12・想いの結晶
水の音が聞こえた。小さな雫が、ぴちゃん、ぴちゃんと、落ちる音。
辺りは真っ暗だった。夜なのかと思ったけど、夜にしては黒すぎる。もしかして私はいつの間にか眠ってしまったのだろうかと、ふと顔を上げると、目の前には飾り気の一切ない黒いドレスと、黒いベールをかぶった女の人が立っていた。ただベールのせいで女の人の顔は見えない。
「一つ一つの『祈り』はとても小さいものだ」
女の人はそう言うと、私のそばまで来て腰を下ろした。辺りは黒一色で、そこに椅子があるようにも見えなかったのに、女性は確かに何かに座っている。
「愛するものへと捧げる純粋なる祈りは光になる。光はやがて奇跡を作りだす。私はそれを物質化しているだけに過ぎない」
女の人はそう言って、その左手に持っていた小瓶を私に見えるように持ち上げた。
その小瓶は、先ほどまで私が持っていたものと同じデザインで、私は自分の持っていた小瓶がないことに気がつく。けど、女の人が持っている小瓶を取り返そうと言う気にはなれなくて。
「祈りの数は関係ない。どれだけ深く想い、捧げるかが問題なのだ」
女の人の持つ小瓶には、ぴちゃんと一粒、また一粒、淡く光る液体がたまっていく。
「咎人が心から悔い改めること、だがそれだけでは十分ではない。同時に他者の想いが必要なのだ。自分ではない別の誰かでなくてはならない」
女の人の声はどこまでも穏やかで、優しく暖かな音を響かせていた。
「己の想いを、時間を、苦痛を、他のもののために捧げること。すなわち自身を犠牲にすることができるものの祈りこそが、奇跡を産み落とすのだ」
そう言って、女の人は口元に笑みを浮かべた気がした。
「持って行っておやり」
女の人はそう言って私に小瓶を差し出した。中には淡く光る液体が瓶の口元いっぱいまでたまり、しっかりと封がされていて、私はその小瓶を受け取って、しっかりと両手で握りしめる。
「私のそばに置こうかと思っていたが、あの子を想いしたうものがこれほどに多いとは、これほどに想われているのなら、連れて行くわけにはいくまいよ」
そう言うと、女の人は今度こそ、見える口元を笑みの形にして見せた。
「目覚めれば、お前は全てを忘れているだろうが、なに、気にすることはない。いつか、終わりの先にまた出会えるものなのだ」
そう言うと、女の人は私に背を向けて黒い世界に溶けていく。
それと同時に、私の視界も黒くぼやけていった。
ふと気が付けば、私は暗い室内で目を覚ました。
もしかして寝ていたのかと、うずくまっていた体を起こして部屋をぐるりと見まわす。明かりのない部屋はやけに薄暗く、ステンドグラスから入り込んでいた光はとっくになくなっていた。夜なのだろうかと、ぼうっとステンドグラスを見つめてしまう。
頭がよく回らない気がする。
祈りの間と呼ばれるこの部屋は、最初に見た通り何も変わってはいなくて、昼と夜がいくらか入れ替わったのは覚えているのだけど、一体、私はどれだけここに居るだろうか。
ここは本当に不思議な空間で、時間の感覚がおかしくなるというか。確かに昼と夜の感覚はあるのに、時間の感覚が溶けているというか、疲労感や空腹も感じているはずなのに。
そう言えば、私は夢を見ていたような気もする。どんな夢だったかは思い出せないけど。
そして私はふっと、うすぼんやりした光が私の握った両手からこぼれていることに気が付いた。
ゆっくりと、私は自分の両手を開いてみる。そこには私がずっと握りしめていた小瓶が確かにあって、よく見るまでもない。中にはうっすらと光をおびる透明な液体が入っているのだ。
(つまり、儀式は終わり?)
色のついた水じゃない。何の混ざりけもない、本当に透明な水だ。暗い室内であっても水自体が発光しているおかげて液体はよく見えた。
だんだんと、自分の心臓が緊張でドキドキと早く鳴りはじめる。意識もはっきりしてくる。
私は急いで立ち上がろうとして足元がふらつき、慌てて壁に手をついた。思った以上に体が動かない。
でも、今はそんなことにかまってはいられないのだ。
足が震えてうまく歩けない自分に少し苛立ちながらも、壁を伝い、扉を開けて階段を降りる。
自分でもよく分からないけど、この小瓶の水を、彼に『持って行って』あげなくてはいけないと、私は気持ちばかりが焦ってしまう。
やっとの思いで階段をおりきり扉を開けると、そこにはイリヤエルさんとジェリエルさん、そしてサンタナさんがではなく、ドクがいっせいにこちらを向いて、3人が慌てて私に駆け寄ってきたかと思えば、イリヤエルさんが私を支えてくれた。
「これを……」
私は3人に見えるように小瓶を持ち上げる。
「これは……」
ジェリエルさんの少しだけ驚いたような声が私の耳に入るが、どうにも私の視界がぼやけてしまう。3人の顔を見たから、安心してしまったのかもしれない。なんだか、やけに眠い。さっきも室内で寝てたはずなのに。
「まさに、『奇跡が成った』のでしょうね」
私のすぐそばから聞こえるイリヤエルさんの言葉に、じゃあ、これが探していたもので間違いなんだと、私は嬉しさと興奮で顔を上げた。
「すぐに、行かないと」
彼がいるであろう場所まではすごく時間がかかるから。
「バカヤローっ! グライブを助ける前に、お前が死んじまったら意味がねぇだろうがっ!」
ドクにそう怒鳴られて、私はあまりにも大げさなその言葉に、首をかしげてドクを見上げた。
「ちょっと眠いだけ、だし。大丈夫」
「はぁぁ~。大丈夫じゃねぇんだよ。まったく」
ドクはそう言うと私を背中に背負い、足早に塔を出ていく。
「祈りの間は時間の感覚が狂うので、本人には何日あの部屋に居るのかと言う感覚は1日で溶けてしまいますから、あまり怒らないであげてください。ガバナン」
ドクの横を同じように早足で歩くイリヤエルさんは、ドクが進む方向のドアを先に開けて、ドクが進みやすいように誘導しつつ、苦笑いをみせていた。
私としては、ドクの怒りように不思議に思っているくらいなのだけど、と、首をかしげる私に。
「リオ、君は昨日の時点でまるひと月、祈りの間に居たのだ」
ジェリエルさんがそう言って、ドクが怒っている理由を教えてくれた。
「ウソ……」
私、そんなにあの部屋に籠ってたの? ほんの2・3日くらいだと思ってた。
「嘘なわけあるか。こっちはギリギリまで待ってたんだっ。お前は入院っ。1週間は絶対に安静っ! 異論は認めんっ!」
ドクは強い口調でそう言うが、でも待って。
「ひと月も、あの部屋にいたんですよね? じゃあ、急いで行かないとっ。間に合わなくなっちゃうっ」
グライブがどれだけ耐えられるのかは、まったく分からない。終わりが近いって、ドクだって末期だって言ってたのに、これでさらに一週間、向くに行くまでにさらに数日も掛かることを考えれば、のんびりなんてしてられない。
だというのに、私の体には力が入らなくて。必死に体に力を入れようとするけど、私の体は言うことを聞いてくれない。そんな焦りと不安でもがく私の背を、そっとジェリエルさんが優しく、労わるように撫でて。
「お前の気持ちはよく分かる。私たちも同じ気持ちだ。だが、もしリオに何かあれば、一番悲しむのはグライブだ。君もよく分かっているだろう?」
私に言い聞かせるように、ジェリエルさんがそう言って微笑んで見せた。
分かる、分かるよ。だけど……。
「リオ、獣人ってのは生命力が強い。だから大丈夫だ。特にグライブは伝説級の傭兵だった男だ。そう簡単にくたばらねぇよ」
ドクの優しく、確かな声が彼の背中から伝わってくる。
ジェリエルさんの言う通りだ。みんなだって不安なはずだ。心配していないはずがない。
私はドクの背中に顔を隠して、何度も頷いた。
それから本当に一週間、私は点滴と大量の栄養剤やらを飲まされて過ごすことになった。
実際、私が過ごしたひと月の間、本当に飲まず食わずでいたのだ。本来なら水を飲まない時点で数日で死んでしまうところなのだけど、平気とは言えないまでも、ひと月も生きていられた理由は、あの部屋、つまり祈りの間にいた影響なのだとか。
イリヤエルさんから説明はされていたものの、あの部屋にいる間の時間の感覚は、全くと言っていいほど分からなくて、まさに、時間が溶けている状態だった。これは実際に体験しないと言葉では説明が難しいのだけど。
そして、私の持ち帰った光る水は、イリヤエルさんとジェリエルが言うには、多分『奇跡の水』で、間違いないだろうと言ってくれた。けど、『多分』と言うところがミソである。もう不安しかないわ。
半信半疑ではあるものの、グライブの時間があまり残されていないことや、水の成分を検査するような時間もないことから、このまま私の体力の回復を待ってグライブを迎えに行くことが決まった。
私が体力回復に全力で頑張っている間、他のみんながグライブを助けるために必要なものを用意すると言って、あちこち駆けずり回っていた。何でも大量の聖水が必要で、イリヤエルさんに頼んでジェリエルさんと二人で樽で聖水を用意していた。しかも10個ほど。
そして、ユーデスさんとアーケイさんは、丈夫な荷車を用意しつつ、世界一足の速い騎獣『ライノドン』という小型の恐竜のようなヤツを借りてくるのに、大変だったらしい。
モニカさん、サンタナさん、そしてファランスさんは、知り合いや友人を呼び出し、集められるだけの薬師やら治療再生士やら回復魔法専門の魔法使いやらを集めまわっていた。
そしてドクは私の治療をしつつ、地下にいろんな道具をそろえ、魔法で何やら補強したりと、グライブを受け入れる準備をしているようだった。
かくいう私も、何もしていなかったわけじゃない。
後から合流したグライブの友人、グエンディ・マグナスさんと一緒に、腐食の森周辺の地図を身ながら、私が最後にグライブと別れた地点を大凡ではあるものの確認したり、ドクの手伝いで包帯やら医療道具を地下に運んだりと、手伝える範囲でやっていた。
ちなみに、グエンディさんはムキムキマッチョな女性で、黄色いとさか(?)がトレードマークの白いトカゲさんだった。しかも3児の母だとか。
順調にかは分からない。でも、準備は進んでいる。
出発を3日後に控えた夜。私は『奇跡の水』をじっと見つめながら、仮眠室のベッドに座りてずっと考えていた。
ドクが言うには、奇跡の水で呪いが解かれても、グライブが生き残れる確率はかなり低いなのだとか。私が知る限りのグライブの状態を詳しく話した後、ドクは難しい顔で。
「俺の知る限り、本来であれば腐敗の中期症状が出ている時点で、どれだけ強靭な生き物であっても、すでにまともな内臓機能はひとつもない状態になり、本来であればギリギリ治療が間に合うかどうかと言うところまで来る」
腐食毒による影響の後期ともなれば、本来、内臓のほぼすべてが腐り、アンデット系のモンスターにでもならない限り、生物は生きてはいられない状態であるはずだと、そう教えてくれた。
過度な期待はしないほうがいいという、ドクなりの忠告なのかもしれない。
暖かく柔らかな光を帯びる小瓶を見つめ、私はただ重く息を吐き出す。
呪いが今のグライブを生かしているのは間違いなく、本来であればとっくに死んでいてもおかしくない状態で、そんな状態の彼から『呪いを取り除く』と、彼がそのまま命を落とす可能性もあるのだと。
そんな話を聞かされて、本当に呪いを解くことが、彼のためになるのかと、そう考えてしまう。
もしかすれば、彼の死期を速めるだけなのでは? そう考えると、私は小瓶の中身が『奇跡』なのか、彼を殺す毒の類なのか分からなくなる。
慈悲と銘打ってはいても、果たしてその『奇跡』が、本当にみんなが望んでいるものだと、断言できるのだろうか。
苦しみからの解放が、果たして『生還』につながるのだろうかと、私は窓を見上げてガラス越しに空を仰ぐ。
上側がかけた月と、それに寄り添うように小さな月があって、その2つから少しだけ離れたところにもう少し小さい月が、2つの月を追うようにして並んでいる。夜空には月より明るいものはなく、月を彩るように無数の星がきらめているだけだった。
今日は雲一つない夜空だ。
あなたにも、今日の空は見えているだろうか。
そうやって空を眺めていれば、ふいに部屋の扉がノックされ。
「悪いね。まだ起きてるかい? リオ」
そう言いながらグエンディさんが部屋に入ってきた。
私が今お借りしている仮眠室は、仮眠室と言うだけあって、ベッドとサイドテーブルだけしかない簡素な部屋だ。カーテンはかろうじてあるものの、本当に寝るためだけの部屋と言っていいだろう。
飾り気はないが、部屋を貸してくれるだけでも、本当にありがたいので私に文句はないのだけど。
「まだ起きてますよ」
彼女の声に振り返り、口元に笑みを張り付けて、私は暗い考えをいったん頭から追い出して、グエンディさんを迎え入れた。
「当日の装備の確認をしに来たんだが……」
グエンディさんはそう言いかけて、私のそばまで来ると私の隣に腰を下ろし、私の顔を覗き込むようにして見つめてきた。
「なんか、元気がないないようだけど、どうした?」
なんて、私を気遣う言葉までくれる。
誤魔化すわけではないけど、とりとめのない不安に気持ちが沈んでいただけなのだ、と私は渇いた笑いを口から漏らすしかなかった。
「色々考えちゃって」
そう私が色々な感情をそうまとめると、グエンディさんはひとつ唸って。
「まあ、考えちゃうだろうね。特殊な状況だ。アタシらにとってもだが、リオ、あんたが一番大変だろうさ」
私が一番ってことはないだろうけど。
きっと、みんながそれぞれ大変ではあると思う。それぞれの事情もあるだろうし。
「なんかモヤってるなら、吐き出しちまった方が楽にはなるよ? ため込むのは体に良くないからね」
そう言って笑顔を見せてくれるグエンディさんに、私も自然と笑い返していた。
それから、私はぽつぽつと先ほどまで考えていたことをグエンディさんに話して聞かせた。彼女は聞き上手だとも思う。
ドクの話や奇跡の水のこと、それにグライブのことも、頭で考えても解決することはひとつもないのに、ぐるぐると考えが回って、結局よく分からない不安や焦りや、疲れまで感じて、そして、また最初に戻ってしまう。
そう言う、とりとめのないものには、正直に言って解決策も答えのようなものも出てはこないのだ。
一通り私が自分の心のモヤっとしている部分を吐き出せば、グエンディさんは明るく笑って見せた。
「アタシは単純なほうだから、難しいことはあまり考えないんだけど。ドクは医者だから大げさにいうものだし、呪いってのは本来、この世の一番偉いひとがアタシらのような幼い子供に与える罰だからね。神様ってのは奪いもするし、与えもするのさ」
そう言って、グエンディさんは窓越しに空を見つめる。
「ただね。ありもしない『希望』を神様は与えない。リオが『奇跡』を持ってきたんなら、きっとそれは神様がそうしてもいいと思ったことなのさ。頑張ったリオへの、ご褒美かもしれないね」
なんて、クスクスと笑うグエンディさんに、私もつられるように笑う。
「みんなのグライブを助けたいって思が、奇跡になるんだって、誰かから聞いた気がする」
ふと、そんなことを思い出し、誰に聞いたんだったかと、少し考え込んでしまう私に。
「じゃあ、リオは神の囁きを正しく聞き取れたってことだよ」
グエンディさんはまたおかしそうに笑って見せるが。
「でも、私はこの世界の人間じゃないのに……」
そんな赤の他人の私に、この世界の神様の囁きとやらが聞こえるものなんだろうか? なんて首をかしげてしまう。
「生まれた場所は関係ないんだよ。今この世界で生きていること。神様が囁く条件なんて、それだけで十分なのさ」
そんなグエンディさんの言葉に、この世界における『神様』について、少しわかった気がした。
奇跡の水が欲しくて信じてもいない神様に祈った私が言うのもあれだけど、この世界には本当に『神様』と呼ばれるひとたちがいて、いつでも監視しているのかもしれないと、少しの恐怖を感じるとともに、自らが生み出した所謂『子供たち』を、常に見守っているという意味においては、正しく『親』という役割を果たし続けているのかもしれないと。
あくまで、私がそう感じたというだけではあるのだけど、私の世界に居たかもわからない神様よりかは、まだマシなような気もするし、いや、どうだろう?
だけど、グエンディさんのおかげで、心の中にあったモヤっとしたものは少しなくなった気がした。
そのあとは、グエンディさんと当日に持って行く装備についての確認をして、その日は寝ることにした。話を聞いてもらったおかげで、今日はよく眠れそうな気もする。
奇跡の正体が何であれ、これを私が思う『希望』の内に分類してもいいのなら、グライブを助けることができるのかもしれない。
だから、私は、前向きに考えるように努めて、ベッドにもぐりこんで目をつぶった。
もうすぐ、グライブの元に戻れる。
(どうか、間に合いますように)
私はそう、心から祈って眠りについた。