アンカルヤ・2
ゴブリンの巣を立ち去ってから、一時間ほどが経過していた。
アンカルヤは片手に斧を持ち、それをブンブンと振り回しながら歩いていた。
傍目には通報ものの危険人物だが、もちろん彼女なりの考えがあってのことだ。
ゴブリンの巣は、この森の周辺に人間が存在する可能性の他に、三つの重要な事実を彼女に教えてくれた。
一つ目は、ここが異世界である可能性がほぼ確定したということ。
少なくとも『彼』の暮らしていた世界に、ゴブリンなどという生き物は存在していなかった。
自分がゲームのキャラクターになっていて、魔法が実在していて、さらに邪悪な妖精まで存在している。
この状況で、まだこの森が『彼』のいた世界の何処かであると信じるのは無理があった。
二つ目は、この森にはゴブリンが生息しているということ。つまり、ゴブリンと遭遇する危険があるということだ。
今回は運よく行き違いで済んだが、あの巣にゴブリンがご在宅だった場合、かなり厄介なことになっていただろう。
ゴブリンを前にして「私、戦えないので見逃してね」などという言い分が通用すると思うほど、彼女は能天気ではなかった。
そうなれば全力で逃走する他ないし、それも叶わないとなれば戦闘は避けられない。
自衛のためにも、せめてこの斧を思い通りに振るえる程度には習熟しておく必要があった。
はじめは大変だった。
力加減がわからず、斧の重さに負けないように、指先の感覚が無くなるほど強く全力で握りしめていた。そして手汗にグローブの内側が滑り、更に力を入れてしまうという悪循環。
だが、アンカルヤがこの斧をどう扱っていたかを思い出しながら練習しているうちに、次第に要領が掴めてきた。
常に一定の力で持つのではなく、状況に応じて握力をコントロールすればいいのだ。
そもそも、この体はアンカルヤのものである。この斧を自在に使いこなしていた体なのだから、コツを掴めば慣れるのは早かった。
自分がアンカルヤであることに、彼女は改めて感謝した。もしこれが日本の高校生の体であったら、この斧を数回振り回しただけで筋肉が悲鳴を上げ、腕が上がらなくなっていただろう。
もっとも、これでゴブリンと戦えるようになったかと問われると、自信はなかったが。
そして、三つ目の重要な事実。ゲームのゴブリンと、現実のゴブリンの差異だ。
王冠物語に登場していたゴブリンは、序盤のプレイヤーを少々手こずらせる程度のザコ敵だった。
ゲーム内の迷宮島にも多数のゴブリンが存在していたが、しかしゴブリンの巣などというロケーションは存在しなかった。
敵性Mobとしての彼らは、設定されたスポーンポイントから発生し、プログラムに指定された範囲をランダムに徘徊し、プレイヤーを探知したら襲いかかり、返り討ちにあう。ただそれだけの存在だった。
だがこの森のゴブリンは、営巣し、食事を取り、道具を作り、そこで生活していた。彼らは確かに、この世界で生きているのだ。
現実の彼らは、ゲームの敵性Mobとは違う。彼らは、プレイヤーに殺されるためだけに存在する、都合のいい敵役などではないのだ。
だがこの話の最も重要な点は、同様のことがアンカルヤ自身にもいえることだ。
彼女もまた、デジタルデータで構成されたゲームのキャラクターなどではないのだ。
アンカルヤは、王冠物語をプレイしていた『彼』が創り出したキャラクターだ。
彼女はどこかの貴族の娘で、吸血鬼に家族を殺され、復讐のために吸血鬼を狩る審問官となった。
しかし、貴族の娘に吸血鬼と戦う力などあるはずもない。
そこで彼女は錬金術を頼り、魔法の薬で身体能力を強化することで吸血鬼に対抗する力を得たのだ。しかし過剰に摂取した魔法薬の影響で彼女の成長は止まってしまい、いつの頃からか、その容姿は変化を見せていない。
それが、『彼』の考えたアンカルヤというキャラクターだ。
彼女の記憶も、大筋では『彼』が脳内に思い描ていた物語と設定を踏襲している。
だが、全てが同じではない。
『彼』の考えたアンカルヤの設定は大雑把なところがあり、家族構成のような細かいところまでは設定を考えてはいなかった。
しかしアンカルヤの記憶には、当然だが彼女の家族の思い出が存在している。
彼女は、元はリエナテという名の少女で、セルメイという国の中堅貴族の三女だった。引っ込み思案のおとなしい少女で、家族にはとても可愛がられていた。
家族を殺されたアンカルヤが復讐のために審問官となったのは、彼女の記憶と『彼』の設定で同じだが、復讐の対象が異なっている。
『彼』の設定では、復讐の対象は家族を殺した吸血鬼当人だ。
しかしアンカルヤの記憶では、家族を殺した吸血鬼は彼女を救出した審問官によって殺されている。つまり彼女が審問官を志した時点で、復讐の対象は死んでいたのだ。そのためアンカルヤの復讐の対象は吸血鬼の個人ではなく、吸血鬼という種族全体に置き換えられていた。
アンカルヤと錬金術の関わりについても、改変がある。
『彼』の設定では、アンカルヤは独学で錬金術を習得したことになっていた。
しかし現実の彼女は、先達の師から錬金術を学んでいる。
これは当然のことで、錬金術は独学で極めることができるほど簡単なものではない。
さらに付け加えると、『彼』の設定と現実の彼女との差異の他に、ゲームとの違いもある。
ゲームでは、仕様上の制限で審問官は錬金術を使用できない。ゲーム内で使っていたテントにも錬金設備一式は設置していたが、それは雰囲気作りのための飾りに過ぎず、錬金術関連のスキルを取得できないゲームのアンカルヤには使用することはできなかった。彼女が錬金術を使用するというのは、あくまで『彼』の考えた設定に過ぎなかったのだ。
だが現実の彼女はゲームとは異なり、とくに制限もなく錬金術を使用できた。
アンカルヤの人生には、『彼』の考えたゲームのキャラクターのような設定の矛盾も不備もなかった。彼女もまたゲーム内の架空の存在などではなく、確かにこの世界に生きているのだ。
アンカルヤの側にしても、思うところがないわけではない。
自分の過酷な人生が、あの苦痛が、恐怖が、絶望が、慟哭が、実は誰かの創作したエンタテインメントであったという事実は、受け入れがたいものだ。
だが同時に、心の中の何処かに「ああ、やはりそうだったのか」という思いがあることも事実であった。
彼女のこれまでの人生を振り返ってみれば、確率的にありえないような偶然や幸運に遭遇することが度々あった。
そのどれか一つでも欠けていれば、とうの昔に彼女の命運は尽きていただろう。
そういった事態に遭遇したとき、何者かの見えざる意志のようなものを感じなかったといったら嘘になる。
大体からして、温室育ちの非力な貴族のお嬢様が強力な吸血鬼を倒すという話自体に、相当な無理があるのだ。
弱者はどうあがこうが弱者のまま。ただ強者の振るう理不尽に為す術なく全てを奪われるだけ。それが現実というものだ。
ならば物語の主人公として、弱者でありながら強者に抗う術を与えられた自分は、むしろその事に感謝するべきなのではないだろうか?
それが、彼女の出した結論であった。
アンカルヤはこの世界や自身の事について、あれこれと考えを巡らせながら森の中を進んでいた。そして、ふと聞こえてきた水音にハッとして、意識を思索の水底から急浮上させた。
その音は、前方から聞こえてくる。
「海? いや、潮騒とは違うし、潮の匂いもない」
そちらの方向は、森の中に比べても明るいように見える。
「向こうは森が開けているのか?」
アンカルヤは振り回していた斧を腰のホルダーに収めると、駆け出しそうな勢いで前に進んでいった。
「川だ!」
森を抜けた先の景色に、アンカルヤは歓声を上げた。
水の流れは穏やかで浅かったが、川幅は広く、視界は開けていた。
河原を横切り、川の流れを覗き込む。水は透明で、陽の光がキラキラと水面に踊っている。
そして――。
アンカルヤが視線を川の上流へと向けたとき、それは彼女の目の前に逃れようのない現実として存在していた。
「ああ――」
ゲームの中で、モニター越しに何度も目にしたその姿。
「やはりここは――」
頂を雪に白く染めた円錐形の山。
「迷宮島だったのか」
ゲーム、王冠物語の舞台に、アンカルヤは立っていた。