恐怖
かつての栄光を夢見て、男は目を覚ました。いや、栄光などと言えるほど輝かしいものではなかった。ほんのささやかで、些細で、下らない見栄だ。男はただ、自らの傷を慰めていたに過ぎないのだから。
「起きたか」
「……っ!」
虚な頭は、その声で急速に覚醒する。自分の置かれている状況を、思い出してしまったのだ。
「ま、待ってくれ! 金がないのは本当なんだ!」
「それは私が決める。お前は健康だし、病気も患ってない。金がなくとも金にならんという事はないだろうよ」
「……!!」
その言葉が偽りでも単なる脅しでもない事は、当然よく理解している。嫌という程に。
内臓はもちろんとして、骨や肉もセンチ刻みでバラ売りされ、どこを余す事もなく金に変えられてしまうのだろう。
そうなれば、男の死骸はそれがそうであると誰も知らぬままに世界中に散る。例えば闇市に、闇医者に、猟奇的趣味のサイコパスに、どこの誰とも知らぬ者たちの元で、知らず知らずに消えていくのだ。
ゴメンだった。
いくら命を落としたとしても(当然命を落とす事すらもゴメンだが)、自分が自分でいられないなど。
死んだ後の死体など血肉の塊でしかないとはいえ、しかし男は自分の名前がついた血肉でありたいと願う。ムシケラの死骸と同程度にしか扱われないただのグロテスクな物体となってしまう事は、とてもではないが我慢ならない事なのだった。
「た、助けてくれ……もう一度だけ、チャンスをくれ……」
「その言葉は既に聞いたな。半年も前に」
「こ、今度こそ最後だ! 頼む!」
男の有り様といったら、惨めたらしい事この上なかった。
涙と鼻水で顔を濡らし、その上地面に頭を擦り付けるものだから泥までついている。額は擦り傷によって出血しており、それでも止めるつもりはない。
今この場で石を飲めと言われれば、迷わずそうするだろう。目を抉れと言われればそうするだろう。親指を食いちぎれと言われればそうするだろう。
人間は追い詰められると、そこまでになるのだ。
「ならば——」
続いた言葉に、男は目を見開く。思ってもみない条件だったからだ。
「や、やるよ! やらせてくれ!」
飛び付き、縋り付き、男は泣きながら笑っていた。
酷く歪んだ、醜い笑顔だ。男は、辛うじて助かったと感涙した。
助かったのだと、思い違った。
◆
ここ最近、ルーレット・ライラックショットは随分と盛況だった。
アンナレストというプレイヤーに負けた時はどうしようかと思ったが、むしろその頃よりも客入りがいいとすら言える。
というのも、あの時より店が広くなったのだ。
アンナとラックラックは、ほとんど毎日連れ立って様々なカジノで荒稼ぎする。「勝負は勝ったり負けたりだ」とアンナの言うように、たまに敗北するらしいのだが、しかし支出を計上すると常にプラスなのだ。
そうして辺りのカジノへ片端から勝負を仕掛けた結果、ライラックショットと隣接する店は全てがアンナの持ち物となった。
店は合併し、建て直し、一つの巨大な大カジノとなったのだ。
そんなわけで、ライラックショットは以前と比べ物にもならないような大店である。オーナーから支配人へ格下げとなったカラスの給料が、むしろ何倍にも膨れてしまうほどに。
かつて、アンナに敗北した時に聞いた言葉。それは、彼女が計画する思惑のたった一部ではあるものの、今確かに成されつつある。
“この店をスカイレスに次ぐ大店にする”など、夢物語だと思っていたというのに、それは驚くほど強引な手段によって実現目前なのだった。
今では多くのゲームを店に置き、何人ものディーラーがそれを運営する程の大手カジノである。それを統べるのが、カラスの役目だった。
「ハクア、変わりはないか?」
「はい、カラス。今の時点で前年比700%近い利益です」
ハクアと呼ばれたのは、かつてカラスと二人だけでカジノを運営していた女性ディーラーである。実際には、カラスという存在の隠れ蓑であったに過ぎない彼女も、現在ではこのカジノのチーフディーラー兼会計担当として強い権限を持っている。
小さな店でささやかな利益を出すだけだった者が、今や大手カジノの支配人とチーフ。
ここ一ヶ月程度で、二人の人生はまるっきり変わってしまったのだ。
「データを見せてくれ。近頃はカジノ荒らしが出ているらしいからな、気を付けないと」
「……オーナーの事なのでは?」
「……否定はできない」
すっかり広くなってしまった店を見渡し、二人は苦笑いをした。そのカジノ荒らしのお陰で、何をする事もなくここまでの地位を手に入れたのだ。文句などあろうはずもない。
「客にはバレないようにしないとな、聞こえが悪いし」
「名前は広まっていないようなので、あえて喧伝しない限りは大丈夫かと」
カジノのオーナーがカジノを荒らしている。なるほどそれは、酷く聞こえが悪い。ともすれば、営業妨害かと邪推されてしまうだろう。実際にはただの趣味だろうと、他店の妨害行為はマナー違反だ。
こんな無法を握って丸めたようなゲームでも、多少の常識は存在する。
二人で肩を竦め、小さくため息を吐く。
間違いなく昔よりも豊かな仕事をしているが、しかしかつてはなかった苦労がある事も事実だった。
「まあ、差し当たって今の運営には関係ないから、いつも通り頼む」
例え何があろうとも、責任は店を任されたカラスにある。ならば、従業員であるハクアに不要な心配をかける必要はない。「責任はオレが取る」など、一生無縁だと思っていた言葉を言わなくてはならないと思えば、カラスの胃袋はキリキリと悲鳴を上げた。VRの肉体であったとしてもだ。
「分かりました。あ、そういえばラックラックさんがいらしたので、いつものように奥へとお通ししています」
「ふぅん、分かった」
ラックラックといえば、かつてはアンナレストと共にライラックショットを潰した共犯者だ。しかし、今では賓客としてもてなす立場にある。オーナーが最も大切にしている友人である女性を、まさか蔑ろになどできるはずもないのだから。
(どういう関係なんだろうか?)
聞けば、ラックラックとアンナレストはこのゲームでしか顔を合わせた事はないのだという。今時ゲームのみの友人関係など珍しくもないが、それにしてもアンナは随分とラックラックに良くしている。
このゲームを始めて大した時間も経過していない初心者と、一流というに相応しいプレイヤー。その関係を、カラスは不思議に思った。
ラックラックがアンナを追いかけ回すというのならまだ分かるが、しかし実態はアンナがラックラックに世話を焼いているように見える。
どうやら、ラックラックが実力をつける訓練に付き合っているらしい事は分かるのだが、そもそもそんな事をする必要性が浮かばないのが正直なところだ。
(このゲームで……)
カラスは訝しむ。
このゲームで——ゴールドラッシュで、ここまでを親切のみでする人間など一人もいない。断言できる。しかし、必要性があるのかと言われれば思い浮かばない。
どうやら子供のようであるアンナが、ラックラックを気に入ったというだけなのだろうか。そんな無邪気で純粋で愛らしい子供に、このゴールドラッシュを生き抜く事などできるのだろうか。
「…………」
カラスはかぶりを振る。
意味のない事だ。どうせ、答えなど出ない。
アンナ本人に聞いてみた事があるが、適当にはぐらかされてしまった。本人に言うつもりがない以上、詮索は野暮というものだろう。
「ラックラックさん、いるか? 入るぞ」
店の中で唯一、特定個人のために用意された部屋。オーナーであるカラスですら共有の事務所を利用しているという事を考えれば、その待遇の厚さを理解できるだろう。
その部屋の扉を叩く時、カラスはライラックショットを統べる支配人ではなくなる。ここにいるのは、アンナレストの部下であるカラスだ。
誰かの下にいる方が、遥かに安心できる。上に立つ者の重圧は、カラスには過ぎたものだったのだ。
その事に、ようやく気が付いた。何年もライラックショットのオーナーをしていながら、気が付いていなかったのだ。
カラスは、頂点に立つ器ではない。
「あ……ど、どうぞ」
「失礼」
ラックラック。
オーナーの友人であり、この店の賓客。一体何が特別なのか分からないものの、だからといって蔑ろにできるはずもない人物だ。
「今日は来ないのかと思っていた。アンナオーナーも一緒じゃないのか?」
「え、ええ。ちょっと野暮用っていうか……」
ラックラックは、どうにも歯切れが悪い。落ち着かず、挙動不審だ。
そして何より、明らかに不自然なところがあった。
「なんでネームを非表示に?」
あまり使われない機能だが、キャラクターの頭上に表示されるキャラクターネームは非表示にする事ができる。
当然、全く使われない機能というわけではないが、ラックラックは普段使わないと記憶している。カラスが初めて会った時もそうだった。
「いやぁ……じ、実は友達にゲームがバレちゃって……」
「バレた?」
「ええ。その……ネームもバレてるからしばらく非表示にしてて……」
聞くと、ラックラックはゲーマーというわけではないのだという。確かに多少の小遣い稼ぎをしていたようだが、本格的にゲームをやり込もうと思ったのはゴールドラッシュが初めてなのだそうだ。
本業か、あるいは学校の友人に、このゲームがバレたくないという気持ちは分からないでもない。
(ゴールドラッシュが初めてのゲームか……)
とてもではないが、真っ当とは言えない。もしもカラスに娘がいて、こんなゲームに入れ込んでいると知ったら是が非でも辞めさせるだろう。
「ふぅん、そうか。俺は仕事に戻るから、帰る時はメッセージを飛ばしてくれ」
「わ、分かった」
これでも、カラスは店を預かる者である。
アンナやラックラックが来た時は必ず顔を出すようにしているが、それでも支配人らしい仕事は枚挙に暇がない。
ラックラックに大した用事がない以上、あまり長く話し込む必要はないのだ。
ないのだ……が。
「……おっと」
「どうかしたのかしら……?」
カラスの視界に、インフォメーションが映り込む。ゲームシステムの通知を意味するそれは、およそ無視できるような内容ではないのだった。
「メッセージだ、ハクアからの。どうやら、カジノ破りが現れたらしい」




