忘れられた少年は守護を司る
耳に響く指示に従って走る。物陰に隠れてコレールをやり過ごす。
六区のコレールは、要が初めて出会ったあのウサギと猫の化け物だ。戦い自体には慣れてきていても、息を殺して巨大な影が通り過ぎるのを待つのは恐怖を煽られる。
そんな中、冷静な諫戸の声が要の心を落ち着けてくれた。
「クロワってのは、自分の内側を廻る力だ。それが血液みてえに全身を回ってる。だから、武器にもその感覚を伸ばしてやればいい」
移動の合間に囁くようにしてレクチャーしてくれる。その声はさっきまでの言い争いからは考えられないほど穏やかだった。
商店街から出て隣接する公園に入る。足音を忍ばせ遊具の影から道路のほうを見ると、そこには投げ縄のように懐中時計を振り回す白ウサギの姿があった。二本足で立ち、背丈は人間と同等か。尻尾だけが猫のものなのがアンバランスだ。
自然の生物ではない。コレールだ。要の始めて見る個体だった。
ウサギは目を血走らせ公園前の道路を往復している。諫戸はそれを見て苛立たしげに後頭部を掻いた。
「よりによって中級かよっ。ここが本当に一番層の薄い場所かぁ? 一体とはいえ初心者にはキツイだろっ」
『だが腕輪でギャリッグウールに入った部下が、この先で車を待機させてる。どうにか突破してくれ』
無慈悲にもそう宣告される。諫戸は何やら考え込み、もう一度インカムに向けて発言した。
「おい藤沢っ。結局、要のクロワってなんなんだ?」
要のクロワは属性が定まっていない。しかも一つしか持たないはずの属性を複数操る。初日以来要と班が被らなかった諫戸は、彼の力を把握していなかった。
玖楼は作戦室でカメラのモニターを見つめながら、慎重に答える。
『……要のクロワは前例がないからね。まだ詳しくは分からないが、恐らくはコピーの類だ。同じ区画にいる寮生のクロワを真似る……属性を借り受けるような』
「んじゃ今は俺の土だけか」
『そうなるね』
「ま、その方が分かりやしいってな。うっし、おい要。タイミング合わせて奇襲すっぞ!」
「タイミング?」
「ああっ。俺たちは専用の武器が無くても、ちっとならクロワを放出できる。それを合わせてもせいぜい一人分くらいの出力だろうが、弱ぇままよりマシだっ」
「…………」
「失敗してもフォローする。俺ぁ先輩だからな。任せろっ」
硬い顔になってしまった要の頭に、諫戸は手を置いた。そのまま乱暴に撫で始める。彼の言葉と落ち着いた態度に励まされる。
「んじゃ手筈通り、行くぞおらああああっ!!」
諫戸が物陰から飛び出す。公園の茂みをつっきり道路に出たところでウサギが反応した。諫戸は握っていた公園の砂を、走りながらウサギへ投げる。クロワの籠ったそれは弾丸のように飛んでいきウサギの眉間にヒットした。
ウサギがよろける。その隙に要はウサギの背後に回り、剣で思い切り足を殴りつけた。
諫戸の助言を思い出す。クロワは自分の内側で渦を巻いている。それを伸ばして全身へ。そして、握りしめたこの剣にも手足同様に感覚を伸ばす。剣を振るう度にクロワを発して使うのではなく、常にクロワを循環させ行き渡らせるイメージだ。
すると手にした剣がいっきに軽くなるのを感じる。遠心力のまま剣を振りぬくと、今度こそバランスを崩したウサギが仰向けに倒れた。
思わず歓声を上げかけ、ハッとして気を引き締める。
「諫戸先輩っ!!」
「おうよっ!」
いつの間にか横にいた諫戸と同時に地に触れる。コンクリートの下にあるはずの地面へ力を注ぎ込む。要は自然と、諫戸の発したクロワに自分のそれを上乗せする様をイメージした。自分の力はあくまで添え木。諫戸のクロワを増長させるようにと。
その咄嗟の判断が功を奏したのか。コンクリートが勢いよくひび割れ予想を超える速さで土が盛り上がる。要にはまだ力の制御が難しい。その役目を引き受けた諫戸が慌てて土砂の矛先を整えなおした。
蛇か竜のようにうねる。コンクリートすら巻き込んで黒龍となった土砂がウサギを頭から飲み込んだ。
ウサギが抵抗するようにもがく。しかし多量の土に押しつぶされ成す術なくその姿を消していった。
「っし! 驚くほど上手くいったなっ!! しかも武器持ってっ時と変わんねえくらいの質量だった! おい司令官っ! もうコレールはいねえよなっ!」
『…………うん、その一体だけだ。他のコレールが出現するまえに車へ向かってくれ』
返答に妙な間があったが、二人は指示通り車へと急いだ。
全区の中心である学校方面に走る。この方向にはあまりコレールが現れない。コレールは中心地から離れる外側ほど多く出るという。要はともかく、武器のない諫戸はこのまま車で回収されてコレール出現範囲外へ向かわねば危険だ。
住宅街の狭い道路にそのワンボックスカーは止まっていた。中には研究所の職員と思しき人が待っている。
必死に走ってきた二人はようやく安心し、膝に手をついて息を整えた。深呼吸して背筋を伸ばし、今度こそ車へ向かおうとした時、ふと足元に見慣れない花を見つけた。
薄い水色をした小さな花が集まって咲いてる。五枚の花弁に、モコモコとした黄色い花粉。可愛らしい花だが、歩いている時に眼に入るような奇抜さはない。しかしこの花には一つ、普通と違う部分があった。
「花が光って……?」
要はそっと花に手を伸ばす。見間違いかと思ったがそうではない。小さな花の一つ一つが微かに発光している。
「こっちにだけ咲く変な勿忘草だ。ギャリッグウールの空間だとそこかしこに咲いてんだろっ」
立ち止まった要に気付いた諫戸がそう教えてくれる。要は花から視線を外して車へ向かった。
「落ち着いて周り見たの初めてで」
今までは早く慣れようと必死で、地面の花に意識を向ける余裕などなかったのだ。言われて見渡してみれば、確かに遠くにも花の燐光が見える。
諫戸と共に後部座席に乗り込むと、車は無言で発進した。スモークの張られた窓越しでもあの花の光が透けて見える。
「勿忘草の花言葉って……」
以前誰かがそんなことを言っていた気がして呟く。すると諫戸がシートベルトを締めながら答えた。
「有名なのだと『私を忘れないで』、だ。それと……」
言葉が途切れる。不思議に思って右隣を見ると、諫戸は遠くを見るように窓へ肘をついていた。横顔をじっと見つめていると諫戸はため息をつき、要を見ないまま口を開いた。
「俺たちは過去に戻ることはできねえっ。失ったものを取り返すことも。
俺たちは手ぶらでここに来たようなもんだからな。そこはお前と同じだ。だからここでやれることを、俺たちはやって行くしかねえ」
「……そうだな」
「俺にはお前の気持ちなんて分からねえ。たぶん、央大の気持ちも。想像するくらいしかな。自分の感情は自分のもんだ。だから俺のことを理解しようとしなくていい。俺も、もうあいつの気持ちを勝手に解釈して受刑者面すんのはやめる」
「…………じゃあ」
「ああ。別れが罰じゃねえのなら。失うことを嘆くのが罪じゃねえってんなら、俺は俺の周りのもんを守る。一緒に戦って生活する仲間を拒絶しきれるほど、俺は器用じゃねえみてぇだし」
また要の頭に自分の手を乗せる。今度はその手が優しく要の髪を撫でた。
「もう諦めて失うのはごめんだからな」
伸ばされた手の向こうに一瞬見えたその口元は、笑っているように見えた。つられて要も笑い出す。すると「うるせえ」と後頭部を叩かれた。諫戸が何かを誤魔化すように話題を変える。
「お前の記憶喪失、知ってんのは研究所の連中と俺だけかっ?」
「? ああ。寮生には秘密にしたほうがいいって、玖楼が」
正直に答えると、諫戸は難しい顔になった。
「正しい判断だな。他の寮生には言うな。お前は忘れたことで苦しんでんのかもしれねえ。だが、あいつらの中で、『忘れたい』と願ってる奴がいねえとも限らねえ。んで、お前がそうだと知ってどう思うか、予測がつかない。そのうえ俺たちには、やり直しってのができねえからな……」
その煮え切らない言いかたに、あの日学校で啼臣と千夜が言っていたことを思い出す。
寮生は償いのためだけにここへ来たわけではない。命をかける代わりに、一応の報酬めいたものが用意されている。だがその報酬は、別の視点から見ればこの上ない罰でもあった。
「俺たちは、罪を犯した自分とは別人として生きることができる代わりに、死ぬまでこの町から出ることができない……」
「そうだ。それが研究所が提示する、俺らが命をかけて三年間戦う交換条件っ。残してきた身内には俺たちが死んだと告げられてて、実は葬式も終わっちまってる。この町での戦いが外に知られねえように、以前の知り合いと会うことも許されねえ。ここは言うなりゃ広めの監獄だ。そんで囚われてるからこそ、もう過去の関係者に謝りにいくことも許されにいくこともできねえ。嫌な記憶は死ぬまで嫌な記憶のままだ」
改めて説明してくれる諫戸に頷く。啼臣も千夜も、そのことを了承している口ぶりだった。寮生の全員がその条件で同意してここに来たのだろう。そして贖罪のために、今も戦っている。過去を捨てて。
だが記憶ばかりは捨てられない。むしろ忘れたいと願うほど頭にこびりつくものなのだと、玖楼オススメのドラマで言っていた。
「俺の今の状況は、忘れたくて死ぬほど苦しんでる人からすれば『羨ましい』になるのか」
「……他人の苦しみなんて人間分かんねえもんだ。全員が全員、お前に同情するとは限らねえ。どうせ俺たちはみんな素性偽ってるようなもんだっ。嘘つくことを後ろめたいとか思うな。余計な争いは避けるべきだろっ。まずバレねえとは思うが、何かあったらまぁ、俺も……フォローしてやるよっ」
意外な言葉に諫戸へ目を向ける。しかし彼は顔を背けて外を見ていた。要からは表情が見えない。けれどその耳が赤くなっている気がして覗き込もうとすると、頭をわし掴みにされてシートへ押し付けられた。
「んなことより! もう少しで新月だ。覚悟しとけよっ」
上ずった声が最後やけに真剣みを帯びていて、要は前方が見えないまま首を傾げた。




