ある少年の物語
『彼』は特にこれといった特徴もない、ごく普通の日本の男子高校生だった。
あえて他人と異なる点を探すなら、『彼』は物心ついた頃から妙に冷めた視点で物事を見る子供だったということくらいだ。
幼い子供が将来の夢を尋ねられれば、スポーツ選手やアニメのヒーロー、あるいはお姫様などと無邪気に答えるの普通だろう。習い事をしている子なら、その分野のプロだろうか。
だが『彼』は、「現実的に考えればそんなものになれるわけがないだろう」と、彼らを鼻で笑って見下すような子供だったのだ。
そんな『彼』の価値観を揺るがす出来事が起こったのは、『彼』が中学三年生のときだった。
『彼』のクラスに、漫画家を目指している同級生がいた。特に親しい関係ではなかったが、人づてに聞いた話では、つい最近にも新しく描き上げた原稿を漫画雑誌の新人賞に投稿したのだという。
その話を耳にしたとき、『彼』は「何をバカなことを」と心の中で冷笑を浮かべていた。
高校受験を控えた大切なこの時期に、そんな無駄なことをして遊んでいる余裕などないだろうにと。
しかし数カ月後、彼の作品は新人賞に入選を果たしていた。
末端の賞ではあったが、受賞は受賞だ。
そして地元の書店のカウンター横に積まれた漫画雑誌には、確かに彼の名前と年齢に出身地、そして原稿から切り出した一枚の絵が小さく紹介されていた。
それは『彼』の価値観を根底から破壊する、大事件だった。
少しでも考えてみれば、それは当然の事であった。
むしろなぜ今まで気が付かなかったのかと、『彼』はこれまでの愚かな自分をなじった。
例えば、プロ野球の選手を目指す野球少年は多い。しかし、その大半は夢半ばで挫折し、諦め、そして去っていくのが現実だ。
だが、全ての者がそうではない。もしそうであれば、この世にプロ野球選手など存在していないだろう。
現実には、プロ野球選手は確かに存在している。彼らは皆、かつてはプロ野球選手を夢見る野球少年だったはずだ。つまり、不可能なように思える困難な夢でも、それを実現する者は間違いなく実在しているのだ。
もし幼い頃、プロ野球選手を目指すと言った子をバカにしたりせず、自分も同じ夢を抱いていたら、ひょっとしたら自分はプロ野球選手になれたのかもしれない。
そんなことを思ったとき、『彼』は自分の愚かさを痛いくらいに自覚した。
少なくとも、プロ野球選手については手遅れだった。
例えば、プロ野球選手の華麗なプレイを見て、自分もそうなりたいと憧れた人物が二人いたとしよう。
一人は五歳の少年で、もう一人は三十代のおじさん。
前者にはプロ野球選手になれる可能性があるが、後者にはない。
では『彼』、中学三年生はどうだろう?
少なくともプロを目指して野球を始めるには遅すぎるし、進学先はプロの世界にコネのある高校野球の名門校を選ばなくてはならないだろう。
だが『彼』は、すでに近くの公立高校を無難という理由だけで進学先に選び、入学することが決まっていた。『彼』の高校受験は、このときすでに終わっていたのだ。
夢というものには年齢制限がある。もちろんそうでない分野もあるだろうが、それでも若いほど有利であることは間違いない。
歳を取るということは、無限に広がる未来の可能性をすり減らし、道を狭めていくことでもあるのだ。
そんな当たり前の事実に、『彼』は中学三年生の終わりになってようやく気がついた。
それまでの『彼』は賢しらに大人ぶり、自分が手にしていたはずの多くの可能性を、その価値に気づきもせずに放棄していたのだ。
なんのことはない、実際に一番愚かだったのは他人を見下していた自分自身だったのだ。
そして『彼』は、自身の夢や可能性を探し始めた。
高校に進学した『彼』は、精力的に様々な分野に興味を向けた。
話題の映画を片っ端から鑑賞し、様々なジャンルの音楽に耳を傾け、大学ノートに鉛筆で漫画を描いてみたり、入学祝いに父から贈られたパソコンで小説を書いてみたり。学校では様々な部活動を見学して回ったりもした。
だがこれらの挑戦も、もとの冷めた性格が災いして、夢中になれるようなものを見付けるには至らなかった。
何に挑戦しても、自分には無理だと早々に見切りをつけてしまう悪癖は、意識していてもなかなか修正できるものではなかった。
人生の目標となるような大きな夢は見付けられないままに、ただ時間だけが過ぎていった。
こうして様々なことに手を伸ばしていた『彼』だったが、その中にはビデオゲームも含まれていた。
『彼』が高校の入学祝いに贈られたパソコンは、機械に疎い父親がコンピューターに詳しい会社の同僚に相談して購入したものだった。
父親は息子の将来を考えて、パソコンの知識も身に着けておいたほうが良いだろうと、学習目的でこれを入学祝いに用意した。しかし、相談を受けた同僚は父親が機械に疎いのをいいことに、このパソコンにちょっとした仕掛けを施していた。
当時としてはそこそこ高性能なミドルハイクラスのグラフィックボードを搭載していたのだ。グラフィックボードとは複雑な画像処理を高速で行うパソコンパーツの一種で、ぶっちゃけて言えばパソコンでゲームを遊ぶための装置である。
つまり、このパソコンはゲーミングPCだったのだ。
『彼』はパソコンで遊ぶことのできる評価の高い定番ゲームにあらかた手を出してみたものの、確かに楽しいことは楽しいのだが、やはり夢中になれるものは見当たらなかった。
しかし、犬も歩けば棒に当たるという言葉があるように、行動をしていればいずれ何かしらの結果には至るものだ。
『彼』は、ついに出会うこととなる。
その後の『彼』の運命を一変させる、あるゲームに。
『王冠物語(原題:The Tale of The Crown)』
スウェーデンのインディーズゲームメーカであるOne Digital Six Games(1D6)が開発したPCゲームだ。
最初にプレイヤーの分身となるキャラクターを作成し、それを操作して冒険に挑むハクスラタイプのダンジョンRPGである。
出会いは偶然で、PCゲームのダウンロード販売ストアのセールで割引率の高いゲームを検索していたときに、たまたま目に止まっただけだ。ワンコインで購入できる価格だった。
購入者によるカスタマーレビューは『賛否両論』。
レビュー内容を見ると『否』に偏った意見が多かったが、そんな中にこのゲームの熱心なファンと思われる人物の長文レビューがあった。
そのレビューによると、もともと1D6はこのゲームを大作オープンワールドRPGとして開発していたらしい。
しかし悲しいかな、小規模なインディーズ。
物量がモノをいうオープンワールドゲームの制作はやはり無理があった。
人、金、技術、時間。全てが足りなかった。
案の定開発は難航し、その結果、妥協に次ぐ妥協を余儀なくされる。
結果、完成したのがこのゲームであった。
妥協の産物であるこのゲームは、プレイしてみるとそこかしこに規模縮小の痕跡が見て取れた。そしてゲームに必要な要素がいくつも欠けているにもかかわらず、オープンワールドを目指していた頃の名残と思われる不要な要素はシッカリと残っている。
そんなちぐはぐなゲーム内容に煩雑でレスポンスの悪いUIが加われば、否定的なレビューが多いのも当然といえた。
端的に言ってしまえば、駄作である。
しかし、件のレビュアーはレビューの最後にこう綴っている。
『――このゲームの完成度の低さは、私も否定はしない。
しかし誤解はしないでほしい。このゲームはストアでよく見かける、ウケ狙いの一発芸や明らかな手抜きゲームとは根本的に異なる。
これは高い理想を掲げて最高のゲームを作ろうと果敢に挑み、そして夢破れた、悲しい、そして愛すべき駄作なのだ』
身の丈に合わぬ理想を追い求めて夢破れたゲーム。その存在は『彼』の心の琴線を強く揺さぶった。
もちろん、『彼』はこのゲームを開発(購入のこと)した。
先程のレビューにある『愛すべき駄作』という言葉は、実に的を射ていた。
というのも、王冠物語は多くのゲーマーから駄作の評価を下されている一方で、少なくない数の熱心なファンも獲得していたのだ。
それは日本でも同様で、内容の充実した日本版攻略wikiが有志によって運営されており、日本語化Modもゲーム発売後すぐに作成されていた。
王冠物語は英語の他にヨーロッパの幾つかの言語しかサポートしておらず、日本語版は存在しない。だがゲームのプログラム自体は2バイトでテキストデータを扱っているため、ゲーム本体に変更を加えることなく、日本語のランゲージファイルを作成するだけで、容易に日本語化が可能だった。
現在、王冠物語の日本語化Modは3つ存在している。
ネット掲示板の有志による『初期翻訳版』。
それに誤訳の修正と訳語の統一、機械翻訳部分の再翻訳を行った『465版・改』。
そしてこの二つのバージョンを基に、1D6が提示した『王冠物語の非対応言語へのローカライズModに関するガイドライン』に沿った修正を加えた『1D6公認日本語版』。
特に『1D6公認日本語版』は完璧と言って差し障りのない高い完成度を誇っており、この素晴らしい日本語化Modのおかげもあって、日本においても王冠物語は少しづつではあるが着実にファンを増やしていた。
『彼』もまた、この日本語化Modを導入して王冠物語のプレイを始めたファンの一人であった。
――ちなみにModというのはmodificationの略で、ゲームの改造データのことを意味する。上記の様な翻訳Modの他に、映像や音響を高品質化するものや、ゲームにない要素を新たに追加するものなど、様々な種類がある。多くの場合、Modはそのゲームのファンによって作られるが、その他にメーカー製の公式Modなども存在する。