0日目 ④
あれから幾許かの時が経ち、私は家へと戻っていた。自分の部屋で机に向かい、目の前に広げられたそれへと目を向けていた。静寂が満ちた空間は、時間の流れを感じさせない。だから、私の心も決めかねているのだろう。本当は分かっていたことだ。世を知らぬ小娘に、世が美しいものだという資格など無いことなど。けれど、それは憧れを持ってはいけないということではない。ここは、私の人生の分岐点なのだろう。このまま何も知らず、穏やかに朽ちていくのか。それとも、辛い現実を直視しながらも、かき分けて進むのか。“知らずして語るべからず“と言ったところだろうか。ここに記された物語も、実体験なのか、それとも空想の中のお話なのか。真実は記したものしか分からない。でも、もしその時、その場にいて、それに触れていたのだとしたら、きっと私なんかが想像もし得ない世界を見据えているのだろう。私はそれを悟りながらも、手を伸ばせずにいた。
知らない世界に飛び込む勇気は、正直ない。けれども、気になるものをそのまま放置しておくのも嫌だ。その時、私はとあるフレーズに目を留めた。
『何も知らない子供が、気づけば大人になっていた。大人が何かと問われれば、答えるのはさぞ難しいことだろう。けれど、少なくとも、私の中で私は大人になっていた。』
なぜ、私の目がこのフレーズに留まったのかは分からない。でも、どうしてだろうか。このフレーズが私のことを言っているようでならない。この人が見た景色は一体どんなものなのだろうか。それを知る由はないが、少なくともそれは、この人になり変わるまでしないと見えてこない。なら、私がずっと夢見てきた外の世界も、私が見なければ、真実を語ることはできない。あの人の言うような世界かもしれないし、想像通りの世界かもしれないし。何にせよ、一歩足を踏み出さなければ掴むことができないのは明白だった。
「そうよ…単純だったのよ…。」
ならば、決心はついた。もう、留まらない。そうして、私は行動を起こすのであった。
・・・・・
空で照り映える恒星が、この小さな世界に光を灯し、命は、ゆっくりと体を起こす。そんな中で、黒を纏う男は闇から放たれ、この村をじっと見渡していた。ザッザと足音が近づいてくるのに伴い、男は顔をこちらに向けた。
「何だ。」
「お願いがあるの。」
「聞かん。他をあたれ。」
「私を外に連れて行って。」
「昨日も言ったはずだ。お前程度が行く場所じゃない。」
「そんなの見てみないと分からないじゃない。」
「いや分かるな。そこら辺の魔物の餌になって終いだ。」
「それでも私は見てみたい。」
「いい加減にしろ。」
私の体は簡単に宙に浮く。そんな私の目を彼はギロリと見つめた。
「お前が分かろうが分からまいが、そういう世界なんだ。大人しくこの村で暮らしてろ。」
「いえ、私は行くわ。」
「ふざけるな。」
「ふざけてなんかいないわ。」
彼は何度も止める。けれど、ここで呑んでしまえば、私の歩みさえも止めてしまう。だから、私は頑固にも続ける。身勝手で、鬱陶しいだろうが、諦めない。そんな私を見て、彼はさらに圧を増す。
「中途半端な覚悟なんざ捨てちまえ。夢なんざ持つな。自分を殺してまで叶える夢に、何の意味があるってんだ!」
「意味はある。」
「何だと?」
「私が見たかったものが見れる。それが残酷でも、無慈悲でも、それが真実なのよ。それだけで十分価値があるわ。何も知らないまま、この村で朽ち果てていくなんて、そんなの飼い慣らされた家畜と同じじゃない!」
「っ…。」
その瞬間、彼の目が見開かれた。怒りが頂点に達した、のではかった。それは強いて言うならば、動揺していると形容するのが適切だろう。言葉を詰まらせた彼を、私は真剣な眼差しで見つめ続けた。そして、しばらくの沈黙の後、彼は言葉を発する。
「…っしろ。」
「え?」
「勝手にしろ。」
「え、いいの?」
「2度も言わせんじゃねぇ。」
その瞬間、私の胸はワッと温かいもので満たされて、笑みが溢れた。その言葉が聞きたかった。ずっと、ずっと、昔から。
「やったぁ!それじゃ、準備してくるから少し待っててね。」
と、私は足早に家に戻る。
すると、私のものとは違う別の足音が彼に近づいてきた。
「あーあ。いいんですか、本当に。あの子まだ20にもなってないでしょうに。責任は自分でとってくださいね。」
「クソが。」
「じゃあ、何でいいなんて言っちゃったんですか。」
「お前に話す必要もない。」
「全く、相変わらず自分のことは何も言わないんですね。まあ、いいですけど。」
そうして、その男ハールメインも出立の準備をするため、一度、宿泊場所へ戻るのであった。
・・・・・
そうして、支度も整い、ついに出立の時がやってきた。門にはアイラの旅立ちを見送る村人たちが集まっていた。
皆一様に祝ってはいるが、その中には少し寂しそうな顔もあった。
「じゃあね、気をつけて行ってくるんだよ。風邪には気をつけてね。」
「元気でやれよ。」
「うん、絶対いい話持って帰ってくるから。」
「そろそろ出ますよ。」
「じゃあ、行ってきます!」
そうして、鞭が肌を打つ音が響き、馬車は雄叫び、動き出す。皆がそれぞれ、別れの言葉を叫んでいる。そんな彼らに私は笑いかけながら、、見えなくなるまで手を振り続けた。
「次はどこに行くんですか、ハールメインさん。」
「交易の盛んな港町ですよ。道中で商品を仕入れつつ。」
「楽しみです。」
「はしゃぐのもいいですが、シュタインバーグさんの忠告通り、ここからは何があるか分かりませんので心構えはしておいて下さいね。」
「…騒がしくなる。」
そんなこんなで私は、ようやく一歩を踏み出したのであった。
やっと村から出たよこの娘。