出費
愛生こと『ダックラック11』が降り立ったのは、随分と豪華に飾り立てられた噴水が特徴的な広場だった(どういうわけか、VRゲームの最初の場所は噴水広場であると相場がきまっている)。
空は、星一つない暗天。今にも落ちてきそうな暗がりを頭上に受けて、ダックラックは言い知れぬ不安に駆られた。
人が醜く変貌するのは、やはり夜が望ましい。このゲームの開発者の言葉であり、コンセプトだ。ダックラックはその事を知らないが、しかしあるいは、開発者の込めたそういった思いを鋭敏に感じ取っているのかもしれない。
『チュートリアルを開始しますか?』
前時代的なインフォメーションが視界に流れ、手元には『はい』と『いいえ』の選択肢が表示される。指で触れて選択しろという事なのだろう。その他、右下には選択肢とは独立して『詳細を見る』という文字が書かれている。ゲームが始まってなお二世代ほど遅れているような形式に、ダックラックは思わず笑ってしまいそうになった。
依頼では、チュートリアル終了までのデータを引き渡す事になっている。興味のないゲームのチュートリアルなど面白いものではないが、多少面倒でもこれは終わらせなければならない。期日が来れば取引を自動成立させるシステムによって、それまでにこのキャラクターを依頼通りの状態にする必要があるのだ。
この世界の街並みだとか、地図に光る目印だとか、気を引くような要素は無数にあるものの、ダックラックにとっては全てどうでもいい事に他ならなかった。
いやむしろ、一刻も早くこのゲームを出たいとすら考えている。
このゲームでは、原則全ての暴力行為が不可能となっている。そればかりか、モンスターも出なければ魔法もない。プレイヤーは冒険をする事なく、剣を振るう事もなく、未開の地に挑む事もなく、魔王と戦う事もない。
平和的だと思うだろうか。否、むしろその逆。
このゲームでできるのは、たった一つ。
ギャンブルである。
このゲームが許容する限り、プレイヤーはあらゆる方法によって金を賭ける。現実では反故にされかねない金額の勝負も、この世界の内側ではシステムが保証する。そうして得たゲーム内通貨は、現実の金と交換する事ができる。
恐ろしい場所であると、愛生には思えた。
正しく、世界で最も強固な保障を持つカジノではあるものの、実態は背筋を凍りつかせてしまうような場所である事は疑う余地もない。
ゲームである以上、この場所に訪れる者に貴賎はない。購入する事さえできれば誰もが遊ぶ事のできる自由度は、このようなゲームですら保証されなければならないのだ。しかし、それ故に恐ろしい。この場にいるのは、例えば現実のカジノから追い出されるような無法者であったり、ギャンブルの借金をギャンブルで返そうというジャンキーであったり様々だ。
あまりに雑多。他のゲームで言われるところの民度など、このゲームの中には存在すらしない。
故に、さっさと、やるべき事を済ませてしまおうと——
「ちょっとすみません」
「……何か?」
はいを選ぼうとしたその時に、声が掛けられた。インフォメーションが会話文に隠されてタッチできない。普段なら無視を決め込むような事であるにもかかわらず、ダックラックは返事を余儀なくされたのだ。
これだから、旧世代は良くない。
心の中で悪態をつき、吐き出しかけたため息を我慢する。
相手は、フードで顔を隠しているものの、小さな女の子のようだった。身長はダックラックよりわずかに低く、少し見降ろす形になる。
「1,000……いや、500円だけ貸して貰えませんか? 二時間くらいで返します」
「は? 嫌だけど?」
あまりに、厚かましい願い出。
こんな事を言って本当に金を出す者がいるのだろうか。500円“だけ”などという言葉は間違い無く方便であり、今その言葉を真に受ければ日を置いて同じ事を繰り返す。なるほど一度ずつは500円だろう。それが十回あろうと、百回あろうと、一度の金額は確かに500円だ。
このゲームで扱われる通貨は、現実の物とまるっきり同義だった。つまり、同じだけの価値を持っている。ゲーム内通貨を、現実の物として換算する事ができるのだから。
ならば500円はおろか、ほんの1円ばかりもくれてやる事などできない。全く見ず知らずの相手に対して、まさか返ってくる保証などありはしないのだから。
「お願い! 絶対にすぐ返すから! 500円だけで良いから!」
「…………」
驚くほど食い下がる。ついこの前まで中学生だった愛生よりもさらに身長を下げたキャラクターより、輪を掛けて背の低い少女を相手にして、正直かなり引いてしまった。
人間はここまで金に意地汚くなれるのだという末路。そんなものを、少女の姿で示さないでくれと叫びたいほどだ。
「な、なんで私なのよ。他にも人はいっぱいいるでしょう」
「初心者っぽくてチョロそうだから!」
「素直か!」
ダックラックは自分の視界の端に映る数字を見る。11,000円と表示されているそれは、このゲームの初期所持金額である。
ゲーム自体の値段は26,000円。これは、依頼を受ける際に必要経費としてクライアントから受け取っているので、実質タダでゲームを手に入れたのと同義だ。つまり、愛生は依頼の報酬とは別に、ゲームの初期金額分の儲けを出している。この相手に払う500円は、当然その中から出されるのだ。
「……はい、持ってって」
しかし、ダックラックはその金を渡す。自腹を切って、わざわざ面倒になる事が明白な行動をとってしまう。
「ありがとう! じゃあ、二時間後にこの広場でね!」
少女は、それだけ言うと早々に立ち去っていった。二時間後に返すと嘯いていたが、おそらくは二度と会う事もないのだろうとダックラックは思う。
ああいう手合いは、必ず情報を拡散する。つまりは乞食の仲間に、どの相手からならば恵んでもらえるか教え合うのだ。そうなれば、入れ替わり立ち替わり別のプレイヤーから言い寄られる事だろう。それは、間違い無く面倒この上ない。
ただ、それは愛生には関係のない事だ。愛生がダックラックなのは今日だけなのだから、今後付き纏われる事があろうと知った事ではない。それよりも、今しつこくされる方が面倒に感じた。なので、500円程度ならば手放してもいいだろうと判断したのだ。
「……なるほど、そのレベルなのね」
初対面の人間に対して、顔も見せずに金をせびる。そんな恥知らずな事を悪びれる事なくできる人間が、当然に存在するという事だ。
できるだけ迅速に、こんなゲームとはおさらばしよう。
愛生はそう決めた。ダックラックなどというダサい名前とも、すぐにお別れだ。
『チュートリアルを開始しますか?』
『はい』
手元に表示されたインフォメーションにようやく触れる。その表示はポロンと音を立て、文字は『チュートリアルを開始します』に変わった。
さて、何が起きるのか。何をするのか。
そんな答えは、待つまでもなく訪れた。
「失敬、ダックラック11さんですね?」
「あ、はい」
タキシードにオールバック。その上眼帯という、いかにも怪しげな男に声を掛けられる。タイミングから考えて、恐らくはチュートリアル用NPCだろう。
なんとなく、漠然と、そんな風に思う。今時、高いレベルで会話ができるAIなど珍しくもない。
「お待たせいたしました。わたくし、オーガリィと申します。どうぞこちらへ」
促されるままに、そちらへ。荒々しげな見た目に反して、オーガリィは随分と紳士的な態度だった。
【本編と関係ない話をするコーナー】
主人公である篠原愛生はキャラクターメイクを請け負う関係上、様々なゲームのアカウントを所持している。その愛生をして『VRゲームの最初の場所は噴水広場であると相場が決まっている』と言わしめるのだから、ほぼどんなゲームでもそのように始まるのは疑いようもない。
これは本来、原初の完全没入型VRゲームである『NEW WORLD』がそうであったらしいという話から倣っただけの事なのだが、現在まで多くのゲームがそうし続けているのには、些細ながらも理由がある。
ゲーマー間で交わされる、何の根拠もない噂。たかだか噂ではあるものの、しかしあえて無視するほどの事ではないジンクス。
『噴水から始まらないゲームはクソゲー』
かつて、未だ技術が確立されていない頃に、ただ奇を衒うだけが目的であるかのようなゲームがいくつも発売された。その多くは誰もが認める『クソゲー』であり、とてもではないが一般販売までこぎつけたのが不思議なくらいだった。
そんな頃に言われ始めたのが、そんな噂だ。当然単なるジョークではあるものの、だからと言ってあえて外す必要もないために、多くの会社は無難に噴水を作成するのだ。
なお、ゲームを作る時は噴水のグラフィックから作るのがセオリーといわれている。特に意味はないが、何となくその方が製品の出来がいい気がするのだ。