1.優しい狼とおかしな人間
固有名詞とは、個を表す大事な言葉だ。だから最初にするべきことは。
「えっと、私。私は大槻 里桜って言うの。あ、名前ね。里桜でいいから」
やはり自己紹介だと思うのだ。
人間と言う大きな枠ではなく、『大槻里桜』と言う、個体であることを私は全面に主張したい。そう思って、名乗ってみた。相手がどんな奴かもわからないから、せめて、少しでも、自分の生存率を上げるために。
目の前のゾンビは、私の自己紹介にやはり、どこかおかしそうに小さく笑う。
「リオか。いい名前だな。『オオツキ』と言うのは珍しい響きだが、家名なのか?」
そう聞かれたので、私は素直に頷いて見せる。
「そうか。俺はグライブだ。人狼のグライブ。まあ、この姿ではゾンビと大差ないだろうが」
ゾンビ改め、グライブと名乗った彼が、皮肉気に笑ったのを見て、私は少しだけ気まずい気分になってしまった。
自分でゾンビと大差ないなんて言う辺り、彼が元から今の姿と言うわけではないのだろうと分かったから。
なんとなく、心の中だけとはいえ、彼を『ゾンビ』と形容したことに申し訳なさを感じてしまったのだ。
いや、気にしすぎだって自分。口に出してないんだからさ。
それにしても『人狼』と言う自己紹介を考えると、どうにも私が知っている人狼とは何かニュアンスが違う気がする。
私の中の人狼と言えば、満月に狂暴化するとか。噛みつかれると狼人間になってしまうとか。人食いのバケモノっていうイメージしかないんだけども……。
「あの、グライブさん。えっと、人狼って、どういうもの?」
そう首をかしげて見せる私に、グライブは少しだけ考えるようなしぐさを見せると。
「俺のことは呼び捨てにしてもらってかまわない。どうにもさん付けは耳の後ろがくすぐったくなるんでな」
そう言っておかしそうに、でも少しだけ楽しそうに笑って見せると、「ふむ」と何かを納得したように頷いてから。
「リオは『亜人』と言うのを知っているだろうか?」
そう聞かれた。
これまたファンタジーでは珍しくない単語が出てきたなぁ。と思いつつ、私は少し考えた後。
「人間とは違う人?」
デミ・ヒューマンとも呼ばれるらしい。と言うことくらいしか知らない。ただ、ファンタジー的な視点から見れば、人型の人間以外の生物を全般的に亜人というらしい。という認識だ。
「そうだな。それで合っている。人狼も亜人の一種だ。ただ狼人間とは違い、人間の姿に変身はしない」
どうやら、この世界では『人狼』と『狼人間』は区別されてるみたい。
「それと、人型狼のマンイーターとは全く別物だ」
マンイーターって、人を好んで食べるクリーチャーですよね? そんなのがいる世界かぁ……。あ、やっぱりここって異世界的な?
「夢かもなぁって、思ってた」
なんとなく、ひしひしと現実味が私の体に這い寄る感じがしていた。
こんなに鮮明な夢を見るのも久々だな。なんて、現実逃避していたい気分もちょっとはあったけど、早々に、夢見心地でいるのはあきらめたほうが賢明な気もする。
「リオにとっては、そうであったほうがよかったかもしれないな」
なんて、グライブの生ぬるい視線が私にビシバシと突き刺さる。なんか、私より悲惨な目に合ってる人に同情されてる気がする。
「つまり、ここは異世界?」
否定してほしいという反面、この不快な腐敗臭漂う森の夢を見る私の脳ミソどうなってんだと、自分の精神を疑いたくないという思いも若干。
とは言え、不可解なことばかりで、いくら考えても私が納得できる答えなんて獲られそうにもないことだけは、なんとなく理解してしまっていた。
「俺にとっては、当たり前の現実であり日常だが、リオにとってここは異世界であり、非日常になるだろうな」
ですよねぇ。知ってた。
「異世界って、異世界だよねぇ……ん? グライブはこんな話、信じる? 異世界から来たって?」
やけにあっさり話が進むものだから、逆にこっちが困惑してしまう。
「異世界から時折、稀人が訪れることがある。数十年、或いは数百年の間に1人か2人程度、彼らは基本的に俺たちの暮らすこの世界とは異なった場所からきて、様々な話しを残していく。例えば、神の気まぐれに付き合わされて世界が崩壊した話しや、科学が発展しすぎて世界が崩壊した話し。他にも天使と悪魔が戦争中で、世界が崩壊寸前な話とかな」
「あの、どれも笑えないくらい重い話なんですが……」
本当に笑えない。なんでそんなに世界が崩壊する話ばっかり残っているのよ。
「とある偉い学者先生がこう結論付けた。『幾重にも折り重なるようにして異世界が無数に存在しているのならば、今まさに世界が崩壊しようとしている場所があってもおかしくない。そして、そんな世界から、運よく逃げ出した人間のいくらかは、一番近い異世界に逃げ延びるのだろう』ってな」
「え? でも、まって……それじゃあ」
私は、どうなの? 私の世界は? 私は、何も覚えていない。
「記憶がないのか?」
グライブにそう聞かれて、私は首を横に振った。記憶がないと言うよりは、途切れているのだ。まるでコンセントを抜いたテレビのように。ある瞬間に、ブツリと。
「分からない」
友人との楽しい瞬間を切り取ったかのように、まるで、記録されたテープを突然ハサミで切ってしまったかのように、何も、ないのだ。
「分からない……」
暗い底のない泥沼に、あるいはその奥の暗闇に、体が沈んでいくような気持ちだった。怖い。分からないことが。何が起きているのか、自分でも理解できない。結論も出せない。
不安と恐怖が、また押し寄せてくる。どうして、ここに来る前の記憶がないのだろうか。途中までしか。なぜ、友人と笑っていたあの瞬間しか残っていないのか。
分からない。そう私が自分の思考の迷宮に入り込もうとしたとき。
「今まで、この世界に来て帰った異世界人は1人もいない。帰る道を探していたものも多くいた。だが、一人も帰ってはいない。多くの異世界人たちにとって、この世界は過酷なようで、旅の途中で倒れたものも多くいる。或いは、途中で諦めて骨をうずめたものも少なくない」
グライブの言葉に、私は顔を上げて彼を見つめる。太陽を思わせる金色の瞳が、私にはとても暖かく感じて……。
「だが、それが全てではない。この先、帰れる人間だっているかもしれない。それがリオかもしれないだろう?」
金色の瞳が優しげに細められる。
「途切れた記憶だって、いつか、何かのきっかけで思い出せるかもしれない。君が諦めない限り、何一つ終わることはない」
グライブの言葉に目頭が熱くなった。
「大丈夫だ。リオ。君は、絶対に」
力強いその言葉に、私の右目から何かが零れ落ちていた。根拠なんてありはしないのに、私の胸に優しい光がともった気がしたのだ。それと同時に、私は大事なことを思い出した。
グライブの言葉が思い出させてくれた。
諦めないこと。歩き続ければ、必ず目的にたどり着けるということを。
今は、まだ分からないことだらけだが、知っていけばいいのだ。この世界のことも、なぜ、私がここに居るのかも、そして、途切れた記憶のそのあとに、一体何が起きたのかを。
「まず君は、町に行くべきだと思う」
こぼれた涙を自分の袖で拭きとった私に、グライブは一拍置くとそう言った。
「町? 近くにあるの?」
と言う私の質問のような返事に、グライブはすっと口を引き結び、ふうっと息を吐き出してみせた。ああ、まあその様子からでもわかる。決して近場にあるわけじゃないのね。
「いや、森を抜けるだけでもだいぶ時間はかかるだろうな」
予想どおりのグライブの回答に、私は渇いた笑いしか出てこないけど、グライブは続けて。
「それでも、この森に居続ければ、君は死んでしまう」
そう言われ、私はぎくりと体が震えた。
大げさに言っているわけじゃないことくらい、私にだってわかる。
辺りは腐敗臭が漂い、見たこともないような気持ちの悪いバケモノがそこいらを歩き回っている。散歩気分で非力な人間の女が歩き回れるような場所では絶対にない。
「この森って、なに?」
そう私が質問をすれば。
「ここは『腐敗の森』と呼ばれる場所だ。細かい詳細は省くが、1000年ほど昔、『神の定めた禁忌』を破ったとある国王がいた。その罰として国の全てをこの森に飲み込まれ、以降ここは腐敗の森と呼ばれ、水や大地、植物や動物、その空気までもが腐敗の呪いに飲み込まれて、今では化け物の新たな住処になっている」
そう軽く説明されたが、呪いで国ひとつがなくなるって、どういうことなの? まるでダークファンタジーのフレーバーテキストの一文のような言葉は、私にとってまったく現実味はない。
でも現実に目の前に広がる不快な森に目をやると、確かに存在している。一体――。
「呪い……」
って、なに?
「ああ、呪いに関しては今はもう無くなっているから大丈夫だ。今は、名残と言えばいいのか、結果だけが残り続けている状態だ」
私の疑問を少しずれた角度でとらえたらしいグライブは、そう言って『呪い』の部分を説明する。今はないのなら、まあ、グライブの言うとおり大丈夫なのだろうけど。
一体この世界って、どういう世界なんだろうか。
禁忌やら神やら呪いやら、到底、私の知る常識からはかけ離れすぎている。とは言え、想像の世界ならば、私の世界にもあったのだけど。あくまで、仮想。想像の世界での話だ。
つまり、この世界は本当に私の知る『ファンタジー世界』そのままの世界なんだろうか。そう私がこの世界についての予想を立てていると、グライブは話しの続きとばかりに言葉を吐き出す。
「だが『腐敗』や『腐食』というのは、決して正常な生物が触れていいものではない。即効性はないが、腐敗の毒は体内に蓄積し、一定量を超えれば内側から腐っていく。この森の中では空気すら腐敗の胞子で溢れているからな」
そう言われて、私は思わず自分の両手で鼻と口を押えるが、自分でも意味のある行動には思えないので、諦めて両手を下ろした。
いつからここに居たかは分からないが、どれだけ気を失っていた――寝てたかも?――分からないのに、今さら遅いだろうという思いもあるが、マスクだのなんだのが意味を持つとも思えなかったからだ。
そんな私の行動に、グライブはおかしそうにクスクスと、見える金色の瞳を細めて笑って見せた。
「安心しろ。今日、明日どうこうなるようなものじゃない。だがひと月もいれば、体に障りが出始めてしまう。そうなれば治療にも時間がかかるだろう」
なるほど。と、私はグライブの言葉にうなずいて見せた。
グライブの説明はわかった。この森に長居しないほうがいい理由も納得するし、私だって町、つまり人のいる場所に行きたいと思う。今後の身の振り方を考えるなら、なおさら人のいる場所に行かなければならないだろう。
だが大きな問題が、割といくつもある。
「あの、ね。グライブ。まず、この森の生物に、襲われない可能性は?」
「新鮮な肉が歩いているとなると難しいな」
ああ、そうよね。私って新鮮なお肉よね。
アハハと、渇いた笑いを漏らす私に、グライブはハッと何かに気が付き少し慌てて。
「いや、大丈夫だっ」
そう言って、自分の懐からゴソゴソと何かを取り出して、ぽいっと私の手元に投げてよこした。
それは縦15センチほど、横7、8センチほどの薄い楕円形の金のメダルのようなものだった。お守りのようにも見えるし、ネックレスのトップにでもなっていたのか、楕円の頭部分には小さな穴が開いていた。
楕円の穴の左下あたりに青い石がはめ込まれ、その下部分には横向きの獅子が宝石を見上げるような格好で彫られていて、まるで獅子が月を見上げるような姿にも見える。
「これは?」
私はそれを手に取り、思ったよりも重みがあるんだなと指で表面をなぞってみると、表面はとても滑らかだった。裏面には星の形にも似た不思議な図形と、見たこともない文字が彫り込まれている。
「それは魔除けのタリスマンだ。太陽の出ている時間だけ光の力を増幅し、化け物どもを寄せ付けない効果がある。つまり、夜には光がなくなるために効果がほとんどないのだが、それをリオにやろう。それを持っていれば、昼間なら歩いてこの森を出ることも難しくはない」
そう言ってもらえて、私はそのまま『ありがとう』ともらってしまいそうになったが、慌てて首を横に振った。
「いやいや、もらえないよっ。だって、これはあなたが身を守るために持っていたものでしょ?」
私がそう言うと、一瞬きょとんとした顔を見せて、グライブはククッと笑う。
「いいんだ。現に今は夜なのに、俺たちは襲われていないだろう?」
そう返されて、そう言えばと私は今さらながらに気が付いた。
先ほどから辺りをうろつくバケモノは見えているのに、彼らはこっちに見向きもしていない。こちらをチラ見する子がいないわけではなかったけど、興味がないのか、はたまたお腹が減っていないのか、こちらに近付いて来ようとしているバケモノは一切いない様子だ。
なぜだろう。先ほどグライブは私のことを『新鮮なお肉』と言ったはずなのに。
「俺は、襲われないんだ」
グライブは私の疑問を正確に読み取ったかのように、どこか皮肉気にそう言った。
「あなたが、その……」
見た目がゾンビのように腐っているからか。とは、さすがに口に出せなかったが、グライブはやはりおかしそうに『そうだ』と頷いて見せる。
「アイツらにも食の好みがあるんだろう」
なんて、茶化しながら。
あまり突っ込んで話を聞くのもどうだろうか。そう思うと、私は話題を変えるべきだと1人心の中で納得しつつ。
「じゃあ、このタリスマン? は、もらっておくね。ありがとう」
そう私がお礼を言えば、グライブは優し気に目を細めて頷いた。
「昼間限定とはいえこれで移動のめどは立ったけど、普通に歩いて町まではどれくらいかかるの?」
一つ目は解決だが、問題はまだまだ残っている。そう思って、私は次の質問を投げかける。すると、グライブはそうだなと、少し唸り。小さなナイフを取り出して地面に円を描いた。
「俺たちのいる森をこれだとする――」
円全体を腐敗の森とした場合。円の中心を森の真ん中、外を囲む線が森の終わりとすれば、今、私たちがいるのは森の中心よりやや外側辺りらしい。
「真っすぐ森を抜けるなら3日あれば十分だ。もちろん夜も移動するならな」
「夜は移動できないから、6日くらい?」
「森の中にしっかり整備された道が存在すればの話だが」
「ごもっとも」
こんなヤバい森にわざわざ中心まで道を引くメリットって誰にあるのだろうかと思ってしまう。
「参考になるかは分からないが、まだ動ける状態だった俺の足で、ここまで寝ずに歩いて2日半だった」
本当に参考にならない。寝ずに歩いて3日って言ってたくせに、それよりも半日も早い到着ではないか。
「グライブって、足早い?」
「どうだろうな? ほとんど一人で旅をしていたからな。誰かと比べる機会はなかったと思う」
と首をひねるグライブに、私は『はぁ』と息をついた。見た目ゾンビでかなり肉も削げ落ちて痩せてはいるが、彼の体格が大きいだろうことは見た目で分かる。軽く180を超え、190、或いは全長2メートルを超えているかもしれない。そう予想できるほどに、座っている姿でさえ大きい。
そんな彼が動ける状態だったなら。足の長さから言ってもきっと、私よりも歩くのははるかに速いだろう。
「グライブの言う『3日』もなんか当てにならなさそう……」
そんな愚痴にも近い私の言葉の響きに、グライブは少し慌てて『そ、そうか?』と、オロオロし出して、最初こそその見た目の恐ろしさにビビっていた私だったが、今は、かわいいなと思ってしまった。
「愛嬌ありすぎでしょっ」
と笑ってしまう私に、グライブは目を丸くしていた。
「愛嬌? こうなる前にも言われたことのない言葉だな」
なんて困ったように笑うグライブの、戸惑う金色の瞳や、彼の残っているとがった耳が垂れ下がり、ますます可愛さに磨きがかかるようで。
「ごめっ。ツボに入ったっ! グライブめっちゃかわいいっ!!」
「か、かわ、いい? 俺が? 生まれてはじめて言われたな。それは」
うむ。と、真面目な顔で動揺するグライブは、やはりどう見てもかわいすぎて、しばらく私の笑いは収まらなかった。
私がひとしきり笑い終わると、呆れたような、それでいてどこか懐かしむような顔で、グライブは微笑みながらぽつりと言った。
「懐かしいな――」
その言葉には、どこか哀愁を思わせる響きがあった。
昔の記憶。家族か、恋人か、或いは仲間か。その全てであって、そのどれとも関係ないことなのか。私には分からないが、彼の中の引き出しを、こっそりと私は開けてしまったらしい。
「あったかい思い出?」
私がそう聞けば、彼はかみしめるように目をつぶり。
「ああ、とても」
そう言って微笑を浮かべていた。
「思い出せてよかったね」
私がそう言って笑えば、グライブはじっと私の顔を見つめ切なそうに目を伏せた。
「そうだな……」
あるいは、思い出さなければよかったかもしれないと、彼は思ったのかもしれない。
ただ沈黙が私たちの中に降りてきて、うごめく森の不気味な音だけが、現実はこっちなのだと引き戻そうと頑張っていたけど、私は、多分私たちはそれを一生懸命に無視することに努めていたのだと思う。
きっとこの世界の神様にだって、思い出を取り上げる権利なんてありはしないのだから。