16・手掛かり
すっかり暖かくなってきた『芽吹きの後頃』。この世界では季節と言うものがあっても、月を表す数字はない。
例えば、『ひと月』は30日くらいで、『〇〇の始頃』、『○○の中頃』、『○○の後頃』と言う表現をする。
春ならば『芽吹き』とか夏なら『新緑』とか、そう言う感じだ。
なので、今は『芽吹き』となり、私の世界でいうところの4月から5月辺りと言う具合になっている。と言うのが私の解釈である。
実際この世界の暦については私もまだよく分かっていないのだが、私がこの世界に来た頃は『霜降りの始頃』で、霜降りの季節が過ぎれば春になるはずだから、芽吹きの季節に代わるのかと思いきや、霜降りと芽吹きの間には『新月の月』と言う10日間の空白があり、その月はこの世界の神様がお休みする期間だそうで、まあ、別にそれが何と言うことないらしいのだけど、神様だってお休みするだろうと言うことらしい。
新月の月の期間は、神様以外が新年の準備をする期間でもあるそうで、10日が過ぎると、いたるところで3日間は新年のお祭り騒ぎになるらしい。かなり賑やかになるとか聞くと、お祭り好きの国民としては血が騒いでしまうのだけど。グライブのことでいっぱいいっぱいだったから、新年のお祭りとか、全然なにも分からないまま新年が終わっていたものなぁ。
この町もすっかり初夏の景色に変わっている。何しろ春もそろそろ終わりかけているのだから、すっかり真新しい若葉が青々と、日の光に照らされてキラキラと輝いていた。
私とグライブはドクの部屋でグライブの健診を受けていたところだった。
夏場の鍛冶場は地獄だ。と、アーケイさんがドクのところに来て、栄養補給用の飲み物をもらい、がぶ飲みしている姿を眺める。鍛冶場と言えば鉄を鍛える場所だから、ずっと火を使うわけだし、私の想像よりもきっと彼の職場は暑いのだろうと思うと、私の方も少しだけげっそりとした気分になる。
それでも、アーケイさんはにこにこと嬉しそうに、巨大な黒い剣をグライブに手渡しながら。
「お前の剣を鍛える仕事だけは、誰にも譲れんからなぁっ!」
そう言って、満足げに新しい剣の説明を始める。
「今回はルシード鉱とミスリル鉱を3・7で混ぜて、フェニックスの尾羽で加工と火入れをやっといたぜ。黒鉄と魔鉄鋼で重量を調節して、鋭さも上げといた。保護魔法にユニコーンの角とドクの角をほんのちょっと削らせてもらって、強度もバッチリだぜ!」
なんて、にこやかに言うアーケイさんだが、今、ドクの角って言わなかった? とドクに顔を向ければ、ドクは自分の右側の角を指先でこするような仕草を見せて、若干、眉間にしわを寄せた。
「確かに俺は鬼だけどな。まさか角を削られるとは思わなかったよ、まったく」
とため息をつくドクに、アーケイさんはクツクツと笑い。
「『オーガキング』の角は最高の強化材料の一つなんだぜ?」
と、悪びれもせずに言い放った。
「このドワーフめ。グライブのためじゃなかったら、誰が大事な角を傷つけさせるものかよ」
そう言い返しているドクだけど、なんとなく私はあること思った。まあ、思っただけで口には出さなかったのだけど。
「ドクの場合、患者に必要なら自分の角の一本くらい折ってしまいそうだがな」
と、思っても言わなかった私の気持ちを代弁するかのように、グライブがそう言ってしまった。
「ブフッ‼」
私とアーケイさんはグライブの言葉に同時に吹き出してしまって、思い切りドクに睨まれてしまうが、いかつい顔をしていても、ドクがとても優しいひとだというのを知ってしまった後では、まったくもって怖くないのが残念である。
「もう、私は言わないように我慢してたのにっ」
私はグライブの洋服の裾をくいっと引っ張りながら、何とか笑うのを耐えていれば。
「グライブの意見に賛成だね。絶対にドクなら自分の角の1本くらい平気で切ってしまいそうだ」
と、部屋のドアからファランスさんが、クスクスと笑いながら部屋に入ってきていた。
ファランスさんが診療所に来たのはひと月ぶりくらいだろうか?
「おうっ! 久々じゃねぇか!」
なんて、アーケイさんが片手を上げてファランスさんに挨拶を送る。
「ああ、久しぶり」
ファランスさんもそう言って、アーケイさんと同じように片手をあげて返すと、ソファーの空いている場所、ドクの隣に腰を下ろした。
ちなみに、私とグライブが並んで座っていて、アーケイさんとドクが私たちの向かいに座っている。
腰を下ろした後、ファランスさんは一息ついて。
「何とかサイラースと連絡が取れたよ」
と言って、にこりとグライブに向かって笑って見せた。
「無理を言ってすまない。サイラースが里長になったとなれば、外界に住む俺が気ままに訪ねていくわけにもいかないからな」
そう言うと、グライブはファランスさんに頭を下げて見せるが、そんなグライブにファランスさんは軽く笑い声をあげた。
「水臭いことは言わないでくれ。グライブに会えるとなれば、サイラースのほうが喜ぶに決まっているだろ?」
そんな風に言葉を返すファランスさんだが、グライブは良くも悪くも生真面目と言うのか、しっかりと頭を下げて。
「ありがとう」
と、深く感謝の言葉を吐き出した。
そんなグライブの様子にとっくに慣れっこなのか、ファランスさんもドクもアーケイさんも、どこか仕方なさそうな笑みを見せながらも、どこか心地よさそうな瞳をしていた。私がそう見えただけで、本当はどう思っていたのかは分からないけど、少なくとも、私にはみんなの間にある空気がとても好ましいものであったと感じたのだ。
「じゃあ、今度お礼にご飯でもおごってもらうよ」
そう目を細めて笑みを見せるファランスさんに、グライブも頭を上げて笑みを顔に浮かべると。
「喜んで」
と頷いて見せた。
グライブの了承に笑みを返したあと、ファランスさんはふと何かに気付いたように。
「ところでグライブ、もう話しはしたのかい?」
そう言って、首をかしげて見せる。
「いや、まだだ」
グライブはそう言って首を横に振ると、今度は私のほうに顔を向けた。どうやら、私に関係のある話のようだけど……。
「仲間たちとも話したんだが、君を家に帰すには、まず君の記憶を取り戻すのが先だということになったんだ」
そう言われて、私は思わず目が丸くなる。いつ、そんなことを話していたのだろうか。と、少しの驚きと戸惑いに口を閉じる私に。
「まずは、順を追って話そうか」
ファランスさんがそう言った。
まず初めに、私の目的は『家に帰ること』だ。
ファランスさんの説明では、私が家に帰る方法の一つとして、私の元々暮らしていた世界とのつながりと言うのが必要になってくるとか。とは言え、繋がりと言っても私には何のことだかよく分からないのだけど、ファランスさんが言うには、どうやら私の『記憶』が関係しているらしい。
つまり、私の世界と、私自身をつなぐ『留め金』の役目を持っているのが『記憶』と言うことのようだ。簡単に言えば、留め金でしっかり繋いでおかなければ、本体、つまり元の世界から落っこちてしまい、戻れなくなってしまう。
分かりやすい例えを上げるなら、カバンに付けたキーホルダーのようなものだろうと思う。出先でもしキーホルダーの飾り部分を落としてしまうとどうなるか。つまり、今の私が失くしたキーホルダーの飾り部分と言うことになる。
完全に切れてしまったキーホルダーを探し出すのはほぼ無理ゲーだとは思うけど、私の記憶が思い出せないだけなら問題はないそうで、しっかりと思い出せれば曖昧になっているつながりをしっかりと結びなおせるとかなんとか。
とにかく、自分の記憶が家に帰るためのカギになっていると言うことだ。
「グライブからリオがこの世界に来た時の様子を聞いたが、記憶の欠損は外的要因ではなく、精神的なストレスによるところがデカいと俺は思ってる。問題なのはまさにそこで、心への大きなダメージが『ある部分』の記憶を遮断しているのだとしたら、普通に思い出すのは難しいかもしれん。防衛反応が働いて記憶を思い出すことを拒む場合もある」
ファランスさんに次いで、ドクがそう言葉を続けた。でも、私には記憶がないからなのか、心に受けたダメージと言われてもピンとはこなかった。
そもそも、思い出せないのは最後の記憶。多分、数時間、或いは半日くらいの部分だと思うのだけど。それも含めて、私はいったいどれだけの記憶が思い出せないのかも、自分で分かっていないのだと改めて自覚させられた。
「とにかく、君の記憶を呼び覚ます事を第1の目標にしようと思う。そして、君が思い出せない、或いは君の知らない元の世界に関連した記憶、『世界の記録』を観測しようと思うんだ」
グライブのその聞きなれない言葉に、私は首をかしげて見せた。
世界の記録? つまり歴史とか、そう言うことなのだろうか?
「世界の記録なんて、稀人の君には聞きなれない言葉だよね。簡単に説明すると、『固定視点から見た世界の過去』と表現すればいいかな。歴史は積み重ねられた軌跡を指すが、世界の記録はあくまで局地的な観測記録でしかないと言う感じ。あくまでリオの目を通して世界の一部を見るだけだからね」
補足としてファランスさんがそう言葉を付け足した。
「それって、私の記憶にない部分も分かるってことなの?」
確認するように私がそう聞けば、ファランスさんはしっかりとうなずいて肯定してくれる。
「だが、世界を観測するには膨大な魔力が必要になる。しかも異世界の観測と言うことになると、魔力だけでは足りないんだ」
これ以上の面倒な説明はいったん省くが。と、グライブがそう前置きを付け足して。
「ここからずっと東に行ったところに『新緑の大森林』と言う場所があって、サイラースと言う知り合いのエルフがその森にある里で暮らしている。そこなら異世界の観測も出来るだろうし、君の記憶を取り戻すこともできるはずだ」
グライブはそう言って言葉を終える。
私の知らないところで、私のためにみんなは動いていてくれていたんだと、私は申し訳ない気持ちもあったけど、何よりも感謝の気持ちでいっぱいだった。
グライブだって自分のことで手一杯だっただろうに、本当に、この気持ちをどうやって彼らに伝えたらいいだろう。どうやって、感謝の気持ちを返したらいいの?
「本当に、ありがとう」
今の私には、心から感謝の言葉を送る以外に、出来ることなんて何もないのだと。それが私にはひたすらに歯がゆくて仕方なかった。
その日の夜、私はファランスさんたちと話したことを考えてしまい、中々な寝付けずにいた。
初めてこの世界に来た時の感覚を思い出すと、不安になる。不安の原因は主に記憶がないせいではないかと、ドクは言っていたけど。
私はベッドから体を起こして窓に顔を向ける。
窓から差し込む月明かりは淡く、暗い室内をうっすらと照らし出していて、とても現実味が薄いと感じた。
なんだかんだと最初から、グライブにはお世話になりっぱなしなんだよなぁ。なんて、私は小さくため息を吐き出した。静かな室内に私のため息の音はよく響く。
そしてこれからも、きっと私はグライブに頼りっぱなしになってしまいそうで、また溜息がこぼれる。
ベッドの上で両ひざを抱え、私はサイドテーブルの上においてある可愛らしいカバンを見つめた。私のためにグライブが用意してくれた真新しいあのカバンだ。
彼の優しさに私の胸が暖かくなるのを感じる。彼の存在は私が自分で考えている以上に大きくて、しかも彼は、私が帰るその時までずっとそばに居てくれると、そう約束してくれたのだ。私を一人にはしないと、そう言ってくれた。
きっと、グライブの言葉だから信じられるのだと思う。まさに人徳ってやつだろうか?
彼のことを考えると私はそわそわと落ち着かなくなる。今日だって一緒に居たし、明日だって一緒に居るのに、今、目の前に居ないというだけで彼の顔が見たくなる。
あの低く優しい穏やかな声で、名前を呼ばれたいと思ってしまう。
(ああ、ダメだなぁ。私――)
彼のそばに居たいと思ったら、私はどうしても我慢することができずにベッドからのそりと抜け出して、グライブが寝ている病室へと向かっていた。
廊下を通り、こっそりとグライブが寝ているだろう病室にたどり着き、極力、音を立てないように扉を開くとそっと中の様子をのぞいてみる。
暗い室内は私の部屋と同じくカーテンが開かれ、月の光で満たされていて、大きなベッドに横たわる彼の背中が見える。大きくとがった耳がぴくぴくと動いていて、何かしらの音を拾っているのかもしれない。そうは思ったのだけど、彼のモフっとした体を見ていたら、こう、ね?
彼を起こさないように細心の注意を払いながら、足音を殺して室内に入り、静かに扉を閉めると彼の寝ているベッドへと近づく。
(うーん……あれ? これって、私。もしかして、夜這い? いやいやいやっ! そんな、まさかっ!)
そんな邪なことなど、私は断じて考えてはいないのだっ! うん! 絶対に違うっ!
これは、その、ちょっと寂しかったというか、モフモフが恋しかったというかっ!
誰に対して言い訳をしているんだろうか私?
私は小さく息を吐き出し、そっと彼の背中に触れる。
(あったかい……)
初めてこの世界に来て不安だった私を慰めてくれたのは、他の誰でも、何かでもなく、彼のこの、大きく暖かい背中だった。
「眠れないのか?」
そう急に声をかけられて、私の体がびくりと飛び跳ねてしまった。
「お、起きてたのっ」
あまりにも驚き過ぎて自分の声が上ずってしまう。うわっ。恥ずかしいっ! と、一歩後ずさってしまう私だが、グライブは体を動かして私の方、つまり後へと振り返り、私の顔を見つめて両目を細めて見せる。
「君が部屋に入ってきたときに、気配でな」
グライブはそう言うと、体を起こしてベッドの上に座りなおし。
「おいで、リオ」
優しく甘い声でそう囁くように言うと、生身の方の左手を私に差し出した。
私がビクビクとしながらも差し出された彼の手を取れば、彼はやんわりと私の手を引いて自分の方へと誘導する。
あくまで優しく引っ張られて、なんだか手もお腹の中もくすぐったい気分になってしまう。本当に、この狼さんは全てが優しさで出来ているのかと思うほどに、私に甘すぎると思うのだ。どこかの優しさが半分しかない頭痛薬など足元にも及ばないだろう。
「起こしちゃった、よね? ごめん」
私は口から謝罪の言葉を吐き出してはみるが、どこか期待した気持ちにもなっていた。だって……。
「気にしなくていい。いつだって、リオの好きな時に俺のところに来ていいんだ。君はもっと俺に頼っていい」
グライブはそう言いながら、私を軽く抱きあげて自分の膝の上に座らせてきて……こっちの方が、彼のその行動に固まってしまう。
重くないのかとか、子供扱いされてるような気もするし、だけど、グライブの優しい声と彼の暖かさに、私の期待通りの彼の甘さに、私は嬉しさや満たされる感情に胸が早鐘を打っていた。
「私って、ずっとグライブに助けられてばかりだよ」
私はそう言いつつ、そっと彼に身を寄せて、彼の肩に自分の頭を置いた。
ふわふわの彼の毛が私の額をくすぐる。暖かくて大きな彼の手が私の頭をやんわりと撫でつけて、抱き寄せる彼の大きな胸の中は、酷く私を安心させて、それと同時に、このままでは私がダメ人間まっしぐらになるくらい彼のことで頭の中がいっぱいになってしまう。
「俺の方こそ、君には助けられてばかりいたさ」
低く響く彼の心地よい声は、私を簡単にまどろみの世界に誘う。
「急にね。不安になったの……」
私は彼の温もりにまどろみながら、ここに来た原因の一つを口にした。自然と、彼には何でも話していいのだと、根拠もなくそう思えてしまうから、不思議だ。
「俺が君の不安を取り除くのは難しい。だが、君が寂しい時はそばに居る。君が泣きたいときも、不安で恐ろしいと思うときも、ずっとそばに居るから、少なくとも、俺の前では無理をしなくていい。君の八つ当たりにも、もちろん付き合うからな」
なんて、グライブは最後のほうを茶化して言った。
私が理不尽にグライブに八つ当たりなんてするわけがない。そう思うと、彼の優しさは本当に信じられないくらい底抜けだと思う。こうやって優しすぎるから、私にまで付け込まれてしまうのだ。
「グライブ」
そんなあなただから、私は好きになってしまうのだと、彼にそう伝えられたら、彼はいったいどんな顔をするだろうか。
だけど私には、『好き』だと伝えることはできないと分かっている。彼の名前を呼んでも、それ以上に彼に伝えられる言葉は見つけられない。だって、私は帰らなければならないから。
「君に触れることはできないと思っていた」
ふと、グライブはそう言うと、私の手と指を絡ませてきて、私はそれに応えるように彼の手を握り返した。
「これからは、いくらでも触れるよね」
私がそう答えれば、グライブはフッと笑い声を漏らし。
「そうだな」
と同意するように頷く。
大きな手に、太く長い指は男性的でありながらも、獣人特有の体毛がどこか柔らかくてくすぐったい。黒く長い爪は鋭く、簡単に肉など裂いてしまいそうなのに、それがグライブの物だというだけで、まったく恐怖は感じない。
彼の体からは太陽と、真夏の森の中にいるような、そんな清涼な香りがして。
「君は、不思議な人だな」
そんなグライブの言葉に顔を上げて彼を見つめれば、彼は真っ黒い鼻先を私の鼻の頭にちょこんとくっ付けてきた。なんだか、その仕草が昔、飼っていた犬の行動にも似ていて、照れくさいやら嬉しいやら。
しっとりとしている彼の鼻先が、なんだか懐かしさまで連れてきた。
「俺が忘れていた感情を、思い出しそうになる」
彼はそう言葉を続けて、長い鼻先を私の頬に滑らせながらすり寄ってきて、彼が動くたびに柔らかい彼の体毛が私の頬を撫でていく。
「それって、どんな感情?」
本当は、聞かないほうがいいと頭のどこかでは分かっていたけど、私の心がその答えを知りたがっているのだ。
私の胸が高鳴るのは、恋心ゆえなのか、それとも、その上に期待を膨らませてしまっているせいないのか。
「それは、今は秘密にしておこう」
グライブはそう言うと顔を上げ、私と視線を合わせて、自分の口元に人差し指をくっ付けて見せる。
自分の気持ちさえ彼に伝えられない私は、それ以上に彼の秘密の感情を追求することなどできなかった。