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選んだ宿で草鞋を脱ぎ、足を洗ってから部屋に入る。
まだ領都を旅立って数日だけれど、こうして宿で足を洗うと、すっきりと人心地ついた気持になれた。
部屋は泊り客が多ければ相部屋になるそうだが、今日の客入りならどうやら一人で使えるらしい。
船が停泊してる時は、宿の利用客も増えるから、大抵は相部屋になるんだとか。
けれどもそんな一人で占拠していた部屋を、訪ねてきた者がいた。
来客は二人。
一人は以前、視號の里までの護衛の依頼をしてきた行商人で、……名前は確か、仕儀って呼ばれてたっけ。
だがもう一人は知らない顔で、旅芸人のようないでだちをした、若い女だった。
今回の行商の護衛だろうか?
なんて間抜けな疑問は抱かない。
茜や俺もそうだったから、あまり偉そうな事は言えないけれど、女の姿はそれに輪をかけて行商の護衛に向いてるようには見えなかった。
まぁ、十中八九、視號の里の忍びだ。
旅芸人の格好は、色んな場所を回って情報を集めるのに、都合が良いからってところだろう。
「どうもお久しぶりですな。翔さんの活躍は、耳にしておりますよ」
行商人、仕儀の隠す気のないその言葉に、俺は思わず苦笑いを浮かべる。
俺が仕儀と一緒に行動をしたのは、蛟が領都に雨を降らす直前までだ。
つまりその後に俺が活躍をしたと言えるのは、蛟とその眷属との戦いのみ。
そしてその戦いでの戦いぶりは、あまり大っぴらにはされない筈。
討伐軍には領都の武芸者や術者も参加していて、彼らの前で大暴れしたから、多少の話は漏れるにしても、わざわざ俺の名前を出しはすまい。
金砕棒を扱うって話を聞いて俺と結び付けたのだとしても、……だったら尚更、普通の行商人はここでその話題を口にしないだろう。
それがもしかすると虎の尾を踏み付ける事になるかもしれないって、商売ができるだけの学がある人間なら、わかって当然だから。
だから仕儀の言葉は、自分が視號の里の忍びだと名乗ったのも同然だった。
ここ数日の監視は、仕儀と旅芸人風の若い女、それからあと数人程の、彼らの仲間の仕業である。
「師が手助けしてくれただけで、活躍って程の事は、あまりなかったよ。それよりも、隠れて見張るのは、もういいの?」
俺は首を横に振り、少しばかり皮肉を混ぜて、仕儀にそう問う。
すると彼は、少し困ったような笑いを浮かべて頭を掻いた。
「いえね、私共が受けた依頼は、弘安様にとって恩のある翔さんに便宜を図る事と、護衛なんです。ですが翔さんはこの領内を離れようとしている様子。そうなると流石に私共も、隠れてお守りするというのは難しくてね」
なるほど、物は言いようか。
弘安家にとって、邪魔者ではなく恩人である。
監視をしていたのではなく、便宜を図る為に機会を窺っていたのだ。
そんな風に言われれば、我ながら単純ではあるけれど、あまり悪い気はしない。
実際、恩を感じて貰えるくらいの活躍はしたって自負はあったし。
もちろん、それでも俺が領内にいると問題がある事には、何ら変わりはないんだけれども。
「なので単刀直入に伺いましょう。翔さんはどこへ、何をしに行かれるんですか?」
真面目な表情で、仕儀は俺にそう尋ねる。
あぁ、もしかして、他の、特に近隣の領主に仕えられる事を、警戒されているんだろうか。
俺にその心算は全くないが、それは彼らには、その後ろにいる弘安家にも、わかる筈がないのだし。
領内にいても不都合だけれど、外に行って目が届かなくなっても、それはそれで不安に思われるとは、本当に厄介な立場だなぁと、溜息がでそうだ。
だが幸い、俺の目的地はここから遠い。
素直に告げれば、彼らの理解も得られる筈だった。
「ここから西、穂積洲の西部に影響力を持つ大領主、良仙家の港町へ行こうと思う。目的はここと同じで、困ってる人がいたら助けたり、金を稼いだり、見た事のない物を見たりだよ」
弘安家の領地は穂積洲でも東よりに位置するが、良仙家は西の端にある。
同じ大領主に位置付けられてはいるけれど、弘安家と良仙家、この二つの家の統治の方針は、全く異なっているそうだ。
いや、より正確には、良仙家が他の領主とは大きく違う、異端の統治をしてるといった方が、いいかもしれない。
というのも、良仙家は海人と関わりが深く、その協力を受けながら海を使った交易を重視して、その立場を守ってる。
例えば八洲の外、異国との貿易も、良仙家では盛んだという。
また八洲のうちの外洲、主に人が暮らす穂積洲を含んだ五つの洲に関しては、良仙家の港から行き来する船が頻繁に出ているらしい。
こうして海を使ってあらゆる場所と取引をしている為、良仙家は穂積洲でも最も多くの金を握っている領主だそうだ。
そしてその金の一部をばら撒き、穂積洲の西部に強い影響力を持っている。
但し、その代わりといっては何だが、良仙家の持つ領地の広さは、大領主の中では最も狭い。
また保有する軍も、海での戦いを重視している為、陸上の戦力は数が少ないとの話だった。
もちろん、安易に攻められないように、それなりの数の大鎧を用意はしてるんだろうけれども。
つまりは、そう、良仙家は穂積洲の大領主の中でも、最も弘安家の競争相手とはなり難い存在だった。
弘安家も川を使った水運には力を入れてはいるが、基本方針は己の領内を豊かにして民を食わせる事を重視した、基本に忠実な領主だから、異端の良仙家とは争うべきところがあまりない。
もしも弘安家も海を使った交易の拡大を強く望めば、良仙家が目障りになる場合もあるかもしれないが、少なくともそれは今すぐではないだろう。
「なるほど、良仙家の……」
俺の答えに、仕儀は少し考え込んで見せる。
いずれにしても、ここで亡き者にしてやるとばかりに襲われる事はないだろう。
それはあまりにも、弘安家にとって失敗した時の危険が多い。
彼らは俺の力を知ってるし、何よりも弘安家は俺に対して恩があるのも事実だ。
なのに邪魔だとばかりに殺害しようとすれば、当然ながら俺は怒って敵対するし、事が広く露見した場合の弘安家の立場は最悪に近い。
だから彼らの希望を言うなら、俺の機嫌は損ねたくないが、できれば監視だけはつけておきたいといったところか。
そうなると仕儀、もとい視號の里の忍び達が打てる手は、必然的に限られていた。
恐らく最初から大体の結論は決まってて、仕儀の考え込んだ仕草は、見せかけだけの物だろう。
「わかりました。旅立たれる翔さんを、引き留めるような野暮はよしましょう。しかし翔さんは修験者の弟子として山野に育ったそうで、世には不慣れだ」
仕儀は顔を上げて、笑みを浮かべてそんな言葉を口にする。
うん、そういえば、護衛の最中にその辺りの身の上話は、仕儀にしたっけ。
領都での生活で、色々と学べたとは思うけれど、世の中に不慣れな事には変わりないので、その言葉に対しては俺は素直に頷く。
すると仕儀は、我が意を得たりとばかりに手を打って、
「そこでこの、一華を連れて行っては貰えませんかな? 私共の中でも目端の利く彼女がいれば、色々と役に立ちましょう。私共も、便宜を図り、護衛するという弘安様からの依頼を果たせます」
視線を隣の、旅芸人風の若い女と向けた。
あぁ、やはりそういう話だったか。
一華という女も、最初から全てを承知していたのだろう。
すぐさま俺に向かって、深々と頭を下げて見せた。




