夜空に浮かぶ星の様にぽつんと離れていたのだ……」
「急にロマンチストになるじゃん」
愛した妻と信じた親友にカケオチされた寝取られ公爵の眼から悲しみが零れ落ち、代わりに憎しみの炎が宿る。
「公爵という貴族の地位が、愛を手に入れたと、私に私が人であると勘違いさせた……。本当は、彼女には私を選ぶ道しか用意されていなかった。私は醜い道化だった……。許せなかった……この地位がなければ、私は……」
「あんたは嫁さんを愛していたんだろう。誰かに愛を向けられなくても、あんたはあんた自身の愛を持っていたはずだ。それこそが人として大切な事じゃないのか」
「違うな、愛は誰かから与えられるものだ。ただ一人虚しく愛を大事に抱いていることに意味があると思うか。綺麗事だ。他人の愛にこそ価値がある」
「チッ、勢いで行けるかと思ったけど、坊主みたいな説教はオレにゃムリか」
カイエン公は目尻に溜まった水分を拭きとり、鞘から細剣を抜き放った。
「そうか、私ともあろう者が、これ程までに誰かに聞いてほしかったのか……今宵、貴様という生け贄が私の涙を拭ってくれた。少し心の痞えが取れたよ。ありがとう、死んでくれ」
「愚痴が終わったら用済みか。あんた、口で何言おうとどこまでもお貴族サマだよ」
秘密を知った者を葬るべく、切っ先が向けられる。
カイエン公はフェンシングの達人。その腕は彼が従える騎士よりも鋭い。
ロイは一瞬で覚悟を決めた。
瞬きの間にカイエン公が飛翔した。
半身の神速片手突き。
人間の反射神経で回避は不可能。
だがあくまで武器は細剣、狙いを一撃必殺に絞る。
カイエン公の刃は左腕を貫通し、ロイの首をわずかに掠めて外した。
ロイは犠牲にした左腕に細剣を刺したまま前に出る。
如何な達人でも、突けば引かねばならぬが剣の道理だ。
左腕に剣身の自由を奪われ次の技を出せないカイエン公を殴り飛ばす。
「得物が悪かったな。細剣なんて野犬の相手と同じよ。腕一本捨てる覚悟があれば、どんな狂犬の首でも掻っ切れる」
「この私を野犬扱いするか! 勝ち誇るな、駄犬が!」
「うおっ、やべ」
バカにされたカイエン公は剣とプライドを捨て、懐から拳銃を出した。
パンパンッ! ――ロイが床を転がり、弾丸は窓ガラスを砕いた。
騒ぎに気づいた衛兵が集まる前に窓から飛び降りる。
ロイは命綱となる亡命の書類を胸に抱えたまま車へと走った。
「頼むぜ、チャンドラー先輩!! 着火着火着火、早く動けよエンジンちゃん!」
蒸気自動車の難点は走り出すまでの遅さだ。新型車は熱の確保にガソリンを用いているが、それでもボイラーが温まるまでには少し時間がかかる。
町を出たところで、騎兵だけでなくロイと同じ新型車が追ってきた。
チャンドラーから預かった車はロイが毎日のように整備している。灯りのない夜道、死ぬ気でアクセルを踏むロイほど相手はスピードを出せない。だから距離を詰められることはないだろう。――そう思ったが、相手が早かった。
「これが財力の差か、汚い、貴族汚い」
「待て小僧! 車を止めろ! 轢き殺してから突き殺してやる!」
「貴族が自分で追ってくんなよ!」
追手の先頭は怒りで我を忘れたカイエン公だった。助手席に置かれた細剣が嫌だ。華麗なハンドル捌きと金に物を言わせたマシンパワーで距離を詰めてくる。
曲がりくねった峠道、しかし、カイエン公の運転技術は計り知れない。事故など起こさないだろう。もはや捕まるのは時間の問題。
ロイの車は限界まで速度を上げる。そして――
「くそっ、莫迦がッッ!」
限界を超えた速度でカーブに侵入したロイの車は崖から墜落した。
崖下でバラバラになった車をカイエン公が見下ろす。しばらく呆然としてから、部下に残骸を回収するよう命令して屋敷へ戻っていった。
「……すまねぇ先輩。車は保険で買い替えてくれ」
カイエン公の背中をロイは暗闇から覗いていた。
ほとんど月明りもない闇夜だったのが幸いした。ロイはアクセルを固定したまま、カーブで車から飛び降りていたのだ。そのまま岩陰に転がり込んだ。
ただ、限界速度から飛び降りたせいで身体中傷だらけの血塗れ。命懸けで守った亡命書類を抱え、足を引きずりながらも、ロイは追走から見事逃げ切った。
***
ロイがスラムの闇医者のところへ身をかわしてから十日後、カイエン邸での騒ぎを知って居場所を掴んだチャンドラーが見舞いにきた。
「す、すごいな、こんな大事になってたのか……」
「あいつはヤベーすよ先輩。絶対ここまで殺しに来るよ」
「いやいや問題ない。これは俺が然るべき手順でリークする。カイエン公は終わりだ。うん、マジで大丈夫だから、あとは俺が死ぬ気でやるから」
「マジすか、さすが先輩っす。さすハゲ」
亡命書類を見て頭を光らすチャンドラー。
どんな書類があってもロイの持つ伝手や法律知識では公爵と戦う事などできないのに、その顔は自信で溢れている。
「あと……車崖から落としちゃった」
「いいって、お前が無事ならそれでいいんだ」
「先輩ッ」
これだけは絶対キレられるかと思ったが、チャンドラーは何もなかったかのようにロイを許した。ガシガシと力強い手で後輩の頭を撫で、次の仕事へと向かう。今日もチャンドラーの後光は眩しい。
更に十日が過ぎた日の朝、新聞の一面をカイエン公爵が飾った。
ただし罪状は、政略結婚の強要と結婚詐欺。
派閥の貴族を使って、更に下の貴族から金品を巻き上げていたという。
「っざっけんな!!!」
新聞を見たロイは病室で叫んだ。
確かに始まりの動機を考えると、器の小さいしょぼい男だとしか言えないが、犯罪者としてのカイエン公はそんなしょうもない小悪党ではない。
最終的には派閥を連れて国を裏切ろうとしていた。古い貴族という面倒な縛りだけを捨て、新しい時代の貴族、官僚という美味い地位を取ろうとしたのだ。ついでにどこまでも選民思想に染まったクズ。断首刑が妥当な大悪党だ、と。
しかし、新聞と一緒に届いたチャンドラーの手紙によると、カイエン公が陽の光を浴びることはもうないとの話だった。誰とどんな取り引きをしたのかは明記されていなかったが。
「っぱチャンドラー先輩はパネェな、ん、まだある……」
そして、ロイが本当に驚くのはこれからだった。
チャンドラーの寄越した封筒には手紙の他に一枚の紙きれが入っていた。一枚の小切手。そこに書かれた金額を見て、目玉が飛び出そうになる。予想外の収入に、小さく『口止め料』と書かれていることに気づかない。
「こ、ここ、こんなボーナスまで貰っちまって、いっそ弁護士やめて探偵にでも鞍替えすっか。いや、むしろもう一生働かなくていいか!」
退院後、ロイは小銭をバラまき一躍町の人気者になった。
だけど調子に乗りすぎて金はすぐになくなった。
投資に手を出したのが良くなかった。
そしてまた危ない仕事を再開した。
弁護士業は変わらず閑古鳥が鳴いている――