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幻想世界の紀行録  作者: TaYa
迷宮島の放浪者たち
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二日目・1

 ゆっくりと開いたアンカルヤの瞳から、一粒の涙がこぼれた。


「ん? えっ? あれっ?」


 付けっ放しのテレビから、スポーツ番組の中継音声が聞こえてくる。

 自宅のリビングルーム。

 父がいて、母がいて、家族皆で食卓を囲んでいた。

 舌に馴染んだ母の手料理を味わいながら、今日の出来事を笑顔で語り合う。

 暖かな時間だった。

 それは毎日繰り返される、いつまでも変わることなく続く、当たり前の日常だった。

 だが、そこに居たのは高校生の少年ではなく、吸血鬼狩りの審問官だった。

 彼女の居場所は、そこにはなかった。


「あ……夢?」


 戸惑いながら、周囲の様子に目を向ける。

 見慣れているような、見慣れないような、不思議な感じのする魔法のテントの内装をぼんやりと眺めながら、自分が置かれている状況を思い出す。


「ああ、そうか。いつの間にか眠ってしまっていたのね」


 アンカルヤはソファーからゆっくりと身を起こした。

 そして夢の内容を思い出して、息が苦しくなる。

 アンカルヤの脳裏に、『彼』の家族と友人の顔が浮かんだ。

 彼らとは、もう二度と会うことはできないかもしれない。

 あの暖かな日常は、永遠に失われてしまったのだろうか。

 そんな不安が、彼女の心を冷たく締め付ける。

 この森から生きて脱出して元の姿に戻らなくては、その不安は現実のものとなるのだ。

 そんな恐怖を、アンカルヤは首を何度も左右に振って強引に振り払おうとした。


「いけない。里心がついては不味い。心が押しつぶされてしまう。今は何も考えるな!」


 しばらくの間、彼女は無心で深呼吸を繰り返し、どうにか平静を取り戻した。






 テントの中は物音一つなく、とても静かだった。

 薪ストーブは燃え尽きて沈黙していた。そのため、テントの中は少し肌寒かった。


「まあ、そうよね。目が覚めたら、全て夢でしたという展開を期待していなかったといったら嘘になるが。世の中、そんなに甘くはないか」


 寝覚めの気怠さに少し苛立ちながら、あくびを噛み殺して何気なく髪を撫でる。すると後ろの方が少しハネねているような感触があった。


「あ、寝癖かな? 昨日は妙な姿勢で寝てしまったからな」


 少し寝違えたのか軽く強張った肩を気にしながら、アンカルヤは手鏡を手に取った。

 寝癖を確認しようと覗き込んだ鏡の中には、だらしのない表情を無防備に晒した寝起きの美少女がいた。滲んだ涙で、薄紫の瞳が怪しく潤んでいる。

 これは、女の子が他人に見せてよい表情ではない。


「っ!」


 見てはいけないものを見てしまった気まずさに、思春期の少年は思わず鏡から目を反らした。


「うむ、これは前途多難だな。いろいろな意味で」


 やれやれと呆れた様子で手鏡をソファーの上に放り投げると、アンカルヤはテントの外の確認に向かった。

 昨晩と同様に頭だけをテントから出して、辺りの様子をうかがう。

 空は薄っすらと白みはじめていて、朝靄の中に森の木々が浮かんでいる。

 夜の間にテントの周辺でなにか問題はなかったかと見回してみたが、特に異常は見当たらなかった。

 朝の森には静寂と平穏が広がっている。

 そして何より、とても寒い。

 アンカルヤは慌てて頭を引っ込めると、肩をさすりながらテントの端の薪置き場に向かう。そして数本の薪を拾い上げると無造作に薪ストーブの中に放り込んだ。

 すると、どうしたことだろう。

 ストーブの中の薪に、ひとりでに火が点ったのだ。

 つまり、この一見なんの仕掛けもないようなふりをしていたストーブも、魔法のテントのインテリアを構成する立派な一員だったのだ。


「さて、顔でも洗うか」


 そして何気なくバスルームに視線を向けた所で、彼女の体が停止した。

 数秒後――。


「あー、この先ずっと入浴を避けるわけにもいくまい? 気にするな。お前は私で、私はお前だ。私は気にしない」


 そうは言ってみたものの、さすがに入浴は精神的なハードルが高い。

 結局、今朝は井戸の水で顔を洗うに留めることにした。


 アンカルヤの暮らす世界のエイラアル地方において、湯を使用する入浴はあまり一般的な行為ではない。

 にもかかわらず、このテントの中に立派な入浴設備が設置されているのには理由がある。

 アンカルヤは神殿の審問官であり、つまり神に仕える身である。故に日頃から身を清める習慣があった。

 また、自身の容姿が吸血鬼を釣り上げる疑似餌として利用できるからという少女にあるまじき理由で、身だしなみにも気を使っていた。

 なので彼女にとって入浴は日常的な行為であり、朝風呂も習慣というほどではなかったが珍しいことではなかった。


 アンカルヤはポンプ井戸から洗面器に水を汲み、指を浸して顔をしかめた。

 冷たい。まるで氷水だ。

 水を入れるとお湯になる気の利いた洗面器があればよかったのだが、生憎とこの洗面器に魔法は宿っていない。金物屋で普通に売っている、単なる金属製の洗面器だ。

 ストーブの上にしばらく置いて水を温めることも考えたが、時間がもったいないと諦めた。

 思い切ってバシャバシャと勢いよく冷水で顔を洗う。とても冷たかったが、おかげで意識もしゃっきりと目覚めることができた。

 そして意識がしゃっきりしたおかげで、バスルームの給湯器からお湯を持ってくればよかったことに思い至ったが、今更である。

 ついでに寝癖も軽く水で濡らしてブラシを通しておいた。雑な寝癖ケアではあるが、どうせ誰に見られるわけでもない。


「あ、そういえばあれがあった!」


 名案を思いついたと、アンカルヤは軽快な足取りで錬金薬の保管棚に駆け寄った。

 木製のキャビネットの中には、大小様々色とりどりの陶製やガラス製の薬瓶が並んでいた。

 全て、錬金術で調合された魔法の薬だ。

 内容を示すラベルはない。だがアンカルヤは全ての瓶の内容を把握しているので、これでも問題はないのだ。

 彼女は棚から小さな群青色の小瓶を一つ取り出すと、折りたたみ式のポケットナイフで蝋キャップとコルク栓を引き抜いた。

 そして薬瓶をクイッとあおる。

 食べ物とも飲み物とも空気とも異なる温度のない何かが、ヌルっと喉を通り抜けていく。魔法薬独特の喉越しだ。


「うん? これでいいはずなのだが、思ったほどすっきりしないな」


 彼女が口にしたのは、浄化の魔法薬だ。体の内外だけではなく、着ている衣服までまとめて汚れを落としてくれるスグレモノである。

 だが、なんといったらいいのか、綺麗になったという実感がわかない。

 それでも、ブーツの泥汚れは綺麗に消えている。

 きちんと効果が発揮されたことは間違いない。


「ああ、これはあれだね。アルコールを手に揉み込むよりも、石鹸を泡立てたほうがきれいになったような気がする、あれだ」


 つまり、薬よりも入浴の方が体感的にスッキリした気分になれるのだ。実際の浄化効果を比較すれば、間違いなく浄化薬の方が効果は高いのだが。


 ちなみにこの魔法薬だが、本来は体内に侵入した病原体や薬物、呪いなどを浄化するためのものだ。アンカルヤは吸血鬼に噛まれたときの治療のために、この薬を常備していた。

 決して朝風呂の代用品ではない。

 もちろん、こんな用途でこの薬を使ったのは、彼女もこれが初めてだ。

 加えて、この一瓶の価格で郊外に土地付きの家が立つ。

 つまり、これは部屋の掃除が面倒だからと家を新築するに等しい所業であった。






 朝の身繕いを雑に終えたアンカルヤは、続いて朝食の準備に取り掛かった。

 彼女はキッチンをスルーして奥の収納スペースに向かい、角を金属板で補強された無骨で頑丈な木製のチェストを開いた。

 そして不用意にソレに目を向けてしまったために、立ちくらみを起こしてしまった。


「あ、しまった。空間酔いだ」


 チェストの中は付呪の効果によって大幅に拡張されているため、外部と内部の空間の整合性が破綻している。

 そのためチェストの外側と内側を同時に視界に入れてしまうと、目と脳がその情報を理解できず、混乱をきたしてしまうのだ。この様な症状を空間酔いといい、このチェストに限らず空間に作用する魔法全般でよく見られる症状だ。ちなみにエンチャントテントは空間酔い対策として、入口の大きさが内と外で同一に設定されている。


「空間酔いなんて、久しぶりだ。ああ、気持ち悪い」


 こめかみを指で抑えながら、目を閉じて感覚の回復を待つ。

 そして目眩が治まったところで、今度はチェストの中だけに視線を向けた。

 チェストには、一辺が五センチほどの立方体の紙包みがいくつも収まっていた。それらの内の一つを取り出すと、速やかにチェストの蓋を閉じる。

 紙包みを縛る細い麻ひもを解くと、中から七枚の四角い焼き菓子が現れた。

 だがこれは、ただのお菓子ではない。

 錬金術師の焼き菓子。

 なんと、これ一枚で一日に必要な栄養を全て補給できる、携帯保存食なのだ。

 これはどこぞの錬金術師が妖精の焼き菓子を参考にして開発した完全栄養食で、その製法を又聞きで教わったアンカルヤのお手製である。

 テント内に数年分もの食料を確保しておけるのは、この携帯食のおかげである。

 いくら付呪でチェストの収納容量を拡張しているといっても、普通の食料を数年分も保管することなど不可能だ。


 アンカルヤは焼き菓子を一つ口に放り込むと、ろくに咀嚼もせずに飲み込んだ。

 この焼き菓子はモデルとなった妖精の焼き菓子とは異なり、味の方はかなりアレだった。

 美味しいか? と問われれば、間違いなく美味しくはない。

 だが、不味いかというと、それほどでもない。

 少なくとも口に入らないとか、飲み込めないということはない。

 では具体的にどういう味かというと、疑問を感じる味である。

 これは何だろう? 少なくとも食べ物ではない何かの味。これは飲み込んでも大丈夫なものなのか、と少しだけ不安になる味。

 それでいて、匂いは香ばしい焼き菓子なのだから質が悪い。美味しそうな香りで食欲をそそっておいて、この仕打なのだから。


「まあ、これもおんなのこのてづくりのおかしだとおもえば、ごちそうだ……」


 確かに嘘ではないが、言っていて虚しさを感じずにはいられないアンカルヤだった。

 後はお茶で口の中を洗い流せば、今日一日の食事は終了である。






 いよいよテントを片付けて出発といきたいところであったが、その前にアンカルヤはロフトの下のクローゼットに向かった。

 クローゼットの扉を開くと、内側に姿見があった。

 出かける前に、身だしなみのチェックである。

 黒のロングコートに、ガッチリとした造りのグローブとブーツ。そして、黒の中折れ帽。

 審問官の装備は、様々な映画やゲームに登場する吸血鬼ハンターの衣装を参考にデザインされている。


「おお、かっこいい」


 唯一残念なのは、この姿にバックパックが似合わないことだ。バックパックを背負うと、確実に格好良さが低下する。

 だからといって、外見を理由にバックパックを手放すという選択肢は流石になかったが。


 アンカルヤはふと思い立ち、片手斧を右手に、クロスボウを左手に、鏡の前に立った。

 両足を肩幅に広げ、体を軽く斜めに構える。そしてクロスボウを鏡に向けてポーズを決める。


ヴァンパイア(よいこ)はお休みの時間だ。私が素敵な子守唄を歌ってあげよう」


 ――やってしまった。

 両頬が熱を帯びて赤く染まる。

 後悔先に立たずという言葉が、脳内をリフレインする。

 心の中の何処かで、馬鹿なことやってないでさっさと出発しろという声が聞こえた気がした。


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