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ある放課後


 珍しくアラームが鳴る前に目が覚めた。寝た時と位置が上下逆さで起き上がった要は、抱きかかえていた枕を頭側に戻す。


 分厚いカーテンを開いて外を見ると雨が降っていた。音もない、絹が落ちるような細い雨。


 雨の日の空気感は好きだ。特に朝の景色。音が全て柔らかくて、曇った雲の向こうに太陽があるのが分かる、白じんだ空の色がどこか眩しい。


 外の空気を嗅ぎたくて窓を開ける。寮の窓はほとんどがはめ殺しだ。もしくは、上部を視点に下部をスライドして開く突き出し窓。金具がついているので二十五度ぐらいまでしか開かない。そのため間違っても窓から出入りはできなかった。なぜこうなっているのかは、少し謎だ。


 窓のさっしを外から見てみれば、周囲に釘を外した跡がある。以前は窓の外側にさらに何かの(・・)があった痕跡だった。前は別の型の窓がはまっていたのか。


 いや、この日焼けの形状には覚えがある。


 要が玖楼に引き取られる前にいた病院には精神病棟があった。その病棟の奥、重度の精神疾患により外部から隔絶せねばならない患者が押し込められる病室。それを外から見たことがある。その窓の外側には、真っ黒い鉄格子がはめられていた。患者が間違っても逃げ出さないように。


 寮の窓はまるで、それを外して窓を付け換えたように感じる。だがどうしてそんなことを……?


 首を傾げて、要は自分の失念を思い出す。


 寮生はあくまで罪人。昔は寮に研究所マントールの人間が詰めていたと玖楼が言っていた。寮が監獄のような仕様であってもおかしくはない。おかしくはないが、ならばなぜ今はそうなっていないのか。


 今の緑輪寮に監獄の面影はない。窓のようにその名残があるだけだ。


(俺が考えても栓なき事……というか、何も分からないな)


 要は窓を閉めた。今日は玖楼くろうが買ってくれたあの無駄に大きい黒い傘を差して行こう。そう考えながら要は身支度を始めた。


   ◇  ◆  ◇


 放課後になる頃にはもう、雨は上がっていた。雨量が少なかったせいか大きな水たまりも見当たらない。校門前のクスノキだけが風の吹くたび雨の余韻を降らせ、下校する生徒に悲鳴を上げさせていた。


 濡れた景色が太陽に照らされ輝く。かなめが眩しさに目を細め帰路に着こうと校門を出ると、ばったり千夜ちよと会った。胸元で小さく手を振る彼女に同じように振り返す。


 彼女は折り畳んだ傘をカバンに上手いこと引っかけているところだった。それを見て自分の傘を置き忘れてきたことに気付いたが、まあいいかと意識から外す。今度の雨が降った時に持って帰ればいい。


「あれっ、要君も今帰り? 先に教室出とらんかった?」


「図書室に寄ってた。千夜は」


「うちは教室でクラスメイトと雑談しとって。あっ、そだ要君。買い物行くんだけど荷物持ちしてくれん?」


「いいけど。そんなに何を買うの」


「うちの用事やないよ、寮の食料品な。宇賀うが君のおつかいでね。宇賀君は保健委員会の集まりあるらしくて、タイムセールに間に合わないって廊下であせくとったけん、引き受けたんよ」


 千夜の説明で要は納得した。寮での夕食は全て一年生の宇賀うが湊太そうたが作っている。以前は違ったが、今年からは研究所マントールから出る予算を彼がやりくりしているらしい。安い時に大量に買い物するのはそのためだろう。


 しかし。


「こんな時間からタイムセール……?」


 首をひねると、千夜が簡潔に答える。


「会社帰りとかの人狙いで夕方にもやる店なんやて」


「へえ。そんなのもあるのか。よし、付き合う」


「ありがと。思っとったより量が多くて。助かったよ」


 心の底からの感謝の声に嫌な予感を抱きつつも、要は千夜と共に大型スーパーへ出向いた。


 結論から言えば、タイムセールは戦争だった。

 溢れるほどの人波。押し寄せる質量。

 人間に挟まれ圧死することを危惧きぐしたのは始めてだった。


 夕方だからか用意される品数はそう多くない。前も見えないまま人波から手を伸ばす争奪戦。特売品が無くなると、あれだけいた客が何事もなかったようにすっと解散していく。


 なんとか指示された商品だけゲットした要は、戦線を早々に離脱した。大人はこんなことを日々繰り返しているのかと思うと感心してしまう。そしてあのおどおどした一年生の少年への畏敬の念を抱いた。いつも美味しく食べている料理たち。さらに感謝して頂こうと心に決める。


 慣れない戦場を駆け抜けた要はボロボロになっていた。千夜と合流し会計を済ませ、品物を買い物かごから預かってきたエコバックに移す。


「要君、セール品のほう任せてごめんね」


「いや、貴重な体験だった。二手に分かれたのは正解だったと思う」


 袋は三個になった。千夜が二つ持とうとするので、さりげなく彼女から一つ受け取る。

 新鮮なキャベツは見た目よりも詰まっているのか両腕にずっしり重みを感じた。


 しばらく無言で寮を目指す。考え込むようにして口を閉ざしていた千夜が、ふいに顔を上げた。


「ねえ。要君はあの日、諫戸いさど先輩に何言うたん?」


 向けられたのは真剣な瞳。一瞬言葉の意味を計りかねたが、すぐに思い至る。あの日とは、諫戸が要と口論になった日のことを言っているのだろう。


「……俺は何もしてない」


 正直にそう答えると、千夜は静かに首を横に振った。


「でも、あの日から諫戸先輩でら(すごく)協力的んなったし。壁ばっかし作っとった人があんな柔和になるとか。堅物の啼臣ていしんまで驚いとったくらい。要君が何か言ったんじゃないと説明つかん」


 そう食い下がってくる。だがそれが要の成果でないことは、自分でよく分かっているつもりだった。


「俺はほんと何も説得なんかできてない。諫戸先輩が自分から考えて、心を開いてくれたんだ」


 少なくとも要はそう思っていた。結局、自分の言葉の何が諫戸に響いたのか分からなかったからだ。それでも諫戸は変わってくれた。彼自身の信念を曲げてまで。だから称賛されるべきは諫戸のほうだ。彼が優しかったから上手くことは運んだ。


 と諫戸本人に言っても否定されるだけであろう。なので要はそれを胸にしまい、代わりに話題を変えることにした。


「そういう千夜は啼臣と仲が良いな」


 と話を振ると、千夜は途端に苦い顔をする。


「うへぇっ、やめてあんな目が笑ってないズレてる朴念仁ぼくねんじん。そりゃ寮も学校もクラス同じやけど。なんかうちが啼臣係みたいに思われてるのはしゃくに障るゆうか。一緒にいる時間が長いんはしゃあないやん。それに寮の事情知ってて、アレから目離せると思う?」


 想像してみい、と言われて日頃の啼臣の言動を思い出す。生真面目と言えば聞こえはいいが、思考が直線的で正義感が強すぎる節がある。確かに目を離せば悪即斬っと走って行ってしまいそうだ。


「そういえば、啼臣は」


 放課後になってから彼を見ていない。それこそ目を離していいのかと思ったが、千夜は彼の行先を知っていた。


「先に寮に帰ったよ。ほら、今日は研究所マントールがなんか十九時に集合かけとるけん。啼臣はその辺り真面目やからもう寮で待機しよると思う」


「早すぎないか」


 まだ指定の時間まで一時間ほどある。放課後すぐ帰ったなら、三時間近く待っていることになるが。


「そういう奴なんよ。もうちょい融通聞かせてくれりゃええやんねぇ」


 千夜が困ったように苦笑する。やはり仲が良いのでは? 要はいぶかしんだが口には出さなかった。


   ◇  ◆  ◇


 買い物袋をキッチンに置く。買い物をしたスーパーと寮は離れていたので少し疲れた。さすがにこれを持って長距離を歩くのはいささかキツイ。途中でバスにでも乗れば良かったねなどと話していると、宇賀うがが帰ってきた。


 自分の部屋に行く前にキッチンに寄ったらしい。制服にカバンを抱えた小柄な少年が、扉に半身を隠しながらこっちを見ている。


「宇賀君お帰り」

「お帰り」


「うっ……。たっ、ただいま……もどり、ました。ごめんなさい……」


 こちらから挨拶すると、長めの黒髪を後ろで一つに結んだ少年がおずおずと出てくる。何に謝っているのか分からない。


「頼まれとったやつ買ってきたよ」


「ありがとう……ございます」


 中身を取り出し始めた。気弱な態度だが、その手つきは素早い。なるほどこれが職人か。要の中で宇賀への尊敬が増した。


 三つの袋を折り畳んだ宇賀が、何かに気付いたようにテーブルに広げた材料を見渡す。


「あれっ、ケチャップ……」


 少年が呟いた瞬間、千夜が弾かれたように頭を抱えた。


「えっ、あ! ごめん忘れとった! すぐうてくる!」


「待って……! くっ、ください。ケチャップは今日使うやつじゃ……ない、ので。いいです」


「でも、無理に引き受けたのはうちやし」


「えうっ……あのっ、でも……なら僕が……」


 さすがにそこまでさせるのは心が痛むのだろう。宇賀は引き留めようとするが、千夜も頑なだ。


「今から行ったら研究所マントールの招集に間に合わなくなる」


 要が肩を掴んで引き留めると、さすがの千夜も動きを止める。


「うっ……でもっ、うちの責任なのにっ」


 壁にかかった時計を見て、千夜の表情が途端に沈んだ。泣きだしそうになっている。彼女の言う責任という言葉がやけに重たく響いた。暗い顔でうつむく少女に、要は宇賀と揃って慌てふためくことしかできない。


 そこへ救世主が現れた。


「おーい宇賀ぁ、いるかっ?」


 諫戸いさどが染めた金髪を揺らしてひょっこり顔を出す。


「あっ? 何してんだお前ら」


 キッチンの様子に異様なものを感じたらしい諫戸が眉をひそめる。しかし要に彼の疑問に答えている余裕などない。視線は真っすぐ、諫戸が小脇に抱える小さめの段ボールに引き寄せられる。


「諫戸先輩、その手に抱えてるものは」


 震える指で指し示すと、諫戸はこともなげに答えた。


「ああ、ケチャップ一年分。商店街の福引で当たっちまってよおっ。俺一人じゃ消費しきれねえし、宇賀なら料理に使うかと思って……どうしたお前ら。なんだその目はっ。やめろ、拝むなっ、無言ですり寄ってくんなっ、怖ええよ!」


 そうして千夜と要はひたすら諫戸を拝み倒しキッチンから出て行った。夕食の準備をしたい宇賀は、なぜか二人と共に出て行かずキッチンに残った諫戸に怯えつつも食材を手際よく整理していく。


 黙ったままの諫戸はなぜか何もせずつっ立っている。だがさすがに長居するつもりはないらしく、やがて緩慢な動作でドアノブに手をかけた。ようやく一人になれると宇賀はほっと息をつく。だが諫戸の姿が消える前に、予想外にも声をかけられた。


「おい宇賀」


「……はっ、はい……!」


 すばやく台に身を半分隠しながら返事をすると、諫戸は振り返らないまま呟いた。


「頭の怪我は治ったか」


「あっ、は……はい。もう、傷ありません」


 諫戸の大剣にぶつかりできた傷。それがあった所を撫でながら答える。そこに傷はもうなかった。もともと浅い傷だったというのもある。だがそれ以上に研究所マントールがくれた傷薬が異様に効いたのだ。さすが表向きは製薬会社だ。宇賀はそう感心していた。


 宇賀の答えは満足のいくものだったらしい。張りつめた空気が弛緩し、諫戸がドアノブをひねる。


「んっ。悪かったな。次から気いつける」


 それだけ言って、諫戸は自室に帰って行った。取り残された宇賀は呆然と彼の消えたほうを見つめる。


「なんか怖い……」


 諫戸の豹変っぷりについていけず、宇賀は身震いした。今の諫戸は、粗暴な諫戸の姿しか知らない寮生からすれば異様にすら映る。


 本当はこちらのほうが諫戸の素なのだが、寮生メンバーはそんなこと知る由もない。


   ◇  ◆  ◇


 五月十七日の午後七時前。寮の夕食には少し早い時間。普段は各々が自由時間としてのんびりと過ごす時間のはずだが、この日は違った。理由も聞かされぬままラウンジに集まった寮生たち。彼らの前には研究所マントールの人間が二人いた。


 コレール討伐隊の指揮官である藤沢ふじさわ玖楼くろうが全員を見渡す。その後ろには彼の補佐官である沼端ぬばた顕治けんじが磨き上げられた床に体育座りして控えていた。


 なんだか重苦しい空気だ。すでに寮生は揃っているが玖楼は時間まで喋るつもりはないらしく、黙りこくっている。顕治はそんな玖楼を観察するように見つめていた。二人の触れ難い様子に、寮生も自然と口数が少なくなる。


 長針が頂点を指すと、玖楼がおもむろに口を開いた。


「さて、早い時間に集まってもらって悪いね。でも、どうしても全員に伝えることがあるんだ」


「新月のことかっ?」


 ソファーで一人足を組んでいる諫戸いさどがふらりと片手を上げた。要は眉をひそめる。また『新月』だ。新月の日に何かあるのだろうか。


 玖楼は諫戸の言葉を否定せず、だが肯定もしなかった。


「それも関係している。けど、もろもろの説明を行う前に一つ、重要な事実を共有せねばならない」


 玖楼が緊張に唇を噛む。次いで告げられたのは、誰も予想していなかった重い告白だった。


「君たち……いや、寮生はすべからく、卒業と共に死の運命にある。それも戦闘による名誉の事故死じゃない。君たちは、研究所マントールによって処分ころされるんだ」



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