迷子の少年
不気味なほど人気のない真っ暗な商業通りに駆け足が鳴る。
リュックと竹刀の袋とを背負った学生服の少年が、何かから逃げるように走っていた。
普段はぼんやりと虚空を眺めているような覇気のない垂れた瞳も、今ばかりは夜闇の先を見通さんと力が籠っている。
刈り上げた襟足のわりに長い横髪を振り乱し、一心不乱に道のずっと先へ足を送り続ける。それだけを意識した走りだった。
すでに息は上がっている。荒いだ呼吸が耳にうるさく、脇腹も痛い。まだ冬の寒さが残留する季節というのに、身体には熱がこもって汗が額を流れていった。少年はたまらず、一番上までしっかり留めていた詰襟のボタンを一つ外す。
もう走れない。そう思った瞬間、背後からコンクリートを削る音が近づいて来て少年は唇を噛んだ。
「つぅ──なんなんだアレっ」
文句を言っても何も変わらない。どれだけ走ればアレから逃げられるのか。少年は振り返るのも怖くて、通り過ぎる時にカーブミラーをちらと見た。
──いる。
少年の二十メートルほど後ろにソレはついて来ている。
ソレは真っ白い異形の怪物であった。シルエットは生き物より車に近い。突き出した頭部、膨らんだ腹、腰から下は存在しない。それに虎柄をした猫のような両腕が生えている。怪物は腕を器用に動かしてもの凄い速さで少年を追いかけて来るのだ。
顔のつくりや頭頂部から生える長い耳はウサギのようだが、そんなに可愛いものではない。なんといっても自動車くらいの大きさがある。それが少年を喰らわんと金属音のようなわめき声をあげて迫ってくるのだからたまらない。
「あれがっ、──玖楼の言ってたっ、ぜはっ、コレール!?」
足りない酸素を必死に補充しながら、少年は思い出していた。なぜ自分がここにいるのか。なぜ、こんな怪物に遭遇する街に来なくてはならなかったのかを。
◇ ◆ ◇
「こんにちは」
そんな男性の呼び声で少年はゆるやかな眠りから浮上した。軽く目を開ける。木々の隙間から届く木漏れ日が彼の額を照らす。その眩しさに上げていた顔を下げて、少年は自分が病院のベンチで居眠りしてしまったのだと気がついた。
「お昼寝の邪魔をして申し訳ない。君が、先月ここに入院させられた記憶喪失の子だね」
もう一度呼びかけられ、少年は目の前に人がいることに始めて気づいた。黒髪に白髪の混じった男だ。囚人めいたボーダーの服に、似合わない白衣を羽織っている。
片足が悪いのか、杖をついていて体重をそっちに傾けている。老人かと思って顔を見れば意外に年若い。三十になるかならないかに見える。男は目元に穏やかな微笑みを漂わせていた。
少年は男の問いに頷いた。男が誰なのかは分からなかったが、彼の言葉は正しかったからだ。
「……そうだ。俺は何も覚えてないからこの病院に放り込まれた。けどあなたの探してる人とは限らないんじゃ?」
「いやいや、そんな訳ありな子は君一人ぐらいしかいないでしょ」
男は苦笑して、杖をついていない方の手を少年へ差し出してきた。
「僕は藤沢玖楼。しがない研究職従事者だ。突然だけど君の素養を見込んで一つ、提案がある。──世界を救ってくれないかい?」
少年は最初、冗談だと思った。しかし玖楼と名乗る男の笑みは優しくも真剣だ。少し色素の薄いその瞳には誠実さが潜んでいるのが見てとれた。
だから、少年は半信半疑ながらも玖楼の手を取った。腰を浮かせて、皮膚の硬いごつごつした大きい手を握る。玖楼は嬉しそうに笑みを深めた。
それは、少年が目覚めてから始めて見る本当の笑みだった。作り笑いじゃない、愛想笑いでもない、どんな質問にも答えられずにいる自分へ向けられる引きつった笑顔じゃなかった。
初めて誰かに必要とされた。少年が心を許すのに、それ以上の理由はいらなかった。
「うん、とりあえずありがとう。詳しいことはおいおい話そう。とりあえず、僕を養父として君の身柄を引き取る手筈になってる。いいかな?」
「わかった」
「よぅし。それで君、自分の名前は覚えてる?」
今度は首を横に振った。
「覚えてない」
「そうか。呼び名がないのは困ったな。……じゃあ偽名を名乗ろう。仮の名ってやつだ。そうだな…………『要』なんてどうかな」
「かなめ?」
「そう、僕の養子だから、藤沢要。どうかな?」
「よく分からない。けど、玖楼がそれでいいなら」
「あははっ、気に入ってもらえたなら良かったなぁ。それじゃあ要、これからよろしくね」
繋いだままの手を強く握り返された。あげく上下にぶんぶん振られる。自分でやったくせに玖楼はその勢いでふらついた。慌てて立ち上がり彼の身体を支える。ありがとうと苦笑する玖楼に少年──要は訊いた。
「俺はどうやって世界を救えばいい」
ひどくふざけた台詞だと自分でも分かっていた。だが不思議と気恥ずかしさは浮かばない。
玖楼は要の支えから離れ、彼を正面に捉えながら答えた。
「君が倒すべきはコレール。とある街で発生する、人心を惑わす虚像の怪物だ。君にはそれと戦う素質がある。安心してくれ。君の他にも何人か、同じ素質を持ち、コレールと戦っている者たちがいる。戦い方は彼らが教えてくれるよ。
さて、じゃあ準備をして、街の寮に引っ越しだ」
明るく笑って話を進めてしまう玖楼に、要は頷くことにした。
◇ ◆ ◇
そうして玖楼は手際よく手続きをすませ、あっという間に要を引き取ってしまった。そして今日、玖楼の言う学生寮とやらへ移り住む予定だったのだが。
「あぁっ、何処だここっ」
とうとう力尽き、ついに怪物に追いつかれた。頭上を薙ぎ払う猫の爪を間一髪避けながら舌打ちをもらす。ありていに言えば、要は迷子になってしまったのだ。
用事があり一緒に行けないという玖楼の代わりに地図を渡され街の周囲をさまようこと数時間。予定では二十時には寮へついているはずなのに、二十三時を過ぎた今、もはや自分の現在位置も分からない。
記憶がなく病院から離れたことがなかったので知らなかったが、どうやら自分は方向音痴だったらしい。要が遅れてそう気づいたのは、すでに怪物に遭遇した後のことだった。
「わっ──」
体勢を崩したところに猫の腕が追撃してくる。とっさに腕輪を付けた腕で顔を守り、そのまま上方に吹き飛ばされた。
殴られた勢いで四メートルは浮かび上がる。しびれる腕を押さえながら要は死を覚悟した。この体勢ではまともに着地もできない。地面に叩きつけられて、そこにウサギがとどめを刺すだろう。
自分は何も成し得ないまま死ぬのか。近づく地面に恐怖が湧き上がった時、異変が生じた。
要の落下位置から急速に植物が生えてくる。異常な大きさにまで成長したしなやかな葉が驚く要を受け止めた。トランポリンのように跳ねてコンクリートに尻餅をつく。尾てい骨を走る激痛に涙しながら要が振り返ると、謎の葉はすでに枯れ始めていた。
「何が……はっ」
葉に気を取られていたが迫る脅威はこれだけではない。怪物がすぐ目の前まで来ている。逃げようとした瞬間、今度は前方の地面が大きく盛り上がった。コンクリートがひび割れて下の土がもくもくと壁をつくる。怪物はそれにぶつかって動きを止めた。
怪物が鋭い爪で土を引っ掻くが、壁はびくともしない。何が起きているのか分からないまま要が呆然としていると、遠くから人の駆けて来る足音が近づいてきた。またコンクリートの割れる音がして、二つある足音の一つが助走をつける。
「見っつけたぞオラぁあああああ!!」
野太い少年の声に顔を向ける。すると盛り上がった土を足場に大きく跳ぶ少年の姿があった。皮の上着にジーパン。耳にはいくつもピアスがついていて、その髪は染めた金色だ。要よりも体格がよく、年上に見える。少年は自分の身長ほどもある刃の大きな大剣をふりかぶっていた。
「っ四散しろクソウサギがあああ!!」
少年がその大剣を怪物に叩き付けると砂塵が舞った。と同時に、もう一つの足音が要の横で停止し膝をつく。
「きみ、大丈夫……ではなさそうね。とにかく怪我はない? 痛いところは?」
言ってじっとこっちの眼を覗き込んでくるのは、おだやかな目をした少女だった。まつ毛が長く、眉が太い。茶色がかった長い髪はゆるくウェーブしている。おっとりした女性といった容姿だが、その手にはなぜか、柄の異常に長いハンマーのようなものを握っていた。
頭の中がさらに混乱してきたが、とりあえず心配してくれる少女に頷いておく。すると少女はほっと息をつき、直後には微笑んでいた。
「きみは二年生の要君ね?」
「……はい」
「よかった。私は三年生の風杖紗枝。コレール討伐隊のメンバーで寮長よ。無事に見つかってよかったわ。ギャリッグウールになっても寮に来ないから心配してたのよ」
「ギャリ?」
聞き慣れない単語に小首を傾げたが、周囲を警戒している紗枝は気づかない。
「立てる? すぐに走ってほしいの。ここに来る途中、コレールの群れに引っかかってしまって……」
要は手を引かれて立ち上がった。“群れ”と言われて背筋が凍る。さっきみたいな化け物が、群れている?
「おいっ、確認は終わったのかっ!」
大声に心臓が跳ねた。見ると先ほどの少年が。大剣を肩に乗せてこっちへ駆けて来る。さっきのコレールの姿も、盛り上がった土も無い。すっかり元の静観な通りだ。怪物は彼が倒したということだろうか。
少年の問いかけに、少女が代わりに答える。
「ええ、やっぱり彼が要君だったわ」
「そうか。んじゃお前」
少年が要を睨む。少年はよく見ると眉にも剃り込みを入れていた。俗に言う不良というやつだろうかと要は思った。
少年は一本立てた指をトンボにしてみせるように要へ突き出したあと、自分たちが走ってきた方向へ向ける。
「テメエがぐずぐずしてっから追いつかれちまった。死にたくなかったら戦え」
つられて顔を向けた要にも見えた。土煙が上がっている。まだ距離はある。だが確実に、さっきのウサギと同じ怪物が七体、要たち目がけて迫っていた。




