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ズル


 コーヒーの香りが心を落ち着ける。薄暗い店内に、どこからか微かにジャズのBGMが聴こえていた。


 居心地のいいカフェだった。見えるところに人はいない。店主は奥にいるはずだが、その気配もしなかった。


 カウンターの隅に透明な花瓶が置かれ、そこに白百合が一本だけ飾られているのが印象的だった。


 店の入り口から見えるテーブル席に深く腰を落ち着けた藤沢ふじさわ玖楼くろうは、待ち合わせ相手が無事にここへたどり着くか、そこだけを心配しながらコーヒーを傾ける。


 約束の時間までもう少し。無理矢理つくったこの時間のうちに彼が現れてくれるか。何度も腕時計を確認してしまう。


 果たして、待ちに待った相手は時間通りにやって来た。店の表に出ている『クローズ』という文言に足を止めたが、玖楼が中から手招きすると素直に入ってくる。


 ドアに備え付けられた鈴が低く来客を告げる。玖楼の顔を見てほっと息をつくのは、玖楼の養子であるかなめだった。


 要は玖楼が用意した春服を着ていた。シンプルな萌葱もえぎ色のベストと青の濃いジーパン。ふんわりとした彼の雰囲気によく似合っていて、玖楼は微笑みを浮かべてしまった。


「やあ要。よくここまでこれたね」


「いつまでも迷ってばっかじゃない。……後輩が詳しい地図を書いてくれた」


「後輩? 一年生の宇賀うが湊太そうたかい?」


「いや、桐埜きりの


「桐埜? ……祇遥ぎよう桐埜? 彼女が君に? どう頼んだんだ」


 告げられた名前に驚いて聞き返してしまう。祇遥ぎよう桐埜が女生徒以外に親切にしている場面など思い浮かばなかったからだ。いったいどんな取引をすればそうなるのか不思議だった。


 しかし要は狼狽うろたえる玖楼に首を傾げる。


「どうって、他の寮生はみんな居なかったし。頼んだらすっっっごいため息つかれた後書いてくれた」


 言って見せてくれた地図は確かに手書きだった。寮から店まで、曲がり角にある店や家の名前が四方分書かれ、直進ルートにも何分ほど歩くかが書き込まれている。


 なるほどこれでは迷いようがない。随分ずいぶんと手が込んでいる。むしろここまでやらねばコイツは迷うと思われているのかもしれなかった。初日の大遅刻の印象が強いのだろう。


 一先ず地図の件は横に置き、玖楼はさっそく本題に入る。


「で、要が電話で言ってたことだけど……」


「教えてくれるのか」


「そもそも、どうしてそんなことになっているんだい。本人に訊けばいいじゃないか」


「諫戸先輩には教える気なんてない。なのに言うんだ。『何も知らねえくせに』って。自分のことなんか教える気なくて、どっかからバレるとも思ってない。なのに、相手が知らないってことを盾にする。普通ならどうしようもないのに。そんなの、卑怯だ。フェアじゃない」


 要はこぶしを握り締めて視線を落す。玖楼はこめかみを押さえた。諫戸の言動に問題があるのは研究所マントールも把握している。だが大きく問題視していたわけではない。コレール退治はしっかりこなすし、他の寮生も彼との距離感をわきまえていたからだ。


 彼らは同族だから。互いが負った痛みを推測して、そこを踏まないように、踏まれないように立ちまわる。


 しかし要は違う。罪を犯したはずの記憶を失っている。


 だからだろうか、と玖楼は思う。要は自分を知らない。彼の出自は研究所マントールの情報網を持ってしても未だ分かっていなかった。


 だから要は己の過去もあやまちも、知りようがないのだ。彼が寮生と関わろうとするのは、近い境遇にあるはずの寮生達から自分の正体を探ろうとしているようにも見える。


 それが意識的なのか無意識なのか玖楼には判別できない。ただ、彼は彼なりに罪の意識を背負っているらしいのは確かだ。どうやらそんな要にとって、「知らないくせに」は理不尽な宣告に聴こえるらしかった。


「だから知ってやろう、と?」


「そうだな。俺は人の心なんて読めない。過去にあったことを調べる技術もない。それは先輩も分かってる。分かってて言ってるんだ。そうやって絶対に超えられない条件で壁を作るのは、自分が傷つきたくないからだと思う。でも、俺たち(・・・)にそんな弱音が許されるはずがない。だから──相手が卑怯なら俺もズルくらいする」


 ゆっくりと、一つずつ確かめるようにしながら語る。たどたどしい言葉と裏腹に、玖楼を貫く要の瞳にはゆるぎない覚悟が宿っていた。


 玖楼はその眼を見つめ返しながら、改めて思う。この強い芯を秘めた少年は、いったいどうしてクロワを発現させてしまったのだろうかと。


研究所マントールにも守秘義務というものがある。だから、こんなことは一度きりだ。いいね?」


 重く頷く要に、玖楼は内心微笑みながら告げる。


「今から語るのは諫戸いさど僚助りょうすけ罪過ざいか。彼が犯した殺人の回顧録だ。しかし彼にとっては、殺人そのものは重要ではない。彼があそこまで他者を拒絶することになった理由は他にある。二つは切り離せない現象さ。だから、どうか最後まで聞いて欲しい。それが他人の傷をえぐろうとする君の義務なのだから」


   ◇  ◆  ◇


 低い鈴の音が客の退店を告げる。窓の向こうに薄れ遠ざかっていく萌葱もえぎ色を眺めてから、玖楼は冷めてしまったコーヒーをあおった。


 空のカップを静かに置くと、木とガラスの衝立ついたてを挟んだ隣から言葉が投げかけられる。


「よろしかったんですかね?」


 声のしたほうを見るが、その席に人の輪郭りんかくはない。どうせまた床に座っているのだろうと、玖楼はかぶりを振った。


「お店でくらい、椅子に座ってはいかがですか沼端ぬばた補佐官」


「地べたのほうが安心します。なんなら這いずって移動したいくらいですよ」


「高所恐怖症か何かですか?」


「いえ? 趣味はバンジージャンプですが」


「なにか矛盾してませんかその趣味!?」


「母なる大地に向かって落下していく感覚が大好きでしてね」


「おわぁ、変態の一種でしたか」


「ふふふっお褒めに預かり光栄です。それで、話して良かったんですかね。無用な争いが起こってコレール退治が滞るようなことがあれば、それは責任問題ですよ指揮官」


「責任ですか。その問題を追及したがっているのは貴方の上にいる人間でしょうに」


 相手の裏へ一歩踏み込み微笑むと、衝立越しに空気が冷えるのが分かる。沈黙はほんの一瞬。顕治けんじはとりつくろうでもなく、変わらぬ調子で答えた。


「ええ、まあ。私は独断が過ぎるあなたの監視も兼ねていますからね。ですが……、正当な理由があるのであれば、私は(・・)止めはしませんよ」


 研究所マントールも一枚岩ではない。特に研究所設立当初からいる古いお歴々は保守派が多い。対する玖楼くろうは急進派と見られ監視にさらされていた。


 顕治けんじは保守派の人間の部下だった。しかし言いかたが奇妙だ。いぶかしむ玖楼くろうの体にさっと影がかかる。いつの間にか顕治けんじが真横に立っていた。彼の体に照明が遮られたのだ。


 顕治けんじはにこやかに笑っている。顕治けんじが席に着かず床に腰を下ろしたので、玖楼くろうはため息をつく。


「柱が必要なんです」


 隠す必要もないだろうと白状すると顕治けんじはすぐ食いついてきた。


「柱? ……隊のですかね」


「ええ、精神的支柱。急造でもいい。沼端さんの言う“独断”を進めるには、隊をまとめる強い支柱がいるんです」


「過去の資料を拝見しましたが、諫戸いさど僚助りょうすけ君には無理じゃないですかね。――いや、まさか要君に?」


 眉をひそめる顕治けんじかぶりを振る。


「そこはこだわっていません。別に柱は一本じゃなくてもいいんです。何本もあっていい。どれか潰れそうになっても他で支えられるから。ほら、人って字は支え合っているみたいな素敵理論ですよ」


「はははっ。それなら入るって字は最悪ですね。一人滑り込むのに、何かを押し潰しているように見える」


「僕もそう思いますよ。他人の心に入り込むのは、それだけリスキーってことです。けれど、上手くいけば見返りは大きい。これをきっかけにメンバーが自分と向き合うようになれば、隊はもっと強くなる」


「そのために要君を火種にしようというのですね。いいでしょう。けれど無理を通すならその時は止めますよ。私が最も優先するのは、討伐隊メンバーの命です。私はそのために──藤沢ふじさわ玖楼くろう。あなたの下に派遣されたんですからね。誰もあなたの犠牲になどさせない」


 鋭い目つきが玖楼を射抜く。足元から立ち上る冷気に吐息を吐き出すようにして、玖楼は眼下の男を見下ろした。男は眼鏡の奥、垂れた目元をつり上げこちらの出方を観察している。普段は閉じている片目が開かれ、そこには硬質な色を反射する眼球があった。


 義眼だった。彼の左目は見えていないのだ。思わぬ事実に言葉を失っていると、顕治は表情を緩めた。


「それにしても良いお店ですね。特に床の座り心地がとてもいい。店休日に店を開けてもらうなんて、よほど店主と仲がいいんですね?」


 あからさまな話題転換。まだ対立するつもりはないという意思表示であろうか。玖楼もほっと息をついて慎重に答えた。


「ここは研究所マントールから近いですから。研究所に赴任してから常連になりました。今日のは急な連絡でしたし、他に落ち着ける場所が思いつかなかったもので、少し無理を言ってお願いしたんです」


「へえ。風間町に来るまでは何処どこにいらしったんです?」


「ははっ、貴方の知らないような田舎町ですよ。余計な詮索せんさくは、お互いに控えるべきではありませんか?」


「それもそうですね。痛くない腹まで探られては、くすぐったくて暴れてしまいかねないですから」


 笑い合いながら互いに牽制けんせいし合う。見ているだけで胃の痛くなるような空気を漂わせながら、二人は店を後にした。




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