どうして、泣いているの?
――この感情は、間違っているのだろうか。
「――せんせっ」
廊下を歩く背中に、ふいに投げかけられる声。踊るようなその声に釣られて、ゆっくりと振り返ると、頬に細いもので押すような感触が走る。どうやらそれは、一人の教え子の指らしかった。
「もう、先生をからかわないの」
「えへへっ、せんせーかーわいっ」
わたしの注意には露ほども耳を貸さず、北川友希は笑った。一人の生徒の愛らしい仕草に、もう一度「もう」と返し、肩を竦める。
高校教師となって四年目の春。昨年から担任となるクラスを受け持つようになったわたしは、彼女とは二年目になるつきあいだった。つきあいと言っても、他の教師生徒と何ら変わらない、ごく普通のそんな関係。
二年連続で彼女の居るクラスを受け持つことになったため、そういった意味で少しばかり距離が近い気もするが、あくまでその程度。
少なくともこの頃のわたしは、そう思っていた。
「あなたもう受験生なのよ。もう少し緊張感とか持ったらどう?」
「そんなこと言ったってなー、わかんないもん、先のこととか」
大袈裟に口を尖らせながら、彼女はそう口にした。その仕草は相違なく、普通の女子高校生が持つそれだった。
半ば呆れながら、それでもいくばくかの心配の念を込めて、小さく溜息をつく。
「それでも考えなきゃ。備えあれば憂いなしって言っても、決まらないことには備えも何をすればいいのかわからないでしょう」
「あーはいはい。もー、そんな話がしたかったわけじゃないのに。先生みたい」
「みたい、じゃなくて先生なのよ」
そう返すわたしの言葉にけらけらと笑う彼女。その姿はいつもよりも幼く見えた。
はぁ、ともう一度小さく溜息。
「――それで?」
「ん?」
「何か用があったんでしょう?」
彼女がわたしを呼んだ理由を尋ねると、彼女はその墨汁をそのままこぼしたような深い黒色の瞳に、一閃の光を煌めかせた。
それはわたしの気のせいかと思うほどに、いや、むしろわたしの気のせいだったとしか思えないほどに一瞬で、ほぼ間を置かず彼女が言葉を返してきた時には、その色は奥深くへと消えてしまっていた。
「べっつにー。せんせーが居たからちょっとからかってやろうと思っただけ」
「…そう……」
まるで何事もなかったかのようにそう言って、いつも通りの笑顔を貼り付ける彼女は、本当に読んで字の如く『いつも通り』だった。
何もおかしいことなどない。彼女が話しかけてきて、わたしがそれに応えて、少しばかり雑談とも言えぬ雑談を交わしただけだ。
それなのに不意に彼女の瞳に浮かんだ色が、まるで古びた建物の壁に張り付く蔦のように、わたしに絡みついて離れなかった。
いったいあの色は何だったのか。一人でいくら自問自答しても答えの得られるものではないというのに、わたしの頭にはその疑問がこびりついていた。
それと共に抱く感情が、教師として、ひとりの生徒に向けるにはあまりに間違ったものだと、いや、たとえそれが、この時点ではまだその感情を呼び込むきっかけにしか過ぎなかったとしても、それでもあまりに間違っていたものだと、気づくこともなく。
「じゃあね、せんせっ。あたしはご飯を食べるのです」
「あ…」
そう言い残して彼女は、思わずこぼれた感嘆詞に気づかなかったのか、一度も振り返ることなく去っていった。
ただ知らぬ間に伸ばされていた自らの右手が、侘しく佇んでいた。
(――わたしは、なにを………)
わたしは気づいていなかった。はずだった。
* * *
定期考査が終わり、夏休みを目前に控えた七月。生徒の多くが浮き足立つ中、しかし三年生の階には若干の緊張感が走っていた。
この時期は推薦で進学を狙う生徒たちにとっては特に大事な時期となる。少しでも内申点を上げようと普段より真面目に勉強や行事に取り組む生徒たちを見ていると、焦りを感じているであろう本人たちには申し訳ないが、その様が何だか愛しく思える。
「綾野先生!」
「…ん? あら、石崎くん。どうしたの?」
ふいにかけられた声に振り向くと、そこにはひとりの男子生徒がいた。わたしが古文を教えている二年生のクラスの生徒。ひゅーいではない。
「あ、いや、えっと…、その………、」
いじらしい。ふと、そんな考えが頭に浮かぶ。何だか自意識過剰なようで少し嫌なのだけれど、過去にも身に覚えのあるこの感じは、おそらく間違いではなかった。
自分で言うのも何だが、それなりに整った容姿をしているせいか、昔から“そういった”誘いは多くいただいてきた。現に今でも、先輩の先生方から食事の誘いをいただいたり、それこそ今の彼のように、話す内容もまとまらないままの生徒に呼び止められることもある。
…ただまぁ、生徒が抱くその感情に関しては、思春期特有の、年上に対する漠然とした憧れのようなものが多分に含まれていることが多い。きっとその感情も間違いではないのだろうけれど、それはすぐ冷めてしまうもので、きっと夏風邪のようなものだ。
「ふふっ。――あ、そういえば予習はちゃんとしてきてる? 六時間目、当てるわよ?」
「へっ? あっ、えっと、はい…」
このように想いを寄せてくれる生徒にも二つほどタイプがあって、一つは彼のように話す内容も決めていないまま勢いで話しかけてしまい、言葉をなくしてしまうタイプ。もう一つは、「好き」や「かわいい」といった言葉で冗談混じりにからかってくるタイプ。
どちらにせよ、好意を寄せてもらえるのは嬉しいことで、その想いに応えることはできなくとも、良い恋愛をして欲しい、そんな風に思ってしまう。
これもある種の老婆心なのだろうか。
「ごめんね、何か用があったみたいだけど、先生これからちょっと職員室戻らないといけなくて。また後ででもいいかしら?」
「あっ、はい、すみません…」
思わず謝罪の言葉を口にしてしまった彼に、ごめんね、とだけ返してその場を後にした。大丈夫、そんな風に話しかけられる勇気があるなら、あなたに本当に好きな人ができた時、『憧れ』なんかじゃない、本当の恋をした時、きちんと行動できるから。そんな想いを込めて。
* * *
「なぎちゃん」
副顧問をしている、あまり強くないバドミントン部の練習中、そう名前を呼ばれた。学校内でそう呼んでくるのは、ただ一人だけだった。
「学校では先生って呼びなさいっていつも言ってるでしょう」
「でも教頭先生は『仲良さそうでいいですね』って言ってたよ」
「…それは嫌味よ。……わたしに向けての」
そう返すと佐野ゆりかはカラカラと笑った。彼女とは親戚であるのと同時に、わたしが教育実習に来ていた時に、ここの付属中学生だった彼女と共に、バドミントン部の練習に顔を出していたこともあり、他の生徒よりも確かに身近だった。
それがいいのか悪いのか、正直わたしにはわからない。けれど少なくとも教師と生徒という点において、親戚だからと言って他の生徒より贔屓することはない。その線引きだけは、どうにも得意のようだった。
なのに、どうして――
「ところでさ、最近なーんか友希の元気がない気がするんだよねぇ。なぎちゃんなんか聞いてない?」
「…北川さんが?」
二ヶ月ほど前に彼女と話した時のことを思い出した。あれ以来、彼女の様子は何一つ変わらなかったために、自分の勘違いだったのだと、あの瞳に浮かんだ色のことも忘れていた。
この話を持ち出された今でさえ、彼女がどんな色の光を走らせたか、しっかりとは思い出せなかった。
あの日以来、あの色の気配すらさせない彼女は、いつも通りにいつも通りで、その温かさと奔放さでわたしをいつも揺り動かして――、
それは行き過ぎた感情だと、慌ててかぶりを振って、咳払いをした。何にせよ、こんな不確かな情報を、当人の陰でむやみに口外するわけにはいかない。
「ううん…、何も聞いてないわ」
「そっかー、なぎちゃんならなんか知ってるかなぁって思ったんだけど」
ゆりかの言葉に首を傾げる。わたしが?
「どうして、そう思ったの?」
「んー? 別に深い意味はないけど、でも友希、なぎちゃんには何でも話してそうだから」
「…そんなことないわよ。むしろクラスメートなんだから、あなたの方が彼女のことよくわかってるでしょう」
ゆりかの言葉に何を動揺したのか、わたしは自分で思うよりも早口で言葉を返した。
理由はわからないが、動揺していることだけは、自分の中ではっきりとしていた。そして、同時に気分が高揚しかけていたことも。
この時、わたしは自分の中で確かに、あってはならない熱がじくじくと心臓の辺りを刺激していることに、初めて気づいた。
「そーかなぁ…? あたしには友希はクラスの子よりもなぎちゃんに懐いてるように見えるよ」
「――気のせいじゃない?」
少なくとも、彼女においては、気の許せるクラスメートよりも、見方においては被支配対象である教師に対して心を開くなど、にわかには考えられない。かと言って彼女から舐められているとも感じないし、わたしからしてみれば、北川友希は充分クラスに溶け込んで、馴染んでいるように見える。
「それはそうなんだけど、なんていうか…、触んないし」
「触らない…? どういう…」
「まぁいいや。なぎちゃんも何も聞いてないんだね」
わたしが尋ねると、ゆりかはそう返してきた。それに対して「えぇ」とわたしは口にした。
そもそも「元気がなく見える」というのも勘違いでないとは言い切れない。もちろん相談された以上、今まで以上に気には掛けるが。
しかし果たして、教師としてそう思ったと、そう言い切れるだろうか。
「今度それとなく訊いてみるよ。とりあえず今は練習しなくちゃ」
「そうよ、あなたはインターハイ予選も近いんだから、部活にも集中しないとだめよ」
「わかってるよ。じゃあなぎちゃん、久々に試合しよっ」
体を動かせば動かすほど、頭は余計なことを忘れ、すっきりとさせてくれる。
しかしこの日、いくら激しいラリーになっても、わたしの脳裏から彼女が消えることはなかった。
* * *
「――あら?」
ふと口を衝いて出た言葉。あまり好ましくない内容の職員会議を終え、いつもより気合の入った部活も終え、それなりに遅い時間。少なくとも我が校の制服を駅で見るには、外は少し暗かった。
ましてや彼女は、部活生でもないのだから。
「何してるの?」
「んー? ――ゲッ…」
「ゲッ、じゃないわよ」
彼女は振り向きざま、わたしを目視すると同時に、眉根を上げ、口角は下げ、そうこぼした。露骨に向けられた嫌そうな顔に、少しムッとする。
「ダメじゃない、こんな時間まで。早く帰りなさい」
「また先生みたいなこと言ってぇ…」
そう言って、彼女はわたしの指を握った。まったく、あの時に「みたい」じゃないとははっきりと伝えたはずなのに、まだそんなことを言っているのか。少しだけあきれるとともに、それ以上にこのやり取りを少しだけ嬉しく思ってしまった自分がいた。
一瞬のことながら、このように接されてそのように感じてしまった自分を戒め、繋がれた指先を解いてから、あの日告げた言葉をもう一度口にする。
「だから、みたい、じゃなくて先生なのよ」
「はいはい」
「本当にわかってるの…?」
少し痛くなった頭をごまかすかのように眉間を軽くつねり、小さくため息を吐く。そしてもう一度注意を促した。さっきそれとなく躱されてしまったが、やはりこんな時間に女子高生一人でこんなところにいるのは褒められたことではない。
ましてや職員会議であんな議題を持ち上げた後だ。少し気分は良くないし、加えてゆりかの話を聞いてから、さらに彼女のことをずっと気にかけていたため、あらゆる感情がごちゃ混ぜになって、少し自分らしくない声が出る。
わたしはきっと、この時からすでに彼女との距離の取り方を、間違えていたのだろう。
「――それより、早く帰りなさい」
「…だって、帰ったってつまんないし……」
「ここに居たって楽しくもないでしょ。それに、」
その瞬間、彼女の肩に力が入ったように見えた。しかし、わたしはそれを気に留めることもなく、言葉を続けた。
続けた先の言葉が、彼女を傷つけたと知るのは、随分と後になってからだった。
「ご両親も心配するでしょう?」
「……………」
「……え?」
彼女が何か小さくつぶやいたように見えたが、通り過ぎたあまり強くない風にかき消されて聞こえなかった。
わたしの返事とも取れないような、ただ疑問を声にしたような問いかけに、彼女はハッとしたように顔を上げる。
「どうし…」
「どうもしない! 帰る! バイバイ!」
「待ちなさっ、」
帰ることを促していた生徒が帰ろうとしているのだ。呼び止めることが正しいはずはなかった。わかっていても口を衝きかけた言葉が、トタンの屋根に無駄に響く。
間違っている。もう、自覚してしまった。
「あなた、どうして――――」
どうして、泣いているの?
* * *
「――えー、それと先日の職員会議でも話したことですが、最近この辺りでも高校生の援助交際が目撃されており、警察からも注意指導を受けています。えー、まだ本校の生徒がそのような行動までしているとの報告は入っておりませんが、えー、夏休みも始まりますので、えー、各学年主任中心に、先生方も気を配るようお願いいたします。えー、生徒に向けても、えー、ホームルームなどで、えー、それとなく、えー、注意を、えー、促して――」
夏休みを目前にして、前回に引き続いた、あまり考えたくない内容が中心の職員会議だった。それにしても教頭、話が進むにつれて急に「えー」の回数増えてたわね…。あの歳になってキャラづくりかしら…。
――それはまぁ置いといて。でも確かに夏休み、羽目を外してしまう生徒も出てきてしまう。自分が担任をしているクラスは受験を控えている三年生とはいえ、息抜きのつもりが…なんてことも考えられる。
しかしそれを明日のホームルームではっきりと言ってしまうのは逆効果だし、かと言ってまったく触れないというのも「信頼」という言葉を言い訳にしているようだし…、でも……。
考えれば考えるほど、沼にはまっていく気がした。
もういいわ、こういうことはさらっと流しましょう。けん制するわけじゃないけれど、わたしのクラスの子なら、きっと大丈夫、きっと――。
「――というわけで、明日から夏休みですが、皆さんは受験生です。わたしからわざわざプレッシャーをかけなくても、皆さん各々のタイミングでかかってくると思います。なのでうまいこと付き合って潰れないように上手に夏休みを遊んでください。じゃあ、解散!」
にわかに騒がしくなる教室。まだ学校の敷地内とはいえ、気分はもう夏休みスタートだ。大きく道を逸れそうな子は、教師の力で連れ戻してあげればいい。
それがわたしの仕事だと、新任一年目の時のように気合を入れた。
教師として、間違った夏休みが、始まろうとしていた。
* * *
まだ陽が高いとはいえ、時刻としては夕暮れ時、夏季課外や部活で夏休み中も登校している生徒がよく通る道に、点々と教師が散らばっていた。
終業式前に喚起のあった件について、少しでも生徒が被る被害を減らし防げるよう、企画されたものだった。
過保護だといわれることもたまにあるが、何かあってからでは遅いのだ。純粋な恋愛から成るものならば、高校生だろうと、中学生だろうと、愛を育む行為はあっても良いと思う。もちろん避妊などを視野に入れているならの話ではあるが。
しかし、売春、買春となると話は全くの別物なのだ。そこには目に見えるような汚れがある。大人になるにつれ染み付いてしまう汚れは、やはり健全不健全以前に、成長にそぐわない。
その汚れから生徒を守る。そんな気概に満たされて、わたしは見回りをしていた。
守りたい、というのは多分、純粋な本心だ。だからこそ、汚れた大人に、大切な生徒を、犯されたくない。大切な生徒に、大人の汚さを見せたくない。
愚かなピエロの、とんだブーメランだ。
自分の中で燻る熱に、もう気づいてしまっていると言うのに。
夏休みも四週目に入り、夏季課外もなくなって、見回り中に見るのはほとんど部活生だけとなっていた。夏休みであっても十九時すぎまで練習をしている部活もあることから、薄暗くなった中でもパトロールは続けられていた。
足が自然と、駅から少しだけ外れた方角へと向かう。「一応」という体で、わたしはこちらの方の見回りを引き受けた。
まだ駅近くの商店街から抜けていない、けれどもう後数歩で、匂いを変える道の先。
この時、心底この場に彼女がいてよかったと思っていた。今になってみれば、守りたいという純粋な想いにさえ、この不純物が混じっていたのだろうと思う。
わたしは、見るはずのない人影を見た。望んでいた人影を。
「――北川さん」
わたしが名前を呼ぶと、彼女は「あちゃー」とバツの悪そうな顔でつぶやいた。高校生ならば、これくらいの時間に出歩くのは、危険ではあるといえど、考えられないことではない。わたしにも友人たちと夜出歩いた経験はある。
だが、わたしは彼女を見過ごせなかった。
どうして、一人なの?
あなたには友人がたくさんいるでしょう。
どうして、制服なの?
あなたは今日、登校していないでしょう。
どうして、そっちへ行くの?
そっちには、邪なものしかないでしょう――
「…せっかく、補導されずに来たのになぁ」
一瞬で頭に血が上ったのが分かる。彼女のその言葉が、裏切りのように聞こえた。
明らかに望んでいた自分がいたのに、勝手なものね。
……けれど“運命”だと、そう思った。
「――やっぱり、そうなのね」
「………」
わたしの言葉に、何の反応も示さない。ただゆるやかに、ぶれることもなく、口角を持ち上げていた。
「どうして?」
「………」
「あなたじゃないって、信じてたのに」
嘘だった。
教頭はあの日、「警察から注意指導を受けている」と言った。それに続けて「そのような行動までしている報告はない」と付け加えた。
つまりは、そこまでは確認が取れなかったが、不審な動きを見せている生徒がいたということだ。
彼女の今の言葉は、見つかりはしたが補導はされずに逃げ切った、という意味だろう。しかし制服で学校は特定される。だから高校にけん制したわけだ。
「信じる、かぁ…」
彼女の小さな声。
「あたしもね、信じてたんだぁ」
小さな小さな声。
「でもね、裏切りって、本当に裏切られてた時には、絶対に気づけないんだよ。だって裏切られている時に、裏切られている人はそこにはいないから」
「……わたしは、」
「まだ駄目だよ。あたしの話が終わってない。――ねぇ、せんせ、知ってる?」
今のは彼女がわたしに返事を求めていたんだと、このあと何か質問をぶつけてくるのだと、はっきりわかっていて、わたしは沈黙した。言葉を返さなかった。
「もう…。――あたしね、いま、一人暮らしなの」
「えっ…」
知らなかったでしょ、と彼女は笑った。あまりに乾いた笑いに、背筋が凍ってしまいそうだった。
――そんな話、聞いていない。
「びっくりでしょ。仮にも娘が、高校生の娘が一人暮らしをするのに、学校には何の連絡も入れてないの。下手すると教育委員会が絡んでくるから、って」
「そんな…」
「だから、まだ駄目だって。ちゃんと後で時間あげるから。――あたしね、ついこの間までは、…って言っても進級する前までだけど。自分は愛されてきたと思ってたんだ。ちゃんと愛されて、ちゃんと育てられて、仕事で忙しいのに、二人ともすごいなって」
両親のことを言っているのだろう。彼女を守りに、そして傷つけにきた今この場で、彼女がわたしに二度こぼしてしまった色の答えを、ちぐはぐな順序で紡いでいた。
傷つけにきた場で気づくというのも皮肉なものだが、二度目の色を見つけた時、わたしは確かに彼女を傷つけたのだ。
「でもやっぱりそう思うのには限界があった。いくら忙しいからって、二人とも全く家に帰ってこない日があるのは……、淋しかったし、辛かった。それでも我慢して、我慢して、我慢して――、そして、独りになった」
高校生は、何かと親に反発してしまう時期で、多くの子が親から離れたいと思ってしまう。一方で、彼女の望みは、淋しい痛みだった。
「結局、あたしの親が大事なのは、世間体だった。誰にも内緒で娘を一人暮らしさせるくらいだもん。愛なんてなかったの」
「そ」
そんなことない。いつの間にかわたしは彼女を庇う言葉をさがしていた。
汚れた熱を、忘れていた。
「そんなことないって? あたしの知らないところで、親が離婚してたのに?」
もう、声を失うしかなかった。思春期という最もナイーブな時期に、なんて裏切りをするのか。
そんな陳腐なことしか、考えられなかった。
ずっと変わらない音色で、静かに歌うように彼女は言葉を紡いだ。表情も変わらず、淋しそうに笑うだけ。
「二人とも忙しくてあちこち飛び回ってるから、その先で新しい温もりを作ってた。その二人が顔を合わせる場所は、こんなに冷たいのに。」
しかしどうして、そうつぶやく彼女には、当然のように体温がある。温もりがある。それを知っているのは、彼女が私に触れてくれるからだ。
あの日の部活の後、ゆりかが教えてくれた「触らない」の真意。わたしにとってはにわかに信じられないことだったが、しかし、だとしたら合点がいく。
北川友希は、スキンシップをしたがらない。今の言葉から手に取れるように、自分のことを冷たいと思っているせいで。
そしていつからか彼女を特別に想ってしまっていたのは、そんな中で彼女がわたしに対して、触れてくれるからだ。
無意識のうちになのかもしれないが、わたしは確かに、彼女の体温を知っている。冷たくないことを知っている。
彼女の体温が、わたしの中にいびつな熱を生んだ。
――この感情は、間違っているのだろうか。
そんな問いかけをせずとも答えは明白だった。そんな問答をせずともこの感情は、間違いなく、間違いだった。
「ねぇせんせ、知ってる? あたしたちって場所に帰るんじゃないんだよ。その場所に大切な人の影があるから、その人がそこに帰る理由があるから、帰るの」
――そしてあたしにはそれが、
音なく発された声も、唇の動きすら途切れたその先も、わたしには確かに聴こえた。
彼女の心の声が。
あぁ、なんて強いのだろう。まだまだ大人と呼ぶには遠く稚い少女がするには、その表情はあまりに淋しすぎた。
音なき声に、わたしを贈る。
「――あるわ」
「…え?」
「あなたが帰る場所も、理由も、影も、全部ある」
いつか見た色が真っ黒な瞳に湛えられて、光る。淋しい痛みの色は、彼女の痛みとは裏腹に、美しかった。
「わたしが、いるわ」
間違っていてもいい。どの道、純粋じゃなくなってしまった。『守りたい』ははっきりと『愛したい』に姿を変えていた。
知らない中年に抱かれるくらいなら、わたしが彼女を抱いてしまおう。誰もこの温もりを求めないのなら、わたしが彼女のすべてを奪ってしまおう。
そして手にした以上の温もりを、わたしが与えればいい。彼女が一番欲しがったものを、いろんな形で贈ればいい。
わたしがあなたの家族になる。わたしがあなたに愛をあげる。だからもう、そんな瞳をしないで。
ぎゅっと抱きしめた彼女の身体は、細くて、折れそうで、わたしのそれとよく似ていた。
この間違った感情も、あなたを温められるのなら、それでいい。
熱に揺れるような夜の中、わたしは彼女を愛すると決めた。
友希は、泣かなかった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「――ねぇ、まだ『自分は先生だ』って言える?」
耳元で囁かれた声。頬に触れる吐息が、嫌に熱かった。
「…当然でしょう。わたしは誇りを持って、この仕事をしているの」
「…これも仕事なの?」
いたずらな質問に、口を閉ざす。右半身に感じる肌の温もりに、目も閉じた。
「ずるいなぁ…」
不意に、唇にやわらかさを感じる。この数時間で、何度味わったとしれないその感触は、とても気持ちよかった。
一分ほど続いた粘膜の接触のあと、彼女は起き上がった。そのままずり動くようにベッドの反対側に腰掛けるようにして座る。
目を閉じていても、気配だけで彼女が何をしているのかわかるようになる程、わたしは彼女を貪った。
「はーあ…、あたしのはじめて、せんせに獲られちゃったぁ」
「え?」
少しだけ驚いて、声を発してしまった。彼女を視認すると、彼女も首と目線だけでわたしを見ていた。
「はじめてだよ、間違いなく。同年代の男の子にも、腕組んで歩いたオジサンにも、あげたことなんてない」
「でも…」
いや、確かに彼女は狭かった。手馴れているようには感じたが、彼女のとる反応に、慣れている様子はなかった。
「言いたいことはわかるよ。確かに援交らしいことは何回かした。でも身体は売らなかった。売れなかった」
ひと呼吸おいて、彼女は続ける。
「まぁ、運が良かったっていうのもあるんだろうけどね。相手がその気になれば、逃げ切れないってこともわかってたし。…でも、少なくとも、自分から求めることだけは、どうしてもしたくなかったんだ」
「……わたしは、」
身体を起こして、けれど彼女の方を見ずにわたしは話した。多分、彼女もわたしを見ていなかったと思う。
罪悪感からかなのか、愛ゆえになのかは、わかろうとも思わない。
「わたしは、あなたを抱いたわ。抱きたいと思ったから。欲しいと思ったから。間違ってるって、わかっていながらね……。でも、」
「…………」
自分の気持ちを軽く受け流された石崎くんがこんなわたしを見たら、なんと言うだろう。彼の気持ちは夏風邪だと勝手に決めつけて、ぞんざいに扱ったくせに、友希の気持ちはこうも簡単に受け入れてしまっている。彼には良い恋愛をして欲しいなどと、たいそうな感情を抱いておきながら、わたしは褒められたものではない愛を抱えてしまっている。
…思い切り、軽蔑されてしまいたい。
「でも、あなたも同じでしょう?」
「……ほんと、ずるいなぁ」
「それも、お互い様ね」
彼女の「自分から求めたくなかった」と言う言葉は、今この場でわたしに告げるには、あまりに大胆な愛の告白だった。
高校生が一人で暮らすには広すぎるマンションの一室にある、彼女の香りがするベッドの上。
わたしは所詮、甘い蜜の香りに誘われたミツバチのようでしかなかった。
「――ねぇ、あなた、どこで生まれたの?」
わたしの唐突な問いに、友希は首を傾げた。
「あなたの言葉遣い、たまにイントネーションがわたしと違うの。わたしはずっとこの街で暮らしてきたから、少し違和感でね」
「……そんなことまで、気づくんだぁ」
「国語教師だからかしらね」
ふふっと笑う友希の顔は、本当にかわいかった。もともと愛らしい顔が、愛くるしい彼女のキャラクターによって、愛しくゆがむ。
あぁ、もう、わたしは後戻りなど、できそうもなかった。
「実はね、詳しくは知らないの。――でも、一個だけ知ってるのは、」
友希は一度そこで言葉を区切って、そして続けた。
「あたしは雪がよく降る街で生まれたんだって。あたしの親が、あたしを生んだ場所を忘れないようにって、誓いみたいな名前。結局は、叶わなかったんだけどね」
そう言って少し自虐的に笑う彼女は、美しかった。自らに降り注ぐ悲しみすべてを、光に変えてしまっているようだった。
「――怒らないで、聞いて欲しいんだけど、」
「ん?」
「あなたの親御さんに、少し感謝したい気分だわ」
そんなわたしの言葉に友希は目を丸くする。しかし、口は挟むことなく、わたしの言葉を待ってくれた。
「この街って、あんまり雪が降らないでしょう? わたしは雪って大好きだから、もっと降って欲しいのだけど。……でも、」
「…えっ、ちょ、やめ」
話しながら捕まえた彼女の耳を甘噛みしながら、指先で背筋をなぞる。
「この街にいたおかげで、その大好きなものが帰ってくる場所に、わたしがなれるんだもの。そんな素敵なことって、他にないわ」
全身で感じる温もりに、もう一度目を閉じた。ベッドの上を反転して、わたしの下にいる友希が、わたしを真似て背筋をなぞった。
ふたつの吐息が、熱く漏れる。
雪がこんなに温かいものだなんて、わたしは知らなかった。
「……愛してるわ、友希」
「…………わたしも。…なぎ」
この街で生まれて二十六回目の夏、わたしは、夏の暑さにも溶けない雪を捕まえた。




