猫人帝国の女帝 後編
昼食を振舞われたが、肉、魚、卵が中心で野菜や果物は食べないようだった。
菜食が好きな私としては少し困ったが、味付けは一流だ。
「散歩に行きますが、来ますか?」
その頃になると私はだんだん彼女の心の内が分かるようになってきた。
このように尋ねられた場合、あなたとに一緒に来て欲しいと言っているのである。
猫人族は人間と違って心で思っていることをそっけない素振りで伝えようとする。
散歩コースは城壁の上を歩くのが日課となっているらしい。
目も眩むような手すりもない場所を悠然と歩いて行く。
遠くには戦火で焼けたような跡のある城壁が見えた。
「戦争でもあったのですか?」
「あれは猿人族との最近の戦闘で受けたものです。
彼らとの国境はあの辺りが一番近い。」
その表情は憂いを湛えている。彼女は戦争は嫌いなのだろう。
アレクサンドラは空を見上げた。
つられて私も雲一つない青空を見たが、鳥が飛んでいるわけでもなかった。
長い階段を降り、城下の町を視察する。
老若男女問わず誰もがアレクサンドラを慕って集まって来る。
一人一人に親愛の情を込めて挨拶する表情は、至上の暖かさを感じさせるものだった。
時折見せる厳しい顔つきとは全く違う彼女の姿に私は驚いた。
その時小さな男の子が 身をかがめ、私の背丈の倍くらいの高さの軒先に突然飛び乗った 。
「この国の人々はどうやって体を鍛えているのですか?」
「何もしていません。普通に日々を暮らしているだけです。軍人は一応教練はしますが。」
どうやらスポーツらしいこともせずに驚異的な身体能力を持っているらしい。
私は一人で歩いてもよいか尋ねた。
「好きにしなさい。」
「木になっている実はどれも自由に食べて良いです。」
心を見通されているのだろうか。さりげない心配りだ。
城の外の人々は初めは人間の私の姿を見て驚いたが、
なぜかすぐに親しく寄って来る。果実を探している場合ではない。
全身黒ずくめの貴族、おそらく年齢は私と同じぐらい20代前半と思われる青年が話しかけてきた。
「旅のお方、あなたとお話ししたいと思っていたところです。」
「あなたを見ているとシンパシーを感じます。
おそらくあなたは猫人族に近い人間なのかもしれません。」
ネッロという名前の黒猫人の青年によれば、人間の中でも彼らにに近い種類もいれば、
猿人族、犬人族それぞれ近い種類の人間が存在するのだと言う。
言われてみると、思い当たることがいろいろある。
私は団体行動が苦手で 自由気ままに生きるほうが好きだ。
気分もしょっちゅう変わるし安定していない。
しかも夜になると行動が活発になり集中力が上がってくる。
私が気になっていたのは、町の人々の反応だった。
「どうして誰も私に親切なのですか?」
「陛下があなたの首筋につけたその香りによって
国民の誰もがすぐにあなたは女王様の所属であると分かるのです 。」
どうりで会う猫人族の人々全てが直立に最高の敬意を表して立ち止まるのか分かった。
彼らは香りによって情報を得ているのだ。
「こうやって私とあなたが話したことも記憶されます。」
「私につけられた陛下の香りはどんな言葉なのですか?」
彼は何と答えてよいか考えていた。
「・・『これは私の所有』・・。」
彼の表情から本当はもっと意味があることは伺えた。
「あなたは・・陛下に気に入られたのです。
初めての存在として。そして。」
彼はそこで言葉を止め、話を変えた。
「猫人族の帝国と犬人族の帝国、猿人族の帝国とはそれぞれ対立しており、
時に戦争となるのです。」
現在のところ 猫人族の帝国はアレクサンドラの代で過去最強らしく、優位を保ち続けている。
しかしアレクサンドラは戦争を嫌っていて領土の拡大は望んでいないようだ。
それなのに攻撃を仕掛けられるたびに意思とは逆に領土は防衛線とし広くなっている。
統治に素朴な疑問が湧いた。
「一体どうやって陛下は人心を掌握しているのですか?」
強権的な専制政治でもなく、威圧的でもない。
庶民には自分たちを同じようにしたしまれ、分け隔てをしない。
人々は誰も幸せそうだ。
「心です。その豊かさによってです。」
「陛下は弱い者を理不尽に苦しめるものには、最も激しい怒りを示しますが、
それは希です。」
謎が一つ解けた。
金や銀の貨幣を持たずどうやって立ち行けているのか。
アレクサンドラは時に厳しい表情を見せたりするが、
誰に対しても深い愛情を持っているのは間違いない。
見たが限りでは、この国の高貴な人々は全て愛情が、感情が豊かな人々であった。
おそらく彼女はその中でも飛びぬけて豊穣な心の持ち主なのだろう。
この国での価値は感情の豊かさだったのだ。
私は宮殿でアレクサンドラの絵を描き日々を過ごした。
時には広い宮殿や広大な敷地の中をかくれんぼをしたりして遊んだ。
当然だが人間の私がどこに隠れようと無駄だ。
彼女はそんな私を見て余裕で楽しんでいた。
この国には時計がなく、時間の概念も曖昧だ。
勤勉という言葉もないようだ。
武器を作る鍛冶屋にしても 1日1時間いや2時間ぐらいで あとは遊び呆けている。
身分の違いはあっても経済的な格差や貧困は見られない。
困っている者は誰かが助けるのである。
私はアレクサンドラに聞いた。
「貨幣が無くてどうやって経済は動いているのですか?」
「人々の善意です。それ以外に何が必要ですか?」
私はこの国に来てから考えてきた。
生きて行くのに本当に必要なものとは一体何なのだろう?
この国は無言でそれを問いかけてくる。
アレクサンドラは皇帝だが特に何か権力をふるっているようにも見えない。彼女だけではない。貴族たちも権力には関心がない様子だ。
ネッロは言っていた。
猿人族は仲間内での競争が激しく、その延長として他国にまで戦争をしかけて支配しようとすると。
そのための武器を造り、商業は発達し、格差の激しい社会だと。
犬人族は猿人族ほどではないが、他者を自分より上か下かのヒエラルキーで考えるとも。
ある日の散歩で私は彼女に聞いた。
「ご先祖についてお聞きしてもよいですか?」
「あなたがわれわれの言葉を理解してくれたら。」
意味がまったくわからない。
「先祖の記憶は私の中にあります。」
猫人の国には墓というものがない。
どれほど地位が高い者もその時が来れば人知れず姿を消すのだという。
墓が必要無い理由は、全ての者たちに記憶が引き継がれているからだそうだ。
彼女はまた空を見上げた。
アレクサンドラの絵は完成に近づいていた。
このころになるとなぜか頻繁に彼女は私を外に連れて行くようになった。
絵を描いていても集中力が上がってくると、何かしら外の遊びに出かけようと言う。
それは何かに抗おうとしているようにも見えた。
やがて絵は完成した。私は絵の道具を片付け始めた。
「行かれるのですね。」
「・・はい。」
彼女は覚悟を決めたような表情をしていた。
すぐに知らせは城中に届き、大勢の見送りの者たちを引き連れてアレクサンドラは
私を国の外に出る安全な道へと案内した。
初めて会った時のように白い百合が一面に咲き誇っている。
「ルカ。」
彼女は空を見上げたまま言った。
「あなたは風の流れを止めることはできますか?」
「・・・」
「風は思いのままに吹き、巡り巡ります。」
「ここでお別れです。」
彼女は私をぎゅっと抱きしめて頬を私の顔や首に何度も摺り寄せた。
猫は人間のようには涙を流さない。
だが私には彼女が激しく泣いているのがわかった。
一緒に過ごした楽しい出来事の一つ一つが次々と蘇る。
彼女の腕の力が緩んだ。
その瞬間、彼女は私の首筋に牙を突き立てた。
目の前が暗くなり、深い闇に沈んで行く。
その闇の中に、光り輝く少女の姿が見えた。
慈愛に満ち、こちらに腕を差し伸べる。
そこで記憶は消えた。
気が付くと巨大なフクロウの背に乗って中空を飛んでいた。
「おや、目覚めたようじゃな。」
「。。?」
「安心せい。もう少しで人間の世界の近くじゃよ。」
リュックや画材も一緒だった。
「あなたが運んでくれたんですね。どうもありがとう。助かりました。」
「こうでもしなけりゃあの娘も困っていただろう。」
「アレクサンドラとは知り合いなんですか?」
「あれが生まれるずっと前からさ。」
「僕はどうなったんですか?」
「お前さん、アレクサンドラに噛まれた時、
何か見たかね?」
「・・人間の女の子を見ました。」
「お前さんは死んだんじゃよ。」
「!」
「代々、猫人女帝は自分の違う姿を一回だけ見せると聞いた。
だが見た者は必ず死ぬとな。」
フクロウは湖近くに降りた。
鏡のような水面に夕方の木立がさかさまに映っている。
暗い森を背景にフクロウと自分の影。
その中に目のように青い二つの牙の跡が光っている。
「それはアレクサンドラがお前さんは自分のものだと付けた消えない刻印じゃ。
世界中どこへ行ってもいつかはお前さんはあれのもとに戻る時が来る。」
そう言ってフクロウは再び飛び始めた。
いつかまた、アレクサンドラに会うのだろうか。
その時は私の人生という一枚の絵の完成のような気がする。
(完結)