梅の香の人
「なんだか悪いようだが」
進藤は少し荒れた門から中を覗き込みながら、遠慮がちに言った。
「なあに、放っておいても朽ちるだけの家だ。今は僕のものなのだし、好きにすればいいさ」
僕はずかずかと中へと入る。春ももうおよそ近い頃合いで、庭石の合間にぐんぐんと草が伸びている。手入れをしなければすぐに緑に埋まってしまうだろう。
「僕は君の絵のファンなのだから、苦しい時に少しくらい援助をするのは当然だろ? その代わり、いいのを描いてくれよ。あれみたいなのがいい、あの海の絵」
「ああ、今丁度連作を考えているところだ」
砂利を踏みながら進藤がやって来る。背の高い、絵描きにしては頑健な様子の男だ。僕はかちりと音を立てて鍵を開けた。当然ながら、戸はすぐに開いた。
「元は君の兄上の家だったか」
「ああ」
僕は少し言い淀む。
「兄がその、愛人を住まわせていた家でね。この前も話したろ」
「そうだったか」
どうもこの絵描きは浮世離れをしているというか、人の話を時折少しも聞いていない。いつもどこか遠い他所の国のことなどを考えているようだった。
家屋の中は薄暗く、少し篭った臭いがした。雨戸を開けねばならない。
「少し縁起が悪い話だが、その女は病気で身罷ってね。伝染性だったらしく、兄もその後病みついて逝ってしまった。しばらくは大変だったよ。もちろん今はあちこち消毒をしたから問題はないそうだ。そういう来歴は気にするかい」
「いや、雨露がしのげれば大して」
念のために、これも以前にした話を繰り返す。進藤はやはり覚えていなかったようで、気の抜けたような返事が戻ってきた。
二人で手分けして雨戸を開け放つと、少し風が通った。庭は荒れているが、こじんまりとしたなかなか良い家だ。
「ここの部屋がアトリエにいいね」
半分ごちゃごちゃとしたがらくた置きになっている一角を見て、進藤は満足そうだった。
「少し片付けがいるが」
「うちの下働きを手伝いに出そうか」
「いや、それくらいなら自分でできるさ。何から何までやってもらうわけには……おや」
進藤は物陰に何かを見つけたようで、小さな目を眇めた。見ると、大きめの行李だ。
「そういえば、まだ前の住人のもので片付かないものがあったと言っていたっけ」
珍しく僕の言ったことを覚えていたものらしい。
「そうそう、よく覚えていたな。その辺の確認もしなければいけないんだ。どれ、中を見てみようじゃないか」
僕は行李を引っ張り出した。それほど重くはない。蓋を開けると、中にぱっと花が咲いた、というのは喩えで、その中には色もとりどりの着物が収められていたのだ。辛気臭い家の中、一所にだけ電気が灯ったようだった。
「春物だろうか」
「よくわかるね」
「柄と生地でわかるだろう」
僕と進藤はしゃがんで中を覗き込み、ひそひそと会話した。
「これは古着屋に売ろうか。死んだ女の着物なんぞ手元に残しておくまでも……」
僕ははっとした。進藤が一枚の袷を取り出していたからだ。ほとんど白に近い淡い桜色の地に、梅の強い紅が眩しい。おそらく新品だろう。僕や進藤なら、すぐに墨だの泥だので汚しそうな儚い色だった。
女は一年前の冬の間、風邪に似た病を患っては寝つき、年明けを待たずに死んだという。つまり、とうとうこの着物に袖を通すことはなかったわけだ。なんとはなしに感傷的な気持ちになる。
「進藤、それが気に入ったのか? 一枚くらいならやってもいいが、どうするんだ、着でもするのか?」
まさか、と笑わせるつもりだったが、進藤はゆっくりと、こちらを見もせずにその袷を肩に羽織った。するすると衣擦れの音がした。どちらかと言えば娘趣味な着物だ。三十も近い、背の高い進藤にまさか似合うはずもない。
「おい、冗談はよせよ」
進藤は、一度目を閉じ、また開けた。その時の僕の心持ちは何と言おうか……呆気に取られたような、ぞっとしたような、肝が冷えるような、むずむずするような、どうにも説明がし難い気持ちだった。
進藤は僕を見て埃だらけの床に膝をつき、手を揃える。そして、こちらもいわく言い難い、あえて言うならば柔らかく嬉しげな表情を浮かべ、呟いた。
「お帰りなさいませ、旦那様。お久しゅうございます」
僕は自分でもよくわからない程の勢いでがばと立ち上がり、手を伸ばし、進藤の肩の着物を剥ぎ取った、彼は抗わずにそのままぽかんとした顔で居た。僕は袷をぐしゃぐしゃと丸めてまた行李に詰め込み、蓋を閉めた。額と背中に酷い汗をかいていた。進藤はしばらくすると、我に返ったようにがくがくと震えだした。
悪戯がばれた子供のように、僕らは家を駆けて出て行った。途中で喫茶を見つけ、熱い珈琲を喉に流し込んでから、ようやく僕らは先の出来事について語る勇気を持った。
僕は出来る限り、自分の知るところを淡々と話した。母と兄嫁の意向で兄と女の墓は別にされており、兄は本家の代々の墓に入り、女は別の寺にごく簡素に埋葬されていること。それから、子供の頃から僕は、兄とよく似ているとからかわれ続けていたこと。自分ではよくわからない。だが、兄が死んでからは、家族に幽霊かと思った、と冗談めかして言われるほどになっていた。
「女は」
進藤は青い顔をしてそう言った。
「どちらだと思う。あの家にまだ居るのか、あの着物に憑いているのか」
「どちらでも同じだ。売ってしまおう。着物も家も。君の住処のことならまた別に用意するよ、借家なり……」
進藤は、そうか、とだけ呟いた。
それから幾らか経ち、僕の用立てた借家で暮らしていた進藤が、突然我が家を訪ねてきた。少し痩せた様子で、一幅の掛け軸を手に。
「君は洋画が専門じゃなかったかい」
彼を応接間に通して、僕はそう尋ねた。
「日本画にも興味が出て、友人に手ほどきをしてもらった。どうしても描きたい画があってね」
「少し窶れたんじゃないか。ちゃんと食べているかい。いくらいい題材があったからといって、寝食を忘れるほど打ち込むものじゃないよ」
彼はそれには答えず、はらりと掛け軸を広げた。そこには美しい女の姿が描かれていた。するすると絵が開かれていく。その絵は、女の脚のところでゆらゆらとぼやけ、消えていた。
「幽霊画か。なかなか……」
僕は息を呑んだ。ほとんど白に近い桜色の地に、鮮やかな紅の梅の花の小袖。あの女がとうとう着ることの出来なかった着物。
「君は……」
「あれ以来、時折夢に彼女が出てくる」
進藤は静かにそう言った。
「忘れてしまわぬうちに描いておこうと思った。そして、ここに連れて来ようと」
その目は、どこか遠くを……僕を通り越し、その後ろを見ているようだった。
「連れてくる、とは」
誰を、どこにだ、と問うまでもなかった。なんだか、背筋がひんやりとしてきた。
「旦那様」
背後から、細い女の声が聞こえた。僕は、どうにも振り返ることができずに、進藤の据わった目をじっと見つめていた。
微かに、梅の花の香りがした。