復讐して加害者になった少女
その後の授業は、驚くほど平和だった。昼休みのいざこざなど無かったかのような静今朝だ。自分が何のためにこの町に来たのか、分からなくなるくらい穏やかな時間だった。
昨日の夜、要が盛大に迷子になったためか、帰りも千夜と啼臣が付き添ってくれる。よほどの問題児と思われているのか、二人は要の両脇から離れなかった。
そうやって親切にされればされるほど、要の内に湧き上がってくる疑問が一つ……。
寮の扉を開けると、ロビーにいた紗枝が笑顔で出迎えてくれた。
「あら、お帰りなさい。付き添いありがとうね、千夜ちゃん、倉科くん」
「いえ、お礼言われるほどやないですよ紗枝先輩。どうせ同じとこに行って、同じとこに帰るわけですし」
「同意だ。大した手間じゃない」
「そう? でもありがとう」
謙遜でもなく普通に言って、二人は階段へ向かう。自室に帰るのだろう。その背を見送った紗枝は、二人よりゆっくり歩いて来る要にも微笑みを向ける。
「要くんも、お帰りなさい」
「はい。ただいまです」
こくりと首だけ下げて挨拶した。すると紗枝は怪訝な顔をして要の顔を覗き込んでくる。おおらかそうな太い眉が八の字になり、ゆれる茶色の瞳がこっちの眼をじっと見つめていた。
「……なんだか元気が無いわね。どうかしたの?」
問われて要は目を逸らす。
「体調に不備はないです。ただ…………少し」
「悩みごと? 私でよければ聞きましょうか?」
口ごもりながら答えた要に、紗枝は親切にもそう言ってくれた。要を安心させるように微笑を浮かべる。そんな紗枝の優しさに要の胸が少し軽くなった。
落ち着かない気持ちを抑えるようにそっと親指を握り込んで、躊躇いながらも思ったことを告げる。
「優しいですね、みんな」
「そうね、私達は助け合っているもの。夜だけじゃなく、普段も。それがどうかしたの?」
「……俺には、この寮の人たちが人を殺すような人間には見えない」
直後に要は失言だったと覚る。柔らかかった紗枝の表情が途端に曇ったからだ。紗枝は言葉を選ぶように逡巡しながら、要の手を取った。
「要くん。それは他の子には言わないほうがいいわ。……そうね。一つお話をしましょう。私の部屋に来てくれる?」
要が頷くと紗枝は薄く笑う。強く握られた手が、少し痛かった。
◇ ◆ ◇
三階の真ん中の部屋が紗枝の自室だった。部屋のつくりは要の所と変わらない。据え置きの家具も同じだ。だが要の部屋とは違い柔らかな絨毯が敷いてあったり、小物が多かったり。彼女が長くここで過ごしていることが伝わってくる。
紗枝は要をベッドに座らせ、自身もその横に腰を下ろした。
「そうね。これから話すことはとある女の子のお話──まあ私の話なのだけれど。私はね、それなりに裕福な家庭に生まれ育ったの。両親は同じ会社に勤めていて、とても仲が良かったわ。幸せで温かな家庭、きっと私は普通の子たちより恵まれていたと思う」
柔らかに微笑む少女に要は目線で頷いた。たったこれだけの話でもう、彼女の落ちついた物腰やどこかずれた雰囲気の理由が分かった気がする。
「両親の許してくれるままに、私立の小学校に行って、中学もエスカレーター式に進級したわ。クラスメイトもみんないい人ばかりで、私は人の悪意を知らずに育った。だから、いけなかったのかもしれない。
私は、両親の悩みに少しも気づけなかった」
ふっと紗枝の微笑が曇る。恐ろしい記憶を思い出すように、膝の上に乗せた手をぎゅっと握った。
「ある日学校から帰るとね、家がとても静かだったわ。父様も母様も有給を取っていたはずなのに。不思議に思って私は二人の姿を探したの。そして、見つけてしまった。
最初に目に映ったのは、ゆれる素足。私の両親は首を紐で吊っていたの。私はすぐ二人を床に下ろそうとした。でも、取り縋った身体は冷たくて。清潔に気を使っているはずの二人から微かに糞尿の匂いがして、私は目の前で揺れる身体にもう……命が宿っていないことに気づいたの。
同僚に横領の容疑をかけられ会社に責められたから死ぬのだと、そう遺書があったわ。でも警察も会社もそれを信じてくれなくて、両親は犯罪者の汚名を着せられてしまった。もう、弁解する口なんかないのにね。親戚からも冷たく言われて、私は一人で二人のお葬式を進めたの。誰も信じてくれないこととか、私を助けてくれないこととか。全てが悲しくて、辛くて、どううでもよくなって……。泣きもせず、ぼんやりと、葬式が終わるのを待ってた。
──でも、あの男の姿を見て、私の意識は戻ってきた。
両親に横領の嫌疑をかけ、死に追いやった男。遺書にあった名を持つその男が、私の大切な家族の遺影の前で、厳かに焼香をあげていたわ。最初どうしてあの男がいるのか私には分からなかった。でもすぐに覚ったわ。私に一礼して席に戻る男は友人らしき男とニヤニヤしながら何か喋ってた。あの男は死んだ両親を笑いに来ていたのよ。
許せないと思った。だから私は──」
早口に言ってしまいそうだった言葉を、紗枝は一度飲み込んだ。眉間をぎゅっと引き絞り溢れる感情を抑えようとする。
要は先の語りに続く言葉が分かってしまった。彼女が緑輪館にいることが、何よりその後の顛末を物語っていたから。
そして要は、彼女がこんな話を自分にする理由に気づき始めていた。
「不思議なことに、私が面会を求めるとあの男はすぐに了承したわ。家に招かれた私は金槌を袖に忍ばせていた。私を出迎えて、部屋まで案内した男の頭を、そうして後ろから殴りつけたのよ。真っ白な絨毯に紅い色がどんどん広がっていって、初めて人を殴って息は切れていて。私は家族の敵を取れて笑みを浮かべそうになって……、その時だったの。
甲高い悲鳴が後ろから響いた。振り返るとそこには、飲み物を運んできた男の奥さんがいたわ。おぼんを取り落とした奥さんは動かなくなった男にすがって、悲鳴を聴きつけた人たちが集まって来て……。私はその様子を呆然と見ていることしかできなかった。だって、みんな泣いていたんですもの。本当は私、あの人達を責めるつもりであの家に行ったのよ。この男が私の両親を殺したんだ。お前たちも共犯だって。
なのにどうして泣くの? 泣きたいのは私のはずなのに。でもそんなこと、あの光景を見たら言えなくなった。
泣き叫ぶ人達の誰かが、私を見て言ったわ。──『人殺し』って。
誰かは分からない。でもその一言で、みんなが私を見た。憎しみと悲しみを詰め込んだ瞳で、じっと。
私は、堪らなくなって、そこから逃げ出してしまった…………」
「紗枝さん……」
紗枝の声は震えていた。声だけじゃない。膝の上に重ねた手の平も、指先が震えている。そっとその手に触れると紗枝が顔を上げ、その悲しい瞳が要を貫いた。
「涙を湛える女性を見た。立ち尽くす老人を見た。『お父さん』って、ただ泣き叫ぶ子どもを見た。
私には、彼女たちを糾弾することが、どうしてもできなかった」
目を伏せる紗枝は泣き出しそうに見えた。
彼女の己の復讐を成した。成したことで、今度は自分が加害者となってしまった。そして加害者の立場に立った彼女はもう、被害者としての声を失ってしまったのだ。
「私が憎しみから殺した男にも、彼を大切に思う人間がいたの。あの男を慕い、共に生きたいと願う人がいた。あの男を偲び、その死に涙する人がいた。あの時になるまで私は、そんなことちっとも考えていなかった。
今もね、私はあの男を許すことはできない。それでも私は、あの人達に償いをすべきだったのよ。私は私と同じ苦しみを、あの人達に押しつけてしまったんだから。けれど私は結局一度も謝ることすらできずに……。
だから、世界のために、誰かのために命をかけることがせめてもの償いになればと思ってここに来た。けれど、そんな簡単な問題じゃないのよ。二年間戦って、私はそう思い知った」
静かに眼を伏せた紗枝は表情を引き締めて、気持ちを切り替えるように吐息を洩らす。いまだ自分の手を包む要の手を、今度は彼女が覆った。要を見つめる紗枝の眼は真剣そのものだった。
「ここでは、他の寮生の過去に触れようとすることは禁止されているわ。私は卒業した先輩から何度か聞いたことがあるけど……、それも偶然のようなものだった。みんなが、それぞれ何かを抱えている。お互いの傷口を抉ってしまわないように、みんな辛かったり、苦しかったりするのを、笑いながら隠してる。それでも、誰も自分の罪を否定しない。無かったことになんかしない。だから私達はここで戦っている」
声音は優しいまま、けれどその根底には要の知らない強さがあった。それが彼女たちの背負うものによって生まれるものなのだと、やっと知る。
そして同時に気づく。あの不良たちの発した「殺す」という言葉に、どうして啼臣と千夜があれほど反応したのか。それは、あの不良たちがその発言の重みを理解していなかったから。自分たちを縛る大きなものを、彼らが大した覚悟も無く振りかざしたからだったのだ。
「何があの子たちを追い詰めてしまうか分からない。だから不用意な発言には気をつけて。なんだか要くんはぼんやりしてるから、心配だわ」
「そんなにぼんやり、してますか」
玖楼にだけでなく紗枝にまでそう言われると、気になってくる。
「まだ一日分しか要くんを知らないけれど、そうねえ、歩いてる時なんかもぼんやりしているように見えるわ」
「……気をつけます」
微笑みを浮かべた紗枝に促されて部屋を出る。会釈して自室に向かおうとして、肩を掴まれて振り返った。
紗枝は俯いている。表情は見えない。
「要くん。人を絶対に殺さない人間なんかいないのよ。ほんの偶然、すれ違い、思い込みに──よくある悲劇。そんな簡単なことで私たちは罪人になった。それは要くんも、分かるでしょう?」
──だって、あなたも私たちと同じなのだから。
顔を上げ、要を見つめる彼女の瞳はそう言っているように見えた。
それは線引きだった。無作法に他者の心へ踏み込むなという警告。要は彼女の告白をそう解釈し、部屋を後にした。