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幻想世界の紀行録  作者: TaYa
迷宮島の放浪者たち
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一日目・1

 アンカルヤは、ただただ呆然とその場に立ち尽くしていた。


 周囲は密生する木々に囲まれ、湿り気を帯びた空気はひんやりとして冷たく、腐敗した植物の匂いが鼻につく。

 見上げれば空は折り重なる枝葉に覆われ、陽光は殆ど足元まで届かない。

 見知らぬ森の中にただ一人、彼女は佇んでいた。


 彼女の瞳に困惑と警戒の色が滲む。

 ここは何処だ? なぜ自分はここにいる?

 周囲の様子を観察しながら、この状況に至る経緯を思い出そうとするも、その記憶はすっぽりと抜け落ちていた。

 今まで眠っていたとか、気を失っていたという感覚もない。

 心臓が鼓動を加速し、肌に冷たい汗が浮かぶ。


 現状は、たった一言で言い表せてしまう。

 気がつくと、ここに立っていた。

 それだけだ。

 考えてみると、これもおかしい。

 横たわっていたのではなく、立っていたのだ。

 彼女は気を失ったままで直立を維持できるほど器用な人間ではない。

 だから意識がない状態で何者かにここまで運ばれ、放置されたという可能性は低い。

 だとすれば、これはどういうことだ?

 一体どんな出来事がこの身に降りかかれば、このような状況の陥るのか、彼女には想像もつかなかった。


 思考が混乱を極めて呆然としていたアンカルヤだが、不意に木々の合間にこだました野鳥のけたたましい鳴き声に、ハッとして冷静さを取り戻した。

 そうだった、ここは見知らぬ森の中なのだ。

 こんな所でポカンと立ち尽くしていているスキに、野犬や熊などの肉食動物に襲われでもしたら、ひとたまりもない。

 今、最も優先すべきは状況の解明ではない。安全の確保だ。それ以外の諸々は全て棚上げにして、安全を確保した後で考えればいい。

 これからどう行動するにしても、まず自分の命がなくては話にならない。

 明確な行動指針が定まったことで、アンカルヤの精神をかき乱していた動揺と混乱は一応の落ち着きを得た。

 彼女はそっと小さく息を吐いた後、大きく深呼吸。肺を冷たい空気で満たし、そして雑念と共に吐き出した。


 アンカルヤは冷静な目で、改めて周囲の様子を確認した。

 この場所は小さな窪地で、周りを背の高い植物に囲まれていて、辺りの様子が殆ど見えない。

 素人目にも安全とは言い難い状況だ。

 とりあえず周辺を見渡せるような視界の開けた場所を探して、速やかに移動するべきだろう。

 だが、その前に一つだけしておかなくてはならないことがある。

 彼女は森の中の地理の把握や移動に関しては全くのド素人だ。

 つまり、この場所を一度離れてしまえば、再びここに戻ってくることは不可能に等しい。

 なにか目印になるものを残して移動することも考えたが、どの様な目印を残せばよいのか思いつかない。それに、仮に目印を残せたとしても、その目印をこの森の中で再び見付ける自信はなかった。

 だから、これだけは今のうちに確認しておかなくてはならなかった。

 現状につながる何らかの痕跡が、この場所に残っていないか。

 今はそれを調べることができる、最初で最後の機会だった。


 アンカルヤは注意深く周囲の様子を調べたが、それでも何かしらの小さな痕跡すら見当たらない。

 だが、何気なく足元を確認したとき、ある異常に気がついて彼女はギョッとした。

 ここは小さな窪地になっているため、周囲から水分が集まるのか地面が柔らかくぬかるんでいた。つまり、足跡が地面にハッキリと残る状態だったのだ。

 当然、彼女の足跡もしっかりと刻み込まれている。今立っている、この場所だけに。

 しかし、この場所に続く足跡が見当たらない。動物の足跡も、人間の足跡も、ない。他ならぬ彼女自身の足跡も。

 つまりアンカルヤに現状に至る記憶が無いのは、記憶を失っているからではなく、本当に彼女は前後の脈絡も無くこの場所に姿を表したからなのだ。

 彼女の記憶は、これで正しかったのだ。

 全く信じがたい非現実的な結論ではあったが、しかしそう判断する他にない状況だった。






 アンカルヤが白い息を吐いて天を仰ぐと、頭上の木々の向こうにどんよりとした薄曇りの空が見えた。まるで空という鏡が今の自分の心境を映しているかのようだと、彼女は思った。


 再び、どこか遠くで先程の野鳥の声が聞こえた。

 それを耳にしたアンカルヤは、いよいよ意を決した。

 この場を離れよう。

 これ以上の情報はもう見つからないだろうし、この場に留まり続けても危険が増すだけだ。


 そして彼女が一歩を踏み出したところで、肩に加わる確かな重みに気がついた。

 なんとも間抜けな話だが、状況にひどく混乱していた彼女は、自分がバックパックを背負っていることに気がついていなかったのだ。

 それだけではない。腰には片手斧がぶら下がっていたし、バックパックのホルダーにはクロスボウとボルトも固定されていた。

 何の装備もなくこの状況に投げ出されていたわけではないという事実は、現状における数少ない朗報であり、アンカルヤを大きく勇気づけてくれた。

 特に、バックパックに括り付けられていた一人用の小さなテントセット。これは見逃すことのできない重要な要素だった。

 このテントが彼女の記憶にあるものと同じであり、記憶通りの機能を有しているのであれば、安全の確保に関しては目標を達成したも同然であった。

 だが、それを確認するには実際にテントを設置してみる必要がある。

 早速この場で確認しようかとも思ったが、残念ながら、地面のぬかるんだ窪地はテントの設置に適した地形とはいえない。

 テントが設置できそうな場所を探すにせよ、森からの脱出を目指すにせよ、この場から移動する必要があることに変わりはなかった。

 ならば速やかに行動に移るべきだ。もたもたしている間に夜が来てしまったら目も当てられない。

 夜の闇の恐ろしさを、アンカルヤはとてもよく理解していた。

 確認のために下ろしていたバックパックを背負い直すと、彼女は小さな窪地を後にした。

 それが、これから始まる彼女の長い長い旅路の最初の第一歩であった。


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