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「なるほど、もう旅立つか。忙しない、とは言うまいよ。恐らく君は、君がこの地ですべき事を終えたから旅立つのだろうからね」
何も言わずに旅立つのは、頼れと言ってくれた人に対して流石に義理が立たないと、挨拶に来た書徳院で、文字法師はそう言った。
一体、何を、どこまで知っているのか、その表情からは読めない。
けれども、前に会った時と態度は一つも変わらず、柔和で、そして俺に対して好意的だ。
何というか、この人を前にすると、不思議と心が落ち着く気がする。
師や、月影法師と、どこか共通するようで、全く違う魅力を持つ、不思議な高僧。
「そうだね。だが別れを惜しいとは思う。だからまた何時か、この地に遊びに来なさい。その時は、書の手ほどきをしてあげよう」
時が足りず、文字法師と深く関われなかった事は、実に惜しかったと、そう思う。
だがこれで良かったのかもしれない。
あまり深く関わると、この地を離れ難くなっていたかもしれないから。
次はどこへ行くのかとは、問われなかった。
ただ、もうまた来るようにとだけ、言ってくれた。
必要以上を問わない態度が、何故だかとても暖かい。
寺を出れば、待っていた一華と合流して、そのまま港へと足を向ける。
忙しない……、か。
本当にそうだった。
弘安家の領都もそうだったけれど、滞在期間は長くない。
しかも、穂積洲でも最も栄えた港がある場所に来たのに、過ごしていたのはずっと陸で、それも大半は山だ。
船に乗っての仕事もしてみたかったなぁって、そりゃあ少しは思ってる。
だが振り返って見て見ると、この地で得たものも決して少なくはなかった。
これまで俺がしてきたのとは全く違う旅の仕方や、物の見方、考え方。
一華と一緒に過ごして得られたこれらは、俺をまた一つ成長させてくれたから。
まぁ、後は師が言うところの異変の一つと思わしきものを潰せたことも、得たものの一つに数えていいかもしれない。
「翔様、本当に、穂積洲を出られるのですか?」
しかしそんな一華とも、港に着けば別れの時だ。
俺は彼女の問い掛けに、迷う事なく頷く。
港都を有する良仙家は、穂積洲で最も弘安家から離れた場所の大領主だった。
この地を離れて別の栄えた場所に行くとなると、穂積洲の中だと、弘安家に近付く形で移動するしかない。
それは俺がこの地で領主同士の戦に自ら関わった事を含めて、弘安家に少しばかりの不安を与える。
いや、俺という個人が、大領主である弘安家に不安を与えるなんて、おこがましいにも程はあるんだろうけれども。
故に俺は、ならばいっそ、穂積洲から離れてしまう事に決めた。
どのみち、いずれは八洲のあちらこちらを見て回りたいと思っていたし、これもいい機会だと考えて。
「天伺洲に行くよ。これまで三宝教とは関わりはあったけれど、天教とはあまり関わってこなかったしね。どうせなら八洲の中心を見ておこうと思ってさ」
そう、俺が向かうのは、天教の、そして八洲の中心とされる地、天伺洲。
あぁ、もちろん位置的、物理的な中心地は、他ならぬ天に伸びる巨樹、扶桑だろう。
しかし天伺洲は、人、特に人間にとっての、中心となる場所だった。
穂積洲で有力な支配者は、弘安家、良仙家を含む、五つの大領主だ。
だがそんな彼らも、あくまで領主に過ぎず、国の王を名乗ったりはしない。
というのも、八洲の全てを統べる者は他にいて、全ての領主はその認を受けて、初めて領地の主となれているに過ぎないから。
この八洲を統べるのは、かつて地の底から怪物が這い出て来た時、天に住まう神々に祈りを届かせた人間、神の愛を受けて人の身でありながら加護により、死から切り離された天子である。
天伺洲は、そんな天子が座し、神々に祈り続ける場所だ。
だからと言って良いのかはわからないけれど、天伺洲は外洲の中でも唯一、一つの勢力に統一されている洲だった。
もちろんその勢力は、天子を中心とする天教で、天伺洲の全ては天領と呼ばれ、天教による統治を受けている。
なので基本的に、天伺洲では人同士の争いはないという。
またそういった場所だから、天伺洲には妖も殆ど現れる事なく、本当に平和な場所なんだとか。
本当にそうなんだとしたら、まさに理想の地であるというべきだが……、俺からしてみると、争いがなく、妖も出て来ないとなると、できる仕事が少なそうだなとも、思う。
稼げるあてがなさそうだから、見に行くならば、懐に余裕のある今が良い。
天伺洲では八洲で流通する銅銭、天銭が生産されており、船の出入りが盛んだから、別の外洲に行くにしても立ち寄って損のない場所だった。
「私は、穂積洲の外には、同行する事ができません」
ただ、天伺洲に向かうなら、一華とはここでお別れだ。
一華が俺に付けられたのは、護衛と旅の便宜を図る為との名目だったし、それも決して嘘ではなかったけれど、最も主要な役割は、やはり監視である。
でも俺が穂積洲の外に行ってしまうなら、もう監視の必要はない。
護衛や、旅の便宜を図るにしても、穂積洲の外は範囲外だと言われれば、それもそうだろうと、俺も思う。
一華がどうしたいかじゃなくて、彼女の所属する視號の里が、構成員が穂積洲の外に出て行ってしまう事を許さないから。
「そうだね。でも、そのうち穂積洲にも戻ってくるから、その時は連絡をするよ。また一緒に、何か依頼でも請けよう」
故に一華とはここで別れる。
ただ領都での、茜や紫藤との別れと違って、言葉で自分がこの先どうするかを伝えられての別れだから、良かったんじゃないだろうか。
この別れ方は、決して悪くはない筈だ。
「翔様は、一つ所に留まられませんから、捕まえるのは大変そうですけれどね。……お帰りになられるのを、心待ちにしております」
そう言って、一華も笑う。
暫し、他愛のない話をしながら港まで歩き、俺は船に乗り込む。
港都に来る時に乗った、沿岸航海用の船じゃなく、他の外洲に行く為の大きな船に。
一華は、沿岸航海用の船に乗って、弘安家の領地に帰るだろう。
お互いの航海が、平穏なものになりますように。
俺はそう願いながら、海の風を、胸に一杯吸い込む。
広い海に、船出を告げる太鼓の音が、どぉんと響いた。
ここらでこのお話は一旦完結とします
お付き合いくださってありがとうございました




