宇宙人の爪楊枝
それは、庭のちょうど真ん中に生えていた。いや、生えていたというよりも、“聳え立っていた”という方が正しいかも知れない。前日までは無かった筈だと家主は記憶していたが、目覚めて雨戸を開けると、とにかく一番に視界に飛び込んできた異変であった。家主は始め、それが何なのか全く理解出来ずにいた。
どことなく丸みを帯びているので大木のようでもあるが、それにしては直径がひと目で見渡せない程であるし、樹木特有の樹皮の質感はなく、表面は割り箸のような色合いで人口の柱のようにツルリとしている。庭先にあった蜜柑の木や鉢植えの植木が綺麗さっぱり消失している事には不思議とそれ程違和を感じなかった。根元には鉢植えの破片が無造作に散らばっている。ひどく無機質な光景だ。
家主は窓を七割方開けたまま暫しその場に固まっていたが、このままでいても埒が明かないと判断し、一先ず家の雨戸を開ける作業を再開した。
家の雨戸を全て開け終え、歯磨きと洗顔を済ませてから着替えると、家主は縁側へ赴いた。そこには、今し方目にしたばかりの巨大な丸みを帯びたようなそれが相も変わらず庭に鎮座している。
家主は、はて、と今度は思う存分思案に耽る事にした。この謎の丸みを帯びたものを、仮に“X”という名称で仮定し、まずはまじまじと観察を始める。
Xの根元はずっぽりと地中深くに埋まっているようで、上部は空高く、見上げる首が疲れる程、上部が霞掛かってひと目で全体を捉える事が出来ない程度には高く伸びている。天辺まで見るにはヘリコプターかジェット機辺りをチャーターせねばなるまい。家主は着物の袖に腕を忍ばせながら、下駄を履いて庭先へと足を伸ばした。
間近で観察すると、Xの表面はやはり加工された樹木のようにツルリとした質感で統一されている。手で触れてみようかとも思ったが、あと一歩のところで踏み止まった。得体の知れない物体に触れるのは些か早計に思えたからだ。
しかし興味は尽きないどころか増す一方で、家主は無意識にそわそわと足踏みしていた。そこで、ふと、草履越しならばと足で触れてみる事を思い立ち、足先でつつくように触れてみる。ザリ、と小さな音を立て、庭の土を擦り付けるような形になった。下駄越しの感触なので実際の触り心地とは程遠いが、見た目のように平坦であるように感じた。足でつつくように触れても何とも無い事に気を良くした家主は、今度は思い切って手で触れてみる事にした。サラリとしていて、鑢掛けしてある木製の加工品というような印象である。
今度は二階に上がってXの上部も観察してみようかと思案していたところに、玄関の呼び鈴の音が転がり込んできた。
家主は少しばかり顔を顰めた。我が家ながら、昔からどうにも呼び鈴の音が気に入らないのである。
玄関の方に回ると、そこには隣人のK夫人の顔があった。
「良かった。御無事でしたのね!」
人の顔を見るなり開口一番、K夫人は溜息を零すように言った。家主は全く解せない。
すると、それを見越したかのように、K夫人が畳み掛けるように言った。
「お宅は大丈夫でしたの?こちらだと、ちょうどお庭の方になるかしら。見ました?私、もうびっくりして腰が抜けましたの!」
K夫人は興奮の為か頬を紅潮させ、息を荒げながら一息に喋った。
腰が抜けたら拙宅まで馳せ参じる事は不可能だと思うのだが、という言葉を家主は何とか嚥下した。その間に一息吐いていたであろうK夫人が、こちらの言葉など待っていられないとばかりに、また水を得た魚のように喋り始めた。
「Fさんのお宅もね、倉庫が半分壊れていたそうなのですけれど、私のところなんか母屋ですのよ!母屋が滅茶苦茶ですの!いえね、そりゃ、幸い全壊とまではいきませんでしたけれど、それにしたって、ねえ!こうも寒いと堪ったものじゃありませんわよ!」
K夫人は何やら憤慨している様子だったが、家主はまだ何の事を話しているのか解せないままでいた。家主が沈黙を守っていると、呼吸を整え終えたK夫人が漸く家主の方に意識を向けた。
「あら嫌だ。私ったら、つい…。ごめんなさいね。」
K夫人は恥じらうように少しだけ頬を染めながら言う。
「それで、その…お宅の方はどうでしたの?被害の程は。」
「被害…と言いますと?」
家主は初めて言葉を口にした。依然として話の内容は全く解せないままである。
「ほら、お宅ですと、お庭の方の。私は今朝方気が付いたんですけれど、大きな何か…何と申し上げていいか分かりませんけれど、兎に角ありましたでしょう?気が付きませんでした?」
今朝方、大きな何か…。頭の中で結び付けると、それは一つしか有り得なかった。
Xである。確かに、何と表現していいか分からない。
「もしかして、あの大きな…丸みを帯びたものの事ですか?」
「そうそう!それですわ!大丈夫でした?」
K夫人は再び興奮を取り戻したようであった。家主の被害が庭先である事を告げ、改めてK夫人宅の被害状況を尋ねると、K夫人の語調が更に熱を帯びた。
「ええもう、そりゃあ酷いもので、母屋の義母の部屋の隣部屋からごっそり!誰も使っていなかったというのが幸いだったくらいで、一歩間違っていたらと思うと、本当にぞっとしますわ!」
確かに人命が関わってくるとなると、穏やかではない。
しかし、母屋が壊れて今朝方気が付くという点に於いては、些か不自然に感じざるを得なかった。K夫人にしてもF氏にしても、家や倉庫が壊されているというのなら、凄まじい音がする筈ではあるまいか。その点について尋ねると、何となく想定していた返答が返ってきた。
「いえ、それは不思議と音には気が付きませんでしたの。私も主人も朝までぐっすりで…。確かに、そう言われてみれば、変ですわねえ…。」
しかし家主もまた、不審な物音などに気付かず、朝までぐっすりと熟睡していた口であった為、K夫人をとやかく言える立場ではなかった。
家主が思案に耽っていると、K夫人はまだ隣人を回るらしく、挨拶もそこそこに慌ただしく去って行った。
まるで木枯らしのような女性である。
*
午後。朝餉を済ませてから所用を片付け、家主は縁側でのんびりとお茶を啜っていた。視線の先には勿論、件のXである。家主はK夫人のようにフットワークが軽くない為、家で自分の思案に耽るに至ったのである。
だが、その時間もそうは続かない。俄かに外が活気付いてきたのである。
度々思案の時間を邪魔された事もあってか、家主の普段は疼かない野次馬根性も、この時ばかりは若干の疼きを見せた。Xのない玄関口から顔半分だけをそろりと出して覗き見てみると、パトカーやマスコミの中継車が入り乱れていた。どうやらXの事を聞き付けてやって来たようである。噂の出所は何処なのだろう。毎度の事ながら、マスコミの事件が起きた時の集結するスピードは常軌を逸したものがあると思う。やはり、警察にニュースソースがあるのだろうか。
縁側から居間に入ってテレビを付けると、ちょうど中継が映っていた。テレビの中のレポーターは、Xを背に身振り手振りを加えて、しきりに緊迫感を煽っている。どうやら、思ったよりも事は大事になっているらしい。このままだと、その内近隣住民への取材でも始まりそうな雰囲気である。当然、家主は取材に応じる気など塵程も無いが。
しかし、こうなってくると通常の外出も困難になってくるのが問題である。何にしても、一度外出して暫く分の食料でもまとめ買いしておかねばなるまい。家主はまず冷蔵庫に今ある食材を確認しに向かった。
冷蔵庫を開けると、大根の切り身が顔を覗かせている。それに、豆腐と納豆、油揚げなどが並んでおり、やはり買い出しに行かなければと思わせるような心許ない食材達が鎮座している。一先ず今日明日で困るような事はないだろうけれど、今日明日でこの騒動が収まるとも到底思えない。まったく面倒で悩ましき問題である。
中継を見る限りでは、多くの情報収集力に優れたマスコミも、Xの正体は未だ解明出来ていないらしい。 きっと今頃は何かしらの分野の専門家達に声を掛けているところなのだろう。
しかしXの情報に於いては、マスコミの情報力で早ければ二三日で解明されるかも知れないという期待も家主は抱き始めていた。
家主の思惑通り、その日の午後のニュースにはもう専門家達がコメンテーターとして液晶画面の中に顔を連ねていた。番組によっては電話取材だけという場合もあったが、流石の収集力である。
しかし、まだXが何かも解明されていないのに、どういう基準で何の分野の専門家を集めたのかが家主は気になって仕方が無かった。
詳しく見てみると、どうやら宇宙や未確認物体を専門としているらしい、一見怪しい“専門家”達という顔ぶれである事が分かった。それぞれに持論を熱く展開している。
それを見て、家主は内心がっかりとした気分に陥った。何故なら、ざっと見た限りでは、とても二三日でXを解明する事など不可能に思えたからである。
だとすると、警察の科学捜査班が調べた結果を待つ方が余程得策であろう。
家主は朝の草履越しのXの感触を思い出していた。
K夫人宅の母屋とF氏宅の倉庫を半壊させながら、音を立てた様子はなく、家主の庭先のちょうど真ん中に根を下ろしているX。
丸みを帯びていて、ツルリとした表面を持ち、とてつもない大きさを誇るX。
Xは一体何処から来て、そしてこれから一体何処へ向かうというのだろうか。家主は先程ニュースで目にした宇宙からの飛来物という説もあながち否定出来るものではないと思いを馳せていた。
人は、とてつもないものを目の前にすると、何故か人でないものの仕業にしたがる傾向があるようだ。家主もそれを禁じ得ないが、一体何故なのだろうか。人知を超えた圧倒的な存在感のようなものがそうさせるのだろうか。それとも、何処かしらに夢やロマンを求めた結果だろうか。
一つの目安に、大きさがあると家主は考えた。計り知れない程の大きさを持つものを目の前にした時、または人の想像力の限界を超えた時、それは正しく“人知を超えたもの”になり得るのだろう。とても作れそうもない、と人はまず自分達でそれを創造する可能性を考える。そして、それを凌駕する存在を認めた時、人は神がかり的なものと考える。嘗て、人々が太陽と山とを信仰の対象としたように、人は手の届かない空に向かって信仰を、神を見出してきた。
エジプトのピラミッドでさえ、当初は実現不可能と言われた程である。Xを宇宙的な人知を超えたものと考えても不思議はないだろう。音を立てずに、あれだけの大きなものを民家が立ち並ぶ中に打ち立てるのは確かに超人的な行為だ。イギリスのミステリーサークルのようには考えられない。どちらかと言えば、ペルーのナスカの地上絵に類似したものと言えよう。
Xを宇宙的なものと類推すると、隕石のように“空から降って来た”と考えるのが一番自然かも知れない。それ以外に考えが及ばないのが本当のところではあるが…。
そこまで考えたところで、家主の腹部から「きゅう」と何とも情けない音が漏れ出した。時計を見遣ると、もうじきお昼時である。家主は昼餉を摂る事にした。
冷蔵庫から納豆と漬物とを取り出す。味噌汁は前日からの残り物である。献立が朝餉と変わりないが、今日は買い物に行く気はないので、家主はありもので我慢する事を自らに課した。今日は朝餉から夕餉まで何ら変わりない献立だろう。
昼餉を食べ終えると、明日からどうしようかと考えてみる。もしかしたら、報道が過熱する前に買い物に行っておいた方が良かったのではないかとも考えたが、もう済んでしまった事は仕方が無い。明日早々に行って済ませてしまう事にする。
昼餉を食べ終えると、家主は周囲のK夫人宅やF氏宅の様子が段々と気になってきた。その内中継で映されるだろうか。F氏は倉庫であったからまだ良いものの、K夫人宅は母屋に被害を受けたと言っていたから大変だろう。そう考えると、家主宅の被害状況は庭先の樹木程度の被害であった為、まだましな方だと言える。
家主は再び縁側から庭先へ出て、Xと対峙してみる事にした。今度は迷いなくXに触れてみるが、相変わらずツルリとした表面である。爪先に少しだけ力を入れてみるも、傷らしい傷は付かない。
次にスコップを持ち出し、鉢植えの破片を避けながらXの根元の部分を少しだけ抉るように掘ってみる。が、土に汚れた部分が顔を覗かせただけで、まだまだ根は深そうである。
そうこうしている内に、上の方からバラバラバラバラ…とヘリコプターのローター音が聞こえてきた。何となくスコップで掘り返している姿を撮られると不味い気もしたので、手早く土を埋め、スコップを片付ける事にした。
しかし上から空撮したXも中々に興味深い。閑静な住宅街であったこの街も、暫くは賑やかになりそうである。
夕方。テレビをつけると、やはり各局が挙ってXの事を報じている。内容はどれも似通ったものである為、チャンネルを変えても同じ番組を見続けているような心持ちになるが、K夫人宅やF氏宅の取材映像は家主にとって嬉しいものであった。
K夫人宅の母屋は、話に聞いていていた通り、途中からごっそりと持って行かれており、画面の中ではK夫人が被害状況について熱弁を奮っている。F氏宅の倉庫も同じような状況で、無理に押し潰したように拉げた倉庫の残骸がXの根元に散乱していた。それらは全て家主の安っぽい想像を超える、実に生々しい凄惨さであった。
家主はそれを見て急に思い立ち、庭先へと足を急がせた。そこには今朝方と変わらぬ光景が広がっている。家主はXの根元付近に散らばった鉢植えの破片の一つを手に取り、喪に服すように黙祷した。悼む事を忘れてはならないと心のどこかが叫んでいた。
*
呼び鈴が鳴り、誰かが何か叫びながら戸を叩いている。実に騒がしく近所迷惑であるが、家主が出る様子はない。いや、正確には出ようにも出られないでいるのだ。家主の体は何かに取り憑かれ、操られているかのように体の自由を奪われている。声も出せない。
一方で、これが世に聞く“金縛り”というものか、などと当の本人は悠長に構えている。辺りはいつの間にか暗くなっており、夜の訪れを知らせていた。
家主は縁側に腰掛けた状態のまま静止している。依然、金縛り状態のままだ。叫び声や戸を叩くけたたましい音はいつの間にか止んでいた。
「もうし。」
冷凍庫の風のような不気味な寒さを伴った音のような声がした。
「もうし、もうし…。」
家主が何も応えられないでいると、その声は繰り返し冷風を伴った音を出した。
「何か。」
家主は気が付くと、自分の意思ではないながらも、応えるように声を発していた。
「おや、聞こえていらしたのですね。」
自分から声を掛けておきながら、不気味な肌寒さを伴う声は意外そうにそう漏らした。
しかし、声はするのに、その主の姿は何処にも見えない。
「お寒くございませんか。」
声の主は問う。
「いいえ。」
家主の口がひとりでに答える。
「それは宜しゅうございました。ところで、わたくしが何者かお分かり頂けましたか。」
声の主は饒舌である。だが、家主は知らぬ間に自分の考えている事を言い当てられ、背筋に何かが伝う感覚を覚えた。
「いいえ。」
家主の体も口も、もう家主のものではないようだった。考えるよりも先に口から言葉が滑り出ていく。
「そうでしょうね。わたくしも実のところ、自分が何者なのかはっきりとお伝え出来ないのです。ですが一つだけ確かな事は、わたくしは貴方様に危害を加えようなどというつもりは毛頭ない事でございます。」
声の主は滑るように、またも家主の頭の中の考えを手繰り寄せるように引き合いに出した。
「姿を…、姿をお見せ頂く事は出来ませんか。」
今度は正真正銘、家主自身が絞り出した言葉だった。
「お見せするも何も、最初から貴方様の前におりますよ。」
声の主は可笑しそうに言った。
家主はいつの間にか金縛りから解放され、ふらふらと誘われるように、摺り足で忍び寄るようにXの前に立っていた。
そして、手で触れてみる。どくどくと脈打っているのは自分の手である筈なのに、家主はあたかもXの鼓動を感じているような錯覚に捕われた。
「お分かり頂けましたか。」
今度はもう寒さを感じなくなっていた。辺りは暗くなっているのに、淡い光さえ感じるような声音だった。
そして、それはXの中から発せられているようである。
「こうして面と向かってお話しするのは初めてでございますね。」
Xは恥じらうように言った。
「どうして私の前に現れたのですか。」
家主は聞かずにはいられなかった。
「どうしても何も、貴方様がお忘れだからでございますよ。」
Xは歌うように囁いたが、家主にはてんで心当たりがなかった。
「私が何を忘れているというのですか。」
「わたくしの事を、でございます。」
「あなたの事を?あなたは一体何だというのですか。」
家主は畳み掛けるように質問した。
「わたくしの事は、わたくしからは何とも申し上げられません。ただ、貴方様はわたくしの事を既に御存知である、とだけ申し上げておきます。」
Xはまるで当たり障りのない事を言うので、家主はただただ当惑するより他なかった。
家主が忘れている為に現れて、既に知っているもの…。一体何だというのだろう。家主の頭にそれらしいものは一つとして浮かぶ事はなかった。
そう思考の海に潜っている内に、段々と空が白んできていた。心なしか、家主の視界も霞み掛かったものになってくる。
「ああ、もうお時間のようでございますね。」
Xがそう呟いたのを最後に、家主の視界は白によって埋め尽くされた。
*
夕闇。せせらぎのような風に吹かれている。
家主は肌寒さを覚えて瞼を開けた。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしかった。腕を摩りながら上体を起こしたところで、家主は初めてその事を認識した。だが、思考はまだ夢心地のような、ふんわりと宙ぶらりんになっているような不思議な心持ちだった。目は自然とXの方を見遣っている。Xは今朝方と何ら変わらぬ出立ちで佇んでいた。家主の足は、まるで風に流されているかの如く軽い所作でXの元へと進んで行く。
Xの目の前まで来ると、家主は恐らく夢で見たのと同じように手で触れた。さらりとした感触に変化は見られない。あのやけに現実味を帯びた自身の鼓動さえも、今は無いに等しかった。家主は自分でも驚く程の冷静さでXを見詰めている事に気付く。脳が目覚めていく程に、確かに焦りを感じている筈なのに、掌はさらりと乾いている。まるで細波のような風に洗われて齎された乾きのようだった。
やはりあれは夢だったのか。家主は溜息と共に心の中でそう吐露した。逆に夢でない方が不気味なのだが、家主は何となく現実にがっかりしていた。
そう、これは紛れもなく現実なのだ。
何もかもが立ち行かない現実。
絶望すら覚える苦しいまでの現実。
自分が望んではいない、現実。
眩暈がする思いだった。頭がくらくらするのは現実だろうか。家主は覚束ない足取りで縁側へと戻り、倒れ込むように座る。だが、頭がくらくらとする感覚は依然として止む気配はない。家主は段々と、これもまた夢なのではないかという思いに捕われ始めていた。そして、くらくらとする感覚は段々と体の中心を揺さぶられているような激しい眩暈と吐き気に変わり、遂には体を横たえるまでの強さになっていた。家主の頭には自分がこのまま死ぬのではないかという恐怖心が俄かにちらつき始める。それに伴って鼓動の速度も速まり、呼吸が荒くなっていった。意識さえも何処かに持って行かれそうになるが、家主はそれを何とか堪える。何故堪えるのかは分からないが、ここで堪えるのをやめてしまえば、もうこの先生きていけないような気さえしていた。家主は必死の思いで呼吸する。これ程必死に生きようと思った事はないというくらい、呼吸しながら精一杯に息んでいた。
ぜひゅう、ぜひゅう、と音を立てながら酸素を体内に取り入れている自分が、家主はひどく滑稽に思えた。無意識に生を長らえさせようとする人間の浅ましささえ感じているようで、生理的に出てくる涙と相俟って、いつの間にか泣き笑いのような表情を浮かべていた。
家主は思う。結局、生きるという事は呼吸を続ける事なのではないかと。人は皆、死へと向かいながら、少しでも生を長らえさせようと死に抗い続ける。その生き死にの矛盾を内包しながら、人は日々呼吸し、生きている。
何故唐突にそんな事を思ったのかは分からない。だが、意図せず死に向かっているかも知れない自分に、今までの人生の答えのような何かを記憶に刻み付けておきたかったのかも知れない。
けれども、自分で考えておきながら、家主にはその答えがどうにも納得出来なかった。浅学な自分には膨大な時間をかけても到底満足出来る答えなど出せないというような気さえしていた。大小に関わらず、問題という現象の答えは時間を賭して崇高な学問を修得した人にこそ与えられるものなのかも知れない、と。答えという答えがない問題だけれど、それでも人は明確な答えを求めている。曖昧回避な答えでは決して納得出来ないのだ。
家主は冷や汗で背筋を湿らせながら、ひたすらに自身が納得出来るだけの答えを探し求めていた。そしてそれは、きっと人生によく似ている。
家主は今まで人生について、生きる意味や価値について考えた事は一度も無かった。それ故に苦悩に導かれたのかも知れない。家主はある意味で幸せな人生を送っていたのだろう。自分について、生きる意味について考えず悩まない人生。先の見えない未来について思い悩む人生よりも或いは幸福なのではあるまいか。それとも、幸福とは真逆に位置するものであろうか。
家主は常温の水に浸されているように思考の海にまどろんでいた。答えの出ない問題のループをたゆたい、流れに身を任せていた。
もしかすると、人生における幸福とは、人によって尺度が異なるものだけれど、問題に打ち当たった時、乗り越える事こそが幸福と言えるのかも知れない。そして、問題を乗り越え続ける事が人生というのかも知れない。
そこまでぼんやりと考えたところで、家主の意識はゆっくりと沈んで行った。
次に目を開けた時、家主は体の熱をまざまざと感じた。着物が汗で湿り気を帯びていて気持ちが悪いが、不思議と寒さは感じなかった。まるで風邪を引いて熱を出している様子を彷彿させる状態であった。
息を吐きながら体を半分起こしたところで、家主は手に何か薄いものが当たるのが分かった。二つ折りのメモ用紙である。広げてみると、家主は買い物に行こうと思っていた事を唐突に辿るように思い出した。
庭の蜜柑の木と鉢植えの植木達を眺めながら一つ大きな伸びをして、家主は自身が記したメモにあったものを買いに出掛けた。
木を加工して、ツルリとした円錐型のそれ。
食材をぷつりと刺す時に使うそれ。
いつの間にか記憶の隅に追いやっていたそれ。
そう、爪楊枝を。




