耐え続けるブロンシェは、幸せをつかめるのか
暗いお話です。 後半を大幅に変えました。2024/08/08
ポワッソン男爵家の娘、ブロンシェは虐げられて育った娘だった。
ブロンシェの母親は同じく男爵家の娘で、ポワッソン家とは家同士の結婚だった。それは互いに異論もなく、互いにそれなりの愛情をもって普通に夫婦として生活をしていたのだが、ブロンシェが生まれた時に、不幸にも母親が亡くなった。
それから男爵は男手一つ(実際には乳母や使用人が中心だが)で娘を育てていたが、ブロンシェが3歳になった頃、男爵は伯爵家の令嬢と再婚した。
彼女は意味もなく「先妻の娘」が気に入らず、完全にブロンシェを無視した。そのうえ夫人は男爵にもそれを強要し、男爵が少しでもブロンシェを気にしようものなら烈火のごとく怒り、喚き散らした。
そして再婚後すぐに夫人が身ごもり、長男のアズール、次男のヴェール、夫人の長女で男爵にとっては次女のオロンジュが次々と生まれた。
そして自身の子が生まれれば、この家に先妻の子など必要ないと、夫人は7歳になっていたブロンシェを地下室に閉じ込め、最低限の食事と世話だけを使用人に命じておいた。しかも男爵は夫人に押し切られ、彼女を助けることはできなかった。
それでも最初のうちは良かった。乳母がこっそりとだが世話を焼いてくれたのだ。食事も彼女が料理人に頼んで、簡単でも栄養のあるものを1日3回作ってもらい、乳母が運んでくれた。毎日髪を梳かしてくれたし、下着も毎日清潔なものを運んでくれた。
ドレスこそ目立つからと着られなかったが、質の良いワンピースを用意してくれて、毎日着させてくれた。地下は寂しいからと庭師に頼んで切り花を花瓶に入れて飾ってくれていた。
しかしそれも1年限りだった。それらの行為が他のメイドの告げ口で夫人にばれて、乳母は即日解雇となってしまった。今すぐに出ていけと言われた彼女は、自分の荷物を運び出すのがやっとの時間しかなかったのに、自室に用意してあったブロンシェ用の服や本、暇つぶしの刺繍セットなどを執事にこっそりと頼みこんでくれており、その日のうちに執事がこっそりと運んでくれた。
その時、そこに挟まれていた乳母からの手紙をブロンシェは、以後何度も読み返した。
『今はつらくとも、必ず幸せになれる時がやってきます。その時には必ずお嬢様に会いに行きますね』
乳母が差し入れてくれていた本の中に、そういうお話がいくつもあった。
例えば、令嬢が全寮制の寄宿舎に通っている間にいきなり家が破産してしまう。令嬢はそのまま寮の使用人として働くことになる。今までの令嬢仲間からはあからさまないじめを受け、使用人たちにも今まで偉そうにしやがってとやはりいじめられる。やった事のない炊事洗濯で手は荒れ、体はやせ細り、それでもそれに耐えていたら、自分を探していたという祖父(資産家)が訪ねて来て、元の令嬢としての生活に戻り、幸せに暮らしていく。
乳母はそういった内容の本を何冊も持って来ては、言ったのだ。
「お嬢様もきっと、このお話のように、幸せになれますよ」と。
乳母の後は使用人たちが世話を続けてくれた。乳母のような細やかな世話は無理だったが、朝昼晩の食事と、服と本などの差し入れはしてもらった。
服は「新しいものなど贅沢!」という夫人の意向を受けてたのと、一部使用人の意地悪で、使用人のお古が回ってくるようになった。それでもないよりはましだ。
それにそのポケットの中には刺繍用の糸が入っていた。あからさまには支援できないが、ブロンシェが少しでも時間がつぶせるようにと、好意的な使用人たちの配慮だった。
実際に時間が有り余っていたので、ブロンシェはそれを使い、まだ綺麗なワンピースや使用人たちのエプロンに刺繍を施した。
そして洗濯物の回収に来た使用人が、それを受け取る代わりに果物や本を差し入れてくれるようになった。その際に短時間の会話もできて、ブロンシェは乳母が居なくなった悲しみを紛らわすことが出来た。
1年ほどそうして過ごしていたが、それも夫人にばれてしまった。刺繍と読書自体は禁止されなかったが、使用人が余計な接触はしないようにと、夫人が選んだ少数の使用人のみが担当となり、ブロンシェに何かを運ぶ際には厳しい監視まで付くことになった。
さらには夫人の嫌がらせと腹いせで、食事は1日1回、パンとスープのみとなり、水だけは自由に使うことが許されたが、それ以外は口に出来なくなった。
使用人たちが着替えを手伝うことも、髪を梳かしてくれることも禁止された。ごみの回収だけはしてくれたが、掃除もブロンシシェがすることになったのだ。
掃除の仕方はこの1年で何となく覚えていたが、それでも自分がやるのとみているだけは違う。ホウキの持ち方もぞうきんの使い方もなっていない彼女に、使用人達が掃除道具を渡す時に、こっそりと絵を描いたり説明を書いた紙を渡したり、掃除のやり方の本を差し入れて、どうにかブロンシェは自分でも掃除ができるようになっていった。
そのうちに夫人の子供たちの教育が本格的に始まり、夫人はそちらに気と時間を取られ、次第にブロンシェにはかまわなくなったが、その頃には一部の使用人たちもブロンシェを軽んじるようになり、監視も付かなくなったことを良い事に、まるで小説のようにブロンシェに意地悪をするようにもなっていた。
ブロンシェは乳母に言われたとおりに耐えた。あの小説のように、耐えていればきっといつかは良いことがある。ここから出られる日が来る。それまでの我慢だと、本を手本として文句も言わずにけなげに耐え続けた。
たまに食事を忘れられても、文句の一つも言わずに読書と刺繍で時間をつぶした。
使用人に臭いと言われれば、冬の寒い日でも水がめの水で体を清めた。差し入れられる古着はどんどんと質の悪いものになったが、それも文句も言わなかったし、洗濯などしてくれないから、薄汚れた服でも長く着るしかなかった。それでも耐え続けたのだ。
そんな風に長年暮らすうちに、直接世話をしている使用人以外の全員がブロンシェの存在を忘れるほどに、彼女の存在は表に出されることはなくなってしまっていた。
**
「アントラシット伯爵家の息子と婚姻の話、ですって?」
「ああ」
ポワッソン男爵の書斎で、彼はデスクのイスに座って頭を抱えていた。部屋のソファには男爵に呼ばれた夫人と、その3人の子らが座っている。各自の前には茶が入れられているが、それに手を付ける前に男爵が話し出したのだ。それに長男のアズールが質問をした。
「父上、アントラシット伯爵家の長男は平民の娘と婚約しようとしたと聞きましたが。それとも他のお子さんですか?」
「いや、その息子だ。ヴェルムス君というそうだ。アズールは今18だったな。25歳のそのヴェルムス君を、伯爵が平民とは結婚させられないと大反対をして、その娘との婚約は破棄させたそうだ。だがそんな噂の立った令息など、どこの貴族の令嬢も結婚したがらない。だが早く結婚させないとまた平民を連れてくるか、下手をしたら家を出ていくかもしれない、という話になってな」
「それがどうして我が家に話が来たのです?」
夫人がティーカップに手を伸ばしながら男爵に尋ねた。男爵はしばらく視線を泳がせていたが、やがて諦めたように大きなため息を一つついた。
「実は結婚資金として、莫大な資金援助を提示されたんだ」
このところ領地内で天候不順による農作物の収穫減少だけでなく、川の氾濫や山崩れなどが多発し、その費用で男爵家の収入が激減していた。農作物が回復すれば赤字は回復できるが、来年の天候など誰にも分らない。しかも年頃の息子娘がいるのだ、彼らの正装やドレス代もばかにならない。金はあればあるだけ助かる。息子たちにはすでに婚約者もいるが、末娘にはまだ婚約者が決まっていない。良い相手を探すには、家の安定も条件となる。このままでは良い相手など望めないかもしれないのだ。
アントラシット伯爵家は、何とか息子を結婚させたいがために、金で手を打ってくれる貴族を探していた。そこにちょうど年頃で、婚約者のいない娘がいて、金にも困っているポワッソン男爵が候補にあがったのだ。
男爵家の事情は全員が知っている。長男のアズールは父親を手伝い始めているから、今年の資金繰りが厳しいことも分かっていた。そこに伯爵家からの資金援助の金額だ。父親に提示されたのは、自分が女だったらすぐさま結婚するだろう、というくらいの金額だった。
しかし夫人は納得しなかった。
「伯爵家はどれだけウチを馬鹿にしているのかしら。金で娘を売れですって?」
「あたしはいやですわ、お父様、お母さま!」
涙目のオロンジュはまだ15歳。社交界デビューもしていない。貴族の娘である以上、結婚に歳はあまり関係ないが、それでも10歳も年上の男性との結婚などしたくはない。しかも結婚の理由が愛ではなく金なのだから、したいわけがない。
「父上、確かに伯爵家から提示されている金額はオイシイですが、オロンジュとは歳が離れすぎています。それにそのヴェルムス様は、女関係だけでなく、人間的にいろいろと評判がよろしくない。そんな人物と無理に結婚しなければいけないほど、うちは落ちぶれていませんよ」
「まあそうなのだが、うちにはちょうど良い娘がいるじゃないか」
「ですから、オロンジュとは釣り合いませんし、妹を金で売るなんて、僕は反対です!」
「アズールお兄様……!」
「僕も反対です。金なら兄さんと僕とで何とかしますから!」
「ヴェールお兄様、ありがとう!」
オロンジュは二人の兄にしがみついた。兄二人はそんな妹をやさしく抱きしめている。
「誤解するな。私とてオロンジュをそんな男と結婚させようとは思っていない」
「そう言ったって、うちにはオロンジュしか娘はいないのですよ!」
「いるじゃないか。ブロンシェが」
「ブロンシェ……?」
「それ、だあれ?」
「そんな人いましたか?」
「まさか、父上、隠し子ですか!?」
夫人、ヴェール、オロンジュ、アズールの発言に、男爵はため息をついた。
「お前たち、本当に忘れているのか? 私の前の結婚相手との娘だぞ?」
「ああ、そういわれれば居たわね。そんなのが」
「おいおい……」
夫人は茶を飲みながら面倒くさそうに言った。その様子に男爵は大きくため息をついた。
「お前があまりにも彼女の存在を否定するから、なるべく話にも乗せないようにしていたが、あれも私の娘だ。この家でただ邪魔にされているのなら、結婚して家を出てくれればちょうどいいんじゃないのか?」
「そういえばいましたね。小さい頃に一度会っただけでしたから、すっかり忘れていました」
「僕は知らないな」
「私も!」
オロンジュが生まれてすぐに、ブロンシェが地下に幽閉されたのだ。当時5歳だったアズールはともかく、ヴェールやオロンジュが知らなくても無理はない。
「いるんだよ。お前たちの姉さんがな。あの子ならちょうど21歳で、伯爵の息子とも歳が近い」
「そうね、死なせたら外聞が悪いと無駄飯食わせているだけな邪魔な存在だから、追い出せる上に金が入るのならちょうどいいわね」
3人の子供たちはいつもはやさしい母親の辛辣な言い方と態度に戸惑った。彼らはブロンシェに対する母親の態度を知らないのだ。
「なら反対はないな? よろしい。ブロンシェを伯爵家に嫁に出す」
「オロンジュに影響がないのなら、勝手にすればいいわ。それに一人減ればその分の資金も浮くでしょう」
「そうですね……。評判の悪い跡継ぎがいるとはいえ、今の伯爵家は力も金もある。その家と親戚になっていれば、オロンジュの結婚相手も格上の相手を探せる。悪い話ではないと思います。お姉さまには申し訳ないですが、歳も近いですし」
姉とはいえほとんど会ったことがない相手だ。どこにいるのかも知らない。きっと外の屋敷ででも暮らしているのだろう。母親の言い方からすると、贅沢はできていないようだ。肩身の狭い思いをしているのなら、伯爵の夫人になれば、たとえ相手の性格が悪くても、贅沢な暮らしはできるだろうし、どうしても性格などが合わなければ離婚もできる。きっと姉もこの家にいるよりは幸せになるに違いない。
そう考えたアズールが賛成し、ほかの二人も反対する理由もなかったので、男爵は早速伯爵家に了承の返事を出した。
**
ブロンシェは7歳で閉じ込められてから、地下室の上部にある明り取りの窓からの光で生活をしていた。最初はろうそくが差し入れられたが、夫人が暗ければ寝ればいいと大反対したのだ。それゆえ日が昇ったら起き、日が沈んだら寝る生活をしていた。
最初は乳母がいてくれたから、それでも寂しくなかった。本もたくさん持ってきてくれたし、それまでの教育で文字も読めれば計算もできたし、刺繍もできた。乳母の時は外の世界を楽しめるようにとお話の本が多かったけれど、乳母が辞めてからは執事が教養を付けるようにと使用人に渡した本がほとんどだった。
それでもいつか、外に出られた時のためにと、ブロンシシェは独学でそれらを勉強し続けた。令嬢としてのしぐさも、本で学び続けた。その傍らで刺繍も続けて、これは使用人の間では大好評のレベルにまで達していた。
結局それでの物々交換は禁じられてしまったけれど、ブロンシシェは監禁生活でも腐ることなく、日々を送っていた。
ただ、将来幸せになれることだけを願って、毎日を過ごしていた。
そしてついにその日が来た。男爵が迎えに来たのだ。直接会うのは地下室に入れられる前以来。記憶にある父親と体形が少し違っていて戸惑ったが、その声が同じだったので男爵だとわかった。
彼は「お前の結婚が決まった。上で生活していいぞ」というと、部屋の悪臭に眉間にしわを寄せ、使用人にブロンシェを風呂に入れるよう言いつけ、すぐさま立ち去ってしまった。
それでもブロンシェは父親が覚えていてくれたことがうれしくて、使用人たちに連れられて地下室を後にした。
**
「お前がポワッソン男爵家の娘、ブロンシェか」
「はい」
結婚準備期間は3か月だった。長く婚約していればありえなくもないが、婚約承諾から結婚まで3か月というのは、貴族としては異例の短期間だ。その間にブロンシェは手入れのされていなかった肌や髪を整え、やせすぎだった体に多すぎる食事を与えられ、急遽仕立てられたドレスを5着ほど持っての輿入れとなった。
しかも二人がこうして顔を合わせたのは、結婚式の前日である今が初めてである。
そんな痩せすぎで真っ白な肌の色の彼女を、ヴェルムスは嫌悪感を隠そうともせずにジロジロと見た。しかも彼の隣には、貴族にはあり得ない健康的な肌色で、非常に肉感的な体の赤髪の女性が彼と腕を組んで立っており、こちらをニヤニヤと見ている。
使用人ではないし、顔も似ていないからきょうだいでもないだろう。あれは誰だろうと思いながら、仕立ててもらったシンプルなドレスに身を包んだブロンシェは、二人の前に立っていた。
「最初に言っておく。俺は確かにお前と結婚するが、お前と生活する気はない!」
「……どういう、事でしょうか」
小さすぎる声でブロンシェが問う。地下にいた間ほとんど話さなかったので、声が出にくいのだ。言葉のほとんどすら忘れていたが、それは3か月で何とか取り戻した。
そんなブロンシェに、ヴェルムスは腕を組み、フン、と鼻を鳴らして吐き捨てた。
「俺にはすでに心から愛する人がいる。だが家族に反対されて結婚できない。だから仕方がなく家族が選んだお前と結婚はするが、お前と夫婦になるつもりはない!」
ヴェルムスは『愛する人』の発言の時に腕に絡んでいる彼女と視線を合わせた。彼女もヴェルムスと目を合わせて微笑んだ。なるほどあれが本に出てきた愛人というものかと、ブロンシェは冷静に考えていた。
「……そうですか」
その返答に二人は面白くなさそうな顔をしたが、それ以外にどう返答しろというのか。夫婦になるよう言われてきたのに、仕方がなく結婚するだけだと断言されたら、怒るか受け入れるか困惑するしかないじゃないか。
それをわかっているのか否か、ヴェルムスは隣の彼女の髪をなで、口を寄せながらブロンシェに言った。
「お前には、仕方がなく俺の妻の称号はやるが、それ以外は何もやらないからそのつもりでいろ!」
「……」
そんなことを言われても、了承できるはずがない。ないが、反論が許されるようにも見えない。まあ愛人がいること自体は問題ないし、自由に生活させてくれるのなら、別に愛人がいても良いのかもしれない。
そんな風に考えていると、ヴェルムスはわかったな、と言いおいて彼女と二人で出て行ってしまった。
残されたのは使用人たちにも失笑されているブロンシェだけとなった。
**
結婚式専用の教会で上げた式と、伯爵家で行われた披露パーティは問題なく終わった。あんな暴言を吐いたヴェルムスだが、式中もパーティ中も穏やかにブロンシェを丁寧にエスコートして回ったのだ。あの女性が現れることもなかったし、両家の両親家族もそろって、表面上は和やかな時間が流れていた。
ただ、男爵家に挨拶をし、ブロンシェが伯爵と夫人、そしてその弟に挨拶をすると、あとは控室に居ろと言われてしまったが。
長年地下室で生活をしていたブロンシェは体力もなかったので、おとなしくそれに従った。
控室には軽食と飲み物が用意されていたので、使用人に手伝ってもらいながら、それらをいただいた。
あの地下室から出られたといっても、あの屋敷の中で生活をすることはなかった。すぐに敷地の一角にある小さな家に連れていかれ、そこに専任の使用人数名が付いてきた形だ。
そこで人並みの生活をするようにはなったが、今まで引きこもっていて見たこともない令嬢がいきなり現れたら、周囲が混乱する─おもにきょうだい達、特に妹のオランジュ─という理由で、外に出ることは許されなかった。
それでも、普通の窓のある部屋で、夜はランプが付く環境で、1日三度の食事とおやつももらえ、温かい湯の風呂に入れる。
子供の頃のように清潔な下着とドレスを身に着け、肌や髪の手入れもしれ貰える。
その3か月はとても幸せで、乳母の言った通り、幸せはやってくるのだなとしみじみと思っていたのだが。
『今はつらくとも、必ず幸せになれる時がやってきます。その時にはお嬢様に会いに行きますね』
結婚相手には愛人がいて、すでに邪魔にされている。これで乳母に会える日はくるのだろうか。
***
やがてパーティも終わり敷地内の客もいなくなると、ヴェルムスが控室にやってきて、ブロンシェを表面的にはやさしく連れて、伯爵家の隣の敷地にあるヴェルムスの屋敷へと戻り、その玄関ホールで多くの使用人が出迎えに立ち並ぶ中、態度を一変させた。
「夫婦ごっこはこれで終わりだ。お前の顔なんて二度と見たくもない!」
「えっ」
「そうよ。昼間は我慢してブロンシェ様の隣を譲ったけれど、もう限界。私たちの視界に入らないで!」
どこから出てきたのか、あの女性がヴェルムスの隣に並んだかと思うと、向かいのブロンシェを突き飛ばした。もともと体力も筋力もないブロンシェはあっさりと倒れこみ、したたかに尻を打った。痛みで動けない彼女を二人はさげすむような眼で見降ろした。そして周りの使用人たちに宣言した。
「いいか、私の花嫁はこのローズだけで、けっしてこの女ではない。名称としての妻ではあるが、名称だけだ」
「そうよ。この家の女主人はこのあたくしですからね」
ブロンシェと赤毛の女性、ローズの言葉に、使用人たちはただ頭を下げた。
「私の許可なくコイツと接触することも禁じる。いいな? よし、執事、この女を空き部屋に連れていけ!」
「は、はい」
この家の執事だという初老の男性が、少しだけ気の毒そうにブロンシェを見ながらブロンシェを助け起こした。そのしぐさはとてもやさしかったので、ブロンシェは少しだけ安堵した。ここで反論したって、誰も聞き入れてはくれないだろう。しばらくはおとなしくしていようと思っていた。
こちらです、という執事の声に痛みによろけながらおとなしく付いて行く。それを支えもせずに後ろからヴェルムスと彼女が腕を組んだままついてきて、さらにその後ろに使用人たちもついてくるというちょっとした行列となった。
ブロンシェが連れてこられたのは、屋敷の2階、家族棟の端の部屋だった。地下に監禁じゃないのなら良かったとこっそりと思っていると、執事がドアを開けた。
部屋にしては非常に狭いそこに、文机とベッドがおいてあるのが見える。窓は文机の上の方に小さい明り取りの窓があるだけだ。これは部屋というよりも物置だった部屋にベッドを置いただけではないか? そうブロンシェが思った瞬間に、後ろから強い力で突き飛ばされ、ブロンシェは部屋の中に顔面から倒れこんだ。
「いいか! お前は私の許可なくこの部屋から出るな! 出たら殺す!」
赤髪の彼女を片手に抱いて、ヴェルムスはブロンシェに人差し指を突き付けてそう言い放ち、そのままドアを閉めた。さらにはポケットから鍵を取り出して掛けてしまった。
「お前たち、いいか! 私の許可なくこの部屋に近づくな! この女の話もするな! 破ったら即解雇するからな!」
「は、はい!!」
**
ヴェルムスは、昔からわがままだった。自分の気に入らないことがあるとすぐに暴力に訴え、使用人などは関係なくてもその場にいたというだけで、八つ当たり気味に殴られけられた挙句、即座に解雇された。こんな息子が伯爵家を継いだら、もうこの家は終わりだ。誰もがそう思っていた。
そこに赤毛の女が現れた。名をローズという庶民の女は、ヴェルムスが街に出た時に出会ったそうだ。庶民的な服装で現れた上に、乱暴なふるまいをしていたヴェルムスを貴族とは思わずに、立ちはだかって説教したローズに、ヴェルムスは周りにはいなかったタイプだと一目ぼれした。
そしてローズに身分を明かしたうえで、結婚してほしいと言ったヴェルムスに面食らったものの、玉の輿だと内心で大喜びのローズは、即座に承諾した。
だが身分の違いはいかんともしがたい。父親と家族を説得するためにも、ローズの忠告に従い、ヴェルムスはしばらくの間、癇癪を押さえ、模範的貴族の息子としてふるまった。
最初は偽装だと疑っていた家族も、それが半年に及べば本当におとなしくなったのかと思い始めた。今まで放棄していた跡継ぎとしての勉強も再開し、父親を少しだが手伝うようになった。
解雇しまくっていた使用人も解雇しなくなったし、もちろん暴力も暴言もなくなった。
これもローズのおかげだと屋敷の多くが思い始めたタイミングで、父親にローズとの結婚の許しを貰おうとしたのだが、ここで父親である伯爵がそれを拒否した。
庶民との結婚は何があっても認めないと。どうしても一緒にいたければ、お前が庶民となって家を出ろと言ったのだ。
この発言にローズが怒った。庶民だと思って人を馬鹿にするなと。庶民だろうが貴族令嬢だろうが、同じ女なのだから、差別するなと。
だがその言い分は受け入れられなかった。貴族には貴族の社会があり、もしヴェルムスが子爵であれば、もしくは男爵でも下位であれば、それもあり得たかもしれない。だが高位である伯爵家では、認められない。それでも一緒に居たいのならば、ヴェルムスは庶民になるしかない。
そう言われて今度はヴェルムスは激怒した。今まで我慢していた分も晴らすかのように、激怒した。その喚き声を聞いて、伯爵は、やはり今までの態度は、ただの演技だったかとため息を漏らした。
本当にヴェルムスが改心したのであれば、この提案に乗るはずだ。提案に乗れば、跡継ぎは弟に譲るとしても、家から追い出すつもりはなかったのだ。だがまったく改心していなかった。
それにローズも、本当にヴェルムス個人を愛しているのなら、その身分に関係なく結婚の許可を喜ぶはずだ。だがローズはヴェルムスが貴族であることにこだわるようだ。
ということは庶民の女がヴェルムスをそそのかして、将来的に家を乗っ取るつもりなのだろうと伯爵は決めつけた。
そんなつもりはないというローズの言葉など全く信用しなかった。そんな女に入れあげた息子などみっともない。しかしこのまま廃嫡しても噂になるだけで、もっとみっともない。弟の結婚相手にも影響してくる。
だから、庶民になってローズと結婚するか、ローズときっぱり別れてどこぞの令嬢と結婚するかを選べ、1週間考える時間をやると言って、伯爵は二人を部屋から追い出した。
抑えに抑えていたヴェルムスは荒れた。自室の目についたものを破壊しまくった。カーテンや寝具などビリビリに破き、本やペンも放り投げた。
ローズも一緒になって破壊活動に参加し、二人が疲れ果てて倒れこんだ時には、無事なのはベッドだけ、という状態だった。
そこでローズは一計を立てた。
ローズとしてもここまで深入りしてしまっては、ヴェルムスから簡単には逃げられない。それにヴェルムスが庶民に落ちてしまっては、玉の輿を狙うどころか、使えないただの暴力男を押し付けられるだけになってしまうじゃないか。
ローズは提案した。伯爵の言うとおりに、一度別れよう。そしてヴェルムスは貴族令嬢と結婚する。そのあと、その女の代わりにローズが夫人に成りすませば良いと。
「そんなことをしても、顔が違うからばれるだろう」
「だから、まだ社交界に出ていないような令嬢を狙えばいいのよ。デヴュタント前とか、引きこもりとか。そうだわ、どこかの男爵家の令嬢が引きこもりだと聞いた記憶があるわ」
「引きこもり? そんな問題のある女なんて嫌だ」
「本当に結婚するんじゃないの。形だけよ。社交界に顔が知られていない令嬢なら、私が成り代わっても分からないでしょう?」
「そりゃ、外にはそうかもしれないけれど、屋敷は全員知っているわけだし」
「屋敷は大丈夫よ。あなたが、私がいる限りは今まで通り暴れないと約束すれば、みんな協力してくれるわ」
「そうかな」
「そうよ」
そんな適当な計画が本当に始まり、そうして白羽の矢が立ってしまったのがブロンシェだったのだ。
貴族名簿には載っているものの、一度も社交界に出てきたことのない娘。体が弱いという理由でデビュタントにすら出ていない。それとやはりデビュタント前のオロンジュ。こちらは元気なようだが、まだ若いからどうにでも『教育』できる。面倒くさいことだけを押し付ければ、二人は楽をできる。姉妹どちらが嫁に来ても、都合がいい。
そうしてこっそりと調査してみると、姉の方はどうやら家で虐げられているらしいと分かった。どこの家にも口の軽い使用人はいるのだ。
家族にも使用人たちにも軽んじられている彼女なら、結婚後にローズと入れ替わるのにちょうど良い。結婚後に両親が様子を見に来るようなこともないだろうし、ローズ嬢とやらも、立場に文句を言えるような娘ではないはずだ。
これは都合の良い人物を見つけられた、と二人はほくそ笑んだ。
父親にはローズが考えた通りの提案をした。
父上の言葉で目が覚めた。一緒に庶民として幸せになろうと言ったら、彼女に廃嫡された自分には興味がないと言われた。ただの金目当てだったのだ。父上の言うとおりだった。だからローズとは別れることにした。だが自分はすでに悪評が立ちすぎて、普通の令嬢は結婚してくれないだろう。
それで調べたところ、ポワッソン男爵家に、年頃を過ぎているのに婚約をしていない娘がいる。何か問題がある令嬢かもしれないけれど、自分のような不出来な男にはちょうどいいかもしれない。しかもあの領地は天候不順などで資金繰りに苦労している。こちらからの支度金を少しはずめば、結婚に乗り気になってくれるのではないだろうか、と。
さらに、あの土地は上手く活用すれば、今以上に豊かな地になり、収入増加も見込める。娘と結婚すれば、運営に多少はかかわれるだろうから、支度金はすぐに回収できる。
もともとが豊かな領地だ。男爵家とうちが一緒になれば、両方の徳になるに違いない。
そんなにうまくいくわけがないと当然言われたが、結婚話がうまくいかなければ次の娘を探すだけだ。結婚した後、運営がうまくいかなくても娘の旦那の暴走で済む。支度金をはずんで渡しているのだから文句は言わせない。
それでも文句を言ってきたら、その時には自分を廃嫡してくれてかまわないと、ヴェルムスは切々と訴えた。
伯爵はしばらく真意を探るようにヴェルムスを見詰めていた。ヴェルムスも視線を外さずに見返していたら、わかったと言ってくれた。そしてお前の本気を見せてもらおうと言って、ポワッソン男爵家に手紙を書いてくれた。そしてローズの予想通り、男爵家は結婚を承諾したのだ。
そして結婚式が終了したその日のうちに、邪魔な令嬢を部屋に閉じ込めた。そしてその鍵は目の付くところ、自分の執務机の引き出しに投げ入れた。
ローズはその自慢の赤毛を、ブロンシェと同じプラチナブロンドに染めた。一見してローズだとばれないようにだ。そして女主人としてふるまい始めた。
もとは庶民だし学もそんなにあるわけではないが、彼女は人の使い方が上手かった。飴と鞭をうまく使い分ける上に、ヴェルムスの癇癪を抑え込み、宥めすかして機嫌を取るのもうまかった。作戦が上手くいっているのもよかったのかもしれないが、結婚式以降、ヴェルムスが癇癪を起すこともなく、ローズとともに笑顔を見せるようになった。しかもヴェルムスが少しでも横柄な態度を見せると、ローズが厳重に注意してくれる。使用人たちもヴェルムスにおびえることがなくなり、仕事もはかどる。
あの見せかけの花嫁さんは気の毒だが、屋敷が明るく、仕事がしやすくなったほうが良い。
使用人全員がそう思ってしまったのだった。
そして皆にとっては、毎日幸せな日々が過ぎて行った。
***
結婚から半年後のある日、執務室で執事が運んできた手紙の束をチェックしてたヴェルムスの表情が険しくなったのを、近くで茶を飲んでいたローズが気が付いた。
最近は髪色を少しずつ赤に戻している。社交界にはまだ顔を出していないが、令嬢らしいふるまいをもう少し身に着けたら、それも挑戦してみるつもりだ。カップをソーサーにそっと戻したカチャンという音の後にローズは聞いてみた。
「あなた、どうなさったの?」
「……ポワッソン男爵が、娘の様子伺いの手紙を出してきた」
「ポワッソン男爵……? ああ、あの女の。えっ? 長年放置していたくせに、なんでなの!?」
「ここには『結婚して半年たつのに、娘から手紙の一通も来ないから心配している。元気なのか一度会いたい』と書いてある」
「今まで放置していたくせに、手紙なんて白々しいわね。でもそうね、一度くらい手紙を出させた方がよかったわね」
「ああそうだな。今からでも手紙を書かせるか」
「そうね。来訪を拒否するような文面を指示して書かせれば良いわ」
「それでも来るというのなら、拒否はできないな」
「そうね……。それならあの女を病弱設定にして、すぐに帰ってもらうようにすれば良いんじゃないかしら」
「それは良いな! おい、執事。あの女はどうしているんだ?」
聞かれた執事はきょとんとした。
「どうしている、とは?」
「あの女の存在を忘れるほどに姿を見ていないということは、俺の言うとおりに部屋に引きこもっているんだろう? 部屋で何をしているんだ?」
「さあ、私にはわかりかねますが」
「は?」
「はい?」
「なら、わかる使用人を連れてこい」
「使用人……は、ヴェルムス様かローズ様が選定したのでは?」
「は?」
「はい?」
「知らないぞ、俺は。お前が手配したんじゃないのか?」
「いいえ、ヴェルムス様が許可なく接触することも部屋に近づくことも禁ずると命令されましたので、わたくしは一切近づいておりません」
「は? じゃあ、彼女の世話は誰がやっているんだ?」
「ですから、ヴェルムス様かローズ様が選定した使用人なのではありませんか?」
「あたしは知らないわよ?」
「俺も知らない」
3人が3人とも顔を見合わせ、首を横に振る。その時、ヴェルムスの脳裏にあの日の映像が流れた。
彼は感情に任せてドアにカギをかけた。そしてその鍵は。
ヴェルムスは恐る恐る、目の前の机の引き出しを開けた。そしてそのまま目を見開いて固まった。その様子にローズと執事が近寄り、中を確かめる。
「鍵はあるわね。なら問題ないでしょう?」
「ちょっと待ってください。あの時ヴェルムス様は扉の鍵をかけましたよね。そのあと、どなたかに鍵を託されたのでは?」
「……俺は今まで、ここにカギがあることすら、忘れていた」
「え?」
「はい?」
沈黙が部屋におちる。
誰にも彼女の世話を命じていない。そしてあの日以来、机から動いていない鍵。
全員の顔から血の気が引いた。
最初に執事が、次にローズが、最後にヴェルムスが鍵を持って部屋を飛び出した。一目散に2階の廊下の端の部屋を目指す。その勢いに近くにいた使用人たちも何事かとついてきた。
最初に部屋の前にたどり着いた執事が、扉をたたきながらブロンシェを呼ぶが、返事は聞こえなかった。次に到着したローズが取っ手をつかむが、当然扉はびくともしない。そして最後に到着したヴェルムスが、震える手で鍵を差し込む。
ガチャン、という解錠の音が廊下に響いた。3人は無意識のうちに顔を見合わせる。そして執事が取っ手をつかんで、扉を開けた。
「うっ!」
「なに、このにおい!」
「ブロンシェ様!」
薄暗い部屋には強烈な悪臭が籠っていた。何かが腐ったようなその匂いは、最悪の想像を掻き立てる。口と鼻をハンカチで覆った執事が室内に飛び込んだ。
明り取りの窓からの光しかない室内だが、見える範囲に人の姿はない。執事は恐る恐るベッドに近づき、立ちすくんだ。
「おい、どうした! 女は?」
「……」
「おい!」
執事は返事をしなかった。早く知りたいのだが扉のところで足が動かないヴェルムスを置いて、ローズが執事の横に駆け寄る。そして、そのまま崩れるようにしゃがみこんだ。
「ローズ! どうしたんだ!」
その衝撃で体が動いた。とっさにローズのもとに駆け寄り、その体を支えながらベッドを見て、ヴェルムスも凍り付いた。
「……これは!」
「……ブロンシェ様、だと思われます」
ベッドの上にいたのは、干からびたブロンシェだったもの、だった。
***
結婚初日に部屋に閉じ込められてしまった。
婚約の話を聞いた時からおかしいとは思っていたのだ。
21歳で婚約もしていないのは、貴族としては珍しい話だ。男性ならばまだ良い。勉強したいからとかやりたいことがあるからという人々は少なくないのだが、婚約すらしていない令嬢は、健康に不安があるか、何かしらの問題があるからだ。そしてそんな令嬢を指名してくるような結婚は、何か裏がある。
実際に支度金が多いとは聞いた。それに相手に多少よろしくない噂があるからと言われれば、なるほど厄介者扱いの自分を家から出すための良い口実なのだろう、と予想はできた。
それでも、今までよりはまともな生活ができるだろうと思っていた。
だが結婚前日に「夫婦になるつもりはない!」と断言され、披露パーティにも途中までしか参加させてもらえないとなれば、まったく歓迎されていないことは理解していた。
その上に部屋に閉じ込められたのだ。
「知っていたわ。お話と現実とは違うって。不幸な子が必ずしも幸福になれるとは限らないって」
ブロンシェは自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
本の中ではどのお話も最後はめでたしめでたしだったが、そんなご都合主義はないと思っていた。それでも期待してしまっていた。
14年だ。あの部屋を出るのに、14年もかかったのだ。
ようやく出られたと思ったのに。
「あの赤毛の女性と仲良くなれれば、ここから出してもらえるかしら」
女主人になんてならなくていい。妻の座も女主人の座も、彼女に譲る。彼女の侍女になっててもいいし、使用人として働いてもいい。あの地下室で一通り身の回りのことはできるようになった。できないことも教えてもらえればなんでもする。何ならこのまま家を出たっていい。自分の名前が欲しいのならくれてやる。しばらくしたら死んだといえば、あの赤毛女性と大手を振って結婚できるだろうし、自分は庶民として暮らしていく方が、閉じ込められているよりはマシに違いない。
「ヴェルムス様と話が出来たら、そう提案してみましょう」
きっと明日の朝には使用人が来るだろう。その時にヴェルムスと話がしたいと伝えてもられば、きっと事態は改善する。
「改善しなくたって、今までの生活に戻るだけよ。ここでも刺繍糸と本くらいは貰えるかしら」
だが次の日、いくら待っても扉は開かなかった。
その次の日も、扉は開かなかった。トイレが我慢できずに、部屋の隅にあったバケツに用を足して、いらない服で蓋をした。
3日目、のどの渇きに耐えられず、ドアをたたいた。声は小さいから出しても聞こえないだろうが、人の気配がするたびにドアをたたいた。立ち止まった気配があるのだから聞こえているだろうに、誰も声をかけてくれることすらしなかった。
部屋にあった黄ばんだ紙に血文字で水をくれと書いてドアの下から廊下に出してみたが、反応はなかった。血文字が気持ち悪かったのだろうか。しかしペンの類がないのだから仕方がなかったのだが。
4日目、窓は小さいうえに高すぎてブロンシェには届かなかった。それでも机に椅子を乗せてみたり、クッションを積み上げてみたりして何とか開けようとした。無理だったので、椅子を窓にぶつけてもみた。
しかし窓を割ることすらできなかった。
その音も響いただろうし、ドアもたたいたが、誰も来てくれなかった。
5日目。水すらなくて意識がもうろうとしてきた。部屋も暑い。ブロンシェはベッドに横たわったまま、ドアをたたく気力もなく、ひたすら水が欲しいとぼんやりと考えていた。
6日目。まだ生きていた。だけどもう、体が動かなかった。
幼いころの、ばあやがそばにいてくれた頃の夢を見た。今となれば、あの時はまだ、幸せだった。
かすかに動く口から、かすかな声が出た。
「ねえばあや、いつまで我慢したら、私は幸せになれるのかしら」
***
廊下から覗き込んだ使用人が、悲鳴を上げたことで、ベッドわきで放心していた3人は我に返った。
「ちょっと、ヴェルムス、これ、どうするのよ!!」
「どうするったって……。だいたいお前がコイツと偽装結婚して、そのあと閉じ込めておけなんていうから!」
「あたしのせいだっていうの!? 賛成して実行したのはあんたでしょう!」
「うるさい! それに放置した執事が悪い!」
「はあ? わたくしですか!? 旦那様が接触を禁じられたから、わたくしはそれに従ったまでです!」
「それにしたって食事やらなにやらあるだろうが!」
「すべてを禁じたのは旦那様です! 旦那様なりの考えがあるのだろうと優先しただけです!」
「ああもう、そんなのどうでもいいわよ!! これ、どうすんのよ!!」
「どうするったって……」
「とりあえず、手厚く埋葬させていただかなくてはいけません」
「そんなことをしたら、コイツが死んだのがバレるじゃないか!」
「いずれはわかる事です!」
「ダメよ! 急死したことにしたくたって、これじゃあどんな言い訳も通じないじゃない! 私たちが放置して殺したってことになるわよ!」
事になるも何も、それが現実なのだが、3人はそれに背を向けてあれこれと議論という名の怒鳴りあいを続けた。
それを、ブロンシェは横目で見ながら、軽くなった体で空をすべるように、開けられた扉から廊下に出た。
廊下には多くの使用人が集まっていて、何やらワイワイと騒いでいる。でも誰も自分を見ていないから、これ幸いとそっと部屋から出たところで、使用人の声が耳に入った。
『あの扉、今まで開かなかったのに』
ブロンシェは振り向いた。そうだ。今まで閉じ込められていた。今は自分は外にいて、旦那と愛人が中にいる。
「ふふ、閉じ込めちゃおうかしら」
少しは自分の気持ちが分かるかもしれない。それに追いかけてこられないように。
ブロンシェはツイと動いて部屋の前に戻り、外側開きの扉をぐいと閉めた。
***
バタンという音、廊下の悲鳴、そして暗闇。それらがヴェルムス達にいっぺんに訪れた。
「ちょ、なんで閉めるのよ!」
「開けろ!」
2人に怒鳴りつけられて執事が扉に飛びついた。
「……開きません」
「はあ?」
「どけ!!」
ヴェルムスが扉を開けようとするが、びくともしない。
「もしかして、鍵がかかってしまったのでは!?」
「それならカギはここにあるのだから」
薄闇の中で、執事が絶望の表情を浮かべた。
「旦那様、このドアの鍵は、外側からしか開きません」
**
部屋の中から悲鳴が聞こえてくる。ドンドンと叩く音も。私の時には誰も何もしてくれなかったけれど、これだけ外に人がいるのだから、どうにかなるでしょう。
扉前で茫然としている使用人達を尻目に、ブロンシェは足取りも軽く、部屋から離れていった。
廊下は明るかった。その中をブロンシェは軽やかに進んでいく。
もうおなかも空いていないし、のども乾いていない。動かなかった体も嘘のように軽く動く。
ブロンシェは踊りながら廊下を進み、一度だけ通った道を逆に進んで玄関にたどり着いた。
あちこちに大ぶりの花束が飾ってある。ばあやが持ってきてくれたのは、かわいらしい花が1輪だった。
大きいのも良いけれど、小さいのはもっと良いのに。そんな風に思いながら、ブロンシェは誰に咎められることなく、玄関を出た。
出たところで、ふと思いついて玄関を振り返った。
「だあれも私を出してくれなかったんだから、みんなもその気持ちを味わったらどうかしら?」
ふふ、と笑うと、ブロンシェは笑顔で屋敷に向かってつぶやいた。
「たしか、旦那様はこう言ったわね。『いいか! お前は私の許可なくこの部屋から出るな! 出たら殺す!』」
そうしてブロンシェは今度は振り返る事無く、伯爵家の敷地から鳥のように軽やかに出て行った。
**
あたりが暗くなった頃、そろそろ仕事終了の使用人達が1階の控室に戻ってき始めた。
「ねえ、ちょっと、なんだか2階で騒いでいるけど、なんなの?」
「旦那様たちが例の部屋に閉じ込められているらしいわよ」
「え? なんで? っていうか、あの部屋に閉じ込められていたあの人は?」
「部屋を開けた時に物凄いにおいがしたっていうから……」
「そりゃそうなるわよね……。あの日から半年、あの部屋が開いたところ誰も見たことがないんだから」
「近づいたらクビって言われたら、近づけないわよ……」
使用人達は着替えたり、帰り支度をしながらこそこそと話をしていた。
閉じ込められた奥様には同情しかないが、どうしてやりようもなかった。自分たちだって生活が懸かっているのだから。それにきっと誰かが面倒を見ているのだろうと自分に言い聞かせていた。
「それにしても閉じ込められたって、どうやって?」
「なんか鍵が掛けられて開けられないみたい」
「鍵は旦那様が持っているのよね? あそこは外からしか鍵を使って開け閉めできないでしょう? それがどうやって外から鍵をかけたの? 誰かに預けたのなら、その人が開ければいいだけじゃない?」
「それがね、勝手に扉が閉まって、しかも鍵がかかってるんだって。鍵は旦那様が持っているから、どうしようもないみたい」
「何それ! 怖い! じゃあ旦那様たちはもう出られないってこと?」
「窓から外に鍵を出せば開くんじゃないかしら。いざとなれば扉を壊せばいいんだし。その手配に従僕が走り回っているみたいよ」
「それならいいけれど。まさか、あの部屋に閉じ込められていた方の怨念とかじゃないわよね」
「ちょっと! 怖いこと言わないで!」
「案外そうかもよ。私、今日はもう仕事終わったから帰るわ」
「え、上を手伝わないの?」
「いやよ。他の人に任せるわ」
「それもそうね。私も帰ろう」
しかし、彼女たちが裏口から出ようとしたその扉は、押しても引いても何をしても開くことはなかった。
その日以来、伯爵家の隣の敷地にあるヴェルムスの屋敷は、どこの扉も窓も、一切開かなくなったのだ。
***
息子宅に異常があったらしい、と伯爵の元に連絡が来たのは次の昼だった。食品配達業者が来たものの、裏口が開いていないどころか、使用人達も中に入れなくて困っているという。
皆で窓を壊そうとしたが、どこも開かないのだという。
「なんだそれは? それに、愚息は?」
「分かりません。中に人がいるのは確かなのですが、声も聞こえないらしいのです」
「なんだかよくわからんが、窓とドアを壊せ。中に人が居ようとかまわん」
「は、はあ」
だが何をしても窓も扉も壊れなかった。窓ごとき、石を投げればと使用人がぶつけた石は跳ね返って、投げた本人に直撃し、すぐさま病院送りとなった。
扉を壊そうと大きな木づちを打ち付ければ、柄が折れて木づちは後ろにいた使用人を直撃し、折れた柄が飛び散って打ち付けた本人も傷だらけになって病院送りとなった。
使用人ではだめだと職人を呼んできたが、けが人こそ出なかったが誰も開けることが出来ない。窓にはヒビも入らない。中に人がいるのはわかるが、声も聞こえないし、うっすらとしか見えないから誰だかも分からない。
屋敷内の食糧は、基本的に生ものは毎日の配達だが、野菜などの日持ちするものは多少在庫がある。中の人数が確認できないが、数日は何とか持つだろう。その間に何としてでも扉か窓を破らなければ、と伯爵自らが指揮を執りながら、あれこれと職人たちと手を尽くしたが、どこも一向に開くことはなかった。
3日たっても開く気配のない屋敷を前に、伯爵は結婚したばかりの男爵家の令嬢を心配していた。
結婚して落ち着いたように見せておきながら、花嫁を一切表に出していない。その割に女主人の話は流れてくる。もしかしたら、あの赤毛の平民を屋敷に入れて、男爵令嬢を閉じ込めているのではないか。それでもうまくいっているのならまだいい。
だがこの状況はなんだ。何故誰も屋敷から出られないのだ。これに男爵令嬢が巻き込まれているとなると、面倒なことになるかもしれない。伯爵はこっそりと唇をかんだ。
***
同時期、ポワッソン男爵家でも異変が起きていた。男爵夫妻が忽然と消えたのだ。朝食後、アズールが仕事のために父親の執務室を訪ねた時には、もう居なかった。執事も首をかしげており、そのうちに戻るだろうとアズールは執務室の自分用の机で仕事をしていたが、昼食時になっても戻ってこない。誰にも行き先を継げずに出かける事などありえない。
しかも行き先を知らないかと夫人の部屋を訪ねると、夫人も行方が分からなくなっていたのだ。
馬車も馬も屋敷内にある。門番に聞いても、夫妻共出ていないのが確認できた。
ならばどこにいるのか。
一気に屋敷内はざわめき、アズールの指揮の元、捜索隊が結成されて、屋敷の中を隅々まで探して回った。
しかしその日は見つからないまま夕食時間となり、暗い気持ちのままアズールと次男ヴェール、末っ子のオロンジュは食卓に着いた。
「お父様たち、どこへ行っちゃったのかしら」
「オヤジ達のことだから、明日になったら帰ってくるんじゃないか?」
「そうだと良いんだけどなあ。急ぎの仕事がないから良いけれど、難しいのはお父様じゃないと無理だから……」
「大丈夫だよ。これだけ家じゅう探していないんだから、コッソリ遊びに行っているんだよ」
「そういう人たちじゃあないんだけどなあ……」
「誘拐とかじゃないのよね?」
「二人を誘拐する利点はないしね。この時間まで身代金の要求とかもないから、違うと思う」
違う事を願いつつ、この日はこの時間で捜索が打ち切られた。
次の日、もしやと思った執事が地下室を見に行き、そこで夫妻を発見した。
男爵は恐怖の表情のままこと切れており、夫人は発狂して、ひたすら笑いながら泣いている状態だった。
その姿を見たオロンジュは卒倒し、気が付いた時には彼女もまた、奇声を上げるだけの存在になり果てていた。
困り果てたアズールとヴェールは、彼女たちを部屋に閉じ込めて、男爵の葬儀の手配をしようとした。
その瞬間だった。
すべての扉という扉が大きな音を立てて閉まった。閉まっていたはずの扉は、一度勝手に開いて、勝手に閉まった。バタンバタンバタンという大きな音が屋敷中に響き渡り、それに驚いた使用人の悲鳴が重なる。
何事か、と部屋から飛び出した人々だったが、それ以外の異常はない。
「なんだったんだ?」
「……わからない」
とりあえず外に出てみよう、と二人が玄関先へ向かうと、そこには女性が一人、立っていた。
考えてみればおかしなことだ。玄関には必ず護衛がいる。使用人がいる。なのに、彼らはおらず、女性が一人だけでいるなどという事はあるはずがない。
だがその時にはそれに気が付かなかった。とりあえずアズールが声を掛けようとしたとき、女性は二人を見て、ニコリと笑って、姿を消した。
「……え、なに、今の!?」
「姉さんか!?」
「姉さん? ああ、この間嫁に行った、先妻の? それがなんでこんなところに?」
「知らないよ!」
「それになんで消えたんだよ?」
「俺に聞くなよ! わかるわけがないだろう! とりあえず追いかけるぞ!」
だが、扉は開かなかった。窓も開かない。使用人達総出で窓に椅子やらなにやらぶつけたが、ヒビも入らなかった。
もちろん、外にいた使用人達も入ることが出来なかった。
指示を出す人が誰もいない状態で、彼らは途方に暮れるしかなかった。
***
伯爵の耳に男爵家の異変が入った時には、ヴェルムス達の生存はすでに絶望視されていた。
「一体何が起きたんだ……! うちだけでなく、男爵家もだと?」
「全く同じことが起きているようです。中に人の気配はあるものの、外からも中からも開かない。開けられない状態です」
「あちらも食料は無いのか?」
「唯一外にいた執事の話では、当家と食料庫事情は同じようです」
「執事が外にいた? 家の中が大騒ぎになっているときに、何故?」
「出られなくなる直前に、用事があって外にいた、そうです。彼が言うには、男爵夫妻が行方不明になり、地下室で見つかった時には男爵はすでに死亡、夫人は心を病んでおり、それを見たオロンジュ嬢も心を病んでしまったそうです。ご長男と次男がいろいろと指揮を執っている最中に突然扉が閉まって、中に入れなくなったと」
「ウチの使用人と同じことを言っているんだな。いったい何が起きているんだ……!!」
***
伯爵家はなんとしても中に入ろうと、領地中の大工や技術者を呼び寄せた。それでも開かなかった。
すでに中の食力は尽きているはずなのだが、時折人の気配がする。窓越しに人影が見えるから、諦めるわけにもいかなかった。なにせ使用人達も大勢中にいるのだ、その家族が諦めることを許さない。
最終的に呪いじゃあないかという噂が立ち上り、伯爵は司祭を呼んでみてもらった。
悪い気は感じませんが、といいながら司祭が聖書を読み上げるも、何事も起きなかった。
取り壊し覚悟で火をつけても、外側は燃えたが中は燃えないらしく、結局開かなかった。
何よりおかしいのは、使用人家族が気持ちだけでもと持ってきた食料品を扉付近に置いておくと、数時間で腐り果てるのだ。水など一瞬にして倒される。
それを見聞きした司祭はこういった。
「これは手に負えない」と。
****
屋敷が閉鎖されてしまってからも、なぜか中の人の気配は続いていた。だが話しかけても返答があるわけではない。ただ、ガラス越しに人影が映るだけだ。
だがそのせいで家族は諦めきれず、屋敷を取り壊すこともできずにいたが、閉鎖されてから1年後に鎮魂を行うこととなった。
司祭が聖書を読みながら聖水をふりかけ、印を結んでいる時のことだった。
バン!!! と玄関横のガラス戸が凄い音を立てた。参加していた伯爵や使用人家族の全員の目がそちらに向く。
ガラスには手が映っていた。両手をガラスに付けている。
「誰かいる! 生きている!」
「待ちなさい! そんなはずがない! あれは人間ではない!」
誰かの歓喜の声、それを咎める司祭の声がしたが、手は消えない。
次の瞬間、1階の見える範囲のガラスから一斉にバン! という音が響き、手が押し付けられた。
そして全員が耳を覆うほどの怪音が屋敷を揺らし。
次の瞬間、音と手が、一斉に消えた。
司祭も伯爵も、参加者もすべてが茫然と屋敷を見ていた。
***
男爵家も伯爵家離れも、開かずの屋敷となった。男爵家にはいろいろな人が開けてやろうと挑戦したが、結局開くことはなかった。
領地は王家預かりとなり、屋敷はそのまま敷地ごと封鎖された。
伯爵家は、莫大な支度金を男爵家に支払ったものの、その回収が出来なくなり、ヴェルムスの弟が頑張ったものの、次第に落ちぶれて行った。
最終的に伯爵家も王家預かりとなり、男爵家も伯爵家も消滅した。
それぞれの屋敷だけは残ったものの、取り壊すこともできず、朽ちていくのを待つだけとなった。
事の顛末を知る人がいなくなっても、屋敷はボロボロになりながらも、相変わらず誰も入れない奇妙な廃屋敷として存在し続けることとなった。
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