20・嬉しいこと
彼の背中は今日も暖かい。
お恥ずかしながら、旅を始めて10日目で、私は足をくじいてグライブにおんぶされております。うぅ。情けない。
アデューラの町から出て東に10日ほど歩いたところで、街道にはこれと言って特に何もない。何もないといってしまうと語弊はあるが、歩きやすく整備された道がただただ真っすぐ伸びていて、辺りには森と林と草原しかない。
時折、街道を歩く旅人とすれ違ったり、商人の馬車が通り過ぎたりするくらいで、いたって平和な街道である。
なんとなく、途中で盗賊だととか野党や山賊に出くわしたり、モンスターに絡まれたりするのかしら? なんて、どこぞのライトノベルか何かを連想するようなアクシデントでもあるのかと少し期待――喜び勇んで待ってはいないけど――のようなものあったのだけど、そんなものは全くなく。
アクシデントと言えば、2日ほど前に地面から急に染み出してきたスライムに足を取られ、その拍子に足をくじいたことくらいである。おかげで、今はグライブにおぶられているわけですが。
「そろそろ休憩するか」
グライブがそう言って街道を避け、横にある小さな森の入り口付近へと足を向ける。
見上げれば太陽は私たちの真上辺りに来ていて、そろそろお昼なのだと分かった。旅を始めてまた10日くらいだけど、グライブはきちんと朝・昼・夜を区切っているらしかった。
いったん背中から降ろされ、私は程よい大きさの石に腰を下ろす。すると、グライブは自分の荷物をいったん地面に置くと、私の前にひざをつき、私の靴を脱がせると、くじいた右足首に触れる。
「痛むか?」
グライブにそう聞かれて。
「それほどでもないよ。ちょっと違和感みたいなのはあるけど。大丈夫そうかな?」
私はそう言って首を横に振って見せる。
実際、今は本当にそれほど痛みを感じてはいない。ちょっと変な感じがするだけで、痛みはほとんどないといっていい。これなら自分で歩けそうだなとは思う。
「腫れは引いているな。だが、大事をとって今日は歩かないほうがいいだろう」
グライブはそう言うと、巻いていた包帯を取り、塗り薬をつけた後、また包帯を巻いていく。
もう、なんていうかね。
「あのさ、グライブ」
「ん?」
私が名前を呼べば、グライブは少し小首をかしげて私を仰ぎ見る。
「えっとね。それくらいなら自分でできるよ?」
やってもらっておいてなんだが、毎回、薬やら包帯やらを彼がわざわざやらなくてもいいのだ。やり方も分かったし、包帯くらい自分で巻けると思うのだけど、なぜかグライブは私にはやらせてくれない。
「ああ、そうだな」
私の言葉にグライブはそう言って頷いて見せるのだが、私の手当を代わろうという気配は一切なく、包帯を巻き終わると、ご丁寧に靴まで履かせてくれた。ちなみに、私の今はいている靴は、足首まで隠せる革の靴だ。生地がかなり柔らかく、履き心地がとても良くて、長く歩いていてもあまり疲れを感じさせないほどに軽い。
グライブが選んでくれた靴のよさを改めて実感していれば。
「君は自分で何でもできるだろう。だからこれは、君に触れる口実なんだ」
言葉の続きとばかりに、グライブがそう言って笑う。
「口実って、そんなの作んなくたって遠慮なく触ってもいいよっ」
そもそも、私の方こそ遠慮なくグライブにべったり触りまくってるはずだ。あれ? セクハラ? だって、モフモフなんだからいしかたない!
「遠慮なく、と言われてしまうと少し困るな」
グライブはそう言うと、おかしそうにクスクスと笑い。
「せっかくの君の靴が、要らなくなってしまう」
てなことを言って、グライブはお昼の準備を始める。
靴が要らなくなる。要らなくなる? ってことは、歩かなくてもよくなるってこと? それって……そこまで考えて、私は行きついた答えに自分の頬が熱くなるのを感じた。
だって、イコール、グライブがずっと抱っこするって意味でしょ? そうすれば、私は歩かなくてよくて、靴だって必要じゃなくなるんだから。
「あ、甘やかしすぎるのはよくないと思うっ」
そう反論するも。
「君は、もっと俺に甘えてもいいと思うぞ」
と返されて、私はますますむず痒いような恥ずかしさに汗まで滲んできてしまう。
狼さんの優しさの底を、私はまだ知らないようだ。恐ろしい。
さて置き、お昼は軽めのスープとたっぷりお肉のサンドイッチだった。慣れない私にグライブがいろいろと教えてくれながら、なんだかんだと彼が用意してしまう。まあ、お手伝いはするのだけど。彼の手際の良さで私が何かを手伝っている間に、大体の作業は終わってしまっていて、私が本当に手伝えているのかがひじょうに怪しいところだが。
軽くお昼を食べると、少しの休憩をはさみ、私はまた彼におんぶされてまた歩き始めた。言い訳させてもらうと、自分で歩くと言ったのだけど、グライブにやんわりと、笑顔で今日は安静にと言われてしまったので、しぶしぶだ。しぶしぶ。
旅を始めて思ったことだが、グライブはなんだかとても楽しそうに見える。
ゆっくりと左右に揺れる彼の尻尾が、何となしに軽やかに、ふわりと動いていた。犬のように千切れんばかりに振り回されている感じではないのものの、そこはかとなく明るい感情がこちらに伝わってくる。気がする。気がするだけなのだけども。
それにしても、ずっと私を背中にしょっていて、重くはないのだろうか? と、彼の後頭部を見つめる私に。
「そう言えば、まだこの先も野宿が続くのだが、辛くないか?」
グライブはそう言った。
「全然、平気!」
そもそも野宿なんて、この世界に来た初日から体験済みなんだから、なんかもう、今さらと言う感じだ。そんなことよりも。
「グライブこそ、私をおぶって歩くの大変じゃない?」
いくら彼の体が大きく、肉厚でがっしりしていてもだ。成人女性の平均体重を考えると、重くないはずはない。そう思って聞いてみるも。
「俺の相棒のほうが君より重いからな。俺からすれば、君は羽のように軽い」
さすがに羽は言い過ぎだろうとは思うけど、獣人の筋力ってそういうものなのか? とも思えてしまう。
ちなみに彼の相棒とは、うまい具合に彼の前に収まっている黒い大きな剣のことだ。
「グライブが力持ちってことなのかも?」
と、彼の背中で唸る私に。
「はははっ! 確かにそうかもしれないな」
グライブは楽しそうにそう言って笑った。
平坦な街道はどこまでも真っ直ぐに進む。
春の日差しは暖かく、空はどこまでも澄み渡り、鳥のさえずりが聞こえる。
のどかだ。なんだか知らないが、異世界に来たということを忘れてしまいそうなほどにのどかだ。
目的もあって旅を始めたはずなのに、切迫も焦りもなく、本当になんだか、全てがゆるーく感じてしまう。多分、グライブの存在は本当にすごいということなのだと思う。
守られている安心感とか、彼が私を絶対に見捨てないだろうという信頼とか、異世界でそれを得られることの幸運や、そう言った、様々なものに恵まれたおかげなのだと、改めて痛感する。
この世界だって、安全なのかと問われれば違うと言えてしまうくらいには、危険なことが結構ある。森の中には猛獣だっているし、得体のしれないモンスターだっている。腐食の森のように、そこに居るだけで死を招く場所も。
それに町にいるからと言って絶対に安全とは言い切れない。騙そうとする人や、傭兵ギルドで出会ったあの男たちのような奴らだっているのだ。絶対に安全で安心できる場所なんて、1人で探そうとしても簡単に見つかるわけじゃない。
グライブに出会えたこと、それが私にとって、何よりも幸運だったと思うのは、決して間違ってはいないと思う。
「最初に出会ったのがグライブでよかった」
ふと、私はそう呟いた。別にグライブに聞こえていようと、いまいと、どっちでもいいのだけど。心からそう思っている。
「俺も、最後に出会えたのが君でよかったと思っていたよ」
独り言に近い私のつぶやきを、彼は聞き流さずにきちんと答えてくれる。そんな彼の律儀さが、やはり好ましいと思うのだ。
「もう最後じゃないもんねっ」
これからも、グライブは生き続けるのだ。その命が燃え尽きるまで。
私の言葉にグライブはおかしそうにクスクスと笑い、そうだなと頷いて見せる。
「これからもたくさんの出会いがあるだろう。だが、俺は君以上の出会いはこの先ないと思う。君は奇跡のような人だ。俺に、失くした感情と、感覚の全てを取り戻してくれた。いくら感謝しても足りないほどだ」
改まってそう言われると、本当に照れくさい。
「わ、私の方こそ、感謝してるしっ。グライブに出会ってなかったら、最初の森で死んでるから、間違いなく!」
「それは分からないぞ? きっと1人なら、君は森を出ようと行動しただろうからな」
「どうかなぁ?」
結果論になってしまうが、確かに、行動はしたかもしれない。うまく森を抜けられたかとか、モンスターを避けられたかとか、あのゾンビドラゴンを回避できたかとか、そう言う疑問は残るけど。
きっと1人なら1人で、行動したのは間違いないだろうけど、どんな出会いや危険に遭遇していたかなんて、想像しても分からない。結果的に今があるだけで、もしもグライブに出会えていなかったら、もしかすれば、私はもっとひどい目にあっていたかもしれない。
もちろん、もっといい結果と言うものになっていた可能性もあるだろうけど、結局、想像の域を出ないのだ。
「でも、やっぱり最初に出会ったのはグライブでよかったって思うし、出会いを選べるとしても、やっぱり最初にグライブと会いたい」
私はやっぱり、そう心の底から思う。
そう思って素直な言葉を伝える私に、グライブはどこか楽しそうに小さく笑いながら。
「君の言葉は魔法みたいだな」
そう言って、少しだけ私の方へと顔を向ける。
「ん?」
私には魔法なんてものは使えない。もちろん、グライブだってそう言う意味で言ったわけじゃないだろうけど、そう思い首をかしげる私に。
「いつでも俺を喜ばせてくれる。言葉の魔術師かもしれないな」
なんて、グライブは優し気に目を細めて、また前を向いた。
そんな彼の言葉と笑顔に、私は照れくさいやら恥ずかしいやらで、もう自分の頬が赤くなっているだろうことが分かるくらい熱くなった。私の何気ない言葉でグライブは喜んでくれるのかと、そんなことを言われたら、私の方が嬉しくなってしまう。
きっと、グライブのほうが私を喜ばせる『言葉の魔術師』じゃないかと思った。
私が今、彼の背中にいることにちょっとだけホッとしてしまう。だって、熟れすぎたトマトのような顔を見られなくてすんだのだから。
異世界転生や異世界転移と言えば、ライトノベルでもありふれたジャンルで、そして多くの人に好まれるジャンルであるとも思っている。その理由としては、たくさんの人にモテたり――老若男女問わずハーレム――とか、最強の力が備わったり――なんか例にもれず異世界に行った人ってみんな強いよね?――とか、そう言うのが好まれる理由の1つでもあると思うけど、やっぱり、みんなファンタジーが好きなのだろうと思う。もちろん私もだ。
とは言え、残念なことに私は最強どころか、全然、弱っちい。魔法は使えないし、超人的な力だって持ってない。知識でも別に抜きんでた才能はないし、この世界はたくさんの異世界人が来るおかげで、ものすごく面白い発展をしていて、そこに私のような一般人が入り込んで世界を引っ掻き回すほどのことなんてできるわけもなく。
だけど私はこれでいいのだろうと思う。魔法も使えない普通の人。特別な力もなく、ただ頑張って毎日を生きるだけの、本当にありふれた。まあ『稀人』と言うのは、ちょっと特殊なのだろうとは思うけど。
夕方になるころまで歩き続け、やっと今日の移動が終わるころ。私とグライブは街道から少し離れて昼間とは違う森のそばの開けた場所でキャンプをすることにした。
春の日の入りは割と早く、時間にすれば夕方の4時くらいだろうか。急ぎの旅でもないのだからと、無理はせずに今日の移動を終えたわけだけども。何と言うか、グライブの体力がものすごい。
成人女性を1人おぶって、約7時間以上の道のりを歩ききってしまったのだ。しかも2日間も。早速、獣人と言うのは生体構造が人間とは別物だと改めて思う。疲れている様子さえうかがえないのだから、本当に人外だなぁ、と。人外ないんだけど。
人間と言うのは、獣人に比べると脆弱なのかもしれない。特別、私が弱っちいとは思いたくないだけではあるけど。
薪になりそうな木を拾い、荷物を置くと火を熾す。焚火を作るのは私の仕事にしてもらっている。せっかくグライブに教えてもらったのだから、それくらいはやりたいと言えば、彼は快く了承してくれた。
カバンからなじみ深い鍋と三脚を取り出して火にかける。
今日の夕食は、グライブが森の中で取ってきた山菜と干し肉を使ったスープと、少し硬めのパンだ。この固いパンをスープに浸して柔らかくしてから食べるのだが、味は悪くない。
「明日は『トバルの森』によって仕事を片付けたいんだが、大丈夫か?」
お肉の出汁がきいたスープを味わいながら、もぐもぐと山菜を咀嚼していれば、グライブがそう言って私に顔を向ける。
「もちろんいいよ。私にも手伝えることがあったら言ってね」
「ああ、助かる」
グライブは嬉しそうにそう言って笑ってくれる。
「足はどうだ?」
グライブにそう聞かれて私は自分の足に意識を向ける。昼間に感じた違和感はほとんどない。
「明日は歩けどうかも」
そう私が答えれば。
「そうか。一応、今日も薬を塗ってから休もう」
いや、もう大丈夫そうなんだけど。とは思ったけど、グライブが少し心配そうだったから、私は彼の言う通りにしようと思い頷いて見せる。
「それにしても、グライブってちょっと過保護、かも?」
それが嫌と言うわけではないが、少しだけ照れくさいというか、お腹のあたりがむず痒くなるのだ。ほんのちょっとだけ。
「そうか? 俺としては、君を尊重しているつもりなんだが」
うん。あれで? と言うツッコミは飲み込んだが、少なくとも、私を尊重してくれているだろうことはわかる。うん。なんとなく。だけど、まだ私に甘い気がするのだ。
これはもう彼の性格によるところが大きいのかも。と、私は無理やり自分に納得させるしかない。
「うん。でもね。もうちょっと私に厳しくしても大丈夫だよ?」
なんて言ってみるが。
「これ以上君に厳しくしたら、俺がストレスで胃に穴が開いてしまうかもしれない」
「いや、それはどうなのっ!?」
一応、グライブなりに私に厳しくしてるつもりだったのかと、私は逆にびっくりした。
この狼さんったら、本当に優しすぎるというか、ダメ人間製造機かと思うほどの包容力が眠っていらっしゃるのではないかと、若干の不安を感じたのは言うまでもない。
「狼や犬と言うのは、気に入ったものを隠してしまう習性があるんだ」
「ん? うん」
「大事なものは、誰にもとられないように、しっかりと隠して、ずっとそばに置いておきたい」
「う、うん」
「独占欲がとても強い生き物だともいわれている」
「つ、つまり?」
「――さて、そろそろ寝る準備をしようか」
「えぇっ!? つまり、どういうことなのっ!」
と言う私の質問に、グライブはただにっこりと微笑むだけで、とっくに食べ終わった器をかたずけ始めてしまった。いつの間にか鍋の中身もすっかりなくなっていて、いつの間に食べ終わってしまったのかと、面食らう私だが。
グライブに促されるまま私は寝る準備をしつつ、なんとなくグライブの言いたかったことを考える。
すっかり日が落ちれば夜はまだ寒い。春もまだ半ばだということを考えれば、夏の気配はまだ遠く、身近には感じられない。
洗った鍋に水を入れて、また鍋を火にかけるとそのままお湯を沸かす。
「リオ、おいで」
寝る準備が終わり、いざ寝ようと薄手の毛布をカバンから取り出した私に、グライブがそう言って手を差し出してくる。
私は誘われるままグライブの手を取ると、彼にやんわりと手を引かれて、胡坐をかいていた彼の膝の上にちょこんと座らされた。まるで彼に包まれるようなこの格好に、さすがに馴れ始めた自分のいるのだけど、やっぱりちょっと恥ずかしい。
そしてふと、先ほど彼の言った言葉に、自分なりの答えが出た気がして、彼の顔を見上げると、丁度、彼と目が合った。
「もしかしてなんだけど」
「うん?」
犬や狼が大事なものを隠したがるって話は、大まかに言うと彼も狼で、つまり。
「グライブは、私のことをもっと甘やかしたい? って話?」
そう言うことなのかと、首をかしげて見せる私に、グライブは両肩を揺らして楽しそうにクスクスと笑う。
「君は、本当にかわいいな」
そう言って、グライブは私の首筋に口を滑らせて、ぺろりと舐め、そして。
「ゆっくり休むといい」
そう言うと、グライブは私を隠すように、その両腕の中にしまい込む。
私の心臓が痛いぐらいにドクドクとざわついていた。
「お、おやすみ」
こんな状態で寝られるかっ! と言う言葉さえ飲み込んで、私は意味のないことを頭の中で繰り返し考えていた。明日の天気のこととか。明日の朝ごはんのこととか、そう言ったまったく関係のないことだ。
そうでもしないと、頭がパンクしてしまいそうだった。
少なくとも、犬の愛情表現は知っているから。
大好きな人を抱きしめるための両手がない代わりに、彼らは全力でくっ付いて、いっぱい舐めるのだ。
大好きだよと言う言葉が話せない代わりに、自分にできる精一杯で表現してくれる。
大好きで、大好きで仕方ないよと、そう伝えてくれるために。
ここから先は出来上がり次第更新します。