二日目の終わりと三日目の始まり
アンカルヤは河原沿いに川を見下ろす程よい高台を見付けると、そこにテントを設置した。
まだ日が沈むまでには猶予があったが、今日の行動はこれで終わりとした。
何しろ、ここが迷宮島であると確定したのだ。
以降の行動に移る前に、今後の方針について改めて検討する必要があった。
エンチャントテントの防御力は狼やゴブリンの攻撃など歯牙にもかけない強固なものだ。
このテントの中であれば、周囲を警戒せずに思考に集中することができる。
だがその前に、テントに入ったアンカルヤには真っ先にしなければならないことがあった。
彼女は駆け寄る勢いで薬棚に向かうと、例の群青色の薬瓶を手に取り、一気にあおる。
するとゴブリンの巣に立ち寄ったときより、服と体に染み込んでずっと付き纏っていたあの悪臭が、すっかり消え去った。
「ふう、ようやくスッキリした」
世界一高価な消臭剤の効果に、アンカルヤはご満悦だった。
「しかし、これから頻繁に使用することになるのなら、この薬も携帯したほうがいいかもしれないね」
よく利用する傷薬などは、いつでも使用できるようにベルトポーチに常備しているが、使用頻度の低かった浄化薬はその中にない。
「いや、それは浄化薬に頼りすぎだ。この薬の使用については、よく考えてみる必要があるね」
そもそも浄化薬は、これほど気軽に使用するような薬ではない。実際、アンカルヤにもこの薬を一日の内に二本も消費した記憶は今日の他にない。この使用間隔は明らかに異常であり、これを常態化するべきでないことは明らかだ。
「だが、まあ。この薬については、後で考えればいいことだ。今はこの場所について、そして今後どう行動すべきか、だ」
アンカルヤは香草茶を片手に、ソファーに腰を下ろした。
ここが迷宮島であるという事実は、悪夢のような現実だ。
それだけならば、例えアンカルヤであっても絶望に泣き叫んでいただろう。
周囲は海で、大陸は遥か彼方。
ここは誰も知らない無人島で、島の外にも内にも救いの手はない。
島を脱出することはできず、この地でただ一人きり、孤独に生きていく。
それは最悪の未来絵図である。
だが幸運なことに、一欠片の希望が存在していた。
ゴブリンの巣で見つけた、折れた短剣だ。
この島が本当に無人島であれば、あの短剣の存在は有り得ない。
あれは人間の手によって作られたもので、まだ新しかった。
つまり、この島にアンカルヤ以外の人間がいる可能性は、決して低くはないのだ。
彼女には、心当たりが二つあった。
一つはNPC、つまりノンプレイヤーキャラクターの存在だ。
迷宮島は無人島という設定ではあったが、ゲームの都合上、プレイヤーキャラクターの他にも人間がいた。プレイヤーの活動をサポートする、商人や冒険者といったNPCたちだ。
彼らがこの世界にも存在しているかも知れないのだ。
そしてもう一つの心当たり。それはアンカルヤ自身の存在だ。
王冠物語はシングルプレイのゲームであり、MMORPGなどのネットゲームとは違ってプレイヤーはゲームの中に一人だけだ。
だがしかし、ゲームの外に目を向けると、王冠物語のプレイヤーは世界中に多数存在していた。
彼らもまた、自分の育てたプレイヤーキャラクターとなって、この島にやって来ているかもしれなかった。
何しろ、アンカルヤという実例があるのだ。他のプレイヤーが同様の状況にあっても、何もおかしくはない。
この二つの可能性を念頭に置いて、今後の行動方針を考える。
まず、海を目指すのは論外だ。大陸は泳いで届く距離ではない。そうなると、海に行っても季節外れの海水浴くらいしかすることはない。
ならば目指す場所は唯一つ。
迷宮だ。
島の中心、火山の中に存在する大迷宮。その入口こそ、目指すべき場所だ。
迷宮の入り口近くには、石造りの大きな砦の遺跡が存在した。そこはゲーム序盤における冒険の拠点で、先に述べたサポート要員のNPCが活動している場所だ。
そして自分以外のプレイヤーがこの島に存在したとして、ここが迷宮島だと判断したら、どう行動するだろうか?
おそらくアンカルヤと同様に、迷宮の入り口を目指すだろう。もしこの島に自分以外の人間が居るとすれば、その見込みが最も高いのはこの遺跡だからだ。
もちろん、迷宮で他の人間に出会えたとしても、それでこの状況が解決する保証はない。むしろ何の解決にもならない可能性の方が高いだろう。
それでも、状況が確かに前進しているという手応えは感じられた。
何より、もうすぐ人に出会えるかも知れないという希望は、アンカルヤの鬱々としていた心を明るく照らしてくれた。
明日、アンカルヤは川の上流を目指す。
河原から上流を見たとき、山は正面に、午後の太陽は左にあった。
つまり、この場所は迷宮島の南側ということだ。
幸運にも、迷宮の入り口は山の南側に面していた。ゲームではそうだった。
現実の迷宮もゲームと同様であれば、この川の上流に目指す場所があるはずだ。
アンカルヤは、今日は早めに休むことにした。
明日からは全力で移動することになる。そのためには、昨日と今日の心身の疲労を明日に持ち越す訳にはいかないのだ。
ソファーに横になると、今夜は安眠できそうな気がした。
翌朝。
「――ふぁああっ」
人目がないのをいいことに、アンカルヤは乙女がしてはいけない大アクビを吐き出した。喉の奥にぶら下がっているものが丸見えであった。
「うむ、やってしまったか?」
テント内には窓も時計もないので、現在の時刻はわからない。
しかし、なんとなくではあるが寝過ごしてしまった感覚があった。少なくとも、彼女の体内時計はそう訴えている。
「熟睡だったようだな」
まだ事態は何ら好転したわけでもないのに、わずかでも希望が見えて気が緩んだようだ。
アンカルヤはソファーから身を起こし、腕をブンブンと振って強張った体を軽く解きほぐす。
「さてさて、お外の様子は……と」
寝癖を手でなでつけながら、テントの入り口に向かう。
そして太陽の位置を確認しようとテントから頭を出した所で、アンカルヤの状況把握能力が処理限界を突破した。
「ん? んんっ? んんんんっ?」
昨日テントを設置したときとは、全く異なる光景がそこにあった。
自分のものよりも二回りは大きな無骨なテントがある。
焚き火がパチパチと火の粉を上げて燃えている。
そして大柄な男と小柄な少女が、その火を囲んで座っていた。
「おう、ようやくお目覚めか! いったい、どんな奴が出てくるのかと思ったら、こんな美人とはな」
男がニヤリと笑う。少女はその後ろに隠れながら、アンカルヤの様子をうかがっていた。
呆然とするアンカルヤの口から、思わず言葉が零れ落ちた。
「――ドナタサマ?」
「うむ。朝食がまだなら、こちらで一緒にどうだ? ご馳走するぞ? まずは腹ごしらえでもしながら、自己紹介といこうではないか」
「あー、ちょっと待っていてくれたまえ」
混乱する頭でかろうじてそれだけを口にすると、アンカルヤは頭をテント内に引っ込めた。