19・旅立ち
暖炉で暖められた部屋は外とは違い眠くなりそうなほどにぬくぬくである。そんな心地よいリビングで、暖炉の前に敷いてある毛足の長いラグに座り、私とグライブは地図を広げて今後の予定を話し合っていた。
「俺たちが今いるのはここ」
そう言うと、グライブは『マルベスク王国』と書かれた地図の北側を指さした。そこには小さく『アデューラ』と書かれている。
今、見ている地図は、世界地図と言うには小さかったが、それでもだいぶ大きな地図であるのは間違いなかった。世界地図を十字に4分割したうちの1枚であり、その中で言えば、マルベスク王国は世界地図の右上にある大きな国だ。
「基本的には本街道を通って『イルルカン』と呼ばれる精霊の国に行くのが目的だ。とは言っても、俺たちの向かっているのは『イルルカン』の入り口にある『新緑の大森林』と呼ばれるところだな」
グライブはそう言いながら2枚目の地図、4分割したうちの右下の地図を並べて、地図の真ん中より下の方に描きこまれている大きな森を指さした。
「大きな森だね。でもこの色分けされてるのってどういう意味なの?」
地図上の大きな森は『イルルカン』と大きく書かれているのだけど、その大きな森はさらにいくつかの色で分けられている。
私には単純に色分けされた地図と言うのは、分かりやすく国分けのイメージがあるのだけど。
「ああ、それはそれぞれ管轄する族長が違うからだ」
「うん? でも1つの国なんだよね?」
「そうだな。イルルカンはちょっと他の国とは違う態勢を持っていてな。ここまで大きな森となると管理がとても大変なんだ。だから管轄をわけ、それぞれ独自の管理体制を形成している。小さい国がいくつも集まった連合国と考えると分かりやすいかもしれないな」
グライブの説明で、なんとなくアメリカを思い出した。
あの国って、確か大きな国ではあるけど州ごとに独自の法律とか生活文化があったような気がする。つまりイルルカンもそう言う感じなのかなと。
私は地図を眺めながら、目的地である森の一角から地図をさかのぼり、様々な町や街道の名前を確認していった。知っている名前などありはいないのだけど、一体いくつの町やら村やらを超えるのだろうかと、単純に気になったからだ。
そして、ふと地図の端っこに目が留まる。
「グランダル王国……」
そこには大きくそう書かれた場所があった。
マルベスク王国の横に位置する次の国が、まさにグランダル王国で、私は少しだけ複雑な感情でその文字を眺めてしまう。地図上とは言え、これほど近い場所にあったのかと。
もっと遠い場所なのかと思っていたのに。
地図で確認すれば、マルベスク王国から真っすぐ東に進むと、どうしてもグランダル王国を避けて通ることができないとわかる。
(なんか、微妙)
すると、ふいにグライブが私の頭を撫でつけた。
少し驚きはしたものの、私は『何事?』とグライブに顔を向ける。すると彼はいつも通り優しげに微笑んでいて。
「もう終わったことだ。君が終わらせてくれた。だから気にすることはない」
そう言って、頭を撫でていた手を私の頬に滑らせて、優しく何度も撫でてくる。
(ズルいんだよなぁ。こういうところ)
少しだけ、いやな気分になったのは事実だ。だけどグライブが、私の嫌な気分を簡単にはがしてしまう。本当なら、もっとあなたが気にしてもいいことだと思うのに、もう終わったことだと軽く流してしまうのが、やはりどこか気に入らない。
それでも彼に撫でられるのが気持ちよくて、私は自分から彼の手に頬を摺り寄せた。
そうやって他人ばかりを甘やかすのはどうだろう。とは思っても口には出せなかった。何しろ一番甘えているのは私なのだから。
数日が過ぎ、旅の準備も大体終わった。
必要な荷物をまとめ、グライブのマジックギアを手入れするための道具も持って、いつでも出る用意はできている。
暦はすっかり春を指してはいるけど、まだ朝晩は肌寒い。とは言え、お祭り以降は日中の暖かさに春の匂いを感じ始めていた。しばらくはもう、暖炉に火を入れることもないだろう。
部屋の掃除を終わらせてリビングに入ると、キッチンカウンターにある椅子に座り、グライブが何かをしていた。結構、集中しているようで私の中にイタズラ心が湧き上がる。
まあ、ちょっと驚かせてみようかと、私は足音を立てないようにこっそりとグライブの背中に向かい、何にもないところで足を滑らせ、盛大にグライブの背中に体当たりをしてしまった。
「どうした?」
と、少しだけ驚いたような声で、グライブが少しだけ顔をこちらに向ける。
「こ、こけた」
本当は驚かせようとしただけなのだが、自分自身がこけたことに驚いた。しかも何もないところで。
グライブも私の予想とは違うけど、驚いてくれたようなので結果オーライ?
「君は本当に目が離せないな」
なんて、グライブが小さくフフッと笑う。非常に恥ずかしい。
私は彼の背中にギュッと抱き着いて、恥ずかしさを何とかごまかそうと頑張るが、それは無理な相談だ。恥ずかしさで自分の頬が熱くなる。
それにしても、本当にこの背中は暖かい。
穏やかで力強い心音は私を落ち着かせてくれる。私は彼の背中が大好きだ。
「何してたの?」
大きくてがっしりした彼の背中は私がタックルをしたくらいでは微動だにしない。私が寄り掛かったくらいでは、彼の行動を妨げることもできないだろう。
「ああ、ハンターギルドで請け負った仕事の確認をしていた」
彼がそう答えると、こちらに振り返りそうな気配を感じて私は彼の背中から離れた。すると予想通りグライブは私の方へと振り返り、突然、私の両脇に手を入れたと思えば、軽々と持ち上げて、私を自分の膝に座らせた。
「イルルカンに行くと言ったら、こんなに仕事を押し付けられてしまったんだ」
そう言いながら、グライブは20枚ほどのハガキサイズの紙の束を私に見せてくれる。が、それどころではない!
なに、今の。ひょいっと軽く持ち上げて、しかも自分の膝の上に座らせるだとっ!
子供扱いを受けているといえばそうなのだが、何かのご褒美だろうかと勘違いしてしまいそうになる。
彼の息遣いを感じるこの距離感。大きな彼に包み込まれるような安心感。フワフワな彼の体毛が私の頬をくすぐるたまらないモフモフ感。どれをとっても私の頭がパンクしそうで、頭の中はぐるぐると無意味な思考で回る。
いや、うん。抱きしめられたことだってあるはずなのに、変に意識してしまうと途端に私がポンコツ過ぎる。
「期限は特にないものばかりなのだが、あちこち寄り道しなくてはいけなくなってしまってな、予定より到着が遅くなりそうなんだ。リオはそれで困ったりはしないだろうか」
グライブが何か話しているのはわかっているのだが、彼の話が耳に入ってこない。
「リオ?」
そう言うと、私の顔をのぞき込むようにしてグライブが私に顔を近づけてきて、私はびくりと肩が跳ねる。
「はいっ!? なにっ!? 聞いてなかったっ!」
びっくりしたように体が固まってしまう私に、グライブは耳をぴくぴくと動かして、そっと私の耳元に口を寄せると、指先で私の胸の上をトントンと軽く叩いた後、小さな声で。
「小鳥のような音が聞こえる。どうして緊張しているんだ?」
甘く囁くようにそう言った。
そのとたんに、しびれるような感覚が私の脳を駆け巡り、全身にゾクゾクっと言い知れない快感を連れてきた。それは、今までに感じたことのない類の気持ちよさで、彼の低い声がとても官能的で。
腰に来た。なんか。
私はたまらず彼の胸に縋り付くようにして寄りかかり。
「グライブって、なんかやっぱりエロイ」
と、呟いてしまったが。
「そう言われたのも初めてだ。君は俺に色々な言葉をくれるんだな」
グライブはそう言うと、いつものように優し気にくすくすと笑って見せるだけだった。
そんな彼の反応に、こういうのを肩透かしと言うのではないかと、ちょっとだけグライブに対して不満を持ってしまったけど、その不満が何に対しての不満なのか、自分自身でもわからないものだから、結局、私は彼に文句の一つも言えずに終わってしまった。
旅を始めればしばらくはみんなに会えないね。と言う話をこの間、ドクのところでしていたら、その時、一緒に居たサンタナさんがじゃあ女子会しよう! と言い始め、今日は朝からモニカさんのお家にお邪魔している。
なんと言うか、突然お邪魔しちゃって大丈夫なのかと心配していた私だったけど、以外にも、モニカさんとジェリエルさんは少し驚いただけで、快く迎え入れてくれた。
ジェリエルさん曰く。
「サンタナが突然、押しかけてくるのはいつものことだからな」
だそう。せめて、前もって手紙とか送ってあげてほしいと思ったのはここだけの話。
エルディース夫妻のお家は町の中心から少しだけ離れた住宅街の一角にあった。
こじんまりした2階建ての建物で、明るい緑色と綺麗な黄色がグラデーションを作っている屋根が特徴の小さな庭もある可愛らしい印象を受ける家だ。
庭にはジェリエルさんが趣味でやっているハーブの畑があったり、綺麗な花壇があったりと、手入れが隅々まで行き届いている。
家に入れば、廊下があって奥には2階に上がる階段が見えた。その階段の脇に扉があって、その扉を抜けるとリビングになっていて、調度品は木目の美しい木工細工の家具で揃えられ、全体的にホッとするような空間に仕上がっていた。
淡いオレンジ色の2人掛けソファーには、可愛らしいオレンジと黄色のクッションがあったり、可愛らしい長机にはレースのテーブルマットと、水色の花瓶に白とピンク花が活けられていたり、何とも柔らかい雰囲気が溢れている。
モニカさんに勧められるままソファーに腰を下ろし、ジェリエルさんが作ったというハーブティーと、モロン――オレンジに似た柑橘系のフルーツ――のタルトをいただきつつ、早速、女子会が始まった。
「それにしても、もう旅に出るんだぁ。もっとのんびりすればいいのに」
モニカさんはそう言うと、早速タルトに手を伸ばし、フォークで切り分けて欠片を口の中に放り込む。
「まあ、自分の家に帰りたいと思うのは仕方ないことよ」
ハーブティーを一口飲み込むと、サンタナさんがそう言ってカップをソーサーの上に置く。
「そりゃあ私だって分かるけどぉ。リオって、グライブにすっごい懐いてるし、ずっとグライブと一緒に居ればよくない?」
なんて、どこか茶化したような意地悪い顔で、モニカさんがニヤリと笑って見せる。
「いやいや、私を犬みたいに言わないでください。確かに懐いてますけど」
私がそう答えれば、サンタナさんとモニカさんはおかしそうに笑い、窓際に置いてあった安楽椅子に座って、本を読んでいたジェリエルさんもくすっと小さく笑っていた。
「リオって、自分が納得できないと気が済まない性格よねぇ。生命の犠牲の儀式の時にも思ったけどぉ」
と、モニカさんは苦笑いを漏らす。そう言えば、確かにあの儀式のときは、モニカさんは止めてくれたんだったなと、思い出した。
自分では、自分が納得できないとダメみたいな、そんな頑固な性格はしていないつもりだけど、でもやっぱり、自分の目で見て、聞いて、その上で納得できないと、きっと後で後悔するのは自分じゃないかと思ってしまう。そう考えるとある程度は、やっぱり自分で行動したいと思ってしまうものではないだろうか。
「結果がどうあれ、リオが納得するまでやったらいいと思うわ」
仕方なさそうにそう言って、サンタナさんは笑う。
「でも、いつでもこっちに戻ってきていいんだからね? 辛くなったり、休みたくなったら、また私たちとこうしてお茶会を開けばいいじゃない? 帰れるなら家に帰っていいし、帰れなくても、この町に戻ってくればいいわ。私たちだって、グライブだって、あなたのことを最後まで支えてあげるからね!」
モニカさんは私の左手をぎゅっと掴み、力強くそう言った。
「うん。ありがとう」
本当に、グライブの周りには優しい人ばかりが集まるなぁ。なんて、心に染み入るほど安心して嬉しい気持ちがわく。1人だったらきっと、心細くて泣いていたかもしれない。頑張ろうと思えるのは、周りの支えがあるおかげなんだと、私は心から関わってくれるみんなに感謝していた。
「ところで、グエンディは誘わなかったの?」
と言うモニカさん、サンタナさんは飲んでいた紅茶のカップを置き。
「昨日から仕事でしばらく帰らないって」
そう答えた。
グエンディさんに会えないのはちょっと残念ではあるけど、こうしてみんなでおしゃべりをするのは楽しく思う。
「グライブは?」
と、今度はモニカさんが私に顔を向けて聞いてくる。
「今朝から害獣駆除のお仕事で街道まで行ってますよ。帰ってくるのは夕方くらいかな?」
そう私が答えれば、そっかぁ。とモニカさんは納得して頷いて見せる。
グライブの仕事自体は昨日のうちに入っていたものだけど、期限的にも余裕があるので今日の昼間に片付けると言ってグライブは朝からいないのである。
「じゃあお昼はうちで食べてきなよっ。ジェリのご飯めちゃおいしいからっ!」
モニカさんがそう言って、笑顔で昼食を勧めてくれるが。
「急なのにいいんですか?」
突然、来てしまってる手前、誘われるまま頷ていいものか困ってしまう私に。
「気にしないで食べていくといい。サンタナに任せると、カロリーバーで終わりそうで心配だ」
なんて、逆にジェリエルさんに心配されてしまう始末。本当に、サンタナさんの普段の食生活ってどうなっているのだろうかと、私の方まで心配になってきた。
「ユーデスもジェリもなんなのっ。きちんと食べてるわよっ! 果物とかっ!」
ジェリエルさんの言葉にそう反論するサンタナさんだが、果物以外は、本当に栄養ドリンクとカロリーバーくらいしか口にしてないのかと、なぜか不安な気持ちになってきた。
「食事にはバランスと言うものが必要なんだぞ?」
呆れたようにそう言って両目を細めるジェリエルさんに。
「バランス栄養食なんだから問題ないじゃないっ」
そう返すサンタナさん。
「私の認識が合ってるなら、それって『補助』食品なんじゃない? 基本的な食事のバランスを考えたうえで、足りない分を補う的な」
そう思わずツッコんでしまう私に、モニカさんとジェリエルさんが口をそろえて『その通り』と頷くものだから、私は心配せずにはいられず。
「ちゃんとご飯、食べましょう」
わりと真面目に、サンタナさんにそう言って私は顔を向ける。
「うっ。た、食べるわよっ! 食べます! ちゃんと食べるから、そんな残念なものを見るよな目を向けないでっ!」
サンタナさんがそう言って、両手で自分の顔を覆うのを見ながら、私たちは声を出して笑ってしまった。
きっと、サンタナさんは仕事が好きすぎるんだろうと思う。だから、つい食事をおろそかにしてしまうのだろう。それだけ夢中になれる仕事をしているのだと思うと、少しうらやましいという気持ちも出てくるが、実際、自分がそう言う生活ができるかと言われれば、無理だと言える。
その後は、お昼をごちそうになり、夕方近くまでみんなでおしゃべりを楽しんで、私は帰路に着いた。
そしてついに出発の朝を迎える。まだ冬の名残を見せる早朝。
みんなと過ごす日々は楽しくて、とても暖かい気持ちにさせてくれた。離れるのはとても寂しくて、それでも私はまだ足を止めるわけにはいかなかった。
答えはまだ出ていない。この先何が起こるかもわからない。何を知ることになるのかも、そして、家に帰れるかも分からない。
だけど、何もしないで諦めるわけには行かないのだ。後悔しないためにも。
私とグライブはしっかりと旅支度を整えて、町に背を向ける。
「行くか」
グライブにそう促されて、私は最後に町に顔を向けこの光景を目に焼き付けようとしていた。
(ここに戻れるかもわからないし……)
この世界に来て、もう2年と言う月日が経っていた。時が過ぎるのは本当に速いものだと思う。
「行こう」
私は町に背を向けると、しっかりとカバンの紐を握り締めて、グライブの横に並ぶ。
今度は一人じゃない。隣にはグライブがいて、旅の目的も終点も分かっている。
後ろ髪が引かれる気持ちがないといえば嘘になる。だけど、それ以上に今は進むしかないというのも分かっていた。
今の私は、宙ぶらりんなのだ。両極端な気持ちのせめぎあいで、何かを考えなければならないと分かっていて何も考えられなくなるような。
私の『帰りたい』と言う気持ちが消えたわけでも、比率が小さくなったわけでもない。
言わばこれは、前に進むための大事な『儀式』とも言えるのではないかと思う。
不安はあるが、きっと大丈夫だ。
私は自分の一歩前を歩く狼の背中を見上げる。大きくて広いその背中は逞しく、どっしりとしていて、私の不安なんてものともしない力強さを感じる。
「先は長い。無理はするなよ。疲れたらちゃんと言ってくれ」
グライブはそう言うと、私に振り返って笑みを見せる。
「大丈夫。ちゃんと言うから」
大丈夫、無理はしない。
私はそう答えて同じように笑って見せた。
すると、グライブは優しく私の右手を掴み。
「今度はちゃんと、手をつなげるな」
そう言って、どこか嬉しそうに私の手を握る。そんな彼の言葉と行動に、私は腐食の森でのことを思い出した。触れることさえ許されなかったあの呪いのことを。そう考えると、なんだか無性におかしく思う。あの時は本当に必死だった。私自身も余裕なんてなくて。だけどもう、服の裾を持たなくてもいいのだ。だって、彼はもう自由になったのだから。
私は彼の手を強く握り返して、グライブを見上げた。
太陽のような金色の瞳と並ぶ赤い瞳は、どちらにしろ太陽の色を映していると思った。朝のまぶしい金色と、夕焼けに染まる赤色。そのどちらもが彼らしい温かみのある情熱的な色で。
彼がそばに居てくれるなら、きっと私は何があっても大丈夫だと、根拠はないけど、そう確信にも似た予感があった。
だって、太陽がそばに居るのだから。




