表面張力 決着
「は……?」
そんなはずはない。あるはずがない。そのように、仕掛けたはずなのだ。
「やったー! ちゃんとこっちの言う事聞いてもらうからね!」
「ど、どうやって……」
愛生の手が震える。僅かに、しかし確かに。
何が起きて敗北したのか、全く分からない。理解できない。
勝利を、確信していたというのに。
「いやぁ、ごめんね。実はこれアタシが絶対勝つ勝負だったんだ」
「…………」
それはそうだろう。そうでなくては、愛生が負けるはずなどないのだから。
「そんな怖い顔しないで、可愛いお顔が台無しだぞ」
(なんだそのウインク……)
「アタシはね、コレを使ったんだよね」
そう言って、奈美子は手のひらを見せる。ずっと隠し持っていたのだろう脱脂綿は、随分と湿っておりぐしゃぐしゃに丸まっていた。
奈美子の手のひらは水が滴っており、しかしそれが汗などによって自然にそうなったわけでない事は明らかだった。
それを愛生が確認すると、奈美子は得意げに笑うのだ。
「コレで水を調整してたんだよね。最初に言ったっしょ? アタシが絶対勝つって」
「いや、は……?」
愛生は、眉間にシワを寄せる。怒りのためではない。その程度で怒るほど、愛生は狭量ではない。
そう、これは困惑。美奈子の言葉がこの場に相応しくないために、何が起こったのか理解できないでいるのだ。
「……知ってるよ」
「んあ?」
「知ってるの!」
愛生の言葉は思いもよらなかったらしく、奈美子は面食らったようだった。
「気付いてないわけないでしょそんな下手くそなイカサマ! 初っ端から知ってたわよ! とぼけるのもいい加減にして!」
「え? え……?」
馬鹿にしているというほどではないにしても、すでに明らかなイカサマをわざわざ口にするいうのは不誠実に思えた。当然、イカサマをする時点で誠実とは言えないが、ネタを明かさないのであればわざわざこんな小細工は必要ないはずだ。
全く見ず知らずの相手であれば、これは糾弾するような事ではない。相手に手の内を晒す事は愚の骨頂であり、むしろ隠そうとする姿勢に関心すらしただろう。しかし、愛生と奈美子の間で隠し立てされるとは夢にも思わなかった。この勝負はこの一度しかしないのだから、手の内を隠す必要は皆無である。それでもなお隠そうとするその姿勢に、愛生は腹を立てたのだった。
そもそも自分が隠し事をしようとしたためにこんなゲームをする事になったというのは、愛生の頭からすっぽ抜けてしまっている。
ただ、奈美子はその現状を分かっていないようなのだった。
「し、知ってたの!? じゃ、じゃあ何を不思議がってたのさ」
「は……?」
会話が、噛み合っていない。
ここで、愛生は思い至る。もしかしたら、奈美子は隠そうとしていないのではないだろうか。
愛生は手元を見る。
水面に触れただけで水が溢れてしまったため、そこには僅かに濡れた硬貨が持たれている。
(……?)
違和感。
手に感じるそれは、一体なんだろうか。
およそ硬質な金属から感じるはずのない感覚。指先に、わずかな粘性がある。
目元まで持ち上げようとすると、指を滑らせて落としてしまう。そして、その瞬間に覚えのある香りがした。
「石……鹸……」
そこまできて、ようやく愛生は思い至った。
この事態は、奈美子によるものではないのだと。
「ハルカ……!」
愛生が視線を向けると、そこには楽しそうにニィっと笑う友人がいた。
楽しそうに、嬉しそうに、愛生と奈美子を見ているのだった。
◆
愛生と奈美子のゲーム中トイレにたった晴香は、しかし個室に入る事はなかった。
代わりに携帯で時間を確認し、そろそろかな、いやまだかな、と意味深な事を言っているのだった。
本当にトイレに用のある生徒の訝しげな視線などお構いなしに、晴香は時間を図っている。
そして、しばらくそうした後に、ようやく行動を起こした。
いや、その行動もまた不可思議なのだが。
学校のトイレの前には当然洗面台がある。晴香が用があるのはその蛇口だ。
厳密には、蛇口にかかっている石鹸。
布の網に包まれた固形石鹸は、長く放置していると干からびたように固まってしまう。もちろん固形石鹸なのだから固いのは当たり前だが、乾いた手で触ると本物の石のような感触がする程なのだ。
晴香は財布から、何枚かの硬貨を取り出した。いずれも側面がギザギザとした形状の物である。
慎重に、念入りに、面の部分に石鹸が付着しないよう気を付けて、硬貨の側面で石鹸を薄く削る。
あまり多くつけ過ぎるとバレてしまうので、その辺りの塩梅に気を遣った。
乾いた石鹸は、当たり前だが滑らない。触れる事によってバレる事はないだろう。
そうして用意した硬貨を手に持ち、何気ない顔で教室に戻る。
「ただいま、まだやってたんだ」
その後は適当に話を合わせ、あたかも興味がないフリをして硬貨に触れる。
「お金まで使って何やってるんだか……」
もしも、ただ目を盗んで置くだけならば気付かれてしまうだろうが、机に置いてある硬貨を取る動作に不自然さはない。
いくつか手に持ち、机に返す時に混ぜたならば気がつく事は困難だろう。
「いいでしょ、別に捨てるわけじゃないんだから!」
「まあ、別にいいけど……」
事実、愛生も奈美子を気が付く事はなかった。
何事もないかのように進行し、そして晴香の思惑通りに愛生は敗北するのだ。
◆
「せ、石鹸……?」
「そう。この硬貨、石鹸がついてる」
硬貨を擦ると、わずかに泡がたった。その匂いを嗅げば、なるほど学校で使われている石鹸なのだと理解できる。
「石鹸は、表面張力を弱めるのよ。もちろん、ゼロになったりはしないけれど、既に限界に近かったコップの水には耐えられなかったのね」
「へぇ〜、なるほど」
「愛生ちゃん物知りぃ。でも負けは負けだからね」
晴香は、ニヒヒと悪戯っぽく笑う。対して、愛生の表情は固いものだ。
ゴールドラッシュの荒波に鍛えられたなどと自惚れ、下らない手品紛いのイカサマを見抜けなかった。
これは、間が抜けているなどという言葉では収まらない。もしもこの場がゴールドラッシュであるならば、愛生は再びアンナの世話になっていただろう。
「ハルカ、あんなにゲーム嫌がってたのに」
「あんなの演技に決まってるじゃない。私だって、愛生ちゃんの事もっとよく知りたいもの」
「アキと違って嘘がうまいね。ちょっと怖いわ……」
二人は気安く話すが、愛生は目を泳がせている。
どう言い訳したものか、そもそもどう話したものか。あんな世界について、どうにか上手く話さなくてはならないのだ。
どうにか、誤魔化せないものだろうか。
「た、楽しかったわね。じゃあ帰りましょうか」
「おう! アキが言う事聞いてくれたらね!」
「ダメかぁ……」
愛生は頭を抱える。こうならないための努力だったというのに、何の意味もなかった。まさか、ゴールドラッシュプレイヤーである自分がただの友人に敗北してしまうなど、夢にも思わなかったのである。
自惚れである。
あるいは、見下していた。
決してそのような事はないと思っていたものの、しかし友人を軽んじていたのだ。まさか負けるわけがないなどと、そうでなければ思いもするはずはない。
そもそも、愛生は未だ一人で勝利を収めていないひよっこだ。アンナにおんぶに抱っこという有り様で、何故偉ぶっていられるだろうか。
「さあ、アキ。ごまかしは聞かないかんね」
「これ私のお願いも聞いてくれるの?」
奈美子と晴香は、とても楽しそうに愛生へと迫る。
愛生も、やや震えながらも覚悟を……
「せ、せめてどっちか一個でお願いします……」
……決め切れていなかった。
二人の友人に迫られる愛生。愛生に迫る二人の友人。
愛生はこの日、ゴールドラッシュにログインする事ができなかった。




