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記憶のカゲロウ


 寮から当て所なく駆けてきた諫戸いさど僚介りょうすけは、ふと足を止めて周囲に目を走らせた。天井の低いアーケードに、降りたシャッターが立ち並ぶ。町の商店街、第六区だ。まだギャリッグウールは始まっていないはずだが人の姿は見えない。


 諫戸いさどは好都合だと精肉店のシャッター前に腰を下ろした。


 乱れた息を整えるのに軽く息をつく。どう冷静に考えても逃げる必要などなかった。だがどうしても、あの時あれ以上、あの場所にいることはできなかった。


「ちげぇ……」


 汗にぬれた首筋を腕で撫でて誰にともなく呟く。


「自分可愛さなんてあるわけねえ。俺は、俺を罰してるだけだ」


 過去を思い出してそうこぼす。大切なものなど、自分は二度と手に入れてはいけないのだと。


 彼の大切は、彼の愚行によって失われたのだから。


 諫戸僚介の家は父子家庭だった。母とは三歳の時に離婚して以来会っていない。唯一の家族である父親は悪人でこそないものの、月に一度は僚助を殴ることがある。そういう人間だった。


 もっと酷い家庭のことを思えば不幸とは言えない。だが幸せと断言できるかと言われればそうではない。悲鳴も笑顔も似つかわしくない。それが僚助の家庭生活だ。


 そんな彼を支えてくれたのは学校の友人たちだった。彼らは僚助の事情など知らない。知らないなりに僚助を想ってくれる。その中で遊んでいると、彼らの一員になれたようでうれしかった。


 小学生の頃から特に仲の良い友人が一人いた。央大おうだいという名の同級生で、剣道を習っている普通の子どもだった。不思議と気の合う少年で、僚介は彼とつるむことが多かった。小学校は一年からずっと同じクラスで、中学でも同じ。央大おうだいは剣道部に入り、帰宅部だった僚助は彼の試合があるたびに応援に行った。


 つつましく等身大の友情が二人の間にはあった。相談を一番に持ちかけ、イタズラがバレれば互いに庇い合うような、そんな関係。きっと成長して大人になってもその友情は続くだろう。そう確かに思えるものだった。僚助にとって央大は心の拠り所だったのだ。


 だが、ある日の試合でその幸せは崩れる。


 強豪校との練習試合で、当時の彼らは二年生だった。その中学には県の代表に選ばれている三年生の選手がいるのだと、央大は試合が決まってからから毎日目を輝かせていた。どうやら同世代の剣道少年たちの間では有名な奴らしい。


「そいつ、お前より強いのか?」


「あったり前だよ何言ってんの仕方ないなぁ僚助は。同世代なんだから県のスターくらい覚えとこう。彼は強いよ。彼が蛇ならマングースはいっつも涙目だろうね。三竦さんすくみだってピラミッドになるさ」


「おっ、おう?」


 そう言う央大も何度か大会で入賞しており将来が有望な選手だと期待されている。その央大がそんなに褒めるならと、諫戸もその彼を見るために応援に出た。


 異変を感じたのは練習試合が始まる前の、合同練習の時間だった。央大おうだいは始めからしきりに時間を気にする様子で、やがて体育館を出て行った。僚助は不思議に思ったが、試合が始まる前には戻るだろうと甘く考えていた。


 しかし親友はいつまで経っても帰ってこない。結局その日、央大は体育館に戻らなかった。


 僚介は後から知ったことだが、央大は体育倉庫で足を怪我して動けなくなっていたのだ。試合後に顧問が見つけるまで、誰もそのことに気がつかなかった。


 怪我は思ったよりも酷く、片足のけんが断裂し歩ける状態になかった。医者からも激しい運動は控えるようにと告げられてしまう。少なくとも、中学のあいだは剣道などできないだろうと。剣道を極め、それで高校にも行くつもりだった央大の人生はこれで狂ってしまった。


 僚介は病院で央大を問いつめた。あの日、央大は誰かに呼び出されたように見えたし、そうでなくては外の体育館にわざわざ出向く理由もない。怪我も誰かにやられたんじゃないか、と。


 だが、央大は曖昧に笑ってはぐらかすだけ。僚介は必死に記憶を思い出し、一人の人間に思い至った。


 相手校の強化選手。央大が気にかけていた三年生の少年だ。彼は央大が消えた前後に、同じく姿を見せなかった。


 さっそく話を聞くために、その少年の中学に潜り込んだ。丁度耐震工事中で人が多く出入りしていたから他校の人間でも怪しまれずに入ることができた。


 そして部活中だった彼を見つけ、体育館の外へ呼び出した。背が高く筋肉質の男だ。口元はにこやかだったが、目元が笑っていない。人をあざむく人間の顔だと、僚介は警戒を強める。その少年の雰囲気は、大嫌いな自分の父親に似ていたから。


 央大のことを聴くと少年は最初、はぐらかそうとした。だが僚助がちょっと誘導してやると、少年は笑みを深めて同情を誘うような口調に変わってボロを出し始める。


「目障りだったんだよ。潰せる機会があれば潰す。分かるだろ? こっちだって剣道に人生かけてるんだ。ライバルが減るに越したことはないさ」


「……本当に、あそこまでの怪我をさせる気はなかったんだな」


「うるっさいな。何度言わせるんだよ」


 詰め寄る僚助を少年が突き飛ばす。僚介は校舎の壁にぶつかり尻餅をついた。その僚助を見下ろして、少年が笑う。


「ああでも、アイツ全然抵抗しねぇから、つい楽しくなっちゃってね。やられてもやり返さない。ほんと、馬鹿な奴だったよ」


 吐き捨てるように言って、おどけるように肩をすくめる。親友を侮辱するその視線に僚介はもう、耐えられなかった。


「ちげぇ。んなことじゃねえよ……」


「はっ?」


「分かんねえのかよ! あいつがテメェに手を出さなかったのは弱さじゃねえ! やり返したら、あんたの未来を奪っちまうからだろうが──っ!!」


 咄嗟とっさに掴んだのは転がる鉄板だった。工事の足場に使うものが運悪く積み上げられていたから。それを振り上げた瞬間、少年の顔に恐怖がよぎる。僚介は眼球が捉えたその映像はまるで静止画だ。


 間抜けなその絵に躊躇なく鉄板を振りぬく。角が少年の頭に吸い込まれていくのを、まるで不出来な映画のワンシーンのようだと思いながら。


 結果として少年は死んだ。即死だった。諫戸僚介は駆けつけた教師に取り押さえられて警察に連行される。殺す気はなかったと、そう胸を張って言えないことがなんだかとても悲しかったことを覚えている。


 それでも、自分が間違ったことをしたとは思えなかった。相手は一人の人間を弄び、人生を狂わせた人間だ。きっと央大の他にも被害者がいるに違いない。そんな奴を殺して何が悪いと胸のどこかで思っていた。


 事情聴取を受けて、何やらたくさんの大人に囲まれたとしか記憶にない。細かいことは何も理解できなかった。ただ、途中で面会した央大の両親が告げた言葉だけは、一字一句忘れない。


「央大に、君のことを伝えたんだ。剣道ができないと言われた時より絶望していたよ。それで……その、次の日にね、何事もなかったような顔をしているから、君のことを聴いたらなんて答えたと思う?」


「分かりません」


「……『誰それ』。これだけだった。央大は君のことを忘れてしまっていた。君に関することも全て。友人が自分のせいで殺人を犯したことがよほどショックだったんだろう。央大にとってもはや君は忌まわしい犯罪者なんだ。だからね僚助くん。その、今の君にこう言うのは申し訳ないけれど、どうかこれを機に、うちの央大と縁を切ってくれないかな」


 もう息子に辛い思いはさせたくないからと、真面目な顔で迫られた。僚介は頷いた。そうですねとか、仕方ないですとかうわ言みたいに繰り返しながら。


 それは逃げだったのかもしれない。僚介は何も反論できなかった。あれほど大切な親友だったのに、僚介を忘れたいと願った彼と会うのが怖かったから。


 こうして親友を失って諫戸いさどは思い知った。人を殺すことが、どれほどの大罪なのか。心の拠り所だった友から忘れられてしまったのは、その罰のように思えた。


 央大とはその後会っていない。直後に研究所からの使いが来たからだ。彼らは諫戸に問うた。


「その罪を償うために、命をかける気はあるか」


 自分の命に価値なんて感じなかった。だが、自分の働きがまわりまわって少しでも央大の役に立てるなら。重すぎる罪を償うことになるのなら。断るという考えは浮かばない。

 そして同時に思った。


(親友を失うことが俺の罰だったのなら、俺は二度とまともな大切(・・)や幸せなんて持っちゃいけねえんだ)


 シャッターに背中を預け、諫戸は空を見上げた。薄汚れたガラス越しの夜空には星一つ浮かんでいない。


 吐息をついて空虚な胸元を握りしめる。そしておもむろに立ち上がった。来訪者を出迎えるためだ。


「なんだよ。追いかけてきたのかっ? どんだけうぜぇんだよ、お前」


 わざと怒りを声に出す。やって来たのは彼の後輩。拒絶する彼になぜか突っかかってくる少年。息を切らしながら、愚直で誠実な視線で諫戸を貫く。


 自分が彼に対して特に強く当たってしまっていることを諫戸は自覚していた。その理由も分かっている。


 諫戸はこのいつかの親友を思わせる眼からずっと、死にたくなるほど逃げ出したかったのだ。




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