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突然現れた騎馬の集団によって孤児院は包囲され、辺りは異様な雰囲気に包まれた。騒ぎを聞きつけた村人たちが何事かと遠巻きに集まってきている。ミラーナはレディックに背を向け、すぐ側で固まっているオッズに小声で話しかけた。
「オッズ、お願いがあるの。」
「え?え?」
「落ち着いて!すぐにあの子のもとへ行って部屋に隠れて!鍵をかけて声を出させないようにして!早く!!」
「わ、分かった、行ってくる!」
オッズはアワアワともたつきながら扉へ向かい、建物の中へと入っていった。その背中を見届け、無意識に止めていた息をフゥッと吐き出した瞬間、背後に重い気配を感じて振り返った。すぐ目の前にレディックが立ちはだかり、ミラーナをジロッと睨み下ろしている。その眼光は鋭く、額には六年前には無かった傷痕が斜めに入っていた。
「何をコソコソしている?」
「な、なんでもありません…」
「ならばなぜ俺の目を見ない?」
「その…そう、額の傷が…い、痛そうだなと思っただけです。」
「うん?あぁ、これか。…醜いか?」
「そんな!そんなことありません!国の為に戦い負った傷ですもの、醜いだなんてそんな…」
「…違う。戦いで負ったものじゃない。」
「え?」
思わず『違うの?』という声を上げる。ミラーナは頭上高くにある額の傷痕をマジマジと見つめて首を傾げた。どう見ても、戦いの中で剣先を避けた時に負ったような傷痕がそこにある。
----じゃあなんでこんなにスパッと切れてるのかしら…。
戦場ではないのなら、暗殺されそうになったのだろうか。不意にミラーナの胸がざわつき、もっとよく見ようと爪先を上げて目線を高くしたところで、レディックのしかめた顔が目に入った。その眉間には深い皺が刻まれている。
「…近い。」
「あっ!も、申し訳ありません!ご無礼をお許し下さい!」
しまった、と慌てて足を下ろして目を伏せ、ミラーナは一歩下がって深く頭を下げた。領主の子息の顔を真正面から堂々と覗き込むなど不敬にも程がある。頭を下げたまま止まっているミラーナに、レディックは冷たい声を落とした。
「だから…いや、もういい。それより、俺がここへ来た理由は分かっているな?」
「理由?いえ、国の英雄である貴方様がこのような場所に来られた理由などまったく見当もつきません。」
「シラを切るつもりか?ならば…どこにいる。」
「ッ!」
ミラーナはビクッと肩を震わせ、見開いた目でレディックを見つめた。なぜ知っているのかと目で訴えるが、男は眉一つ動かさずに見下ろしてきた。
「な、何を…言って…」
「ふむ、ではこれならどうだ。俺の娘はどこにいる?」
「違います、あの子は…!そ、それに、あ、あな、貴方様のご令嬢がこのような場所に…!」
「あ!お母さん、ここにいたぁ!」
ガタッと扉が開く音に混ざって愛らしい幼い声が響く。ミラーナは勢いよく振り返り、顔を青くするオッズの側にいる少女に目を止めた。そのすぐ後ろには、武具を身につけた男が立っている。知らぬ間に恐ろしい形相になっていたのか、ミラーナを見るオッズの表情がみるみる強張っていった。
「ナデッタ!オッズ、どうして…!」
「し、しょうがないだろ!?部屋へ行った時にはもう遅かったんだよぉ!」
ミラーナは心の中で悪態をつき、すぐに駆け出した。一刻も早く娘を隠さなければならない。しかし男は駆け寄るミラーナから離すようにナデッタを背後に隠した。ニコリと微笑み、レディックに向けて声を張り上げる。
「団長この子ですよ!絶対に間違いありません!」
「お母さん、このお兄ちゃんがお母さんにご用事があるんだってー。」
「ナデッタ!早くこっちへいらっしゃ…あっ!!」
ミラーナの後ろから暴風をまとってレディックが駆け抜ける。レディックはあっという間にナデッタのもとへ辿り着き、膝をついて少女に目線を合わせた。
「これは…!」
レディックはしばらくナデッタと見つめ合い、チラと後ろに視線を向けた。視線の先ではミラーナが口を真一文字に結び、ダラダラと冷や汗を流して固まっている。それもそうだろう。まったく同じ顔が、並んでミラーナを見つめているのだ。それはもう、絶対に親子だと分かるほど似ている。
----どうしよう、どうしよう!なんとか誤魔化さないと…!
ミラーナが急いで脳内を回転させている間も、レディックはナデッタと見つめ合っている。とにかく引き離そうと再び駆け出した瞬間、男の口から耳を疑う言葉が発せられた。
「俺の名はレディック・バロイド。君の父親だ。」
「ちちおや?」
「やめて!やめて下さい!」
「君のお父さんだよ。」
「え?お父さん?」
「ナデッタ聞いちゃダメよ!くっ…おいで!」
ミラーナはナデッタをしっかりと抱き締め、レディックの姿を見せないように娘の顔を後ろに向けた。そして震える手でナデッタの小さな背中を押さえ、声を振り絞った。
「お戯れはおやめ下さい!」
「戯れだと?この俺に、君との関係は戯れだと言っているのか?」
「む、娘の前で何を仰るのですか!」
「俺が娘の前で何を言おうが自由だ。」
「貴方様の娘ではありません!」
どんなに顔が似ていようと、レディックとナデッタが親子である証拠はない。親子である可能性も低い。なぜなら関係を持ったのは一度きりで、それから六年も経っていれば互いに他の相手がいてもおかしくはないからだ。他の男との間にできた子である可能性の方が高いのだ。そこに望みをかけるしかなかった。
ふと視界に影がかかり、ミラーナは顔を上げた。逆光の中で男の影がゆらりと揺れている。冷たい表情と怒りを宿した眼差しで睨み下ろしながら、静かに口を開いた。
「俺の子じゃないだと?つまり君は、あの後他の男と…」
「おやめ下さい、娘が聞いています。そ、それに私が誰と何をしようと、誰にも関係の無いことでございます。」
「…。」
「ましてや貴方様のようなお方が…お気になさることではございません。どうかこのまま…あぁっ!」
突然左の手首に痛みが走り、ミラーナは思わず声を上げた。レディックのゴツゴツとした大きな手がミラーナの細い手首を掴み、指を食い込ませている。少しでも力を加えられれば簡単に折られてしまうだろう。
----痛い…怖い!
ミラーナが震える娘を抱き締めながら痛みに堪えていると、低く冷たい声が耳元で囁いた。
「なぜ俺がお前のことを気にしなければならない?思い上がるな。」
「あ…うぅ…。」
「俺が用があるのはお前じゃない。この娘だ。」
「なっ!?」
「おい。」
「はい。」
レディックの呼びかけに男がすぐさま返事をする。上司の無言の命令を受けて真っ直ぐにナデッタのもとへ歩み寄った。
----何?まさか、そんな…!
ミラーナの動きを監視するように見据える青い瞳にゾクリと背筋を凍らせる。動かそうとしてもビクともしない腕がこの先にある絶望を予告してくる。ミラーナは恐ろしい予感に手足が冷たくなるのを感じて咄嗟に腕を引いた。
グリッ
刹那、手首に違和感を感じてヒュッと喉を鳴らす。レディックに掴まれていた部分が痺れだし、ブランと下ろした腕の先に激痛が走った。
「あぁああぁッ…!」
「なっ…!」
「お母さん?どうしたの?お母さん!?」
「あぁぁ、うあぁぁッ…!」
ズクンズクンと脈打つような鈍い痛みが徐々に強くなっていく。左手首を見下ろす視界の端にナデッタの顔が映り、ミラーナはグッと奥歯を噛み締めて娘に微笑んだ。
「だ、だい、大丈夫…だから…」
「お母さん!うっ、お、お母さん!グスッ、痛いの?手が痛いの?」
「うぅ…あぁ…!」
「ミラーナ、すぐに手当てを!」
「やだ来ないで!あっち行って!」
ナデッタの叫び声と共にドンッと何かを押す小さな音が聞こえ、ミラーナは顔を上げた。目の前には両腕を広げて立つナデッタの背中がある。そしてカタカタと震える小さな身体の向こうには、険しい表情で母子を見つめるレディックの姿があった。
「ナデッタ…やめなさい…」
「お兄ちゃんはお父さんじゃないもん!」
ナデッタは鼻声で叫び、『うっ』と喉を詰まらせた。瞬きもせずに睨む瞳からは大粒の涙が流れ落ちている。ポタポタと地面に水痕ができていくのが目に止まり、ミラーナはハッと我に返って声を上げた。娘はまだ五歳になったばかりだ。相手が誰なのか分かっていない。
「ナデッタ、ダメよ!そんな口をきいてはいけません!」
「だって違うもん!私のお父さんはもう死んじゃったんだもん!」
「何?」
「ナデッタ!あッ…!」
「お母さん、大丈夫!?」
ナデッタは振り返り、母をギュッと抱き締めた。静かに息を荒げる母の姿に怒りが込み上げてくる。その純粋な怒りは真っ直ぐに目の前の男に向けられた。
「お兄ちゃんが本当にお父さんだったら、お母さんにこんなことしないもん!私のお父さんは優しい人だったって、お母さんが言ってたもん!」
「父親が…死んだ?君はそう言われていたのか?」
「そうだよ!お母さんは何も悪いことしてないのに!お兄ちゃんなんか大嫌い!もう帰って!」
「ナデッタ!」
ミラーナは慌てて娘の口を押さえて背中に隠した。いつの間にか周りには人だかりができていて、この異様な状況を固唾を飲んで見守っている。その中から手当て箱を持ったオッズと院長のシュナード・サイラーが近付いてくるのが見えてミラーナは急いで頭を下げた。これ以上騒ぎを大きくするわけにはいかない。
「も、申し訳ありません!ご無礼をお許し下さい!」
「…。」
「こ、こ、この子には…はぁ、あぁっ、キ、キツく、言い聞かせますので…どうかお許しを…」
ミラーナは地面に顔を向け、右手をついて頭を下げた。ダラリと伸びた左手はすでに元の形が分からないほどまで腫れている。レディックは小さく舌打ちをして立ち上がり、マントを翻して背を向けた。
「…今日のところはもういい。サザール、帰るぞ。」
「はい。」
砂を蹴る二人の足音が離れていく。その音が聞こえなくなるまで頭を下げ続け、完全に聞こえなくなった瞬間ドサリと地面に倒れた。