アンカルヤ・1
アンカルヤは、『彼』が王冠物語をプレイするにあたって作成したプレイヤーキャラクターの一人だ。
『彼』は彼女の視点を通して、王冠物語の世界を楽しんでいた、そのはずであった。
「なのに、なぜ私がアンカルヤになっている?」
アンカルヤはソファーの上で、灰色の頭を抱えてつぶやいた。
「私がゲームのキャラになっているということは、ひょっとしてこの森は迷宮島なのか?」
少なくとも、この森が日本、もしくは地球上のどこかであるという可能性は低かった。
何しろ自分がゲームのキャラクターになっていて、ゲームのアイテム類を所持しているのだ。しかも付呪などという魔法の力が実在しているとなれば、ここはゲームの中の世界であると考えるのが自然だろう。いや、状況自体は不自然極まりないが。
王冠物語の舞台はロスリミア大陸の北東、エイラアル地方の遥か東の洋上に浮かぶ大きな無人島だ。
この島の中心に位置する火山の山腹には、巨大な地下迷宮の遺跡が存在している。
そのためこの島は、迷宮島と呼ばれていた。
プレイヤーは自分の分身となるキャラクターと共に、この迷宮を探索する。
迷宮に仕掛けられた様々な謎を解き明かし、迷宮の闇に息を潜める恐るべきモンスターたちを打ち倒し、迷宮の奥深くに隠された財宝を手にするのだ。
それが王冠物語というゲームだった。
「あなたは何らかの理由で、この迷宮に挑むこととなった冒険者です……だったかな?」
1D6がこのゲームの主人公に与えた設定は、それだけだった。
それ以外の設定、主人公の種族も性別も年齢も容姿も、全てプレイヤーに委ねられていた。ただ名前だけは、プリセットのリストからの選択方式という制限があったが。
「迷宮に挑む何らかの理由、か。本当にここが迷宮島だったとしても、そんな理由は私にはないはずだが」
強いて理由を上げるならば、ゲームとしてこの迷宮の冒険を楽しむことだろうか?
しかしそれはプレイヤーである『彼』の目的で、キャラクターである彼女の目的ではない。少なくとも、アンカルヤは現状を全く楽しんでいない。
「プレイヤー、ゲーム、王冠物語。これはゲームなのか? 現実なのか? 私は一体何者だ? 日本でゲームを楽しむ高校生なのか? それとも不死者狩人の審問官なのか? どちらが本当の私だ?」
アンカルヤの意識の中には、双方の記憶が混在していた。
「日本語が思い出せない。言葉も思考もロスリミアの第四紀標準語だし、口調もアンカルヤのものだ。日本では、こんな偉そうは話し方はしていなかったはずだ」
日本での生活を思い出してみても、記憶の中の会話は全て日本語からロスリミア語に置き換えられていた。
そして置き換えられていたのは言葉だけではなかった。
自分の名前も置き換えられていたのだ。
日本の家族も友人も皆、『彼』のことをアンカルヤと呼んでいた。日本語は思い出せなくても、『アンカルヤ』が日本人の名前として不自然なものだということくらいはわかる。
「やはり私は『アンカルヤ』なのか? だが……」
アンカルヤは自分の体を見下ろし、自身がいま女性であることを意識してみた。
頬がみるみる熱を帯びていく。
気恥ずかしさに耐えきれず、自分の体から目を逸らす。
「ああ、この反応は間違いなく『彼』の方だな。つまり体はアンカルヤだが、人格は『彼』の方が主体なのか」
幸いなのは、どちらの記憶に対しても自分自身だという意識があるため、双方の人格や感情に反発が発生しないことだ。
「なるほど。テントを設置していたときの違和感は、これが原因か」
テントの組み立ては、彼女にとっては慣れた作業でも、『彼』にとっては初めての経験だった。だから設置に手間取ったのだ。
「つまり現状は、アンカルヤの体に『彼』の人格が入り込んだような状態なのだな」
だとすれば、確認しておかなくてはならないことがあった。
アンカルヤは立ち上がると、ラグマットの上にバックパックと共に無造作に置かれていた片手斧を手にとった。
伐採や薪割り用の斧とは異なり、刃先が細く鋭い。木ではなく、肉を裂き骨を砕くことを目的とした戦闘用の斧、つまり戦斧である。
重い。
それが、この斧を手にしたときのアンカルヤの第一印象だった。
先端に金属の塊を取り付けた硬質な木の棒なのだから、相応の重量があって当然である。
特に、この斧は刃の反対側の斧頭が吸血鬼の心臓に白樺の杭を打ち込むためのハンマーにもなっているので、その分重量は増している。
もちろん、この斧が重いことはアンカルヤも知っている。
しかし、それは彼女にとって常識に分類される事柄で、いまさら驚くようなことではない。
だが、アンカルヤは今日この斧を手にしたときに、意外な重さに驚いたのだ。
金属製の武器というと、映画やアニメの登場人物が剣や槍を軽々と使いこなしていた印象しかなかったので、初めて本物の武器を手にしてその重さに驚きを感じたのだ。こんなもの、ゲームのキャラクターのように軽々と振り回せるはずがないと。
これは間違いなく、『彼』の側の感覚である。
アンカルヤの記憶では、彼女はこの斧とクロスボウを自在に扱い、多くの吸血鬼や不死の怪物を討伐していた。それこそ映画やアニメの登場人物のように。
だが、そのようにこれらの武器を自在に扱うことは、今のアンカルヤには不可能だろう。
そもそも戦闘という行為自体、平和な日本で育った『彼』には荷が重い。
「自衛のためにも、最低限は武器を扱えるようにすべきだろうが、やはり戦闘は避けるべきだね」
現状で不用意に戦闘に挑もうものなら、おそらく死は免れないだろう。たとえ本来のアンカルヤであれば、余裕で打ち倒せるような敵が相手であってもだ。
しかし、ここが迷宮島だとしたら、戦闘を避けることは難しいかもしれなかった。
王冠物語はハクスラ、つまり戦闘を主体とするゲームだからだ。
「ゲームの中の世界か。ここは本当に迷宮島なのだろうか?」
迷宮島についての情報は、アンカルヤのキャラクター側の記憶には存在していない。プレイヤーである『彼』の知識のみである。
何しろこの島は歴史に置き忘れられた、誰もその存在を覚えていない無人島という設定なのだ。
アンカルヤに限らず、王冠物語の世界の住人でこの島の存在を知っている者はほぼ皆無に近いだろう。
海が人の存在を拒む魔の領域となり、遠洋航海の技術が失われたこの時代にあっては、それも仕方のないことだった。
ここが迷宮島であれば、島の中央に目を向ければ富士山に似た円錐形の山を見ることができるはずだ。迷宮島は、その火山を中心に形成された火山島なのだ。
森の中をさまよっているときに、それらしい山を目にした覚えはない。だが、周囲は植物に囲まれて視界も悪かったし、山の存在を意識していなければ視界の片隅に入っても見落としていた可能性はある。
アンカルヤはテントの入口を少しだけ開き、頭だけを外に出して周囲の様子を確認しようとした。ひょっとしたら山が見えるかもしれないと思っての行動だったが、しかし生憎とテントの外は漆黒の世界だった。
月も星も雲に遮られ、その光は地上には届かないようだ。
自分が目を開いているか閉じているのかもわからないほどの暗闇である。
かなり夜目がきく彼女であっても、完全な闇が相手では太刀打ちできない。
日が落ちて更に気温が下がったらしく、寒さに彼女の頬がひりついた。
そしてついに、アンカルヤは恐れていたものの存在を確認してしまった。
どこか遠くから、狼の遠吠えが響いたのだ。
そう、狼だ。
流石に断言できるほどの確信はなかったが、おそらくこれは野犬の声ではではない。
狼はアンカルヤの専門分野である吸血鬼と縁の深い生き物なので、彼女でも狼と犬の鳴き声の違いは、なんとなくといった程度だが聞き分けることができた。
やはりというか、当然というか、この森の中には野生の肉食動物も潜んでいるのである。いずれそれらに襲われるかもしれない可能性を考えて、アンカルヤは暗澹とした気持ちになった。
入り口の戸締まりを確認してテントの内に戻ったアンカルヤは、薪ストーブの上に置いてあるケトルの湯で香草茶を淹れると、ソファーに腰を下ろして一息ついた。
全くの暗黒、息も凍る冷気、闇に潜む獣。そんな状況に体一つで晒されずに済んだ我が身の幸運に、彼女は感謝した。
「エンチャントテントさまさまだな」
このテントがなければ、明日の朝日を拝めるかも怪しいところだった。
もしこれがゲームを開始した直後の、まだ能力も装備も所持品も貧弱な初期状態のキャラクターだったらと想像するとぞっとする。
だが幸いなことに、今の彼女は闇に迷うことも、寒さに震えることも、獣に怯えることもない。
魔法のテントに守られているのだから。
ランプの明かりに照らされた暖かな空間で、アンカルヤは深々と安堵の吐息を吐いた。
『彼』が王冠物語で最初に作成した一人目のプレイヤーキャラクターは、ゲームの要領もまだ把握していなかったころに場当たり的に育てた結果、体力ゴリ押しの脳筋キャラになってしまった。
そんな『彼』が次に作成した二人目のプレイヤーキャラクターこそ、アンカルヤである。彼女は王冠物語というゲームを遊び尽くした『彼』が、それまでに得た経験と知識を総動員し、綿密に設計した育成計画に基づいて育て上げた最高傑作だ。当然、あらゆる点で一人目のプレイヤーキャラクターよりも優れていた。
今の自分が一人目ではなく、アンカルヤの方であるということは不幸中の幸いといえた。
欲をいえば男性キャラクターの方が良かったのだが、逆の言い方をすれば、不満点はその一つだけである。
アンカルヤが女性キャラクターとして作られた理由は単純だ。一人目のプレイヤーキャラクターが男性だったから、なんとなく二人目は女性にしてみようと思っただけだ。
『彼』が後にこの様な事態に陥ることを事前に知っていたなら、二人目のキャラクターも男性にしていただろう。
だが、今から一人目と二人目を選択できたとしても、『彼』はアンカルヤの方を選ぶだろう。
スキルツリーの選択で迷走を極め、その結果レベルを上げて物理で殴るだけの腕力バカになってしまった一人目よりは、アンカルヤの方がずっと頼りになるからだ。
彼女のプレイヤーキャラクターとしての優秀さの前に、性別の違いなど些細な問題に過ぎなかった。
「見た目も私の方がずっと優れているしな」
バニラ(Mod導入以前の無改造状態のゲームのこと)のプリセットデザインに少し手を加えただけの一人目と違い、アンカルヤの容姿は各種キャラクター美化Modを大量に導入して作り上げたものである。両者の容姿には、比較すること自体が彼女に対して失礼といえるほどの差があった。
さらにいえば、先ほど手鏡の中に映っていたアンカルヤの姿は、ゲーム内のキャラクターモデルや『彼』が思い描いていた脳内イメージよりも数段上の美人だった。
「ああ、本当にアンカルヤでよかった」
彼女はしみじみと、そうつぶやいた。
この森がゲームの世界であるのなら、二人の人間が融合しているアンカルヤの現状は、彼女にとっては困ったことではあるが、『彼』にとってはむしろ幸といえた。
なぜならゲームの舞台となる世界は、とても過酷な環境だからだ。
無力な日本の高校生が一人で生き延びることができるような、優しい世界ではない。
高レベルのプレイヤーキャラクターであるアンカルヤの能力と所持アイテムがあったからこそ、今の彼女はこうしてソファーの上で寛いでいられるのだ。
もし日本の高校生の体でこの森に来ていたとしたら、今頃は命を失っていてもおかしくはなかった。
そう考えれば、今の自分がアンカルヤであるということは、この状況で生き延びるための命綱ともいえた。
「ここがゲームの中の世界だとしたら、元の世界に帰る方法が見つかるまで、元の自分に戻ることはできない、な……」
ゆらゆらと踊る薪ストーブの火を眺めながら、アンカルヤはソファーに横たわり全身の力を抜いた。
深い深い森の中に、夜の帳が下りる。
様々な不安に思いを巡らせているうちに、いつしか彼女は意識を夢の世界に浮かべていた。
魔法のランタンが、ソファーに横たわる彼女の寝顔を優しく照らしている。
静寂の中、彼女の小さな寝息に、時折ストーブの薪の爆ぜる音が重なる。
この日、この世界の何処かの片隅で、小さな紀行録の第一ページ目が、誰に知られることもなく、そっと綴られた。