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タッチターンからラストスパート、そしてゴールへ

    

    **


 これはなんだ――。


 まだはっきりしない意識。朦朧とする視界に飛び込んできたのは、眩いばかりの白だった。

 右を向いても白。左を向いても白。後ろは、振り返るほどのスペースもなくて分からないが、やっぱり白く輝いているのだろう。

 俺はピーコックグリーンの競泳水着一枚の恰好。体育座りの俺の周囲を白く発光する壁が覆っている。なんというか、日ごろから太陽の下活動する水泳部の身としちゃ利用することもないが、日焼け用の機械とはこういうものだろうか? とにかく窮屈だった。

 壁は光沢仕上げみたいにツルツル。尻をついた床は微妙にカーブを描いていて、ツルツル素材と相まってなんとも落ち着いていられない。

 俺は最初、夢だと思った。光輝く部屋、だけどそれはとても窮屈で。薄っぺらい言葉だとかで飾ったそれが、いかに小さくてしょうもないことなのかを。自分自身の内面をイメージしたものだと。

 だが、ぼんやりとした思考が徐々に覚醒するうち、それがそうでないことに思い当たる。

 俺は記憶を辿った。


 そうだ。茜と別れたあと、俺はクロムを連れて家に帰った。

 日も暮れた、夕方と呼ぶには少し遅い時間。さすがに深夜まで校内をうろつくわけにはいかなかったからだ。

 学校のブレザーへと着替えた俺と、濃い緑色をした縷々中ジャージの上下に身を包んだクロムは、薄暗くなった道を十五分ほど歩いて、ローンがあと二十年残っているらしい木造二階建てのわが家へと辿り着いた。

 共稼ぎの両親がまだ帰っていないことに安堵しつつも、俺には考えなんてなかった。二階にある自分の部屋に入り、鍵を閉める。

 ほっとした溜息をひとつ。そのあとで俺の心音は跳ね上がる。自分の部屋に女子と二人っきり。隔離するようにそそくさと施錠するさまはなんだか二心あると思われそうだ。

 だが、振り返った先でクロムは興味深そうに部屋を見回しているだけだった。

 泳いでいた視線は、本棚に止まる。棚は参考書なんかより漫画が占める数の方が多い。俺の興味をひかずに終わった参考書やらは、手にする機会も少ない上段に位置していたが、クロムはそっちの方に興味を惹かれるらしい。キャラメル色の瞳にかかった、淡い栗色の毛先を軽く払う。そして真剣に背表紙を眺めていた。

 参考書の間に挟まれたそれが、子どもの頃に買ってもらった恐竜図鑑であるらしいと当たりをつけつつ、俺はすばやく防衛のフォーメーションを整える。いかがわしい参考書を封印する要石みたいに、ベッドの上に腰かける。クロムにはキャスター付きのチェアーを勧めた。

 封印を解かれる危険性もあるが、お菓子と飲み物でも用意すべきか、そんなことを考えていると、「ツバメ、しっかり体を休めておくのだぞ」クロムが言った。


「術式の効果で体力の消耗は極力減らせる、といっても万全の状態で臨まなければならない。ツバメには全力をもってあたってもらわねばならないからな。今はきちんと休養をとってくれ」


 自由形の選抜試験で結構な体力を消耗していた俺ではあるが、急に休めと言われてもスイッチの切り替えは難しい。そこそこ腹も減ってはいたし、なにより女子と二人きりの室内で平静を保てというのも酷な話だ。

 なのにクロムときたら「寝ろ、ツバメ」と繰り返してくる。やがてそれは脅迫めいてきて、さっぱり休める訳なんてない。

 するとクロムは思い立ったように「取りあえずそこにうつぶせろ」と命令してくる。

 言われるがままベッドにうつぶせると、その背にクロムが馬乗りになる。


「いいか、〝ティアドロップ〟において重要なのは姿勢と腕の回転だ。自身を一本の矢のように鋭く真っ直ぐに飛んでいくイメージで姿勢を維持する。そして腕の回転は力強くも大きすぎず小さすぎず、水の流れを支配し、やがて一体化するように」

 

 クロムは言いながら、俺の腕の付け根やら背中に触れていく。マッサージとも骨の矯正だとかとも違う。まるで体中の筋肉や骨、細胞に直接触れられているような感覚。小麦色の長く細い指先が触れるたび、じんわりとした温もりが身体の内の内まで浸透していく。

 俺はその心地よさに身を任せ、いつの間にやら眠りの中に引きずり込まれた。


 そして、俺はここにいた。白く輝く窮屈な何かの中に。


「これはなんだ――」


 胸の内に広がる疑問を口にした瞬間。壁が砕けた。白く輝く発行体に亀裂が走るや、そこから闇が差し込んでいく。ようやく俺は理解した。それは紛れもなく、〝卵〟が割れた瞬間だった。

 白い壁が砕け散り、俺は生まれ落ちる。プールサイドの上に。

 窮屈に閉じ込められていた〝卵〟からの解放。反動で転がる俺の身体とプールサイドに、燦然と〝卵〟の殻が降り注いだ。

 凪いだ水面には、何ひとつ映すこともない漆黒の闇が広がっていた。分厚く覆った曇天の空。屋外照明も、月明かりすらない夜の下、産声を上げた俺の前には、蛍光色の発光にも似た真白の水着姿。

 無様にへたり込む俺を見下ろしながら、クロムが不敵に笑った。


「さあツバメ、決戦の時はきたぞ」


 俺の頭にとっさに浮かんだのは、えっもうそんな時間なの――、だった。

 俺が聞いていたこといえば、三時間ひたすら深夜のプールに浸かって背泳ぎをするってことくらいのものだ。だが、これからの決戦に先だって、俺が問いたださなければいけないのはそんなことじゃなかった。


「あの、クロムさん……」


 意を決して口を開いた俺に、「クロムさんじゃなくて、クロム。ただのクロムだ」お決まりの返事を寄越す。再び勇気を振り絞ると、俺は訊いた。


「クロム、あの、俺、水着を履いてるんだけど」


 クロムは別に気にするふうでもなく答える。


「当たり前だろう? これから儀式に臨むのだから。〝水中庭園〟に入るのに普段着では動きにくいだろう」


「そうじゃなくて、俺、履き替えた記憶ないんだけど」


 食い入るように言ったけど、やはりクロムは気にする様子もない。


「うむ、休息中の戦士の手を煩わせるわけにはいかないからな。私が着替えさせておいた。お前はよだれまで垂らしてぐっすりと眠っていたからな。そしてギリギリまで体を休めてもらうために、移動用の〝スクラブ〟に包んでここまでお前を運んできた」


 あの〝卵〟ってそういう呼び方をするんだ――、逃避気味に意味もなく笑みを浮かべる俺。そんな俺の心情を理解してもいないだろうが、クロムは一転神妙な表情を浮かべた。


「やはり上手くいかなかったか」


 その声には不安げな響きがつきまとう。


「頑張ってはみたのだが、ベストなポジションではなかったか?」


 心配そうに見つめるクロム。俺は自分のポジショニングを確認して、「完璧です」と小声で返した。

「本当かっ、良かった」クロムの声が弾け、「ありがとうございました」となぜか俯き加減で感謝の言葉を告げる俺。

 小麦色の顔に満面の笑みを浮かべたクロムは、「そういえば……」ついでのように言った。


「儀式を迎えるにあたって、私はツバメと心を重ねる必要があるのでな。ツバメのことをなるべく理解しなければならないのだが、ときにツバメ、『ジュクジョ』とはなんだ? 一応ツバメの嗜好なんかも聞いておきたくてな」


 俺は一瞬クロムが何を言っているのか理解できなかった。


 遅れてきた理性が囁く――、彼の地にて封印は破られた。


 違うんです、あれは茜のヤツが……。思えども釈明の言葉は続かない。よだれまで垂らして爆睡していた俺には、まるで要石としての効力はなかったらしい。封印は破られ、ベッドの下に隠していた不健全な参考書の数々は、いつの間にやら白日の下に晒されていたようだ。

 だが、少なくともそっち系の雑誌を興味本位で購入したのは茜だ。「姉ちゃんに見られそうになってさ、こんなのバレたら殺されるよ、俺」と苦笑混じりにウチに置いていった茜。もちろん俺の本意じゃない。

 とはいえ、もはや思考も働かない俺は、「……ある一定の年齢層に……」無感情で『熟女』の説明をしていた。

 当のクロムはといえば、真剣な顔をして俺の話を聞いていた。


「そうか、ふむ、なるほど。儀式を三度務めた母よりこの地の言語や文化は学んではきたつもりだが、やはり百年も経つと新たな言葉が生まれているものだな。うむ、だがこれでツバメの好みも分かったことだし、またツバメとの距離が縮んだ気がするぞ」


 光沢ある白水着に包まれたツルツルの胸を張るクロムに、俺は「違うんですけど」とは言えずに曖昧な笑みを返した。

 俺の顔を見下ろしていたクロムが手を差し延ばす。

 その手を掴んで、俺は立ち上がった。俺とクロムはすぐ間近で向き合う。それは空気越しにも彼女の温度が伝わりそうなほどの近さで。俺は真っ直ぐなキャラメル色の双眸に戸惑って視線を逸らす。その瞳は使い古されたピーコックグリーンのパンツに止まった。


「なあ、そんな重要な儀式だってんなら、それこそ大会用の水着の方が良かったんじゃないか?」


 スポーツブランドのロゴも剥がれ気味な競パンを見下ろして、思ったことを口にする。それはきっと緊張を悟られまいとする、ごまかしにも似た行動でもあった。


「伝統ーーそう言ったのはツバメだぞ。重要な時ならなおのこと、伝統は大事だ」


 クロムは当たり前のように言って、瞳を閉じた。

 俺は身動きひとつ出来なかった。

 俺の視界のすぐそばへとクロムの顔が近づいてくる。

 ゆっくりと雲の切れ間から顔を出した月光の下、二つの影は重なった。

 彼女の額は、俺の額にくっついている。ドギマギする俺。

 そして声が聞こえた。


 ――聞こえるか、ツバメ。


 脳内でクロムの声が響く。まるで頭の中にスピーカーでも仕込まれたみたいに。


「あ、ああ」


 俺が呟くと、クロムが続けた。


 ――ツバメ、唇を重ねるというのは何か意味があることなのか? お前の脳内ではしきりにそのイメージが繰り返されているが。ツバメはそれがしたかったということか?


 俺の期待と興奮は、あまなくクロムに読み取られているらしい。そう思った瞬間、俺の理性は制御不能の混乱に陥る。

 額を離したクロムは目を丸くしているけど、唇が動くことはない。だけどやっぱり声は聞こえた。


 ――落ち着けツバメ、今のは何かお前にとってまずいイメージだったのか? なんにせよ、私は気にしていないぞ。


 生まれたまんまの姿を見られた上に、やらしい私物を曝されて、さらには頭の中まで盗み見られた俺にとって、プライバシーという言葉はなんとも軽すぎる存在だった。おまけに俺の全部を見られてのち、そんな女子に励ましの言葉なんて掛けてもらった日にはもう俺の立つ瀬はどこにあるのだろう。なんか泣きたくなってきた。


 ――ようやく気を静めてくれたか、いきなりだったからな、混乱するのも仕方のないことだ。だがこれがつまり意識を重ねるということだ。


 気を静めたというより、もはや諦めの境地にいる俺はなんとなく思った。その割にはさっぱりクロムの意識に触れられないんですけど……。

 と、さっそくの返答。


 ――うむ、意識の共有は練度が必要だからな。今回は単方向の意識の受容に留めてある。私の意識をツバメが介しても、意識同士の会話の習慣のないツバメにすればそれを一から覚えるにはあまりに時間がないからな、今回は。ツバメは普段通り口から言語を発信してくれれば良いぞ。


 なんかそれって不公平じゃないか? 思う間もなくクロムの声が脳内で響く。


 ――さて、もうじき月が完全に満ち、儀式が始まる。意識を重ねた瞬間、ツバメの体には〝エルダーサイン〟を応用した結界用の〝ルーン文字〟を記してある。これで〝ティアドロップ〟をツバメが行っている間は、邪神の手先は水面より上に出ることが出来なくなる。また同時にツバメがヤツらに襲われることもない。〝ルーン文字〟には併せて、水中での体力を最小限に抑えるための体温を一定に保つ追加術式と、水流の抵抗を一定に抑える追加術式も組んである。お前は私の指示に合わせて〝ティアドロップ〟のスピードを調整してくれればいい。


 なんか重要な儀式の割に、随分ざっくりした内容だね。そんなことを考えてはいたものの、今回クロムは返事をしない。

 居心地悪くクロムの顔を覗き見る。そこには今まで見たこともない顔をしたクロムがいた。プールの水面を見つめる茶色い瞳は、今までが生キャラメルといったテイならば、今は焦がしカラメルといった厳しい色。そして唇はきつく結ばれていた。

 嘘みたいに、厚く覆った雲が晴れていく。水面にゆっくりと色が差していく。

 クロムが見つめる水面を、俺も見つめた。

 間もなくして、まん丸の月がその全形を仄暗いうねりに映す。そしてその瞬間、完全に満ちた月を投影した水面が、煌めき始めた。燦々とした輝きが、水深二百メートルしかないはずのプールの底からゆっくりと浮かび上がってくる。

 俺ですら理解した――縷々中のプールがどこかの海底の一端と〝繋がった〟のだと。時空転移、確かクロムはそう言っていたはずだ。

 俺の思考を読み取ったクロムが小さく頷く。そして声が直接脳内へと流れ込む。


 ――アトランティスは浮上を開始した。すぐに邪神の手先どもも群がってくるだろう。さあツバメ、儀式を始めるぞ。ツバメにとってはもちろん、私にとってもこれが初めての儀式だ。だが、最初の儀式がツバメで良かったと私は信じている……。


 一瞬間の沈黙。そして継いだ言葉は、直にクロムの口から発せられた。


「私の最初の男がツバメで良かった」


 俺の口からは自然へと笑いがついて出る。普通そういうのって最初に言うもんなのか? 

 そして俺は笑いを置き去りにプールサイドを駆けた。助走の速度も緩めずに、スタート板を蹴って飛び込む。隣の中空で両手をピンと伸ばすクロムと一瞬だけ目が合う。

 

 ――行くぞツバメ‼


「ああ‼」


 二つの影は、二つの飛沫を上げて着水する。

 ぐんとスピードを上げたクロムが俺のすぐ横を追い抜いていった。

 プールの水に触れた瞬間、彼女の栗色の髪は変化した。それは珊瑚礁の広がる海の色にも似た、エメラルドグリーン。

 糸となったエメラルドの煌めきは、俺の(しるべ)となって水中の闇を照らしていく。

 彼女の体から弾けた小さな泡の飛沫は深海の闇と溶けあうことなく、金色の鱗粉となって俺の体を包み込む。

 水中で体を反転させて背泳ぎの態勢へと移行し始める俺の消えゆく視界の先に、立ち昇ってくるアトランティスの瞬き。巨大な潜水艇を勝手に想像していた俺を裏切る姿は、いくつもの巨大な尖塔を構えた豪奢さと堅牢さを兼ね備えた要塞にも似ていた。

 金色の光を纏った美しいエメラルドの戦士は城を守る防衛の要であり、迎撃のための騎士。彼女は漆黒の深海を金色の鎧をまとって突き進む。戦場を目指して。

 サーチライトのような閃光を上げるアトランティスの尖塔には、ピンク色の何かがびっしりと張り付いていた。それはイソギンチャクを思わせる姿だったが、その一団はクロムの姿に気づいたように塔の外壁から身を離していく。うねるピンク色のイソギンチャク、だがあれは……。

 

 水中で態勢を反転させつつ浮かび上がる。水面から顔を出して呼吸を整えたとき、やっぱりそこは代わり映えのない、いつもの縷々中のプールだった。俺の視界に映るのは、きれいさっぱり晴れた夜空と、星々の瞬き。そしてこれでもかってくらいの満月だけ。

 ひっそりと静まりかえるプール、水を掻く音も宵の闇に吸い込まれていく。

 そこに在るということ。自身のちっぽけさを痛感するには余りある心細さ。惰性で進みつつもある二十五メートル。

 現実味の無さ。ふいの馬鹿馬鹿しさに途中で投げ出しそうになる。

 だが、だがあれは……。


 ピンク色のイソギンチャク――あれは確かに人の形をしたものの頭部に引っ付いていた。


 男なのか女なのかは分からない。しかしイソギンチャクの頭部をしたモノが一見しただけで数百とも数千とも。間違いなくあれが邪神の手先であり、クロムが退けなければならない者たちなのだろう。あれだけの数の相手をたった一人で? 

 いや、違う。孤独な戦いなんかじゃない。そう。その為にも。俺はすらと伸ばした姿勢を維持したままで、一掻きごとに前進していく。


 ターン。二十五メートルプールの壁。反転すると力強く蹴りこむ。

 けのびの姿勢で見下ろした視界には、紛れもなく深海の闇が広がる。アトランティスの輝きはすでに消失していた。


 まさか、もう終わってしまったのか……。

 

 そんな疑問を掻き消すクロムの声が響く。

 

 ――もうヤツらをおびき寄せる必要がなくなったから照明を消しただけだ。戦いはこれからが本番だぞ、ツバメ! 気を引き締めつつ今のペースを保ち続けるのだっ‼

 

 ざっくりな説明しかしなかったクロムが悪いのに。思いながらも俺は水を掻いていく。一掻きしてその先へ。一掻きしてその先の先へ。

 視界に映るのは、完璧な満月と、完全なる漆黒の深海。それを繰り返す。水を掻き、水を掻いては、ターンする。その繰り返し。

 だが、自然と迷いはなくなっていた。クロムの声が聞こえなくなっても、早くもなく遅くもないペースで、姿勢を維持したまま泳ぎ続ける。

 掻いては、水面から回しだす腕に張り付いた滴が飛び散る。

 

 月光を受けて弾けた滴は燦々と瞬く。

 

 再び水面へと降り注ぎ、その一部となりゆく水。

 

 その音すらもう感じられない。

 

 自分もまたその一部となっていく。

 

 時に飛散し、弾け、時に大きなうねりとなるその一部に。


 抵抗などない。それは自身が異物だと認識していればこその錯覚。


 あるのはこの流れとともにあるということだけ。一滴がやがて水深二百メートルに、そして大海原へと至るこの生命の起源の一部として。


 いったいどれくらい泳ぎ続けただろうか? そんなことも頭にはなかった。悩みだとかなんだとか、しょうもないことを考える余地もない程、だけどまるで呼吸するくらいに自然に、俺は泳ぎ続けていた。


 そう。泳ぐこと、それだけがすべてだった。


 自由形だとか背泳ぎだとか、もうどうでも良かった。


 そもそもが、何を諦めることがあったのだろう。


 最初から解っていたことだった。俺はただ泳ぐのが好きで水泳を続けていたのだ。


 だから最後まで泳ぎ切ろうと決めたのも自然なことだった。ひょっとしたらクロムの戦いも既に終わり、アトランティスも再び海底へと空間転移してしまっているのかもしれない。だけど、そんなことはどうでも良かった。俺は最後まで泳ぎ切る。一番単純で、だからこそ遠回りしてしまった解答へと導いてくれたクロムのためにも。そういえば約束なんてしていなかった。


 だったら今、約束するよ。クロム、俺はもう泳ぐことを諦めない――。


 何十度目か、何百度目かのターンを決めた瞬間、クロムの声が響いた。

 

 ――ツバメ、私は一旦水上に出て呼吸を整える。


 その声はとても苦しそうだった。一瞬ピッチの狂った俺は口の中に水が入るのも忘れて声を張り上げた。


「クロム大丈夫かっ‼」


 ――戦士としての練度の足りなさだ。情けない。ツバメにペースを維持しろと言っていた私の方が、息が上がってしまった。ヤツらの残りもわずかだというのに。


「それで俺はどうすればいい?」


 ――ペースを極限まで緩めてくれ。そうすれば私は一旦結界の外に出られる。それはすなわちヤツらも結界の外に出られるということでもあるが、私が呼吸を整えて再び水中へ投じた瞬間、ツバメが最速で〝ティアドロップ〟してくれれば瞬間的に結界の再構築が可能だ。出来るか、ツバメ?


 俺は迷わず告げる。


「当たり前だ」


 ――よし、ならば私も最速で浮上する。


 ぎりぎりまで、自身の体が沈む間際までペースを緩めたとき、飛沫を上げてクロムが中空へと身を躍らせた。

 真白の競泳水着は所々が破れ、体中にいくつもの傷が走る。痛々しい姿。だけど月光を浴びたその姿は美しかった。エメラルドの髪の毛はなびき、金色の鱗粉にも似た滴が水面に降り注ぐ。宙を舞う姿はまさに人魚のようだった。

 クロムの瞳と俺の瞳が重なる。その色もまた、美しい緑色をしていた。脳内に声は聞こえなかった。だが、俺は何を言えばいいのか知っていた。


「行け、クロム‼」


 ――行くぞ、ツバメ‼


 クロムが戦場へと再び身を投じた瞬間、俺は腕の回転を上げた。

 今まで見たことのない世界が流れていく。それは間違いなく自分自身の最速。クロムの上げた水飛沫を置き去りに水を掻く。一掻きしてその先へ。一掻きしてその先の先へ。


 それからのことはよく分からない。ただ、俺は自身が見たことのない世界を泳いでいた。さらにその先の世界ステージを覗き見たいという衝動に任せて、必死に水を掻き、キックし続けた。

 

 やがて、俺は世界の変わる瞬間を見た。

 だけどそれは、俺自身の新たな世界じゃなかった。紛れもない、世界自身が新たに生まれ変わる瞬間だった。

 真白んでいく東の空。

 ゆっくりと昇りゆく太陽。

 夜の終わり。

 朝の訪れ。

 それは戦いの終わり。


 そして……。


「クロム……」


 俺は呟き、背泳ぎのフォームを解く。長い時間同じ姿勢を取りつづけたせいで、ほんの少しバランスを崩しつつも、しっかりとプールの底に両の足をつけた。


「……サヨナラもなしかよ」


 開け白んだ空を反射して、水面がキラキラと揺れていた。


 結局、俺はアトランティスが無事に百年分の呼吸が出来たかどうか見ていないし、そもそもアトランティス自体が本当に存在していたのかも見ていない。


 それでも、数千メートルは泳ぎ続けたであろうこの夜は、間違いなく現実。


 そしてきっと、いや確実に。クロムはその任務をやり遂げた。それもまた現実に違いない。


 戦いの終わりは別れを意味していた。それは最初から分かっていたこと。だけど言葉もなしに北洞クロムは行ってしまった。すらと伸びた小麦色のからだに、良く映える白い水着。キャラメル色の瞳の形をころころ変えながら、モノノフみたいに変に形式ばったしゃべり方をする彼女はもういない。

たゆたう水面を眺めながら、小さく息を吐いた。

 戦いの終わりは別れを意味していた。でもそれは同時に、新しい世界の始まりも意味していた。だから俺は、クロムのおかげで地に足をつけることが出来た新しい世界、その一歩目を踏み出そうと思った。


 と、その時。


 ――さらばだツバメ、私がジュクジョになる頃、また会おう。

 

 頭の中に声が広がった。俺はなんとなく考える。確か、百年ごとの儀式をクロムの母さんは三回執り行ったとかなんとか……。


「その頃には多分、俺死んでるな」


 いったい何歳なのかも分かっちゃいなかった、『初めての女』に向けて、声を上げて俺は笑った。



    ***



「――燕、ねえ燕ったら。掌に人って字って何回書くんだっけ?」


 緊張を解くためのアナログな方法を訊いてくる槙苗茜に、俺はさめざめと溜息を吐いた。


「茜、お前のレースは終わっただろうが」


 県大会、平泳ぎの部で堂々の優勝を果たした茜に、なに言ってんだとばかりに俺が言うと、


「だって燕のレースのが、緊張するんだもん。ほら俺、ハッパかけちゃったとこあるし」


 茜は、大きな瞳を瞬かせながら言った。

 圧倒的な強さで県大会三連覇も確実視されていた、陀尼土中学校(ダニチュー)竜崎りゅうざき。平泳ぎの次期日本代表なんて噂されるそいつを破った茜は、まさしくこの日『竜斃者ドラゴン・スレイヤー』となった。とはいえ、そんなこと言ったら俺もこいつと同類だと思われかねないので、そこには触れずにおいて。


「だいじょぶだって、緊張なんて欠片ほどのもんだ」


「いや、でもさ、確かにタイム伸ばしてるのは知ってたけど、そこまで堂々としてる燕って見たことないから、逆に不安っていうかなんていうか、なあ、カジキ」


「そ、っすね」茜に振られて、縷々中のカジキこと二年の梶木(かじき)が微妙な返事を寄越す。

 筋肉質のごつい体を縮めて俯き加減の梶木だったが、ふいにスキンヘッドの頭を上げると真っ直ぐに俺の顔を見据えた。


「あのっ、燕先輩、頑張ってください!」


 体育会系丸出しといった感じで、梶木が吼えるように言った。なんとなく、俺を制して自由形の正選手の座を射止めた梶木なりに葛藤があったらしかったことに気付いた。

 短く刈ったショートヘアーをポリポリと掻きながら、俺は梶木へと話す。


「あのさあカジキ、前に俺の分まで頑張ってくれっていったけどな、あれナシな」


 スキンヘッドには似合いもしない、小動物みたいな小さな瞳できょとんとする梶木。その顔を見ながら俺は継いだ。


「俺の分は俺の方で頑張るからさ。お前はお前で頑張れよ。俺の分はナシで」


 きょとんとした表情はそのままに、でもその顔には、梶木の中に憑いていた何かが剥がれ落ちたような爽快さが見て取れた。

 なのに、「でもさぁ燕ぇ」なんて茜は相変わらず言っている。俺はそんな茜を置き去りにシリコーン製のキャップを引っ掴んで歩き出した。


 プールサイドへ向かう途中のアナウンスを聞きながら、ちらとプールサイド近くの関係者席に立つ監督を見やる。

 いかつい顔に、イワトビペンギンみたいに短い頭髪を立てたこれでもかってくらいに体育会系のオヤジさん。腕組みして仁王立つ監督からは、結局、この時においてもそれらしい助言なんてなかった。口下手とはいうものの、それはそれでいかがなものか。それでもまあ、その心の奥にあるらしい期待には応えたいものだ。まあ本音を隠したままで素直じゃなかった俺も、口下手といえば口下手なのかもしれないし。


 コースの前に立ち、他の選手を見回す。屈強な選手たち。前回、前々回予選落ちの俺はノーマークのはず。まあそれならそれで構わないけど。


 静かに入水して、床に足をつける。今までは瞳にすら映っていなかった会場の風景。それをゆっくりと見回しながら、コースへと向き直る。グリップをしっかりと握った。


 位置について――、の声が響く。


 さすがに伝統を通せずに、ピーコックグリーンのブーメランパンツでなく、大会用のスパッツタイプで臨んだことは大目に見て欲しい。きっと口を尖らせるかもしれないけど、人間は人間で難しいのだ。本音と建て前、言い訳に聞こえちゃうかもしれないけれど。

 くすと笑うと、欠片ほどの緊張は跡形もなく消え失せた。


 スタートの空砲が鳴った。


 勢いよく壁を蹴って、後頭部から水面へと飛び込む。弾けた水泡がキラキラと金色の鱗粉のように踊った。その中を目指して、腕は伸ばしたままバタフライキックする。

 少しずつ浮上してく感覚の中、水を掻く瞬間を待つ。そして心の内で呟いた。


 ――行くぞ、クロム。


 行け、ツバメ――。声が聞こえた気がした。


 一掻きしてその先へ。


 一掻きしてその先の先へ。


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