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弘安家の領都を出て五日。
胴川沿いに北に歩けば、見えてくるのは海辺の町だ。
実は川を下る船を使えば、もっと早く海辺の町には着いたのだけれど、何となく歩きたい気分だったから、俺は徒歩を選んでる。
もしかすると、俺も後ろ髪を引かれてて、名残を惜しんでいたのかもしれない。
海辺の町を目指す理由は、そこには港があって、船が出ているからだった。
あぁ、当然ながらその船は、川を行き来してる船じゃなくて、海を渡って八洲のあちらこちらに行ける船である。
弘安家の領地から、別の大領主の領地へ向かう場合、陸路だと他の領主の領地を跨がねばならない。
するとその度に関所を通り、通行税を取られる事になるので、場合によっては海路、船を使った方が安くなるそうだ。
そしてその傾向は、向かう先が遠ければ遠い程に顕著になるという。
だったらいっそ、船を使って穂積洲の逆側に行ってみるのも面白いかと、そんな風に思ったから。
流石にまだ、穂積洲から出てしまう踏ん切りは付かないけれど、いずれは船で八洲の全てを回ってみるのも、きっと面白いだろう。
それから海辺の町では、そう、海の魚が沢山食える。
双明寺で世話になった光念は海辺の出身で、彼は浜焼きというのが美味いと言っていた。
何でも作ってる最中の熱い塩に魚を埋めて、その熱で蒸して焼いた料理らしい。
こればかりは、領都がどんなに発展してて、色んな物が集まってくると言っても、食べられる料理じゃないそうだ。
そんな話を聞かされたら、もう、絶対に食べたくなるに決まってるじゃないか。
ただ、海辺の町に入る前に、気になる事が一つあった。
二日程前から、時折ではあるが誰かに監視されてる視線を感じるのだ。
この感覚には、覚えがある。
以前に行商人の護衛として、視號の里に向かった時、里の近くで幾度となく感じた視線にとても近かった。
つまり今、俺を監視してるのは、視號の里の忍びだろう。
野外で俺に見付からずに潜める手並みは、やっぱり見事と称賛するより他にない。
もちろん移動と潜伏は同時にはできないだろうから、複数人で俺を監視している筈。
さて、そんな人手を割いてまで、俺に何の用があるというのか。
まぁ、俺が船で弘安家の領内を出ようとしてると知れば、もう用はないとばかりに監視を切り上げるか、或いは接触して来ると思う。
だから今は、……俺から何か動く必要は、別にないか。
海辺の町は、領都とはまた違った雰囲気の、活気のある場所だ。
領都の活気は人の多さによって生み出されているが、こちらは本当に行き交う人の誰もが表情に活力を漲らせていて、勢いがある。
また領都程ではないものの、海辺の町も十分に、これまで俺が見て来た場所の中では有数に、人が多い。
人が多ければ問題が起きるのも常だけれど、ここの人達はとても前向きな様子に見えた。
船の行き来で人と物が流れ込み、仕事は多くて金を得られ、更に海からの恵みを得られる為、食べる物が豊富で飢えにくいのか。
月影法師に教わった自然の理では、水は正しく流れ続ければ、淀みが生まれずに澄むという。
それと同じように、ここには人と物が流れ込み、それからまた別の場所に流れていく為、やはり淀みが生まれにくいのだろう。
いや、人が集まり生活をしていて問題がない場所なんてないだろうから、生まれる淀みも表面の流れによって、見えにくいのがより正しいか。
「そこの物騒な物を担いだ兄ちゃん、旅の武芸者かい? 焼けた貝を喰ってかないか? 安くしとくよ」
流れ者を恐れたり嫌ったりする様子もなく、通りを歩いているとそんな声も掛けられる。
見れば大きな七輪の上で、石のようなものが幾つも炭火で焼かれていた。
そう、見た目はほぼ石なのだが、焼けて漂う匂いは何とも言えず、食欲を誘う。
腹が鳴いて足を止めろというので、仕方なく足を止め、貝とやらを凝視する。
どうやら貝といっても、黒かったり白かったり、色んな見た目の物があるらしい。
あぁ、こちらの貝は、箱のように蓋が開いて、食えそうな中身が見える。
つまり貝とは、こうした殻の中身が食えるのだろう。
しかしこっちのグルグルとした殻の貝は、どこから食うのか見当もつかなかった。
「幾つか欲しいんだけれども、これはどうやって食べたらいい?」
まぁ、わからなければ聞けばいいか。
取り敢えず買う事に決めて、懐から銅銭を取り出す。
「ははぁ、兄ちゃん、海は初めてかい。だったら俺が教えてやらぁよ。まぁ、こいつはわかるだろう。この口を開けた貝の中身を喰うだけさ。でもこっちの壺貝は、上手く蓋を取ってやらなきゃいけない。すると中身がふたにくっ付いてくるんだが、中身も捻じれてるから気を付けな」
すると貝を売る男は機嫌良く、その食べ方を身振り手振りを交えて教えてくれた。
もちろん商売だからというのはあるんだろうけれど、それでもその態度は気易くて、とても親切だ。
グルグルとした貝、壺貝とやらはちょっと難しそうだったので、食うべき中身が見えた貝を幾つか購入し、男が教えてくれた通りの仕草で端を指で持ち、口に運ぶ。
中身に齧り付けば、熱い汁気が口の中に広がって、少しだけ驚く。
俺じゃなかったら、もしかしたら火傷してたんじゃないだろうか。
でも同時に広がる美味さは、熱さ以上の衝撃だ。
男が指差す箱には中身のない殻が捨てられていて、俺もそこに殻を放る。
そして次の貝を口に運ぶが、やはり美味い。
「酒が欲しくなる、たまらない味だろ。兄ちゃんは飲めるかい?」
なんて風に男は問うてくるが、俺は首を横に振った。
酒はまだ飲まないと決めている。
ただ、俺としてはどちらかといえば、貝の味は米の飯が欲しくなってしまう。
どこか、領都で食べた魚の干物と似た美味さがあった。
これが海の美味さだろうか。
そんな風に考えると、ちょっと面白い。
口に広がる香りは、海から流れてくる匂いと、少し似てる。
それから少しの間、俺は男に質問をしながら貝を喰い、礼を言ってその場を後にした。
金を払う客ではあっても、いい経験をさせて貰えた事には間違いないから。
俺が乗ろうと思ってる船は、毎日やってくる訳じゃないという。
数日に一度、港にやって来ては、荷を下ろしたり荷を積んだりして、一日か二日は停泊し、それからまた別の港に向かって旅立つ。
だから船に乗って別の町へ行く予定だとしても、宿の確保はした方が良いとの事だった。
まぁ、急ぐ旅でもないのだし、ゆっくりとこの町を楽しんでから、船に乗るのも悪くない。




