偽チュートリアル 勝負1
「何の用だ」
自分でも驚くほど低い声が出た。まるで獣が唸っているような、そんな声だ。
当然、彼女に当たったところでオーガリィの状況が改善する事はない。一度犯した失態は永劫付き纏い、彼の命は永遠に保証されない。
逃げるしかないのだ。しかしその過程で、気に喰わない奴を狩り取ってもバチは当たらないだろう。
「分かってるでしょ? 私がアナタに用なんて、たった一つしかないと思うけれど」
「……なるほどな」
その言葉はつまり、どうやらアンナもオーガリィと同じように思っているようだった。
「場所を変えましょう。ほら、アナタが大好きな個室とか」
返事はしなかったが、その無言は肯定の意味だ。それはどうやら伝わったらしく、ダックラック改めアンナは、歩き始めたオーガリィの後ろについてきた。
馬鹿が、せっかく命を拾ったっていうのに。
「着いて来な」
自分がクビになったのはアンナが原因だ。未だ予測程度ではあるものの、オーガリィはその事実に行き着く。つまり、なんらかの方法で所持金をプラスにしたのだ。
結果的に、彼は仕事をこなせなかったという事になる。初心者だからといって、甘く見ていたのだ。
なるほど、それは確かに彼の落ち度だ。返す言葉もない。ならばしかし、充分に挽回の機会はある。
行く場所は、数日前に勝利したのと全く同じ。あるいは断られるかと思ったが、アンナは素直に従った。
間抜けが。
そう思わずに、いられない。一度謀られた相手に、一度謀られた場所に、まさか一度謀られた通りに従うなんて。とてもではないが、迂闊が過ぎる。こんな奴が50万にも迫る損失を数日の内に埋め合わせたなどと、彼自身がクビになどされていなければ信じる事すらできなかったかもしれない。
「座れよ」
「そうさせてもらうわ」
前と同じように、オーガリィが奥に座って促す。そして同じように、空いた椅子に座った。
たった一つの机とたった二つの椅子の他には、四隅にランプが立てられているだけの部屋だ。相変わらず、アンナの左後方のランプが一つ割れている。
いつも通りの部屋だ。いつも通りの状況だ。
勝ちだ。この状況下で、彼が負ける事なんてあり得ない。
「ルールは前と同じ?」
「そうだ」
インフォメーションを操作して、通知を送る。前と同じゲームだ。名前が『チュートリアル』のままだが、知った事ではない。
ゲームの名前を見ても、アンナに反応はない。流石に、こんな程度の事で怒り出したりはしないか。
たまにいるのだ。自らの迂闊を棚に上げるような人間が。お前は悪い奴なのだと糾弾し、それで自分が正当化されると勘違いしている者が。愚かしくとも誠実であれば良いなどとのたまい、それこそが美徳であると履き違える馬鹿が。
事この場において、そんなものは全て弱者の戯言だ。幼子の遊戯にも等しい程の無価値を、無自覚なままに振りかざしているに過ぎない。
そんな事も分からない者が、確かにいる。
だから、オーガリィはわずかに安堵する。
そんな間抜けに出し抜かれたのだとすれば、自分のなけなしのプライドはズタズタだ。少なくとも、あるいは出し抜かれる事もあるだろう、という程度の相手でなくてはならない。
何よりも、今倒す事によって実力を示すのならばなおさら。
カードが出現する。
四種類それぞれの柄のJQKが公開され、他のカードが存在しない事を示す。
カードはすぐさま裏返しとなり、卓の上をランダムに高速で駆け巡る。慣れた俺でも、これを目で追うのは至難の業だ。
「まず、細かいところを詰めたいと思うんだけど」
「細かいところ?」
カードが配られる直前に、アンナが口を挟む。
「ええ。前はただ騙されるだけのものだったから、ゲームとして詰められてないと思うの。だから、対等な勝負で、真に実力を比べるために……」
「詰めようと、なるほどな」
心の中で、舌打ちをする。
主導権を握られたのだ。これはつまり、後手に回らざるを得ない。余程意識をしなければ、あるいは不利な条件を押しつけられかねない。
「まず、チップは統一しましょう。“黒”のみ使う。その方がわかりやすいでしょう?」
「……ほう」
黒チップ。
このゴールドラッシュの世界で、最も高いレートのチップである。その金額は、1枚につき50万円。先日ダックラックが敗北した時の白チップの、実に十倍にもなるレートだ。
これは、ともすれば愚かしい行為だ。
ただ一枚で50万もの大金が流れるチップなど、普通は使うものではない。せっかく塞がった傷を、自らえぐる事になりかねないのだ。最上位カジノであるスカイレスですら、黒のみのゲームなどありはしない。
それほどに狂気。
およそ、まともな精神で言える言葉ではない。
しかし、オーガリィに関しては訳が違った。
この勝負の中で、今この場で、負けるはずがないのだ。
そうなれば、これを受けない手はない。アンナはどうやら何かを仕掛けるつもりらしいが、その上で勝利する自信は充分にあった。
「いいだろう。そうしようとも」
これは、100%自分に有利に働く条件である。オーガリィは、そう判断したのだ。
「他には?」
「話が早いわね、助かるわ」
笑顔。あくまで。
アンナのその様子が気持ち悪かった。しかし、それ自体は不気味である以上の意味を持たない。いくら余裕を見せていても、それが優位に関わる事などありはしない。
「このカードは勝負を跨いでも変わらないわよね。これから行う全ての勝負で、統一的に同じカードを使う。間違いないかしら?」
「そうだな。増えも減りもしない」
この言葉は、システムで保証される。なので、迂闊な事を言ってしまわないように注意しなくてはならない。
「賭け方にも提案があるわ。一勝負の勝ち負けに賭けるのは、イマイチ実力勝負に相応しくない」
「……と、いうと?」
「簡単よ。まず、今この瞬間に黒チップを一枚だけ場に出す。これは参加費。勝負のたびに毎回払うものとする」
アンナが言うと、システムが反応してチップを出現させた。それだけでも、相当な大金だ。アンナの所持金がどのくらいかなどオーガリィは知らないが、しかしまさかこれを端金と言えるほどの持ち合わせがあるようには思えない。
それを、単なる参加費だと言う。
この勝負が命を賭けたものなのだという事を、オーガリィは改めて感じた。
「あとは自分の手札を見た時と、自分の番が来た時にも賭け金を要求する。賭け方は一般的なギャンブルと同じように、コールとかドロップとかでやりましょうか」
「その都度、自分達で賭け金を決めるという事だな」
「流石に飲み込みが早いわ。その通りよ」
概ねは、ポーカーのそれと似ている。特に、ホールデムルールに。不自然な事は何もないし、それ自体に思惑は感じられない。
一見して、ごく当たり前の要求に思える。
その他、ポーカーなどのギャンブルとの差異を考慮して、細かな賭け金の取り決めを行う。それらの中には、どうやらオーガリィが不利になるような取り決めはないようだった。
一瞬、ほんの瞬く間、オーガリィは考える。ともすれば、謀られてはいないかと。一見して対等な勝負のようで、実は自分に不利な条件をつけられてはいないかと。
当然、何をされても勝利する自信はある。この状況下で、負けるはずなどない。
「……保証しよう。ゲームのルールに追加しておく」
「ありがとう」
アンナは、笑顔で答える。
不気味だ。まず間違いなく無策でこの場に来たわけではないだろうに、しかしその意図を読み取る事ができない。これを幸運であるなどと思うほどに、オーガリィは楽観的ではない。
「そして最後に、ゲームの続行について」
「……ほう」
「一度で終わらないのなら、どこで終わるかを決めなければならないわ」
「まあ、確かに」
何のつもりか、オーガリィには分からなかった。
こんなものは、デスマッチにするものと思っていたからだ。つまり、どちらかの所持金が底をつくまで、この勝負に終わりなどない。
もしも、日和った事を言うようならば、狙い目だ。ギャンブルにおいて、意志の強弱の影響は計り知れない。もう一度、カモとして、今度こそ使い潰してしまおうと考える。
しかし、どうせそんな事はないだろうとも思っていた。
「負けている方が、続行の決定をする。これでどうかしら? ゲーム開始から数えて、勝ち取った金額の低い方が負けているものとして」
「なるほど」
これは、決して弱気な提案ではない。確かに負けが確定したならばすぐに逃げられるルールではあるものの、そのためには明確に降参をしなければならないという事だ。
つまり、金額を度外視して、相手の心を屈服させるという事。むしろ、その意味では強気とすらいえる。
「良いだろう。それもルールに加えよう」
「ありがとう。じゃあ、ゲーム開始ね。まずはチップ2枚」
「……ああ」
50万の黒チップが2枚ずつ、テーブルの上に置かれる。開始時の最低賭け金である。たったこれだけで、相当の大金だ。勝利が確定しているオーガリィは当然としても、何故アンナは平然としていられるのか。オーガリィには全く理解ができなかった。
そして、手札を確認する。オーガリィの手札は、クラブのJとK、ハートのKだ。これだけで有利不利などはないが、ここから勝負を行うにはさらにもう2枚のチップが必要になる。
「私は降りないわ」
「……俺もだ」
さらに、2枚ずつ。
合計で400万にもなるチップが、目の前にある。
「二回目からは負けてる方が先攻として、一回目は私が先攻をもらっていいかしら?」
「……いいだろう」
仕掛けてきた。
先攻を取りたい理由など、一つしかない。オーガリィの番を待たずに、終わらせてしまうためだ。
オーガリィがダックラックとゲームをした際、一手のうちに手札の全てを言い当てた。それを警戒しての行動だ。事実、オーガリィはアンナの手札を把握している。JQK。いずれもダイア。
オーガリィの番に回った瞬間に敗北してしまうと考えたのであれば、当然アンナもなんらかの手を講じている。そうでなければ、自分の番を行う事にはなんの意味もないのだから。
それでも、先攻を譲ったのには意味がある。
この勝負が一度で終わるものならば、是が非でも先攻は取らなくてはならない。その一手で勝負が決まってしまうからだ。
しかし、実際にはそうではない。互いの心が折れるまで、あるいは金が尽きるまで、この勝負は何度でも行われるのだ。
その中で交互に番を渡していたならば、勝敗は交互に訪れる事になる。そうなれば、決着など付きようはずもない。
だから、この場で、手を暴く。
先んじて相手の策を看破したならば、それだけで勝負の天秤はオーガリィに傾くのだ。そのためならば、数百万程度は安い出費であると判断した。例えそれが、オーガリィの今までの勝負の中でも最高額であったとしてもだ。
「ベット1枚」
「コール」
チップを1枚賭けるという宣言と、それに乗ったという宣言だ。この場合、アンナが1枚を提示して、オーガリィも同じ枚数を出す事になる。これは、開始時のチップとは別にして置く。もしも手札を当てた際にはこのチップが手に入り、ゲームに勝利した際には開始時のチップが手に入る取り決めだ。
何をするのか、オーガリィは意識を集中する。
なにがあろうと、見逃すものかと。
その瞬間が、勝負を分ける。その事は、アンナも分かっているだろう。
しかし……
「確認します」
伏せられた六枚のうち、二枚を確認する。
「は……?」
「? なぁに?」
アンナは首を傾げる。
行為のみを言うならば、本来所持する権利を行使したに過ぎない。ゲーム性の演出のために追加した程度のルールではあるが、確かに前回の時にも説明したものである。何も言われる筋合いはなく、あらかじめ定められたルールの上での行動だ。
しかし、この場においては愚かしい行為に他ならない。
この番で出されたチップは、開始時の賭け金に合わせられる。勝敗が決した時、同じように勝者へと支払われる事となる。
「そっちの番よ?」
「あ、ああ……」
何か、見逃しているのだろうか。
オーガリィは迷う。ともすれば、自分の不正が看破されているのだろうかと。
しかし、そのはずはない。なにせ、今もって見えているのだから。アンナの手札は、変わらずに見えている。ならば、バレてなどいるはずがない。
「ベット2枚」
「はいはい、コール」
意図的に、賭け金を上げてみる。しかし、アンナはあっさりとコールしてしまった。ここで弱腰になる程度なら杞憂かと思ったが、これはますます疑わしい。
「……ダイヤのJ」
恐る、恐る。
しかし——
『正解』
難なく、アンナの手札を一枚抜いてしまった。