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狼さんの背中は今日も暖かい  作者: 風犬 ごん


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15/21

14・おはよう

 まだ自分の舌が残っていたことに少しの驚きはあった。

 リオがくれた水は聖水にも似ていて、だが、それが何を意味するのかを考える思考能力はとっくになく。

 ただ舌の上を滑らかに流れる『水』の感触だけが、のどを通り胃の中にしみ込むように落ちるのを、俺の体が全ての感覚でもって感じ取っていたのだ。

 それは『甘く』もあり、暖かくもあり……。


(ああ、うまい)


 そう思った。

 数十年ぶりの『味』を確かに感じ、俺は目を閉じた。全身に染みわたるようなこの優しい温もりを、一体なにと表現するべきなのか、俺には分からない。

 久しぶりに感じる熱は、鈍感になったあらゆる感覚を呼び覚ましていくような気がした。

 そして、次の瞬間。体中を駆け巡る『強烈な痛み』に、何よりも『激しい嘔吐感』にとっさにうつ伏せ、俺は息をつく間もなく激しくせき込んだ。

 意識がもうろうとする。





 水を飲ませた後、グライブは激しくせき込みだしたと思えば、体をうつぶせに戻して赤色の混じる黄色く変色した液体を吐き出し始め、大量の白い小さな虫を吐き出し始めた。

 白い芋虫状で1センチほどの大きさの白い虫は、信じられないような量が彼の口から吐き出されて、両手いっぱいにすくっても足りないくらいの多さに、私たちは何もできずに固まってしまう。

 その白い虫は彼がせき込むたびにゴボゴボと言う音とともに吐き出され、せき込んでいるせいで吐き出しているのか、吐き出すせいでせき込むのかさえ分からなくなったころには、彼の吐き出した液体と虫が彼の目の前に広がる。

 ただ不思議なことに、彼の嘔吐したものはその場に蓄積されず、ゆっくりと塵のように消えていくのだ。

 しばらくそれを見守っていた私たちだったけど、グライブがようやく落ち着きだしたころ。


「今だっ。聖水で体を洗い流せっ!」


 そう言ったのはドクで、聖水はまだ荷台に積み込んだままじゃなかったかと振り返れば、グエンディさんとファランスさんがすでにいくつか持ってきてくれていたみたいで、聖水を詰め込んだ樽がもう5個ほど私やドクの後ろに置かれていた。

 ドクの声にそれぞれが軽く頷き、樽の上部のふたを割って、持ってきていた大きな木製のボウルに聖水を入れると、それぞれグライブの体の表面に付着していた腐食していた何かを洗い流し始めて、私も慌ててそれに参加する。

 グライブの体に触れて私が腕を火傷したような状態になったとき、聖水で洗い流したことを思い出す。

 あの時は、面白いくらいにスルリと腐食液は取れた気がするのだけど、グライブの場合、体そのものが腐っていて、水をかけたところで綺麗に流せているのかもよく分からないけど、ドク曰く。


「間違ってもこするなよっ」


 と言うことなので、こすりたくなる衝動を抑え、丁寧に彼の体中を聖水で流していく。

 グライブの体を綺麗に流した後は、ドクの指示のもと、全員で清潔な布でグライブの体を丁寧に撒き、担架のようなものに彼の体を乗せて急いで荷馬車まで運ぶと、休む間もなく来た道をまた戻ることになった。

 私たちが動き回っていた間、グライブはどうしていたのかと言うと、どうやら意識がないようでずっと目をつぶって動かないまま。

 ただ移動するだけけでもグライブには負担になる。と、ドクが言っていたのを思うと、意識がないほうがいいのかもしれない、とも思う。





 帰りはさらに早かった。

 ほとんど休憩らしい休憩も取らず、1週間もかからず町まで帰り着き、その後はもう、とにかく目が回るほどに慌ただしかったのだけはよく覚えている。

 地下に用意された集中治療室にドクとグライブが閉じこもったと思えば、30人以上の治療師とか薬師とか、そう言う人たちが入れ代わり立ち代わり、グライブの治療にあたっていた。

 私はと言うと、ひたすらに診療所のお手伝いをして過ごしていたと思う。むしろそれ以外、私にやれることが何もないと言うだけなのだけど。

 治療を始めて10日が経ったころ。真夜中にふと目が覚めて、水を飲もうとキッチンに向かう途中、ドクの部屋に明かりがついていたのを見つけ、私はドクの部屋を訪ねてみたことがある。

 こっそりと扉を開けて、ドクの姿を探せばソファーの背もたれにぐったりと座り込んでいるドクを見つけた。

 私は部屋には入らず、いったんキッチンに向かい暖かいお茶を2人分用意して、もう一度ドクの部屋に向かう。

 部屋に入れば、いまだに疲れた様子のドクがソファーに居て。


「ドク?」


 と声をかけると、ドクは私のほうに顔を向けて。


「起きてたのか」


 と、うっすら笑顔を顔に浮かべて、背もたれから離れて座りなおした。

 私は持ってきたお茶をドクの前に置き、私の分も置くとドクの向かい側に腰を下ろす。


「ああ、ありがとな」


 ドクは一言お礼を言うと、カップを掴んで中身をゆっくりと飲み込んでいた。そして一口飲みこんだ後、深い息を吐き出して見せる。


「グライブは、どう?」


 そう私が聞くと、ドクはもう一口お茶を飲み込んで。


「危険な状態だ。俺から言わせれば、生きてるのが不思議なぐらいだよ」


 耳心地のいい言葉を選ばずにそう言ってくれた。


「そう……」


 助かってほしいと思うのは、自分勝手な感情なのかもしれない。私はそう思うと、不安に心が侵食されそうになる。だから、私はそれを耐えるように、自分の分のカップを両手で握りしめて、『そっか』ともう一度、言葉を吐き出した。


「常に3人の治療師が再生治療を行っている状態で、何とか留めているようなもんだろうな。決して安易に助かるとは言えん。だが、グライブも必死に生きようとしてる。それだけは確かだ」


 ドクの言葉に顔を向け、彼を見つめた。すると、ドクはフッと口の端を持ち上げて顔に笑みを浮かべ。


「神様の奇跡ってのを信じてみようじゃねぇか」


 そう言うと、カップの中身を飲み干した。


「そうだね」


 それなら、私は祈り続けよう。そう思った。グライブが助かるように。

 想いの強さが光を生み、それが奇跡となるように。そう誰かが言ったとおりになるのなら。

 奇跡を信じてみよう。

 それからさらに10日後、グライブはようやく安定し、一命を取り留めたのだった。

 




 奇跡の水のおかげか、グライブの内臓のほとんどが重症化せずに原形をとどめていたことが、何よりも彼が助かった要因だろうとドクは言っていた。

 だけど、決して彼の状態が楽観視できるほどに軽いものではなかったのは言うまでもなく、治療にあたるグループが何よりも苦労したのは、グライブの欠損した腕や足の状態だった。

 そもそも取れてしまった腕や足が見つからないこともそうだが、傷の状態から見ても取れた部分をくっ付けて治すことは不可能で、呪いが解けた影響により欠損部は皮膚組織がめちゃくちゃで、出血を止めるのに苦労したらしい。

 他にも、溶けてしまった眼球のせいで眼窩周りの神経がやられていて、目の治療にも神経を使ったらしいけど、腐ってはがれた皮膚の再生にとんでもなく時間がかかってしまったとか。

 他にも、酷い栄養失調ですぐにでも栄養剤を与えなければならなかったし、筋肉が削げ落ちてしまった体には細心の注意を払わねばならず、いろんな意味で治療するほうが神経をすり減らしていたみたい。

 最終的には、自然治癒でゆっくりと治していけるようになるまでに、20日以上の時間を有し、集中治療室からグライブが出てくるころには、さらに5日も経っていた。

 やっとのことでひと段落した治療チームと言えば、まさに死屍累々と言った体でドクの部屋で倒れていたのだから、10数人が床に突っ伏しているのを見かけた私が、思わず他の看護師さんたちを呼びに行くのも分かってもらえるだろうか。

 何とか落ち着いて、グライブも個室に移したと言う話を聞き、私は急いでグライブの元へと向かった。





 診療所の一番奥にある中庭に面した小さい病室。

 板張りの温かみのある床に、白い鉄パイプの大きなベッドが窓際にあり、窓はしっかり閉じられているものの、清潔感のある白いカーテンは開かれ、暖かな日差しが窓から部屋に注ぎ込まれている。

 部屋には備え付けのサイドテーブルと椅子が一つ。それ以外には余計な家具はない。

 そして、ベッドの上にはすっかりミイラになっている大きな狼が寝かされていた。

 お昼にはまだ早い朝の時間。

 最後の夜を乗り越えて、グライブは今、数十年ぶりの安眠を得たのだ。

 彼の寝ているベッドのそばに立ち、彼の腕に刺さる点滴を見てから彼のベッドに腰を下ろした。

 穏やかな寝息が聞こえる。

 掛け布団から出ている彼の腕にそっと触れてみた。


(暖かい……)


 彼と過ごした中で何度も聞いた音が、彼の手首から私の手の平に伝わってくる。

 トクン、トクンと、穏やかなその音は、私をひどく安心させて、私は彼に極力負担をかけないように、彼の肩辺りにそっと耳を寄せた。

 伝わる振動と、確かに聞こえるその音に、私は嬉しくて涙が出そうだった。


(ここに居る)


 確かに、彼はここに居るのだと、私の胸が何かであふれてしまいそうだった。

 ふいに、私の頭に重みを感じて私は顔を上げた。

 真っ白い包帯にまかれた大きな左腕が私の頭に伸びていて、ゆっくりと私の頭をなでている。


「夢かと、思った」


 見えている右目を細めてそう言ったグライブと目が合い、私は嬉しくてただ笑うしかできなくて。


「リオ」


 彼の耳心地のよい、だけど少しだけかすれてしまっている低い声に目をつぶる。だいぶ聞き取りやすい声になった。もう不快な雑音はなくなっている。当たり前だけど。

 彼の声で呼ばれる私の名前は、まるで特別な呪文のようにも聞こえる。それがすごく不思議で心地よい。


「夢を見たんだ……」


 グライブはそう言うと、左手を私の頬に添える。


「君が俺を呼んでいた」


 そう言うと、グライブはキラキラと輝く太陽のような瞳を眩しそうに細めて、私の頬を優しく撫でる付け。


「だから、俺は君の所に、行かなければと、思ったんだ」


 途切れ途切れにそう話しを続けるグライブに、私はただ頷いて見せる。何か言葉を返したら、私の気持ちがあふれてしまうそうで。


「誰かが俺の中で囁いたんだ。次は、大事なものを見失わないようにと」


 あれは、と言葉を切ると、グライブは一度、ゆっくりと瞬きをしてから私を見つめる。


「もう2度と会えないと覚悟していた。みんなにも、君にも……こうして、触れることなど、当の昔に諦めていたのに」


 彼はそう言うと、私の頬を何度も撫でて、その感触を確かめているようだった。


「このまま眠ってしまったら、これが全部、夢かもしれないと思うと、俺は、それが恐ろしくてたまらない」


 そう言って、グライブの瞳は言葉同様に不安そうに揺れる。

 でももう大丈夫なのだと、私は精一杯で彼に笑顔を向けた。これは夢ではないし、目が覚めても決してみんないなくなったりしない。そして、もうグライブは一人にならなくてもいいのだと。

 私はそんな気持ちを精一杯込めて。


「おはよう。グライブ」


 そう言った。

 すると、グライブは少しだけ驚いたような表情を見せた後、柔らかく目を細めて笑い返してくれた。


「ああ、おはよう」


 悪夢はもう、終わったのだから。





 それからは、毎日大変だった。主にグライブとドクが。

 まずは体力回復が最優先として、ドクが栄養剤と点滴、そしてサプリメントを毎日グライブに飲ませ、体力が戻ってくると、食事を流動食に変え、固形物も少しずつ食べられるようになってくると、今度は基礎体力を取り戻すためにリハビリが始まった。

 リハビリの内容は、最初はドクが腕や足を動かしたりマッサージしたり、私も教えてもらいながら手伝ったりしたけど、そのうち、グライブ自身で動く腕と足を鍛えるために、鉄でできたダンベルのようなものを持ち上げていたりと、日々回復に努めていた。その頃になると2か月ほどが経っていて、少しずつではあるものの体の表面の皮膚も戻ってきて、少しずつ毛が生えてきたとか何とか。

 未だにミイラ状態なのでどこまで毛が生えそろったのかは今のところ私には謎である。

 だけど再生治療のおかげで両耳は綺麗に治ったし、尻尾も後は毛が生えそろえば問題なしとのこと。尻尾のある獣人さんって、やっぱり尻尾は大事なんだろうか? と言うちっさい疑問は一先ず脇に退かしておいて。

 いつものようにリハビリ運動後、私とグライブは部屋で一緒におやつを食べていた。リンゴのような見た目のなぜかバナナのような甘みがある不思議な果物だ。ナナラップルと言う名前らしい。


「あーん」


 と私がグライブに切ったリンゴ擬きを差し出すと、グライブは少し照れくさそうにそれをぱくりと食べる。

 えーっと、別にバカップルよろしくイチャイチャしているわけではなくて、言い訳させてもらうですね。左腕しか使えないグライブの腕も包帯でぐるぐる巻きにされてて、素手では食べられないし、キッチンからフォーク持ってくるのを忘れて、取りに行くのが面倒だからと言う、タダのものぐさなあれであって、そうそう、別にイチャイチャしてるわけでは……。


「なによぅ。ここだけ真夏なわけぇ?」


 なんて、いつの間に来たのか、サンタナさんがニヤニヤしつつ手で自分の顔を仰ぎながら入ってきた。


「べ、別にそう言うのじゃないからっ! フォークを取りに行くのが面倒だったのっ。本当にそれだけだからっ!」


 慌ててそう言い訳しながら、私はサイドテーブルに果物を入れたお皿を置き、椅子から立ち上がる。


「照れなくてもいいじゃない? ねぇ?」


 と、さらにニヤリとやらしい笑みを見せるサンタナさんに、私のほうが頬に無駄な熱が集まるのを感じる。


「本当に違いますからっ!」


 そんな私とサンタナさんのやり取りを呆れたように横目で見ながら、ドクも部屋に入ってくると扉を閉めてグライブのほうへと近づく。


「病室で騒ぐな。ったく。で、どうだグライブ」


 触診をしながら、ドクがそう聞くと、グライブはひとつ頷き。


「悪くない」


 そう答えていた。


「経過もいいな。おいサンタナ、リオをからかっていないで用事を済ませろ」


 ドクは一通りグライブを診た後、振り返るとサンタナさんに指示をするように名前を呼んだ。


「はいはい。んじゃあ失礼して――」


 今度はサンタナさんがグライブに近付いて、彼のなくなった腕や足を触って何かを確かめているようだった。


「筋肉の付き具合は平気そうね。グライブ、あなた魔道機工(マジックギア)と魔工眼をいれる気ない?」


 そうサンタナさんが聞くと、グライブは少し考え込んで見せた。

 そもそも、マジックギアとマジックアイズって、何のことなのかと私は首をかしげてしまうが。


「所謂『義足や義手』それに『義眼』のことだな。従来の補助専用道具から、機械と魔道具を使った新しい技術でここ数十年でやっと実用化が現実的になった『可動式補助機工』って言われる代物だ」


 補足として、ドクが私にそう教えてくれた。


「可動式って言うと、動かせるってこと?」


 と私が聞けば。


「そう! この魔道機工のすごいところは魔法を神経伝達の神経回路と繋げることで、事実上不可能だった生体と無機物の接触部分における拒絶反応をなくすことに成功したことなのよ。魔道具を作る過程における融合の影響を機械に与えることで、科学と相反する魔法が反発するのを押さえることに成功したのよね。アプローチが真逆にある化学と魔法をどうやって融合させるかは長年の課題ではあったんだけど、神秘学的アプローチのアストラルに置ける位置が、科学の異次元論的側面と符合するいくつものプロセスを発見するに至ったわけだけど、これに関しては論文が出ていてね。それを読んだ方が詳しく分かるんだけど、簡単に説明するなら、異世界的概念がこの世界にも存在しているのであれば、アストラル的神秘論でいうところの精神を科学的壁の向こうと仮定して――」


「待てサンタナっ! お前の言ってることの半分も分かんねぇっ」


 と言うドクの言葉に、サンタナさんが「ごっめ~ん」と舌を出して『てへっ』と笑って見せる。

 うん。科学者さんって、オタクの類だよね。なんて私は思っていしまった。それはさておき。


「つまり、動かせる義手を付けようって話?」


 と、私が簡単にまとめると、サンタナさんとドクがほぼ同時に頷いてくれた。


「だが、可動式のギアは結構な値段だった気がするんだが」


 考えるしぐさのままグライブがそう言って難しい顔を見せるが。


「お金のことは考えないでちょーだいグライブ! 前よりは安くなってるし、それ以上に、私たちみんなから、あなたにプレゼントしたいのよ」


 そう言うと、サンタナさんはグライブに向かってウインクを飛ばす。


「気持ちは嬉しいが、義手と義足、それに義眼だろう? それだけでも結構な値段だ。お前たちにそんな負担はかけたくない」


 サンタナさんの言葉にグライブは苦笑いを返しながら、彼らしいまじめな言葉を吐き出すが、それはすでに織り込み済みと言わんばかりに。


「もうすでにサンタナが作っちまってるし、金ならとっくに支払い済みだ。それに、メンテ費用はお前自身で払ってもらわんといかんしな」


 そう言うと、ドクが口の端をニヤリと持ち上げて見せる。


「また勝手に……」


 とはいうものの、困ったような顔のままグライブが呆れた声を漏らすけど、その声は決して嫌がっているようなものではなくて。


「要らないならそれでもいいの。無理に押し付けたいんじゃない。たくさん無くした時間の中で、取り戻せないものだってあるけど、触った感触や温度くらいは取り戻してあげたい。そう言う、私たちの自分勝手で我儘なお願いってだけなのよ」


 サンタナさんがそう言って静かに笑えば、グライブはその言葉をかみしめるように目をつぶり、ふと顔をあげ優しげに微笑んで。


「そんなお前たちの我儘なら、俺はいくらだって聞いてやるさ」


 そう言って、嬉しそうに、そして幸せそうに浮かべた笑みが、私にはとても印象強く残った。



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