9・アスクレピオスの杖
美しいエルフ改め、ファランスさんが傭兵ギルドに現れた理由は、傭兵ギルドの受付をしていたアザンと言う人が知らせに来てくれたから。と言うことだった。
アザンって誰だろうと思ったが、傭兵ギルドの受付と言うなら、思い当たる人が一人いた。私があの傭兵の男たちに絡まれている途中で出て行ってしまった眼鏡の男性だ。つまり、彼がギルドを出てファランスさんを呼びに行ったということなのだろう。
「私は元々ハンターギルドに所属していてね。グライブの情報が入ったらどんな些細なことでもいいから教えて欲しいと、傭兵ギルドのほうに話していたんだ」
ファランスさんにそう説明されて、なんで眼鏡の受付の人が途中で居なくなったのかはわかった。確かにタイミングとしてはグライブの名前を出した後だったと思い出したけど、それにしても、そのまま放置はひどい。そんな風に少し拗ねた気持ちで口をとがらせる私に、ファランスさんは苦笑いで。
「アザンを庇うわけじゃないけど、彼って戦闘はまるっきりダメでね。君を庇おうと助けに入って、やられてしまえば動けなくなってしまうだろうことも考えてのことだったと思うよ。だから、許してあげてほしい」
そう言葉を続けた。
そんな風に言われてしまえば、私としてはもう何も言えない。何しろ、相手は5人だ。普通に考えても体格の大きな男を相手に勝てるわけがない。ファランスさんの言う通り、助けに入って返り討ちになってしまえば、助けるどころが二次被害が出る上に、助けも呼べず、私もいいように傷モノにされて……そう考えると体がブルリと震える。
アザンって人の判断は、結果的に正解だったということだ。
そして、傭兵ギルドでの話が終わり、ファランスさんは改めて真剣な表情を顔に作ると。
「それで、君。リオ、だったよね? グライブのことを知っているんだね?」
そう静かに言葉を吐き出して、私の瞳をしっかりとのぞき込んできた。その瞳には何か強い思いや不安のような色がうかがえる。
私はひとつ頷き返すと。
「私を助けてくれたひとが、そう名乗ってました」
そう答えた。
グライブが嘘をつくとは思えないけど、まったく同じ名前の別人と言うこともありえる。そう思ったからだ。私を騙そうとする人だっているかもしれない。目の前のファランスさんだって、確かに私を助けてはくれたけど、本当にいいひとかは分からないのだ。
そう言う考え方は本当に寂しいと思うし、嫌だけど仕方ない。さっきだってそれで危うく……もう襲われそうになったことは忘れよう。
とにかく、私は慎重にならなくてはいけない、と、今さらながらに思う。本当に今さらだなぁ、私。
「詳しく、聞いてもいいかな?」
私の言葉にひとつ頷くと、ファランスさんはそう言って私に説明を促した。
私はこの世界に来たことも含め、グライブと出会い、彼に助けられたことや、彼と過ごした一週間のことを思い出せるだけ細かく、ファランスさんの質問に答えながら話して聞かせた。
そしてファランスさんと出会うまでを話し終わると。
「腐食の森か……なるほど。彼らしいな」
そう言って、ファランスさんは少し悲しそうに笑い。
「ひとまず、君を医者に見せなくては」
そう言うと、すっと立ち上がったと思えば、ファランスさんはまた私を横抱きに抱え――って!
「も、もう一人で歩けますからっ!」
さすがに落ち着いてくれば、姫抱っこの恥ずかしさに私は慌てて下ろしてくれと懇願してしまうが、ファランスさんは、ただただ美しい笑みを浮かべて。
「私のほうが歩くのは早いから」
と、さっさと歩きはじめてしまった。
まったく下ろす気はないようだ。何でっ!?
落ち着いてくれば周りにも意識が向くもので、何事かと周りの視線が私たちに集まるのがよく分かった。恥ずかしいなんてものではない。何この仕打ちっ。
そりゃさっきも同じように抱えられていたけどもっ! それはもう何というか、動揺していたし、恐怖で体も震えていたし、腰も抜けてたから仕方なかったと言えるけどもっ!
もう一人で歩けるくらいは落ち着いたのだっ! これでは別の意味で体が震えてしまうっ!
(恥ずかしいっ! マジでっ!)
私の懇願どころか、大丈夫だと何度言っても聞いてはくれず、ただ美しい笑みを顔に称えたまま、黙々と歩くファランスさんには、何を言っても無駄なのかと、私は両手で自分の顔を覆いながら、この恥ずかしい仕打ちが早く終わることだけを必死に祈ることしかできなかった。
しばらくファランスさんが迷いなく道を進み、メイン通りからは離れ、路地を通り抜けて、立体迷路のような居住区を少し進んだところで、こじんまりした建物の前で足を止めた。
やはり木造建築ではあったが、両開きの玄関扉は解放されていて、玄関に影を作る庇の横辺りに、杖とその杖に絡みつくような蛇の描かれている看板が吊り下げられていた。
何だっけ、このシンボル。と、私が看板に描かれている絵のことに気を取られている間に、ファランスさんは建物の中に足を踏み入れ、やはり迷いなく廊下の先へと進む。
解放された玄関から中に入れば真っ直ぐな広い廊下があり、廊下をはさんだ左側には病院の待ち受けの用の椅子が並び、その椅子には数人の人が座っているのが見え、右側には2か所、診察室のような場所が見えた。奥側の部屋は真っ白いカーテンが出入り口を隠していて見えなかったが、手前の部屋は中が丸見えだったので、たぶん診察室なのかと予想ができた。
廊下の突き当りには扉があり、ファランスさんは扉を開けると――両手が塞がっているのによく開けられたなぁ――廊下はさらに3方向に分かれていて、ファランスさんは迷うことなく右側の通路を進んだ。
廊下をさらに進めばいくつかの扉があり、その最奥の扉まで来ると、ファランスさんは扉を開けて。
「ドク、居るかい?」
と、ためらいもなく部屋に入った。
「毎度ノックくらいしろって言ってんだろう」
言葉ではそう言いつつも、この部屋の主だろうその人は、いつものことと諦めているのか、丸い椅子をくるりと回してこちらを向いてため息ひとつ。
そこに居たのは、白衣を着た鬼だった。肌の色は少し赤みをおび、丸い眼鏡の奥に青い光を宿す瞳が少しけだるげで、白髪交じりの薄い茶色の髪の毛は短く、額からの伸びる真っ黒い2本の角と、閉じた口からはみ出るほどの大きな2本の牙がとても目立っていた。
そして丸い眼鏡のズレを直すようなしぐさを見せた後。
「なんだ、やっと嫁をもらう気になったのか」
なんて、鬼のお医者らしきひとは気だるげに口の端を持ち上げて見せた。
「違うよ、ドク。腐食の森で1週間以上過ごしたらしい彼女の治療を頼みたくてね」
ファランスさんが笑顔でそう答えると、ドクと呼ばれた人はそばにあった丸椅子を自分の前まで引っ張ってきて、誰が何かを指示するまでもなく、ファランスさんはその椅子に私を座らせ。
「彼はガバナン。お医者様だよ。みんなからは『ドク』って呼ばれて愛されているんだ」
なんて、にこやかに目の前の人を紹介してくれるのだが、紹介された当の本人は眉間にわかりやすいしわを作りながら、聴診器を準備しつつ。
「こそばゆいんだよ。そう言う紹介の仕方はやめろ」
と、不機嫌な顔を作りながら私の鎖骨の下や胸の上辺りに聴診器をあてがい、その音を聞いているようだった。
「口を開けて」
音を聞き終わると、ドクは鉄の小さい板のようなものを取り出して、私の口に入れると板で私の舌を抑えるように喉の奥を見ていた。
その後、脈拍を測り、目の瞳孔を調べ、一通り診察を終わらせると。
「少し雑音が混じってるが、入院まではしなくて大丈夫だろう」
と言っていったん席を立ち、奥にある部屋へと消える。
「たいしたことがなくてよかったね」
と、ファランスさんに言われて、私は素直に頷いた。のんびりしていたら今頃、入院ってこともあったのかもしれないことを思えば、動けなくなることがないだけありがたいと思えた。
ドクを待っている間、改めて室内に目を向ける。
わりと広い室内には様々な棚があった。本棚やら薬品棚、小さな標本棚や加工前の薬草が仕舞ってある棚、研究室だといわれても納得できそうな見た目をしていた。
後はドクが座っていた大きな机には様々な本や書類が山になっていて、毎日きっと忙しいのだろうと想像できた。
部屋のほぼ中央には3人の巨体が余裕で座れるだろう大きなソファーが2つあり、その間に木目の美しいシンプル机があった。テーブルにはボタンのような薄桃色の綺麗な花が飾られていて、空いた窓から時折、吹く風に揺られていた。だけどさすが病院と言うのか、乱雑なところはなく、室内はきちんと整頓されていて、薬品などの匂いも相まって、ああ病院だなぁ。と言う当たり前だけど、どこか懐かしさを思わせる気持ちを私に思い起こさせる。
病院は嫌いだったはずなのに、異世界でも、病院の匂いは同じなんだなと。
ふと、風に揺られる白いレースのカーテンを見つめた。
少し寒い気もすると思えば、外はうっすらと赤みを帯びていた。もう夕方なんだ。何て改めて。
この町に入ったときはまだ午後になるあたりだったと思うのだけど、時間が過ぎるのがあっという間に感じた。今日、一日で色々ありすぎたせいでもある。
町を目指してもう10日以上が経ったなんて、本当に信じられないくらい早く過ぎていく。
そうやってぼうっと待っていれば、ドクが何か得体のしれない液体に満たされたジョッキをもって戻ってきて……って、何だろう。あれ。
ドクは液体に満たされたジョッキを私の前にドンと置く。ジョッキの大きさは私の顔を簡単に隠せてしまえそうなほどに大きく、じっくりと中身の液体を見てみれば、うっすらと黄色に発光している黄緑色の液体
で、うっすらと湯気までたっている。暖かいものなのだろうか?
「さあ、これを飲め」
じっと液体を凝視していた私に、ドクがそう言ってまた椅子に座る。
「はい?」
ドクに言われた言葉に理解が追いつかず、私は思わずドクの顔を見て首をかしげてしまう。
これって、このジョッキの中の得体の知れないものを? これ飲み物だったの? いやいやいや、え? だって、これ……。
私は恐る恐るジョッキを両手で握り、中身を揺らしてみる。
とろりとした柔らかさがあって、思った以上に冷たいのだと分かった。湯気ではなく冷気が立ってたのかと、改めて白い『もや』の正体に気が付いたが、これが冷たかろうと、暖かかろうと、わりとどっちでもいいし、どう見ても、飲んでいい類の物には見えない。
(飲むの、これ?)
いや、でもなぁ。
医者が持ってきたものなんだから、薬の類であるのは間違いないのだろうけど、いざ飲めと言われても、色やトロっとした見た目が、どうしても何と言うか、ヘドロを思わせ、なんとなく顔を近づけてにおいをかげば、青臭いような、生臭いような。
なんて、警戒心マックスでジョッキを握ったまま動かない私に。
「フフッ、確かにこれは必要と分かっていても躊躇するレベルだからね。だから、もう少し飲みやすく工夫したほうがいいって言ってるのに」
そう、ファランスさんがおかしそうに笑いながら、私の横で肩を揺らして見せた。
ああ、これはやっぱり飲まないといけないものなのかと、軽く絶望感を覚える。
「何回もこんなものを飲むより一回で飲んじまったほうが楽だろうが」
ファランスさんの言葉に、ドクがそう言ってひとつ息を吐き出して見せるが、作った本人が『こんなもの』と表現するほどのものであることは理解してしまった。
「お2人も、飲んだことはあるんですよね? ちなみに、どんな味なんですか?」
と問う私に、ファランスさんとドクは互いに顔を見合わせたかと思うと、同時に眉間に深くしわを寄せ、非常に難しい顔を見せ。
「まあ、飲んだことのない冒険者のほうが少ないんじゃないかな。味については、味わうのはやめておいた方が賢明かなぁ。何と言うか、苦みと酸味があってね。少々生臭いから、一言でいうなら、吐きそう?」
飲んだことのある経験者が言うからには、控え目に言ってヤバそう。
「中身は全部、植物性の薬草なはずなんだが、混ざるとすごいことになる。ちなみに、解毒効果や再生効果、栄養剤やら中和剤やら諸々混ざった腐食治療の薬だ。俺も試行錯誤してはみてるが、甘くすると余計に吐き気がしてくるし、味を消そうにもミルクなんかと混ぜると余計に生臭くなってなぁ。かと言ってお茶類と混ぜると色々と効能が消えたり変化したりで混ぜられねぇし。酷い臭いと味のせいで、数回に分けて飲む方が患者の負担になりそうだってんで、一気に飲むことを俺はすすめてる」
作っている本人でさえ、そう言って眉をしかめる不味さと言う。
だけど、これが治療に必要と言うことなら、飲まないという選択はない。
私はすうっと息を吐き出すと、両手でしっかりとジョッキを握り、息を止めて一気にジョッキの中身をあおる。
口の中に入ってきた瞬間、ドロッとした液体がのどを通らず、無理やり飲み込めば何やら粘つく感触に喉の奥から別の酸っぱいものがこみ上げてきそうになり、噴き出しそうになるのを耐えながら、どうにかこうにか飲み込んで、やっと一気に飲むことをすすめられた理由が分かった気がした。
こんなもの、小分けにして飲みたくない。
口の中に広がる青臭さとゴウヤ顔負けの苦み、そして生の青魚のような独特な生臭さが混ざり、さらにグレープフルーツとレモンを足したような酸味と、なぜか自然な甘みまで相まって、一言でいうなら、吐きそう。
途中でやめたら絶対に飲めなくなってしまう。そう直感的に思った私はとにかく全部を飲み干そうと、何度も吐き戻しそうになりながら、一滴残らず飲み干した。
異世界に来て、これが一番辛かったことかもしれない……。
口直しの糖蜜を入れた暖かいミルクを飲ませてもらいながら、ドクとファランスさんが話している横で、私はすっかり太陽が隠れてしまった空を窓越しに見ていた。ファランスさんが私と出会った経緯やらなんやらをドクに説明しているのだ。ドクもどうやらグライブの友人の一人らしい。
日が落ちてさすがに寒くなってきたからと、窓は全部閉められてしまったが、カーテンは逆に空いたままで、空に光るいくつもの星を私はじっと眺めていた。当然ながら、私の見知った星はひとつもない。
一応、グライブに頼まれていた黄色い玉をファランスさんに渡してあるが、ファランスさんが言うには、グライブと最後に仕事をしたのは彼ではないようで、黄色い玉を開けないとか? 開くとは何だろうかと思った私だが、どうやら黄色い玉は『メモリーオーブ』と言うものらしく、魔法で映像やら音声を記録できるものだそうだ。
メモリーオーブは中身の記録に『鍵』を掛けられるらしく、鍵は何かしらの言葉であるため、知らなければ開けること、つまり中身の再生ができないのだとか。と言うことで、私の説明を一通り終わると、ドクとファランスさんはグライブと最後に仕事をした人物の予想大会を始めた。
「すぐに連絡が取れそうなのは、アーケイとエルディース夫妻かなぁ?」
ファランスさんはそう言うと、テーブルに用意された2つのカップのうちの片方に手を伸ばし、中身を軽く呑み込んで見せる。
「俺のほうはサンタナなら連絡できるか。ったく、どいつもこいつも大人しくしてねぇからなぁ」
ドクはそう言って頭を後ろ手にガシガシとかいて、溜息交じりにお茶を飲んだ。
「傭兵もハンターもレンジャーも同じだね。一度、仕事が入ると数日、或いは数週間なんてざらだろ?」
「俺はお前らのおかげで食いっぱぐれはねぇがな」
なんて2人のやり取りを見つめていれば、ふいにドクが私に顔を向ける。
「ところでリオ、お前、今日の寝床はあるのか?」
と聞かれたが、寝床はおろか、今日食べるものだってどうしていいか分からない状況の私は、首を横に振ることしかできない。
だが、そんな私の返事など予想済みだったのか、ドクもファランスさんも特に驚いた様子もなく。
「稀人だからね」
「そりゃそうだ」
そんな一言で2人は納得してしまっていた。
それにしてもだ。ここに来るまで必死だったから忘れていたけど、私だって、身の振り方を考えなくてはいけない。休める家とか、食事とか、何よりも仕事を探さなければいけない。それに、私には、どうしてもやらなきゃいけないことがある。そう考えながら私が両手で持ったカップの中身を見つめていると。
「ひとまず診療所の仮眠室を使っていいぞ。グライブの件もあるしな。しばらくここに居ればいい」
そう言って、ドクはまたお茶を一口。
「いいんですか?」
「無一文な上に常識さえ分からない世界に来ちまったお前さんを、放ってなんて置けるかよ」
と、ドクは眉間にしわを寄せながら、ひたすらカップに口を付けていた。
そんなドクの姿に、ファランスさんはおかしそうに笑いながら。
「ね? みんなに愛される人なんだよ。彼ってさ」
なんて、私にこっそりと耳打ちをした。そんなファランスさんの言葉に、私もつられるように笑ってしまう。
ああ。ここは、あなたの残滓が香っている。
暖かく優しいグライブの面影が、私の胸をぎゅっと握ったような気がした。
「おいっ! こそこそと、人のことをお人よしみたいに言うんじゃねぇっ!」
「おっと? お人よしがなんか吠えてるね?」
「人のこと言えた義理かお前はっ!」
「いやいや、私はドクほどじゃないよ。だって、お金のない患者の治療費をタダにしてあげたりとかねぇ?」
「分割で後払いだっ」
「おや? もらったためしがあったかな?」
「う、うるせぇっ。ニヤニヤすんなっ!」
なんて、二人の仲睦まじい漫才に、私は微笑ましくてつい。
「ドクって、優しいひとなんですね」
なんて言ってしまって、ファランスさんはお腹を抱えて大笑い。ドクは何も言わずに口をパクパクとさせたかと思うと、私とファランスさんに背を向けて、とっくに空っぽになってしまっているカップの中身を飲み続けていた。
元々赤みのあるドクの肌が、さらに赤くなっていた気がした。