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天使の善行

作者: 紅音

 視界は一面赤く染まっていた。赤い海から溢れる熱量が目を霞ませる。横転したトラックに、原型を留めない程に破壊された数台の乗用車。ただ呆然と立ち尽くす、俺達を含む野次馬達。そこにあるのは正しく絶望であった。その光景に妹は声を出すことすら出来ないまま、俺の後ろで小さくなっていた。ふと気がつけば、隣にいたはずの弟が見当たらない。俺は慌てて彼の名を叫ぶ。

「翔太! どこ行った!」

 彼の姿はトラックの近くにあった。トラックの下敷きになった人を見つけ、なんとか車体との隙間を作ろうとしているようだった。十五歳の力一人だけではまず不可能だろう。翔太が俺を見つけて手招きする。一歳しか違わない俺がどれほどの力になるかわからないが、やってみるしかない。手を貸そうと一歩踏み出した瞬間だった。耳を劈くような爆発音と共に、怒り狂う炎は翔太を飲み込んだ。彼の名を呼ぶ俺の声は爆発音に掻き消され、すぐ後ろにいる妹の耳にすら届くことはなかった。


 目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。いつもの自室だと気がつき、大きく息を吐く。汗まみれの顔を拭いながら体を起こすと、早鐘を打つように鼓動する自分の心臓に気がついた。呼吸を整えてから時計を確認する。九時半――今日は土曜日だから、寝ようと思えばもう少し寝られるだろう。二度寝をしようかどうか少し考えたが、夢のことを思い出して、止めた。

 翔太が事故に巻き込まれて死んでしまってから昨日で二年経ったが、あの時の夢を見たのは初めてだ。そうか、昨日で三回忌だからこんな夢を見たのか、と自分を納得させる。ベッドから降り、カーテンを開けて背伸びをする。父さんは仕事だし、母さんももうパートに出ているだろうから、自分でご飯を用意しないと。何を食べようか。確か昨日の晩ご飯が結構余っていたはずだから、白ご飯も余っていればいいのだけれど。

 ゆっくりと一階に降りて玄関前を見ると、靴を履く妹の姿があった。長い髪を揺らしながら靴紐を結ぶ後ろ姿を、そういえばここ最近は見ていなかった気がする。

「どこへ行くんだい、美羽」

 目にかかった髪をよけながら振り返る。休日の朝に会うことがあまりないからだろうか、少し驚いた顔をしていた。

「ああ、おはよう。いつものだよ」

 いつもの。美羽がよく休日に出かけては参加する、近くの観光地のゴミを拾うボランティア活動のことだ。一度だけ美羽に連れられて行ったことがあるが、別段面白いとは思えなかったために、それっきり参加はしていない。一方の美羽はずっと参加し続けて、もうかれこれ一年半以上経つ。

「そっか。ところで、白ご飯余ってるかな」

「まだ一人分くらいは余ってたよ。それじゃ、行ってきます」

「ああ、行ってらっしゃい」

 手をひらひらと振りながら送り出す。よくもまあ、報酬や給料が出るわけでもないのにこんなに長いこと続くものだ。何が彼女をそうさせているのかは分からないが、この一年半の実績にはただただ感心する他ない。

 リビングに入ると、線香の香りが鼻腔を刺激した。とうに線香は燃え尽きていたが、昨日の残り香はまだこの部屋に充満していた。仏壇の前に正座して、鈴棒で鈴を叩く。甲高い音を部屋に響かせてから、静かに合掌した。この家に仏壇が来てから毎日、一度も忘れずに黙祷している。

 翔太、俺達はみんな元気にやってるよ。母さんはまだちょっとナーバスだけど、父さんが上手くやってくれてるし、俺達兄妹も力になってると思う。父さんは課長になってくれって何度も誘いを受けてるらしいよ。管理職が嫌だからって断り続けてるけど。美羽はあの時からたくさんの人の役に立ちたいって言ってボランティアやってるけど、未だに続けてるんだぜ。すごいよな。俺にはとても出来ないよ。そういえば、いつの間にかあーちゃんって呼ばれなくなったな。気がついたら兄さんって呼ばれるようになってたよ。翔太のことも、翔ちゃんじゃなくて翔太兄さんになってるぜ。飛鳥って名前であーちゃんってなんだか変な感じはしてたけど、少し寂しいな。そうだ、俺もこのまま行けば第一希望の大学通りそうだよ。こないだ返って来た模試でA判定だったんだ。多分大丈夫。みんな何とか頑張って生きてる。安心してくれ。

 誰もいない部屋の中に、小さな腹の音が響き渡る。翔太に見られているような気恥ずかしさを覚えながら俺は苦笑して、台所に歩いて行った。


 もうすぐ午後五時になるというところで、美羽が帰ってきた。ゴミ拾いにしては長すぎやしないかと思うところだが、彼女曰く、友達と出かけていたようだ。ボランティアが終わってから友達と出かけることがあるようで、時々夕方になるまで帰ってこないことがある。段々と日が落ちるのが早くなる季節が近づいてきているから、ちょっと強く忠告してやらねばとは思うのだが、母親が晩ご飯の下拵えをしているのを見て目を輝かせる姿を見ると、なんだかあまり強く言う気にもなれなかった。

 今日の献立を確認すると、美羽は鼻歌交じりでテレビの前を陣取り、リモコンを手に取った。特に面白そうな番組はやっていないようで、チャンネルは結局ニュースに合わせられた。しばらくしてコマーシャルに入ってから、俺は美羽の隣に座った。

「お疲れさん。どうだった、今日は」

「んー、いつも通り。なんかお父さんみたいなこと言うね」

 そう言われてみればそうだ、と納得して苦笑した。テレビからは有名なテーマパークの宣伝が流れている。

「ボランティアも大変だろうけど、もうすぐ文化祭だぞ。間に合いそうか?」

「みんなたくさん協力してくれてるから、多分大丈夫そう。私、何をするか言ったっけ」

 うん、と頷きながら返事をする。美羽のクラスでは、この学校では今まで誰も挑戦したことの無いような大型の建造物を作成するらしい。一部の生徒の間で有名な怪物を、校舎の二階を超えるくらいまで大きく作るそうだが、怪物そのものにはあまり興味が無かったせいか、名前は忘れてしまった。

「あれ、だからな。流石に把握してるよ。でも、高校最初の文化祭だし、もっと好きなことやっても良かったんじゃないか?」

「好きでやってるんだよ。……それに」

 そこで言葉を区切ると視線をテレビに移し、力の無い笑みを浮かべて言った。

「――翔太兄さんのやり残したことだから」

 美羽から目を逸らして、台所を見た。テレビの音に掻き消されて、美羽の言葉は母さんまで届かなかったようだ。兄思いだな、と茶化すと美羽は小さく笑った。それ以上の言葉は見つからず、俺はテレビの音量を少し上げた。

 二年前、当時中学三年生だった翔太がいくつかの高校を見学している時、とある学校で見つけた大型建造物――校舎の三階と同じくらいの大きさの有名キャラクターが凛然と立っていたことに影響され、翔太は高校に入学したらあんな大きなものを作りたい、と口癖の様に言っていた。いきなりあんな大きなものは難しいだろうと何度か忠告してはいたが、翔太の意欲は俺が思っていたよりも大きかったらしい。情報を集めるために、美羽と一緒になってリビングのパソコンの前にかじりついていた光景が脳裏によぎる。いつの間にか、テレビからはまたニュースが流れていたが、景気の良いニュースはやっていなかった。


 しばらくして晩ご飯を食べていると、疲れ切った声を出しながら父さんが帰ってきた。母さんは父さんの荷物を受け取ると、父さんが遅くなった時のためにとっておいた料理を食卓に並べた。

「おかえり、父さん。遅かったね」

「途中で渋滞に巻き込まれてな。最近どうもこの近くで事故が多いんだよ」

 父さんは深い溜息を交えながら愚痴のように言った。上着を脱いで食卓を囲むと、いつもの様にビールの缶を開ける。プシュ、という小気味良い音が響き、一口飲んでから話し出した。

「見たところ、ハンドル操作を誤って逆車線の車に突っ込んだらしい。新聞にも載ってたけど、そういう事故が多いらしいな」

「ああ、そういえば」

 俺は味噌汁のお椀を机に置いて、父さんに向き直った。

「ちょっと前に俺も事故の現場見たよ。後で友達に聞いたら、誰かに押されて飛び出してきた人を避けようとして、って言ってたっけ。本当に押されてたら事件だけど、実際のところどうなんだろうね」

 正確には押された気がすると言っていたとの事だったが、訂正するのが面倒で黙っておいた。美羽も見たことあるかと父さんが聞くと、ご飯を頬張りながら頷いた。母さんは茶碗を置いて、心配そうな顔で俺達を見ていた。

「何故この周辺で多発しているのかは分からないが……飛鳥、美羽。お前達も巻き込まれないように気をつけてくれよ」

 その言葉の重みは重々承知している。俺達が頷きながら返事をすると、父さんは煮物に箸を伸ばす。誰もこれ以上この話を続けようとはせず、俺はテレビのリモコンを操作した。


 翌々日、月曜日。寝坊気味でいつもより遅く登校すると、教室内が慌ただしい。そういえば、今日は月曜日だから朝礼があるんだったな。通学用の鞄を机の上に置くと、授業の準備は後回しにしてクラスメイト達と体育館に向かうことにした。

 クラス別の名簿順に並ぶ。真ん中より少し後ろくらいで、うつらうつらと半分寝ながら話を聞いていると、見慣れた姿が校長の立つ壇上に上がっているのを見つけた。長い髪を揺らして歩く姿は、紛れも無く美羽のものだった。はっとして眠気を忘れ、妹の動きを注視する。どうやら伝達表彰の時間らしい。体育会系の大きな体躯の面子が並ぶ中、美羽の体は一際小さく見えた。いつも内容は壇上に上る前に名前と共に告げられるが、うとうとしていたために聞き逃していたらしい。

 美羽の名前が呼ばれ、校長の前まで歩いて行く。どうやら賞状ではなく、感謝状のようだった。内容を聞いて推測すると、美羽の趣味とも言えるボランティア活動について、長期間繰り返し参加していることに対する感謝状らしい。両手を差し出して感謝状を受け取る美羽の顔は誇らしげで、体育館に響き渡る拍手に混ざって両手を叩く俺の頬も、少し緩んでいた。

 昼休み、食べ終わった弁当を包み直して鞄に入れようとすると、何かに引っ掛かって上手く収まらない。取り出してみると、少し前に学校の図書館で借りた小説がすこし折れ曲がって入っていた。そういえば読み切っていないな、と折れた箇所を直しながら返却期限を確認すると、もう残り時間は二日しかないようだった。慌てて栞を挟んだページを開くが、前に読んだ箇所の話があやふやで上手く思い出せない。もう諦めて返却しようかどうか悩みながらページを捲っていくと、突然右手の指先に痛みを感じた。咄嗟に手を引っ込めて確認すると、本の端で切ったのだろう、中指の先に小さな切り傷が出来ていた。よくあることだと気にしないでいたが、ひりひりとした痛みが思ったより辛い。借り物の本に血を付着させるわけにもいかないだろうと思い直し、俺は席を立って、絆創膏をもらうために保健室に向かうことにした。

 一階に降りる。保健室に行くために玄関前を通ろうとすると、一人で掲示板のポスターを眺めている美羽を見つけた。ボランティアか何かの情報が載っているのかと思ったが、人権についての啓発ポスターだった。そういったことに興味があるとは聞いたことがないし、恐らくなんとなく眺めているだけだろう。よう、と声を掛けると、のんびりとこちらに向き直った。

「どうしたの?」

「いや、別に。偶然見つけただけだよ。……そう言えば、朝礼出てたな。昨日感謝状の話なんてしてなかったから何事かと思ったよ」

「え? ご飯食べてる時にお母さんに話してたの聞いてなかった?」

 あれ、そうだっけ。思い出そうとするが記憶に無い。テレビを見ていて聞いてなかったかも、と正直に話すと、不満気な顔で抗議をされた。面目ない。

「――それで、どこ行こうとしてたの?」

「保健室に行こうと思って。紙で指を切ると、思ったより痛いんだな」

 そう言いながら右手を見せる。少し見ていない間に中指の先からは血が流れ出し、第二関節までを赤黒く染めていた。思っていたより痛々しい惨状になっていたため、美羽に見せるのも憚られてすぐに手を引っ込めた。

「うわ、痛そう。私、絆創膏持ってるよ。教室の鞄の中だけど、すぐそこだから保健室より近いでしょ」

「いや、いいよ。保健室に行けば消毒液もあるからさ」

「それが駄目だって言ってるの。いいから来なよ」

 有無を言わさない迫力に押され、途中水道水で傷を洗い流してから、一年生の教室に連れて行かれる。当然ながら、教室内には沢山の一年生がいる。美羽とそれに連れられて入ってきた俺に好奇の目を向けて来られてかなり居心地が悪く、懐かしい一年生の教室を見渡す気にはあまりなれなかった。美羽は教室中のその視線を全く意に介さず、自分の机の横に置いてある鞄から可愛らしい絆創膏を取り出すと、俺の右手を催促した。

「切り傷って、消毒液使わない方が良いんだって。水で洗い流してから絆創膏貼れば良いって、前に私が同じように指を切った時に調べたんだ」

 ぺらぺらと知識を話しながら絆創膏の裏紙を外す美羽。へえ、と感心しているうちに、俺の中指に桃色で動物の柄が入った絆創膏が巻かれていた。

「はい、出来たよ」

「うん、ありがとう。ちょっと可愛い中指になっちゃったな」

 そう言って笑い合う。いい加減に周りの目が辛くなってきた俺は、美羽との他愛無い話もそこそこに、そそくさと一年生教室を出て行った。一年生に囲まれていると、今自分は三年生であるということを否応なしに自覚させられる。昔まだ中学生だった頃には随分大人に見えた高校生が、今三年生の視点から彼ら一年生を見るとまだまだ子どもに見えるような気がして、それがなんだかおかしくて少し笑いがこみ上げてきた。


 数日を過ぎると、学校中が文化祭ムードに染まってきた。俺達のクラスは演劇をやることになっているが、役者ではなく必要な小道具も粗方完成の見込みがついて――大道具はまだまだ時間がかかりそうだが――あまりやることの無い俺は、正直なところあまり熱心ではなかった。気がつけば一週間が過ぎ、土曜日の今日は一週間前と同じように九時半に起きた。役者の皆は今頃セリフ合わせをしているだろうか。何もしないで寝ているのもなんだか申し訳なく思って、ベッドから起き上がった。

 リビングには美羽が一人でいた。何やら電話で話していたようだが、俺がリビングに入ってすぐに通話が終わった。

「おはよう、美羽。文化祭の打ち合わせか何か?」

「うん、そんなところなんだけど、兄さんは今日暇?」

 特に用事は無いことを伝えると、美羽は体の前で両手を合わせながら、丁度良かったと目を輝かせた。

「今から、学校からちょっと行ったところのホームセンターに文化祭で使うものの買い物に行きたいんだけど、暇だったら付いてきてくれない? そんなに量は買わないけど、重い物も買うかもしれないから、一人だとちょっと辛くて」

「うん、良いよ。歩いて行くの?」

「ありがとう! 今から準備して歩いて行けば開店してすぐくらいに着けると思うから、すぐ出ようと思うんだけど」

「了解。準備とかするからちょっと待ってくれ」

 わかった、と返事をした美羽はホッと胸を撫で下ろした。電話で誰かに同行を頼んだが、みんな忙しかったというところだろうか。俺は着替えるために一度自室に戻った。

 家の近くのコンビニエンスストアで朝ご飯としておにぎりとお茶を買う。パンにするつもりだったが、朝ご飯にはお米が最適だという美羽の一言でおにぎりにすることにした。なんでも、腹持ちが良い上にエネルギーとして効率が良いんだとか。そんな薀蓄話を聞かされつつも、本当によく知っているなと感心しながら道を歩いて行く。

 曇り気味の天気で、少し肌寒い。昨日が暑かったからと薄着で出てきたが、上着でも羽織ってくれば良かったと後悔した。ホームセンターまでは歩いて行くと二十分程掛かるから、歩いているうちに体が温まってくるだろう。おにぎりを嚥下してお茶を一口飲むと、頭がすっきりしてきた気がして、自然と歩行速度は速くなった。

 ホームセンターが見えてくる頃には、すっかり体は温まっていた。風が少し冷たいが、あまり気にならなくなってきた。水分補給をしようと、お茶を飲むために顔を上げた。

 ホームセンターは交差点の角に建っていて、そこから少し離れたところに高速道路のインターチェンジがある。山の向こうに住んでいる人が山を超えて学校のあるこの町まで車で来る時に、料金所は通るものの無料で通過出来るらしく、便利なんだそうだ。そっちの道は使ったことがないけれど、この高速道路が出来たおかげで旅行がしやすくなったと評判も良く、父さんも喜んでいた。そのうち旅行に行くことになるかもしれない。

 見ると、インターチェンジから一台トラックが出てきていた。お茶を飲みながら、何とは無しにそのトラックを見つめていたけど、なんだか動きがおかしいことに気がついた。片側一車線の道路をふらふらしながら、中央線をはみ出したり、逆側の歩道スレスレを走ったりしている。

それだけではない。段々スピードも上がってきている。そしてその先の交差点には――信号待ちの乗用車が数台止まっている!

 俺の頭の中で、最近事故が多いと聞かされたこと、美羽の身の安全、これから起こるであろう惨劇がぐるぐると回る。考えている暇はもう無いと、俺は美羽の腕を掴んで歩道横にあった物陰に隠れ、伏せる。美羽は何事かと戸惑っていたが、程無くその理由ははっきりすることになった。まるで何かが爆発したような衝突音が響き渡る。耳を劈くように響いたその巨大な音に驚いた美羽が体を震えさせた。直後、近くにいたカラス達が大声で鳴きながら飛び立ち、続いて炎が燃える音が聞こえてきた。衝突したであろう車の破片がもう飛んできていないことを確認して、俺達は物陰から飛び出した。

 目に飛び込んできたのは、いつかのような惨劇であった。トラックは並んでいた乗用車を押し潰し、一台の乗用車に乗り上げる形で止まっていた。荷台の扉は開いているようだったが、あまり物は入っていなかったのか、辺りに荷物は殆ど無かった。交差点は火の海で、熱気が風に乗って俺達の頬を撫でた。二年前の事故がフラッシュバックする。爆発を幻視し、俺は吐き気を催して蹲る。呆然としていた美羽も俺のその姿を見て我に返ったのか、心配する声を掛けてくれた。

 涙で目を滲ませながら立ち上がる。ホームセンターからも人が出てきているようだ。恐らく店員だろう。

美羽が俺に声を掛ける。

「兄さん! 急いで警察と消防に電話して!」

 その言葉を理解するまでに一瞬の間があったが、状況を理解し震える手をズボンのポケットに突っ込む。――が、携帯電話が見当たらない。

「嘘だろ……! こんな時に限って……!」

 慌てる俺を見た美羽はすぐに俺が携帯を忘れたことを理解し、自分の携帯を俺に握らせる。

「これ使って! パスワード入れなくても緊急通報はできるから!」

 言うが早いか、美羽は交差点に向かって走り出した。俺の脳裏にまたあの時の情景が浮かぶ。

「美羽、待て! 爆発するかもしれない!」

「大丈夫!」

 美羽がこちらを振り返って叫ぶ。

「見た感じガスボンベとかは積まれてないし、そうでもなければそう簡単に車は爆発しないから!」

 そこまで言うと、これ以上話すことはないと言うように現場に向き直り、また走り出した。本当かどうか分からないが、美羽が言うならそうなのだろう。俺は美羽の携帯で緊急通報を掛けながら現場に近づいていった。

 通報を終えて辺りを見回すと、美羽が一台の乗用車のドアを開けるのに苦労している姿を見つけた。携帯を仕舞って急いで近付き、声を掛けた。

「兄さん、手伝って! 中に人がいるのに、ドアが変形して上手く開かないの!」

 見ると、車内で中年の男性が一人ドアを開けようと必死で叩いている。窓からは出られなさそうだ。言われるまでもない、と美羽に代わってドアを引っ張るが、開かない。美羽に体を引っ張ってもらっても殆ど変わらなかった。畜生、今更遅いが、もっと力を付けていれば!

「駄目だ、俺達の力じゃ少しの隙間程度しか開かない……。もっと大柄な人がいればあるいは――」

 美羽が俺の言葉を遮って叫ぶ。

「そうだ、隙間に棒か何かで、てこを使えばもしかしたら……!」

 言いながらあたりを見回すと、一人のホームセンターの男性店員がその言葉を聞きつけたらしく、十数センチの鉄の棒をエプロンから取り出してみせた。

「役に立つかは分かりませんが、これでやってみます。 お二人はドアを引っ張って隙間を作ってください」

 一も二も無く頷いて、ドアに手を掛けて引っ張る。出来た僅かな隙間に、店員が鉄の棒を差し入れる。その棒の横腹に店員が体重を掛けて押し込むと、何かが外れるような音と共に、俺の手に振動が伝わってきた。見ると、小さな隙間しかなかったドアは確かに開いていた。だが、まだ人が通れるほどの隙間は無い。

「ドアから手を離してください、蹴り開けます!」

 店員がそう宣言し、俺達は車から距離をとる。二度目の蹴りが良い所に当たったらしく、車のドアは完全に開放された。

 車の運転手は俺達に礼を言うと、手伝ってくれた店員に連れられて交差点から離れていった。どうやら足を怪我しているらしく、一人では歩けないようだった。それとほぼ同時に、ホームセンターから消火器を持った別の店員が走ってきた。役に立つ程の量ではないかも知れないが、多少は足しになるかもしれない。美羽は引き続き辺りを見回して出来る事を探している。

「他の車に乗ってた人はもうみんな避難したよ。俺達も離れよう」

「あの車は……」

 美羽の視線の先には、トラックの下敷きになった乗用車。原型が分からないほどに押し潰されている上に、火の回りも速い。あの車には近付けないし、恐らく生存者ももう……。俺が黙って首を振ると、美羽は悲しそうに頷いた。

 ふと見ると、トラックの運転手であろう人が呆然と立ち尽くし、炎上するトラックを見つめていた。

「……運転手さん、爆発の危険性もあります。離れましょう」

 そう言うと運転手は我に返り、とぼとぼと離れていった。美羽の方を見ると、先程まで――不謹慎な言い方だが――目を輝かせて出来る事を探していた彼女は、虚ろな目で事故が起こった現場を見つめていた。美羽の足元には、数枚のカラスの羽が散らばっていた。


 週が開けて月曜日、あんな大きな事故を間近で見てしまったのだから当然だが、俺の学校に向かう足取りは重かった。あの事故の後しばらくしてから来た警察に、俺達が見たことは全て話した。ホームセンターの店員の一人が事故発生を俺達より間近で見ていたようで、俺達への事情聴取はあっさりと終わった。車がそう簡単に爆発しない、と美羽が走っていったのは、翔太の事故後に自分で調べたからこその判断だったらしい。それでも警察には、爆発する可能性はゼロでは無いのだから、と怒られていたけれど。

 後で聞いた話だが、結構大きな事故だったからかマスコミも来ていたらしい。進んで話したくは無かったから、早めに解放されてよかったな。

 美羽とは少し相談して、事故に関わったことを母さんには内緒にすることにした。こうして無事にしている以上、母さんには余計な心配を掛けたくなかった。ただ、父さんには話しておいた。あっさり終わったとは言え一応警察の事情聴取を受けたのだから、また何か電話が来たりしても大丈夫なようにというつもりだったが、案の定危険なことをするなと怒られた。反論出来ないしするつもりもなかったので素直に怒られておいた。

 学校に着くと、校庭から各教室まで騒然とした雰囲気で満ちていた。ニュースにもなっていたから、やはりあの事故の事はみんな既に知っているのだろう。何人かの友人にその話を振られたが、教室中から質問攻めにされるのも嫌なので、自分が現場にいたことは黙っておき、ニュースで知ったということにしておいた。きっと今日の朝礼はそのことが話題になるだろう。

 予想していたよりも、朝礼では昨日の事故が大きく取り上げられた。それもそのはずで、あの事故に巻き込まれた二年生の生徒がいたらしい。それもただ怪我をしたとかそういった程度の話では無かった。トラックの下敷きになっていた乗用車は近付くことすら出来なかったが、正にその車に家族みんなで乗っていたそうだ。家族がどうなったかは、現場での俺の想像通りだった。トラックの暴走の原因は居眠り運転だったとの事だ――それはニュースでも聞いて知っていた――が、俺は運転手への怒りよりも、巻き込まれた二年生への弔意よりも、まず美羽の事が気にかかった。俺は押し潰された車を一目見て全てを諦めていたが、一方で美羽は現場から離れる間際までずっと気にしていた。今俺がいるところから美羽の様子を窺うことは出来ないが、気にかかって仕方がなかった。そして、その心配がより強くなるような言葉が、校長を含む教員会議での決定であることを前置きしてから、校長の口から発せられた。

 文化祭開催の見送り。体育館全体が一瞬ざわついたが、みんな予想はしていたのだろう、間もなく静かになった。一介の公立高校の判断として当然と言えば当然だろう。各クラスや部活動で、休みの日まで準備や練習を進めていたことを考えれば不満も出るだろうが、まだ少し文化祭までの期間もあったためか、みんなその決定を受け入れているようだった。この決定を、美羽はどう思っているだろうか。翔太のやり残した事を引き継ぎ、率先してクラスで指揮を取っていた彼女の心中を察するには、俺はまだ子ども過ぎた。

 その日の授業が全て終わり、鞄に教科書を詰める。一日中教室内では事故や文化祭の話でもちきりだったが、それほど不満は大きくないようだった。鞄を掴んで教室を出ると、校内は少しギクシャクした雰囲気だった。早く帰ってしまおう。そう思って玄関まで早足で降りると、いつかのように掲示板を見つめる美羽の姿があった。いつの間にかボランティア募集の張り紙が新しく貼られていて、熱心に目に焼き付けている。声を掛けるかどうか迷ったが、今日の朝礼を思い出して声を掛けることにした。

「ああ、兄さん。今から帰り?」

「うん。それ、参加するの?」

「そうするつもり。待ってて、私も鞄取ってくるから」

 そう言うと早足で自分の教室の方に歩いて行った。落ち込んでいるかと思ったが、思っていたよりもすっきりした顔をしていて拍子抜けした。美羽と一緒に帰るのは久し振りだなと思いながら、ボランティアの募集ポスターを見つめた。

 多数の下校している生徒に混ざりながら、話しかける事が見つからず言葉少なに校門をくぐる。曇り空はまだ晴れず、時間の割に周りは暗くなってきた。日が差さない町は寒々しく、季節が冬に向かっていることを否応なしに実感させられる。

「ねえ、兄さん」

 美羽が口を開く。

「兄さんのクラスは、文化祭で何をする予定だったの?」

「演劇。俺は道具作る係だったけどね」

 ふーん、とあまり興味が無さそうに相槌を返す。美羽の方から文化祭の話を振ってくるとは、かなり意外だった。

「残念、だったな」

「え?」

「文化祭。でっかいの作れなくて」

 合点が行ったという顔をして、美羽は少しはにかんだ。

「残念だったけど、準備してる間は楽しかったよ。それに私はまだ来年があるし、さ」

「来年も同じ事提案するのか?」

 分からない、と小さく零して美羽は足元の小石を軽く蹴飛ばした。

「みんなが賛成してくれたらまた作りたいけど。来年はクラスも変わるし、どうなるか分からないね。また来年考えるよ」

 そうか、と相槌を打つ。今年、あの一年生のクラスが美羽の提案に賛成してくれたのはラッキーだったのかも知れないと思うと、今日初めて悔しさのようなものを感じた。俺が小声で、少し悔しいけど二年生の子はもっと悔しいだろうなと呟くと、美羽は複雑な顔で俺を見た。

「でもさ、私一つだけ自慢出来る事があるよ」

 そう言うと美羽は立ち止まり、俺に向き直った。

「あの男の人、助けられたから。それだけは自慢だし、大きな声では言えないけど、あの人を助ける為に文化祭が無くなっちゃったって思えば、ね」

 出来る事ならその先輩も助けたかったけど、と俯いて零す。その顔はどこか憂いを帯びているように見えた。俺は美羽の頭に手を乗せて、何年か振りにぽんぽんと叩いてやる。不思議と嫌がらない美羽を見て、自然と顔が綻んだ。落ち葉が風で引き摺られて、俺達の足元を通り過ぎていった。


 あれから四ヶ月が経った。俺は私立大学の推薦入試に合格し、無事に進路を確定させた。金銭的に余裕があるわけではないし、先生からは国公立の大学を勧められてはいたが、オープンキャンパス以来心から離れなかったと熱弁をふるうと、やがて納得してくれた。高校の学則として進路が確定するまでは自動車教習所に通うことを禁じられていたが、早い段階で進路が確定したので、今はのんびりと教習所に通っている。

 美羽は相変わらず、ボランティア活動を続けている。一度だけ県外まで遠征したこともあって、ボランティアに対する――というより社会の役に立ちたいという――意欲は確実に増しているようだった。外出することも多くなって、休日の昼間はまず家にいない程だ。それを全部ボランティア活動に費やしているのかというとそういう訳では無いようだが、昔と比べて随分アクティブになったなと思うと感慨深い。たまに家にいるかと思うと母さんの家事を手伝っていたりするので、そろそろ無理矢理にでも休ませてやろうかと画策している。

 とある休日の昼、路上教習で近所を教習車で走ることになり、教官と二人で車を走らせていた。公園や小学校の前を通る時に小学生やもっと小さな子ども達がはしゃいでいるのを見つけ、懐かしい気持ちになった。あの頃は車を運転する父さんを見て憧れの気持ちでいっぱいだった。今は尊敬していないのか、と言われたら決してそんなことはないと答えるが、ようやく父さんの背中が見えてきたのかと思うと、なんだか目頭が熱くなる。

 そんなことを思いながら、歩き慣れた交差点で――今日は車道の上で左に方向指示器を点滅させながら止まる。この角のスーパーによく母さんの車に乗って来ているから、いずれは俺が母さんを乗せて来る事もあるだろうか、と交差点を見回した。

 ふと、見慣れた姿を見つけた。横断歩道から何メートルか離れた場所で、じっと交差点の中央を見つめている。風で長い髪を靡かせているその姿は、紛れも無く美羽だった。横断歩道を渡るでもなく、大きな鞄を持ちながらただじっとして動かない姿を、通行人の誰も気に留めていない。車を見てはいないらしく、俺の存在には気付いていないようだ。

「……どうしたんだい? 信号、青だよ」

 教官の声で前を向くと、既に二台目の対向車が交差点に侵入していた。慌てて半クラッチを作って、ハンドルを左に切りながら交差点に進入する。クラッチを踏み込んでギアをセカンドに入れ、徐々にスピードを上げていく。自車の後ろに車はいないようで、ホッと安心した。

「なにか気になることでも?」

「いえ、偶然妹を見つけまして……」

 あはは、と笑う。美羽は誰かと待ち合わせでもしていたのだろうか。どうも気になって仕方ないので、後で帰ったら聞くことにしよう。俺はギアをサードまで上げて、それからすぐにトップギアに入れた。

 その日の午後五時前になって、美羽が家に帰ってきた。鞄を置いてテレビの電源を入れたところで、俺は美羽の隣に座った。

「お帰り。どこ行ってたの?」

「まあ、ちょっと」

 チャンネルを切り替えながら、答えをはぐらかして笑う。行き先を詮索するのは良くないと思って、その言葉は流しておいた。

「ところでさ、今日スーパーの角の交差点で美羽を見たんだけど」

「え? いつ頃の話?」

「昼過ぎだから、多分一時半とかだったかな。誰かと待ち合わせでもしてたのか?」

「あ、うん。そんなとこ」

 もう話すことはないと言うように、美羽はそれぎりテレビに夢中になった。それ程気にすることでもないかと、この日はそれで納得しておいた。

 しかし、その後路上教習を繰り返している間、度々交差点の近くで美羽の姿を見ることがあった。それはいつも同じ交差点というわけではなく、日によって全く違う場所だったりするが、いつもこの町のどこかの交差点にいた。これだけ何度も美羽の姿を見ると、流石に不思議に思えてくる。美羽はあまり話したがらなさそうだし、直接本人に聞くのは憚られる。はてさて、どうしたものか。

 しばらく考えた末、悪いと思いながらも美羽が出掛ける時に後をつけることにした。あまり気は進まないが、美羽が不審な人間に間違われるのも嫌だし、何もなく待ち合わせか何かだと分かればそれでいい。このままだとすっきりしないから、自分の中ではっきりさせるためだ。言い訳がましく自分を納得させている様はなんだかシスコンの兄のようだが、断じてそんなことはない。

 日曜日、予め教官に頼んで教習を一日空けてもらっておいて、美羽が外出するのを待った。九時には起きるつもりが一時間遅れて起きてしまい遅刻したかと慌てたが、美羽はリビングでのんびりテレビを見ていた。そのまま十二時半の昼ご飯まではゆったりと過ごしていたが、それが終わると大きな鞄を持って何処かへ出かけていった。さあ、作戦決行だ、なんて意気込んで美羽に少し遅れて家を出る。鍵を閉めてポストに入れておき、美羽に見つからないようにゆっくりと後を追った。

 今日の交差点は、初めて見つけた時のスーパーのある場所だった。俺は少し離れたところから、バレないように、且つ不審に見られないように携帯を弄りながら美羽の様子を窺う。あ、そうだ。出掛けるから鍵は閉めておいたと母さんにメールしておこう。

 何も起こらないまま三十分が過ぎた。美羽は一向に動く気配を見せず、俺は随分焦らされてきた。自分のせっかちさ加減には呆れながらも、美羽を注視し続ける。そうだ、声を掛けたら何と言うだろうか。平然と待ち合わせだと答えるかもしれないが、試しに声を掛けてみようと後ろからゆっくり近付いていった。ある程度近くまでやってきてから、気付かれないように足音に気をつけてすぐ傍まで近付いた。どんな話をするか思い付かないが、その場の流れで適当にしよう。俺は肩に手を置こうとゆっくり腕を伸ばす。

「まだかな……」

 美羽が突然ぼそりと言った言葉に驚き、咄嗟に手を引っ込めた。まだか、ということはやっぱり誰かとの待ち合わせなのだろうか。……ここまで来たらその相手も拝んでやろう。完全にストーカー行為だが、妹を心配する兄の正常な思考だ、おかしくはない、と自分に言い聞かせて、足音を立てないようにゆっくりとその場を離れ、元の場所に戻った。

 その後もじっと美羽を見ていたが、いつまでたっても動き出す様子も無ければ、誰かが美羽に話しかけるような事も無かった。ということは、今までも何時間もの間なにもしないでこんなところに立っていたというのだろうか。いよいよもって美羽の行動の理由が分からなくなってきた。

 ようやく美羽が動き出した。携帯を見ると、時刻は午後四時半丁度。大体三時間程ここでじっとしていたことになる。俺は見つからないように距離をとりながら、ゆっくり後を追うが、結局辿り着いたのは自分の家だった。時刻は午後五時前。つまり、美羽は午後一時頃に家を出て四時半まで交差点で何かを待ち続け、結局何もしないまま帰ってきたということになる。すっきりさせるどころか、余計心のもやもやが濃くなってしまった。少し時間を開けて家に入ると、美羽が何事もなかったかのように――実際に何事も無かったが――俺を迎えてくれた。家の目の前の電柱の上で、カラスが鳴いていた。


 夜になって自室で教本を読んでいたが、やはり美羽の行動が気にかかる。見ている限りでは何の意味も無い行動に見えるし、女の子が一人で長い間外にいるのも感心出来ないし。そろそろ日も長くなってくるとは言え、俺が一人暮らしで家を出る前に、ちょっとちゃんと言っておこう。聞けそうなら、今日のことも聞こう。そう決めて机を立った。

 すぐ隣の美羽の部屋の扉をノックして呼びかける。

「俺。飛鳥だけど。ちょっと良いかな」

 物音が聞こえたかと思うと、数秒と立たないうちに扉が開いて、寝間着姿の美羽が部屋から出てきた。

「どうかした?」

「ちょっと話があってさ、廊下じゃなんだから入れてもらってもいいかな」

「ん、まあいいけど」

 そう言って俺を招き入れる。数年振りに入った美羽の部屋は、記憶にある姿から大幅に模様替えされていた。机の上には読みかけの新書が伏せて置いてあり、本棚には漫画や小説が所狭しと並べられている。

「それで、話って?」

「そうだな……何から話そうか」

 扉の前で少し悩んだ末まず最初に、日が落ちるのが早い時期にあまり長く一人で外にいないように、と軽く注意した。冗談めかして危険を説明すると、間延びした声で返事をくれた。本当に分かっているか心配だが、恐らく父さんも注意するだろう。

「で、本題なんだけど」

 居住まいを正して美羽と向かい合う。美羽は不思議そうな顔で俺を見つめている。

「今日さ、俺、美羽が何してたか見てたんだよ」

 美羽の表情は変わらない。

「悪いとは思ったけどさ……。今日、一時前に家を出てから四時半くらいまで、ずっとスーパーのある交差点にいただろ。それ、遠くから見てたんだよ」

「……」

美羽の表情が曇るが、なおも言葉を続ける。

「それに、最近教習車から何度も、美羽の姿は色んな交差点で見てるんだ。三時間近くもあんな所にじっと立ってる理由が分からなくて……。一体、何をしてたんだ?」

 そこまで言うと、美羽は俯きながらくすくすと笑い始めた。訝しみながらも、言葉を続ける。

「――それで、独り言も聞いてしまったんだ。『まだかな』って。誰かを待ってたのか? それなら理解出来るんだけど、それにしたって待たされすぎだし……」

「そうだね、待ってたんだよ。……【じこ】を、ね。」

 美羽はくすくす笑いを続けながら口を開いた。その声色は不思議に冷たく感じられる。

「……【じこ】?」

 何のことだろう、と首を傾げる。美羽の笑い声に気を逸らされて頭が回っていないからか、その二文字の表す意味を推量出来ずに怪訝に思っていると、美羽は笑いながら、とんでもないことを口にした。

「何悩んでるの、兄さん。【事故】だよ。交、通、事、故」

 その声色と虚ろな目に射抜かれ、背筋に冷たいものが走る感覚に襲われる。美羽が区切りながら言った単語は、間違いなく【交通事故】の漢字四文字。美羽の言葉に、俺の理解が追いつかない。

「分かってると思うけど、今日だけじゃないよ。先週も、その前も! ボランティアに行かない日の殆ど。いつもいろんな交差点で、事故が起きないかなーってずっと待ってた!」

 その迫力に後退りしそうになる。美羽は俺の顔を見つめながら、なおも言葉を続ける。

「私ね、沢山ボランティアしてきたけど、いつものゴミ拾いじゃ物足りなくなってきちゃって。県外まで行っても結局大したことはしなかったし。一番楽しかったのは、何と言ってもあの事故! 兄さんや店員さんも手伝ってくれたあの事故、覚えてるでしょ? ドアをこじ開けて車から男の人が出てきた時、すっごく幸せだった。私は今人の役に立ったんだ、って! 今日の私を見てたなら、私がその鞄持ってたの覚えてるでしょ? 中、見てみなよ」

 言われるがままに鞄を覗くと、そこに入っていたのは五十センチ程のバールだった。他にも絆創膏やガーゼなど、応急処置に使えそうなものがいくつか透明なケースに収められていた。

「あの事故でドアが変形して動かなくなることがあるって知ったから、そのバールを持ち歩いていつでも対応出来るようにしてるんだ! 今ならあの時よりももっと役に立てると思う。もっと沢山の人を救えると思う! その為なら、ちょっとくらい誰かが怪我しちゃったり、あの先輩みたいになっちゃっても仕方ないよね」

 俺は激昂して、声を荒らげて叫ぶ。

「――言っていることが滅茶苦茶だ! 一人を助けるために誰かが死んでしまったら意味が無いじゃないか! 助けられる人だって、そんなことは望んでない!」

 しかし、俺の叫びは届かない。くすくす笑いがいつの間にか高笑いになって、美羽は俺の叫びなど全く意に介さず笑い続けている。その声と俺の叫び声を聞きつけて父さんと母さんが部屋にやってきたが、それでもなお美羽の高笑いは止まらない。

「美羽……」

 俺の口からぽつりと零れた妹の名前は、笑い声に掻き消されて誰にも届かなかった。夜の自宅に、美羽の高笑いはこだまし続けた。


***


 大学に進学して三ヶ月が経った。一人暮らしも慣れたもので、自炊という程大層な事はしていないが、何とか飢えること無く生きている。

 俺は元々一人暮らしの予定だったが、俺以外の家族三人は、前に住んでいたあの土地よりも田舎の、交通量の少ない場所に引っ越すことを決めた。事故の多いあの地域よりももっと静かな場所で、ゆっくり心を癒やすということだ。美羽は当分、父さんか母さんの目の届く所に置くらしい。

 ホームセンター前でのあの炎上事故以来、美羽は壊れてしまった。それでも元気そうに振舞っていた彼女の異常を、誰が見抜けただろうか。……いや、そもそも美羽が壊れてしまったのは本当にあの事故からなのだろうか。何がきっかけでああなってしまったのだろうか。一体どうしたら美羽の狂気を止められたのだろうか。もう意味のないその答えを探し続け、俺は一人の時間を過ごしている。

初めまして、紅音と言います。この度は本作を読んでいただき有難うございました。


普段は別のサイトでライトノベル風小説やSSを書いていますが、普通の小説がそのサイトでは読まれにくく、せっかく書いた小説が殆ど読まれないという状況には辛いものがあったため、こちらのサイトに投稿するに至りました。

本作はその性質上読んでいて、また読み終えて楽しい小説ではなかったと思いますが、少しでも感じるものがあったなら幸いです。


若輩者ではありますが、今後も良い作品を作れるように努力していきたいと思います。

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