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大きく弾き飛ばされた俺の身体は湖の上を越え、山の岩肌にぶつかり、弾き飛ばされた勢いに意識の薄れた俺は受け身すら取れない。
そうなる筈だった。
けれどもこの身が岩肌にぶつかる直前、ふんわりと、とは言わずとも誰かにしっかりと受け止められる。
そんなの、どう考えても人間業じゃない。
湖を飛び越す勢いで弾き飛ばされた俺を受け止めようとすれば、激突して諸共に終わるのが関の山だ。
しかしその誰かは確かに俺を受け止めて、
「おぅい、捨吉。お前、その様はなかろうよ」
……捨吉と呼ぶ。
薄れていた意識が、あまりの衝撃に戻って来る。
俺を捨吉と呼ぶ人なんて、心当たりは殆どない。
「えっ、お師さん?」
それは俺の師、円行者だ。
実は現実の俺は既に岩肌に叩き付けられていて、夢でも見てるんじゃないだろうか。
そんな風に思ってしまうくらい、ここに師がいるなんてありえなかったけれど、俺を受け止めてる手の感触、声の響きには、間違いなく覚えがあった。
「そう、お前のお師匠だ。辺りの村人を避難させた後に様子を見に来たら、お前がすっ飛んで来て焦ったよ。しかしな、捨吉。私がやった翔って名前は、あんな蛇に吹き飛ばされろって意味じゃない」
あぁ、実に師らしい物言いだった。
皮肉ってるのか、心配してるのか、はっきりとしない言葉。
そうか、麓の村が無人だったのは、師が避難をさせていたからか。
山々に起きた異変の影響を受けるのは、弘安家の領内だけじゃない。
更に南の地にも、雨は降り続けていたのだろう。
そうなると、南の地で修行を重ねる師が、この異変に気付いたとしてもおかしくはなかった。
他の誰かならともかく、師ならば確かに、あの状態からでも俺を受け止めるくらいは簡単だろう。
そして地に下ろされた俺は、ふと額に風を感じる事に気付く。
何時外れて、落としてしまったんだろう。
弾き飛ばされた時か、それとも蛟を目掛けて駆け出した時か。
隠すものを失った俺の額には、小さな角が二本生えてる。
以前はもう少し小さかった筈なのに、今はもう、小さくとも言い訳の余地がないくらいに、紛れもない角が。
「まぁ、青とはいえ大妖なんて初めて目の当たりにしたら、衝動に飲まれるのも無理もないか。ほら、これを着けなさい。次に会ったら渡そうと、私がこしらえておいた物だ」
そう言って師は、以前と同じように懐から額当てを取り出す。
しかしその額当ては、表には二本の突起、そう、角が生えていて、裏側にはその突起に部分に凹みがあった。
丁度、そこに俺の角がはまるように、誂えてあったのだ。
一体、師はどこまで俺の事を知ってるんだろうか。
角が伸びたのも、師にはわかっていたんだろうか。
蛟を見た時に覚えた、あの額の疼きの正体も。
衝動に飲まれたって言ってたけれど、それはどういう意味なのか。
聞きたい事があり過ぎて、声を上げようとした時、けれども師はスッと指でそれを示す。
「ほら、見えるだろう。お前に殴られて気を失った蛟を、大鎧が仕留めようとしてる。だけど、あれはよくない。どうしてここに持ってきてしまったのか。青の大鎧を動かしてる魂核は、あの蛟の兄弟だ」
師の指先を視線で追えば、今まさに蛟の頭部を貫こうと、長い大太刀を振りかざし蛇巳丸が、そのままピタリと動きを止めた。
そしてまるで鼓動するかのように、ずくずくと、青い光を強く、弱く、放ち始める。
「以前に教えた事があるだろう。傀鎧だよ。大鎧は確かに偉大な発明だ。妖の力を人の力に変える。そのお陰で人の版図は広がったと言っていい。けれども、それでも妖を弄ぶ事にはどうしたって危うさが付き纏う」
傀鎧とは、動力にされた魂核の処理が甘かった場合に起きる、大鎧の乗っ取りだ。
大鎧を新たな身体として、魂核が妖として蘇る。
けれども蛇巳丸は、弘安家の祖から長年受け継がれた家宝。
使われている魂核の処理が甘いなんて、考えられない事だった。
それならどうして、これまで長い間、傀鎧にならなかったのか。
「そりゃあ、目の前で大事な兄弟を、それも自分の手で殺されそうになったからさ。その兆候はあっただろうに」
己の大鎧の異変を察したか、蛇巳丸の腹が開き、弘安家の当主がそこから転がり出る。
蛇巳丸の腹の中は、外よりもより強く、青い光を放つ。
まるで師の言い方だと、大事な兄弟を殺されそうになったから、蛇巳丸の魂核が怒り、人の手を離れたと言ってるように聞こえた。
妖が、他の誰かを大切に思うなんて事が、果たして本当にあるのだろうか。
人を食い殺し、踏みにじる化け物の、妖が。
……だが、兆候があった筈と言われれば、確かにそうかもしれない。
今回の大雨が蛟の仕業だと判断されたのは、蛇巳丸が鳴いたから、繋がりの深い妖が近くにいるとわかったと、月影法師は言っていた。
蛟が弘安家に敵意を持つのは、祖が別の蛟を殺し、その魂核を使って蛇巳丸を作ったからだろうとも。
そう、相手が妖だからとそれを軽視していたが、蛟に情がある事は、最初からわかっていた筈だ。
軽視が故に見誤り、事態はどうしようもない程に、悪くなってる。
「まぁ妖の情は、人が思うそれとは違うだろうさ。それよりも重要なのはここからだ。あそこにいる二体の妖は繋がりが深い同格で、一体はそのまま、もう一体は別の何かに変容してる。すると連中はどうする?」
弘安家の当主が、配下に助けられる傍らで、蛟がその目を開いた。
蛟の目も、蛇巳丸……、いや、傀鎧と同じ青に光ってる。
そしてその目には、もう人間の姿は映っていない。
兄弟であるという傀鎧だけを蛟は見ていて、大きく口を開くと、バクリとそれを飲み込んだ。
まるで歓喜するように、天を仰いで、声にならない音をその口から放つ。
眼の光は、どんどん青が濃くなっていく。
それからビシリと、蛟の頭に裂け目が入った。
裂け目からは光が、それも紫色の光が溢れ出す。
「脱皮が終われば、あれは紫の大妖だ。その気になれば、容易くこの辺り一帯から人は消えてしまうだろうね。弘安家の領地も、他の領地も関係なく」
なのに師はごく平然と、そんな言葉を口にする。
蛟の脱皮を見抜き、その果てにあるものもわかって、どうしてそんなに平然としていられるのだろう。
俺には師がわからない。
一体その目には、何が見えているというのか。
「だがね、捨吉、いや、翔よ。お前は自分の力が倍になって、急に上手く動けるかい? そんなの、どこの誰にだって無理だろうさ。つまり、あれを倒すなら今って事だ」
そう言って師は、ニヤリと笑った。




