第七母体
『配った資料は頭に叩き込んできてくれたかな?』
インカムから届く玖楼の声に、要は緊張を殺して頷いた。七区の運動公園、その中心地点。見渡せば障害物もない芝生の光景が広がっている。
五月二十一日の午後十時五十五分である。月明りのない新月の夜は、雲一つない星空だというのにどうしても周囲が薄暗い。少し先も闇のなかにあるようで、公園の端が見渡せなかった。
運動公園は広い。規模の大きなドームくらいの敷地がある。植木も遊具も存在しない。代わりに一つだけぽつんと、縦に細長い大きな岩があった。そこから半径十五メートルほどは芝生がなく、砂地だ。要も他の寮生も、円を描く砂地の外で待機しているはずだった。
弱弱しい風が少年の頬を撫でていく。それに身震いして、要は石でできた水飲み場に腰かける桐埜をちらりと振り返った。小柄な少女はいつものパーカーではなく、モスグリーンをした硬い素材の防護服のようなものを着ている。それは要も、そして他の寮生も同じだった。今回のために作られた防火素材の服だ。
七区の母体は火を操る。通常の防火素材だけでは攻撃を全て防ぐとこはできないが、気休め程度にはなるだろうと玖楼が用意していたのだ。
『ギャリッグウールまで残り五分。その中央の石碑――封印石から母体は出現する。各自、動きと作戦をもう一度、最終確認してくれ』
今日の通信は個別ではなく全員に繋がったオープン回線だという。ここからでは見えないが、各々の返事が機械越しに要の耳へ届いた。
要も返事をして再度桐埜を見る。桐埜は緊張などしていないのか、ぼんやり宙を眺めてあくびを噛み殺していた。要の役割は彼女との補佐にあるのだが、どうも温度差がある。だから代わりに、インカムの向こうの玖楼に確認をとることにした。
「俺たちは母体が炎を吐いたら、ひたすら水をぶつける。それでいいんだな」
『その通り、要と祇遥くんは基本は防衛だ。攻勢担当の寮生が焼き殺されないようにしてくれ。細かな判断は祇遥くんに任せる』
「はいはーい祇遥桐埜ちゃん了解おっけ。肌が焦げるとか乙女的にNGだし。よぅし、全力出しちゃおっか。おんにゃのこのお肌は私がまもーっる!」
名前を呼ばれて桐埜がひらひらと片手を上げた。
すると男子メンバーが口々に動揺をもらす。
『おおいっ男は見捨てるとかなしだぞっ!?』
『ひえ……しっ、死ぬ……。嫌だ……むり……帰る。帰ってキャベツ千切る……』
『ぬっ。……ふっ、助力などなくとも、炎ごときおれが拳で切り裂いてくれる』
『無理やろ、よくてミディアム化で香ばしいわ。ごめんね要君、桐埜と男共のことお願いするけんね』
「りょ、了解。頑張る」
『気負わなくとも平気よ、要くん。私たちもサポートするから。それに桐埜ちゃんはしっかりお仕事してくれるもの』
「へえい。ざーさえ先輩のお願いなんでしっかりやーりまっすー…………めんどうくせ」
「しっかりやって……」
本気か冗談かいまいち判別つかない軽口を交わして苦笑する。それで心臓の鼓動が少しゆるやかになった。深呼吸して剣を握りしめる。手はまだ震えていたが、なんとか思考は落ち着いてきた。
『残り三十秒。……作戦開始前に一つだけ。母体の討伐に同意してくれて感謝する。僕はこの時をどれだけ待ったか分からない』
玖楼が吐息をもらす。抑えていても高揚が隠しきれていない沈黙だ。この作戦が彼にとってどれだけの悲願だったかが、それだけで伝わってくる。
しかし玖楼から、混じった私情はすぐに消える。インカム越しでも空気が変わったのが分かった。
『────ではよく照覧を。あれこそ十二の母体の一。君たちが相対する七区の怪物だ』
宣言と共に耳鳴りがして世界が歪む。ギャリッグウールが始まったのだ。
世界が塗り変わったのと同時に、公園に設置された強力な照明が点灯した。野球場にあるような大きいライトだ。眩い光が四方から砂地を照らす。
蜃気楼が実体化するような胡乱さと神秘性を伴って石碑の前へ現れた獣は、ライトの数だけ足元に巨大な闇のような深い影を落とした。
見た目は四足の獣だ。その体長は目測で五メートルほどもあったろうか。口は突きだし両耳が天を突き、鋭い牙が敵意を剥き出す。
怪物は狼の姿をしていた。尾は振るうだけで幼子を吹き飛ばし、巨体を支える四肢には鋭利な爪が生え揃っている。触れれば一薙ぎで人間を肉片へ変えるだろう。
普通の狼と違うのは大きさだけではない。首もとの毛が火を噴いている。緋々《あかあか》とした炎が集まって頭部を覆う。まるで猛る獅子か、もしくは獣が赤い頭巾をかぶっているように見えなくもない。
突然こんな化け物が現れればどんな人間も恐れ慄くだろう。唯一安堵に値するのは、狼の足には足枷がついていることだった。玖楼が封印石と呼んだ石碑から伸びた真っ黒い鎖が狼を戒めている。狼が動けるのはちょうど砂地の範囲のみ。それがなければ狼はとっくに走りだし、四肢の筋肉が躍動するままに破壊を始めたはずだ。
怪物を見上げた要はあまりの光景にあんぐりと口を開けた。データで知らされてはいたものの、実物の母体を見ると圧倒される。何度か見たことがある他の寮生も緊張を隠しきれていない。
狼が赤い瞳を地に向けた。羽虫のような人間が数人、自分を囲んでいるのを見て取った。自由を奪われた狼はその小さな人間たちをどう思ったのか。ぶるりとグレーの毛皮を震わせたかと思うと、牙をむいて月の無い夜空に遠吠えを響かせた。
空気を震わせる咆哮がギャリッグウールを駆け抜ける。声そのものに殺傷力はない。ただ、獣の叫びは人間の本能的な恐怖心を掻き乱した。絶対的な威圧感が少年少女を襲う。
この獣、飢えによって悪を成す。喰われた寮生は片手に収まらず、炭に消えた者もまた同じ。
よって研究所によって呼びならわされし名は──
──第七母体『灼炎ずきんの飢餓狼』
推定童話
『赤ずきん』
『七匹の子ヤギ』
『三匹の子豚』
童話に名高き悪役の一角が、炎を連れ立って風間の町に降り立った。




