号砲、着水からの潜水、そしてタッチまで
味もそっけもないコンクリートの床に、滴った水がいくつもの玉をつくる。
冷たいシャワーを頭から浴びて、拭いもしなかった俺にすれば空の部室は救いだった。最低限の常識も守れずに、非難されるとしても、それはきっと些細なことだ。びしょびしょのままで、タオルで顔を覆った俺は確実に泣いていた。
重い足を引きずって歩く。そのたびに体に張り付いた水の粒は伝い落ちていく。日に焼けた肌に、しかし感覚らしい感覚も与えないまま、水の粒はただ流れ落ちる。最後のプライドと呼ぶにはあまりにつまらない痩せ我慢。誰かに見られてもごまかせるように、あえて拭わなかったシャワーの水。だけどそれは俺の涙が止まない限り、永遠と滴り続けるような気がした。
うめき声を上げまいと必死な俺とは打って変わって、外では同級生たちの声が弾けていた。まだ夏を迎える前の冷たいプール。真新しい塩素の匂いとオレンジ色の揺らめき。その中で。
いつだってそう、本気なんて出しちゃいませんよってなテンションで、何事にもやる気をみせなかったのは俺の方だ。
だから今日だってそうだ。正選手を決めるっていう今日だって、負けたら負けたで、ま、しょーがないよな、なんて顔して「がんばってくれよ」と勝ったアイツに言ってやった。
勝敗をいちいち気にしてたってしょうがない。だから最初っから保険をかける――、勝てたら運がいいよな、とか全然練習してなかったし、とか。長い人生の数ある勝負のうちのひとつに過ぎない。勝負は一度っきりじゃない。そのたびに全力を傾けてちゃ、パンクしちまう。そう、勝敗をいちいち気にしてたってしょうがないのだ。
なのに。……なのに、涙が止まないのはなぜだろう。
逃げ癖をつけるようになっていたのはいつからだろう。
本当は殻を破りたかった。そんな自分を壊したかった。下らない自尊心で飾られた殻なんて、きっとウズラの卵程の代物だろう。だけど、だからこそに、破れなかった。全部、感情のままに自分をさらけ出せばいいはずのことなのに。そんなちっぽけなものだからこそ、躊躇した。破れなかった。ダチョウの卵くらいの代物ならば、この手で滅茶苦茶に叩き割れたかもしれない。でも結局、俺のものはウズラの卵でしかなくて、そんなデカい卵は……
――あった。
目を瞬いても消えないそれは、涙で曇った目のせいじゃない。確かにそこに、部室の中央に添えられたスチール製のテーブルの上に〝卵〟があった。
さっきまで影も形もなかったはずなのに突然出現したそれは、俺の望んだダチョウ級をはるかに凌駕する重量。人ひとり入れる大きさの存在に、俺は一瞬呆然とし、すぐさまドッキリを疑う。立ち並ぶロッカーに囲まれた部室の隅まで目を走らせる。
と、俺のそんな一挙手一投足なんてお構いなしに〝卵〟が割れた。パキパキと、氷の張った水たまりに乗った時のような音を立てて亀裂が走るや、調子に乗って挑戦した挙句失敗した片手割りの如く、〝卵〟の上半分が吹き飛んだ。
白い破片の雨となって降り注ぐ卵の殻。細かい粒子状へと姿を変えるそれはまるで、季節間違いの雪のよう。
そして降り注ぐ先に、〝卵〟の下半分にうずくまるひとつの影。良く焼けた小麦色の肌に、一糸まとわぬ姿の女の子がそこにいた。
中学三年生の健全な男子にはちょっと過ぎる刺激に、目を逸らせずにいる俺の目の前で、降り注いだ白は彼女の体に張り付いていく。白と白とが溶けて、混じり合い、バターみたいに滑らかに彼女の体を泳ぐ。それがやがて全身に張り付く白い競泳水着へと姿を変える頃、一足どころか二足は早い雪景色が終わりを告げる。
ゆっくりと〝卵〟の殻の中で彼女は身を起こす。動くと下に残った殻の一部も割れていく。
四つ這いの姿勢のままで彼女が言った。
「泣いているのか?」
状況を理解できていない俺は、しかし痩せ我慢の煽りを受けて俯き加減で答える。
「な、泣いてなんかいねえよ」
俺はタオルで慌てて顔を擦った。
でも俺のそんな返答なんて無視して、彼女はスチールテーブルの上で立ちあがる。そして残った〝卵〟の殻を両足で踏み砕いていく。
呆然と見上げる俺の前で、〝卵〟の殻を砕片へと変えていく彼女。足早く作業を済ませるや、ぴょんとテーブルから飛び降りた。
塩素の匂いが染みこむくらい、この毎日を泳ぎ続けていた俺。そんな俺より色よく焼けた、小麦色の肌に、白い水着はこれでもかってくらいに映えていた。
コンクリートの床にすっくと立つ彼女は、俺よりほんのちょっとだけ背が低い。とはいえ、女子にしては高い身長と、ほとんどない胸をぴっちりとした競泳水着に収納した姿。肩幅はそれほどでないにしろ、うちの部の女子とも遜色のない水泳女子な身体つき。
手品めいた登場の仕方に戸惑いつつも、見かけたことのないショートヘアーの彼女に向けて、俺は親切に声を掛けてやる。
「新入部員? ここは男子の部室ですよ」
だけどやっぱりそれも無視して彼女は言った。
「ほうきとちりとり」
「え?」
「早くしろ、ほうきと、ちりとりだ」
急かされて、掃除用具入れのロッカーから、ほうきとちりとりを持ってくる俺。床に撒いておいた滴に足を取られて、一度転びそうになった。
俺が持ってきた掃除用具一式を手に、彼女はお礼なんてこともなく、あれこれ指示を出してくる。「テーブルを傾けろ」のなんのと言われるがまま動いているうち、そばにあったゴミ箱に白い破片の山が出来上がる。
彼女は辺りを見回し、殻の残りが床に落ちていないことを確認した。うんうんと満足げに頷く彼女。ゴミ箱の不自然さはそこに考慮されてはいないらしい。
そして彼女は振り返った。
俺を真っ直ぐに見つめる。距離は一メートルといったところ。
近くも遠くもない距離を置いて、俺と彼女は向かい合う。言葉もなく見つめる俺。淡い栗色の髪の毛と、それより少し濃いキャラメル色の瞳。大きな瞳は真っ直ぐに俺を見ていた。
やがて彼女が動いた。右手にまだ握ったままのほうきをゆっくり持ち上げながら、言った。
「なんだそれは、自意識過剰かっ! 虚勢かっ!」
俺の今の姿は、肩に掛けたスポーツタオルと競泳水着だけの恰好だった。すぐに彼女の言うところの意味が、その競泳水着であることと思いつく。
かつては強豪校として君臨した我が縷々衣江中学水泳部も、古豪と呼ばれて久しい。
今や筋肉を水着で収縮することにより、水との抵抗を減らすことがタイムを縮める近道というのは常識だ。そんなわけで時代の本流はスパッツタイプに取って代わられた競泳水着だが、昔はいかに水との接地面を減らせるかが、早く泳ぐための秘訣と信じられていた時代があるそうだ。極力、軽い生地に小さい型こそ――、と。
そんなわけで我らが県下の強豪という一時代を築いた先輩がたが履いていたのは、自身の適用より小さいサイズのブーメランと呼ばれるタイプの代物だ。極力の軽さを求めて、中のクロッチと呼ばれる当て布も取り除く。今にすればスポーツ力学を無視した、根性論にも似た信仰めいたものだけど、当時はそれが当たり前だったそうだ。
水泳部員としてのマナー、それはもはやしきたり。
そして、さすがに大会などではそれ用の水着で臨むわけだが、練習に際しては我が水泳部にはそのしきたりが残った。だから俺にしろ、他の部員にしろ、練習用に履いているのは縷々中カラーたるピーコックグリーンのブーメランパンツだ。それを虚勢か、と問われればお門違いもいいところ。
「伝統だ」
俺は胸を張って言い切った。クロッチを取り除いたせいで、自身のかたちがなんとなく分かるほどのものではあるが、そんなもの見慣れだ。正直、女子のしきたり云々が曖昧になってきているのは否めないが、これは伝統ある縷々中水泳部の正装だ。それが格好良いといわれてきた時代とてあるのだ。だから伝統に裏打ちされた俺は誇らしげに語ってやった。延々と語ってやった。競泳パンツ内のポジショニングについても語ってやった。それもまた延々と。
「不測の事態を想定した場合、上向きじゃないと大変なことになるんだ。だからこれは人体の構造上を配慮したポジショニングなんだ」
だけどなんだか、語れば語るほどに言い訳めいて聞こえてるんじゃないかと思えてきた。案の定、語り終えた俺の目の前で彼女は、それでと言わんばかりにあくびをついた。
俺は縷々中水泳部じゃなくて、俺自身を侮辱された気がして、誇らしげに張っていた胸を引っ込める。両手で覆ってしまいそうになるのを堪えながらのギリギリの勝負の中、及び腰で尋ねた。
「で、結局きみは?」
満を持してと言わんばかりに、今度は彼女が胸を張る。両拳をくびれに置いて、胸を突き出して見せるものの、やっぱりない胸は薄ぺらいままだった。
「私は北洞クロム――聖獣だ。この世界では人魚とか、そんな呼ばれ方をすることもあるな」
人魚ときたか――。
確かに、ナニ中のトビウオだとか、ナントカ中のドルフィンだとか、そんな二つ名で呼ばれる選手もいるわけで。しかし、だからといってまさか高らかと自称してくるとは。そんな自信過剰な彼女に、俺はやんわりと諭して聞かせる。
「ウチの水泳部にもカジキがいるけど、そういうのは自分から言うもんじゃないと思うよ」
俺の大人の対応にも、なぜだか彼女は瞳を輝かせた。
「そうか、カジキがいるのか。久しく泳いでないからな、カジキとはぜひ泳いでみたいものだ」
縷々中のカジキマグロ、そんな異名を持つ男を相手にしたいとは――。どこぞの中学で人魚と呼ばれた北洞さんの自信過剰っぷりにはもはや清々しさすら覚える。
スキンヘッドがトレードマークの縷々中のカジキマグロ。水の抵抗を減らすため、全身脱毛が当たり前のこの世界で、頭髪まで剃り上げた意気込みは黄金期を築き上げた諸先輩方から引き継いだかのような縷々中魂。熱血根性論。洒落っ気を捨てきれない俺はといえば、伸ばしかけのショートヘアーのまま。シリコン製のキャップにしまいこむからいいじゃん、ってな思考の持ち主で。それを言い訳にするつもりはない。するつもりはないが……。
北洞さんの自信過剰ぶりには清々しさすら覚える。しかし反面、俺は正直カチンときた。
ついさっき、正選手の座を賭けたクロール対決で、俺を打ち負かしたのはそのカジキだったからだ。
十年前に優勝して以降、三連覇を果たした県大会における自由形。それこそが縷々井中水泳部の燦然と輝く栄光の歴史ってやつだ。綺羅星のごとく輝く諸先輩の中には、全国大会での優勝経験者もいるし、オリンピックの正メンバーとなった人もいる。そんなわけで縷々中水泳部における花形といえばやはり自由形――クロールの選手ということになるのだ。ここ数年低迷を続け、部員も減った我が水泳部においてもそれは変わらない。
クロールの正メンバー、五人のうちの一人に選出される最後のチャンス。それが今日だった。勝負の世界は厳しいもので、一時期カジキマグロともてはやされたひとつ下の後輩にとってもそれは同じだった。
ここのところスランプ気味の後輩カジキと、俺は残りひとつの座を争っていた。そしてその最終決戦、頭を剃りあげなかったせいにはしないが、結局俺はタッチの差で敗れた。呼吸も忘れるほどのラストスパート、最後の一掻きのあとタッチ板へと指先が触れざま、水面から顔を上げた先で監督は無慈悲に勝者と敗者を分ける。
瞬間、感情を爆発させて雄叫びをあげる後輩カジキ。大会での勝利なんてものには程遠い。だけど嬉し涙で号泣するソイツに向けて、気づけば俺は苦笑交じりの先輩ヅラで言っていた。
――俺の分までがんばってくれよ。
さっきまでの光景を思い出したら、北洞さんとのやり取りの中で冷めていた悔しさが怒りとなって俺の芯に火を灯した。まあ、何かが足りなくて負けた俺が悪いといえばそれまでの話だが。
それでもやっぱり敗者の辛酸を舐めたばかりの俺の前で、勝ったアイツを隣に泳ぎたいなんて鼻っ柱が高すぎる。自然と俺の口調は強くなった。
「北洞さんがどこの中学から来たのかは知らなけどさ、あんまりウチのレベルをなめない方がいいと思うけど……」
だけど、俺の強めの言葉は話半ばで尻すぼみになっていく。
「クロム。北洞さんじゃなくてクロムだ。いいな」
ずいと俺に近づいてきた北洞さんは俺の両肩に手を置くや、大きなキャラメル色の瞳は真っ直ぐに俺の顔を見つめている。
口ごもる俺を見つめたまま、北洞さん、もといクロムさんが続けた。
「どこからと問われるなら、『アトランティス』だ。私はアトランティスから来た」
アトランティス――、それはどこの国だったか。確かヨーロッパの方じゃなかったろうか?
聞いたことがあるといえばあるような。良くは思いだせないが、つまりクロムさんは帰国子女ということだろう。屈強な海外の選手と競い合ってきたというなら、なるほどウチのカジキマグロくらい歯牙にもかけないはずだ。
「それでクロムさんは……」
両肩をぐわんぐわんと揺さぶられる。
「クロムさんじゃなくて、クロム。ただのクロムだ」
気楽にファーストネームで呼べということだろうか? 出会ったばかりでも。フレンドリーに、ミスなにがしとかいらないからと。海外のコミュニケーションに奥手な純日本人の俺は戸惑いつつも声を上げる。もう、なるようになれだ。
「で、それでクロム、はウチの学校に転校してきたってことなの? 家庭の事情かなんかで」
ぐわんぐわん揺さぶる手を止めて、北洞クロムは少し神妙な顔をした。フレンドリーを心掛けたつもりだが、これは一気に踏み込みすぎかもしれない。アトラクション並に脳を揺さぶられ、慣れない海外交流のせいとはいえ、いきなりプライベートな部分に踏み込むなんて。コミュニケーション下手な生粋の日本人たる俺が早くも後悔を始める頃、クロムは重い口を開いた。
「家庭というよりは、大陸の事情だな。アトランティス大陸の命運を握る由々しき問題のな」
えっと……。俺はしばし黙考なんてしてみたものの、正直話の方向性を完全に見失った。大陸の事情、って。
先ほど〝卵〟から孵った、水に浸けたら透けちゃいそうな白水着を着たこちらのお嬢様は、どこぞの国の高貴な生まれの方で、国家存亡の命運をかけてこの国にいらっしゃったということなのでしょうか? 話はいつの間にやら国際問題へと発展していたようで、とりあえず俺の想像の範疇を超えた。終了のお知らせは誰がしてくれるのだろう。ぼんやりそんなことを頭の中でふわつかせる俺を無視して、クロムお姫様が継いだ。
「月が満ち、曙光が闇を切り裂くまでの間、この水中庭園で儀式が執り行われる。その儀式にはどうしても〝ティアドロップ〟の戦士が必要なのだ」
途中からきっと母国語に切り替わったのだろう。クロム姫の言葉自体、もはや俺には理解不能だった。目の前にいるのが言語の理解できない猿だなんて気づかない姫は、しかしうっとりとした笑みを浮かべて言った。
「そして、私は探し当てたのだ。〝ティアドロップ〟の戦士を――」
一瞬俺は何がどうなったのか分からなかった。健康的な小麦色に笑みが零れたと思った時には、彼女は長い腕を俺の背中へと回していた。そしてぎゅっと俺を抱きしめていた。
「――やっと会えた」
感極まるように呟くクロム。薄い胸は俺の体に密着し、その体温も心臓の音も感じられるほど。俺の頬へと薄い栗色の髪を押し付けて、吐息まじりに再び呟いた。
「やっと会えた」
熱を伴う言葉が俺の聴覚へと吸い込まれる。三半規管を刺激する心地よさに、「そうだね」同意しかけた俺は慌ててクロムの体を引き剥がした。急いで鼻の下を右腕で擦り、鼻血が出ていないことを確認した後で声を張り上げる。
「まてまてまてっ‼ なんだ、なんのことだ⁉ 何に俺を巻き込む気だっ‼ 訳の分からん勧誘なら他を当たれっ‼」
ちょっと可愛い子と知り合えますよ、いやなに見返りは大したことないですから――。そんな常套句に騙されるほどこっちだってバカじゃない。
とはいえ、まさかこんな健全な中学男子を毒牙にかけようとは。あこぎなサークルめいたものの存在は聞いちゃいるが、それにしたって俺はないだろ。私立の中学に通ってるお坊ちゃまでもあるまいし。ウチの中学は正真正銘ただの公立校だ。プールも屋外用しかないし、部室だって隙間風がひどい。どこからどう見たって俺から金の匂いなんてしないはずだ。貧乏、とまではいかないまでも。
俺は危機回避の本能に従ったまでだが、クロムはキャラメル色の大きな瞳をしばたかせていた。全くこの事態を想定していなかったというように、キョトンとしている。
俺の心変わりとかを誘う反論とかもないままで、微妙な空気が流れる。そのさなか、ひとり眉間に皺を寄せていたクロムがぽんと手を打った。なんだか少し懐かしくて、びっくりするくらい解りやすいジェスチャー。
「そうだな、まずは説明が先だったな」
言うが早いか、壁に掛けてあったパイプ椅子をテーブルに並べた。さっさと席に着いたクロムが、「座れ」と俺に席に着くよう言った。
おずおずと、だけど言われるがままに。テーブル越しのパイプ椅子に座る俺。
テーブルの上に肘をついて両の指を絡ませるクロムと対面式になる。なんだかバイトの面接めいてきた。ふたりとも水着姿ではあるが。
俺が席に着くのを見て、真向いのクロムが開口一番訊いてきた。
「ところでお前、名はなんという? 年はいくつだ?」
はたと気づく。そういえば俺は名乗ってすらいなかった。名前も知らないくせに「やっと会えた」もないものだ。思いつつも、中学生らしい健全さ全開でその発言に乗っかろうとした俺も俺だ。その元気さが残っていたのなら、もうちょっと最終選考のタイムに反映されても良かったろうに。滲んだ少しばかりの悔しさとは裏腹に、元気みなぎる自分自身。そいつをテーブルの下に隠せるこの状況はありがたいといえばありがたい。平然を装いつつも、実際身体はくの字に折れそうだった。咳払いなんかして、答える俺。
「俺は葛原燕、中三。十五歳だ」
今さらながらの自己紹介を対面式で。なんだかほんとに面接みたいだ。
「そうか、私と同じ年だな。ならば立派な戦士として認められる年齢だ。私が話しても問題はなかろう。ではアカネ、お前はそもそもアトランティスを知っているか?」
「確かヨーロッパの国のひとつだったような」
「違う」
当てずっぽうは、かすりもせずにペケをつけられる。
「アトランティスはかつて大西洋上に位置していた大陸で、都の名はアクロポリス。栄華を誇りつつも九千年前に海中に没した伝説の大陸だ」
はあ、となんとなく相槌を打つ俺。結局さっぱり分かっちゃいない。
そのさまを見ても、分かりやすい説明を付け加えるでもないクロムは話を続けた。
「アトランティス人は滅び去りしムー大陸より移り住んだ者たちだった。移り住んだといえば聞こえは良いが、要は邪悪なる神に支配されていたムーから逃げ出したのだ。そう、その邪悪なる神の名は……」
「あの、クロムさん」
劇画調にくわと目を見開くクロムに、俺は耐え切れず口を挟む。滅んだ大陸だとか、邪悪な神とか、やっぱりさっぱり理解不能だ。
「クロムさんじゃなくて、クロム。ただのクロムだ」
話の腰を折られたクロムが口を尖らせる。それでも劇画調よりはだいぶ可愛い。
「ツバメ、ちゃんと聞いているのか?」
キャラメル色の瞳に困惑を浮かべるクロム。よく陽に焼けた肌、夏の日を連想させる小麦色には似つかわしくない、曇りの色。非難する、というほどではないけれど。
ちゃんと聞いているか、と問われれば俺はちゃんと聞いてはいる。ただクロムの話が俺らの同期が発症するという例の病状にまみれ過ぎていて、理解できていないだけだ。
と、俺は思い当った。俺は医者じゃないから処方箋は出しちゃやれないが、同じ言語で話せる『患者』は紹介してやれるかもしれない。そうと決まれば取りあえず、この場は適当に相槌を打ってやり過ごすことにしよう。俺はことさら真剣な表情を繕って、クロムに話の先を促した。
「もちろんさ、クロム。それでいったいどうなったんだ?」
小麦色のクロムが見る間に快活さを取り戻す。それはもう、見ているこっちが罪悪感を覚えるくらいに。一転、瞳を輝かせたクロムは滑らかにしゃべりだす。
「どこまで話したか、まあ要はだ。アトランティス人たちが逃げ出してしばらくのちムーは滅んだわけで、結果としては良かったのだ。だがムーを滅ぼせし旧き神の子、三柱と呼ばれる存在のうちの一柱が今度はアトランティスへとやってきたのだ。それが神と君臨してのち、アトランティスもムーと同じく暗黒の時代へと至った。無理やりに心棒者にさせられた、我が祖先たちの苦しみは想像だに出来ぬ。その求めに応じ、十二名の若い戦士と十二名の娘が生贄にされた。そして、それが毎年続くのだ」
快活に話していたクロムの顔に陰りがさした。その表情はとても辛そうで。作り話であったとしても、俺の胸はちくちくと痛んだ。
呼吸を整えるように、小さく息を吐いたあとでクロムは続けた。
「そんなことが数十年続き、さすがに我らが祖先たちにも我慢の限界がやってきた。彼らは邪悪な神の神殿を切り離し海底に沈めると、身を潜めるためアトランティスもまた大陸ごと海中に没したのだ。以来アトランティスは九千年の長きにわたり、ひと処に留まることなく海底を揺蕩っているというわけだ」
さっきの表情を見てしまったからというわけじゃない、なんてやっぱり嘘になる。だけど俺は真面目な顔で疑問を口にする。
「その邪悪な神は倒したんだろ? だったら別にアトランティスは沈める必要なかったんじゃないのか?」
うむ、と頷いてクロムが答える。
「邪神は死んだわけではないのだ。今も海底深くの神殿でぴんぴんしていることだろう。ヤツがその気になればアトランティスなどたちどころに見つかって、一瞬のうちに滅ばされるだろう。ヤツは動けないんじゃなくて、動かないだけなのだ」
「なんで動かないんだ?」
「神というのは崇められるべき存在であって、自ら信奉者を集めるような、労働などするものじゃない。だからそういったことは、自らの手先たる信徒どもにやらせることなのだ。幸いにもその信徒たちがあまり頭の良くないこともあって、アトランティスはいまだ発見されることもなく海底を移動し続けられている」
離れていった信者を草の根分けて捜索する新興宗教めいたヤバさを感じつつも、正直俺はその神様はバカなのか、と罰当たりなことを考える。そして極々当たり前の質問を尋ねた。
「で、一応は安全圏にいるはずのクロムがなんでまた地上にやってきたんだ?」
核心とでもいうように、クロムは深く頷いた。
「我らアトランティス人は邪神から身を隠すため、海底で生活できるように適応進化した。百年ほどなら水中内で留まっていられるように。だが、ずっとというわけにはいかないのだ。百年に一度、百年分の呼吸を、新鮮な空気を取り込まないと海底での生活は不可能なのだ。魚類のエラにも似た、聴覚器官の裏にある吸気機関と呼ばれるもので」
そこまで言ってクロムは急にモジモジし始めた。右の耳たぶを長い指先で触れながら、俯いて。
「もし、どうしてもというなら、ツバメにだけは見せても、いいぞ」
ぼそぼそ話すクロムの顔は真っ赤だった。さっきの大胆好意ですら頬を染めることもなかったのに、価値観とか基準とかもうよく分からん。
「いいよ、別に」
遠慮、というよりときめいたあの子には実はエラがある、ってシチュエーションにそんな萌えることのない俺は即答した。それが正解かどうかも分からんけど。
「ほ、ほんとうに、私の一番恥ずかしいところ、見なくても、いいんだな?」
耳まで真っ赤にして、上目づかいで話すクロム。だからやっぱり正解じゃなかったのかもしれない。少しどもり気味に「い、いいよ、別に」と繰り返した。
顔のほてりは変わらずに。だけど、ちょっと安堵の表情を浮かべるクロム。咳払いなんかしながら、気を取り直すように話した。
「それで、その百年に一度の日というのが今日なのだ。アトランティスの一部を今日の深夜、月が満ち、曙光が闇を切り裂くまでの間、この地の〝水中庭園〟へと転移させる。転移は時空間に影響を与えてしまうため、さすがに頭の良くない邪神の手先にも気づかれてしまうのだ。気付かれてしまえば邪神の手先どもも続々と転移し、〝水中庭園〟へと押し寄せてくるだろう。だからこそ、アトランティスの民が無事呼吸を終えるまでの間、きゃつらを近づけないようにする必要があるのだ。それを私たちは儀式と呼んでいる。そして今回、栄誉あるその儀式の執務者に選ばれたのが私なのだ」
言い終えてクロムは胸を張った。誇らしげに。
そんなクロムの使命感に水を差すのもどうかとは思うけど、やっぱりお決まりみたいに俺は訊いた。
「水中庭園って?」
クロムは呆れ顔で言った。
「何をいまさら。ほら、そこの。数刻前まではアカネも泳いていたのだろう」
部室の外では、相も変わらず同級生たちの声が弾けている。まだ夏を迎える前の水温の冷たさと真新しい塩素の匂い。水面を揺らす夕日のオレンジ色がフラッシュバック。
「それってプール、うちの学校のプールだよねっ」
水中庭園という言葉とは似ても似つかぬおんぼろプールに、今度は俺のが呆れ顔。
半ば無視してクロムは先を続ける。
「儀式、それはつまりアトランティスの民のすべてが呼吸を終えるまでの間、邪神の手先を近づけないよう戦うということだ。なに、水中においては私が連中に後れをとることなどありえない。だが、唯一の弱みは空中からの攻撃が死角となってしまうということだ。宙で身を翻し、重力を加速へと転じ攻撃されてしまったら、いかな私といえども避けきれない。だから水面に結界を張り、きゃつらが水上に出られないようにしなければならないのだ。その大いなる使命を任せられるのは〝ティアドロップ〟の戦士のみ。〝ティアドロップ〟の戦士たるツバメこそが私が背を任せられる唯一のパートナーなのだ」
クロムは俺の瞳を真っ直ぐに見据えた。
誰かに必要とされるのは心地よい。だけど何やら怪しげな儀式のパートナーに勝手に任命された身としては、不穏な空気しか感じられない。
「てか、なんだよ、ティアドロップって?」
小さく頷いてクロムが説く。
「〝ティアドロップ〟とは、古来より用いられた技法が研磨されし戦法。水中にて仰向けの姿勢で泳ぐ戦術のことなのだ」
「それって背泳ぎのことだよねっ」
「ここではそういう呼び方をするのか」と感慨深げなクロム。そんな彼女に、ついさっきクロールの正選手の座を賭けて争っていたはずなのに、「じゃあ俺じゃないだろっ」とは即座に言えない俺。ぐぅ、と言葉を詰まらせるだけの理由は簡単な話だった。
縷々中水泳部の花形たる自由形――クロールの選手に選ばれなかった俺はといえば、第二希望たる背泳ぎで大会に出ることになるだろう。残念だけど、大会に出られるからおめでとう俺。だってそりゃそうだ、一時代を築いた縷々中水泳部も今や昔の話。総勢十名しかしない男子部員は一応何かの競技に出られるのだから。
そんなわけで、俺はといえば縷々中での三年間を背泳ぎの選手として終えるらしい。だって他に背泳ぎ希望してるヤツいないもんね。
とはいえ、前回、前々回と結果は散々。だから俺は、感情もなく言い切った。
「背泳ぎなら、他の人間あたった方がいいよ」
クロムはパイプ椅子から立ち上がり俺の方へとやってくる。俺のぞんざいな物言いに怒り出すかと思っていると、彼女は「立て」と言った。
つい数分まで元気迸っていた方は窮屈そうにも寝そべっていたので、俺はクロムに言われるがまま身体の方だけ立ち上がらせる。気合い注入とばかりにビンタでも喰らわされるのでは、と警戒しながら。
水気の切れた俺の体をクロムは見回し、肩とか胸、背後に回って背中から両足に至るまで掌で触れていく。やがて俺の前に再び現れたクロムはニコリと笑った。
「うん、完璧だ。ツバメは間違いなく完璧に〝ティアドロップ〟を行使できる身体の持ち主だ」
橙色の陽光を背に受けて、輝くクロムが眩しくて。俺は内心、ちくしょおと呟く。
伸ばしかけの頭をポリポリと掻きながら、俺はクロムへと言った。
「取りあえず整理させてくれ」
*
夕日が西の空に沈むころ、空気は緩やかに冷たいものへと変わっていく。
季節はまだ初夏と呼ぶも早い五月の半ば。水温は見る見る下がっているだろうに、大会を視界に捉えて水泳部員たちの練習は続いている。だが、やっぱりヤツはそんな面々の誰より早く部室へと帰ってくる。鼻歌まじりのいつだって呑気な調子で。
想定はしていたものの、一応可能性は百パーセントじゃない。不測の事態にロッカーの物陰に隠れていた俺が飛び出した時、その男は、部員の誰よりも真っ先に帰路に就く男――蒔苗茜――は、小さな悲鳴を上げた。
「なにっ? なんで燕ってば帰ってないの⁉」
俺より一回り小さな体躯に、人懐こさを前面に打ち出したような柔和な瞳。俺よりやる気もなさそうな伸びざらした髪のくせに、大会じゃそれなりに結果を残している平泳ぎの正選手。
ピーコックグリーンの、ブーメランパンツ姿の茜が戸惑い顔で俺を見ている。
そんな茜の問いかけを無視して、俺が部室内のトイレに声を掛けると中からクロムが出てくる。それを見てなおさら茜は戸惑っていた。
俺はTシャツとジャージのズボンを履いた姿。上着はクロムに貸していた。濃い緑色をして、背中に縷々中水泳部のロゴが入ったジャージの下からは、クロムの白い水着の一部と長い足が伸びていた。
俺たちは、というか俺は、茜が練習を切り上げるのを待っていた。
クロムの話はやっぱりよく分からなくて、正直なところ変な話に巻き込まれるのは御免こうむりたかった。
だけどあんな顔をされたら、そんなにまで期待されたら、さすがに俺だって断りにくい。だからといってクロムの話自体の要領を得ていない俺にすれば、何が何やらと言うことには変わりない。だから通訳を頼むことにした。同じ言語で話させる人間に。例えば同じような病状をもつ『患者』に。
そんなわけで俺が知り得る、もっともこじらせちゃった人間である茜にクロムを会わせてみたのだ。そしてやっぱり茜ときたら、クロムの話に俺なんかより食いついてよほど的確に相槌なんて打っていた。
「そいつらって〝インスマス面〟の方? それともオリーブオイルで揚げると結構いい味がする方?」
「後者だ」
「そっか、じゃあ〝落とし子〟の方だね。ところでそのティアドロップの結界はどういう手段で張るんだい? 方陣式? それとも護符かなんかを用いるの?」
「どちらかといえば後者になるか。ツバメのからだ自体を符に見立て、〝エルダーサイン〟を応用した〝ルーン文字〟を直接書き込むかたちになる」
「禁書指定されてる〝水神クタアト〟の一節だね」
「そうだ」
……と、まあそんな感じだ。
そんな流れを予想してクロムに合わせた茜だが、結局共通言語を理解していない俺にすればさっぱり通訳の役は果たしてくれちゃいない。それよりなにより、置いてけぼり状態の俺の心中はなんだか穏やかじゃない。
「茜のが適役なんじゃないか? こじらせちゃったもん同士、ずいぶん話も合うようだしな」
気付けば俺の口はそう言っていた。そしてハッとなる。なんだこれは、まさか嫉妬か? 俺はいたたまれなくなって、視線を逸らす。
心の狭さを曝け出した俺が、その場から逃げ出す前に声を上げたのは茜だった。
「聞き捨てならないぞ燕っ、俺はこじらせてなんかいないぞっ! 俺のは先天性だっ‼」
いつだって笑っているような顔を変じて、怒声を上げる茜。といっても、満面の笑みが半笑いになったってくらいのものだ。
「物心ついたときから俺には、一つのダメージにつき相手の特殊能力を一つ無効化する、デフォルト書き換えカウンター、『一死層伝』があるって信じてたし、いや、あるし。あるけど披露してないだけだし。ついでに言えば、竜族相手には無条件で特殊能力を封殺する効果も追加補正されて『竜王封殺』になったし」
「……それ、いつ使うんだよ」
そういえば小学生の頃、いじめっこに向かっていくたび「発動しなかった」と毎回こいつは言っていたような気がする。まさかそんな使い勝手の悪い能力で立ち向かっていたのだろうか? 最終的に引き下がったのはいじめっこの方だったが、それはあまりに茜がしつこかったからで、能力のせいじゃないだろう。
なんにせよ、一部の女子に微笑み王子なんて呼ばれている茜の本性を知る、数少ない人間の一人である俺は、ただただ残念な思いで誇らしげに吼えた級友を見つめていた。
と、ふいに口を開いたのはクロムだった。
「アカネじゃ、ダメなんだ。ツバメじゃないとダメなんだ」
ふいうちにも似たその言葉に、俺はどきりとなる。ゆっくりと振り返った先で、真っ直ぐな目をしたクロムが言った。
「茜は〝フラペチーノ〟だからな」
茜と視線を重ねた俺に向かって、クロムがおやというように話した。
「違うのか? 茜の筋肉の付き方をみるに、水中にて胸の目で一掻き、足で一蹴りという動作を繰り返す水中戦法、〝フラペチーノ〟が専門かと思ったがな」
「それって平泳ぎのことだよねっ」
俺はもう約束事のように声を上げる。
だけど、クロムはキャラメル色の瞳で、俺の顔を真っ直ぐ見ていた。俺のノリとは打って変わって、そこにあるのは真剣な眼差し。
「儀式を共に行うのが、〝ティアドロップ〟の戦士でなければならないのには、もうひとつ理由があるのだ。執務者たる私が、水中で信徒どもに後れをとりはしない、とは先刻語ったことではあるが、水中で激しい動きを長時間に渡り取りつづけることは、さすがに私でも難しい。だから、執務者は戦士と肉体をリンクさせて事に臨まねばならない。つまり、戦士が取り込んだ酸素を、肉体をリンクさせた私へと供給する役目もあるのだ。それは、間隔的に酸素を取り込む〝フラペチーノ〟ではなく、常に呼吸器が水上にある戦法の、継続的に酸素供給が可能な〝ティアドロップ〟でなくてはならないのだ」
いつもの満面顔を取り戻した、平泳ぎの正選手たる茜の声が弾む。
「やっぱり燕で決まりだねっ」
「茜、お前他人事だと思って適当な」
ぶつくさ言う俺の耳元にそばたてる茜。
「ちょうど良かったさ、燕もそろそろ結果残したいだろ。いい練習になると思うよきっと」
にこやかな顔をして俺の心を抉ってくる。でも、そんな表情にも真面目さが漂っているのを、残念ながらも長い付き合いである俺は気付いていた。
「あのさぁ燕、いくらなんでもみんな練習切り上げるの遅いな、とか思わないわけ? 一応みんな気ぃ遣ってんだぜ、毎回燕が泣いてんの知ってるから」
言葉を詰まらせる俺の向かいで、
「やはり泣いていたのだな」
クロムがない胸を誇らしげに張った。結構な距離を置いての小声でのやり取りだったはずだが、どうやら彼女は地獄耳らしい。
「泣いてなんか……」俺の反論なんて意に介さず、茜は続ける。
「部室にまだ残ってるなら、そっとしとこうって気遣いね。みんなの。あ、ちなみにこのみんな、には監督も入ってるから」
小声で話すこと自体無駄だと思ったのか、普通の声色に戻っていた。
「お前のわがままにさんざん付き合ってくれたんだし、そろそろ監督に恩返ししてもいい頃だとは思うけど。監督、背泳ぎの選手として燕にすごく期待してるわけだし」
「監督が?」
俺は完全に唖然となった。あの強面で口を開けば練習第一の監督から、期待の言葉なんて俺は聞いたこともない。
「監督怒るから言ってなかったけどさ。燕には背泳ぎ一本で臨んでほしかったんだよ。でも、ほら燕って自由形にこだわってるでしょ。一応形だけは自由形の選抜メンバーに入れてたけど、その恒例の試験が終わったら、背泳ぎモードにさっさと切り替えて欲しいってのが監督の本音だよ。まあ、その本心がさっぱり当の本人に伝わってないってのが、口下手な監督っぽいっちゃあ、ぽいけどね」
なんというか寝耳に水で、俺は戸惑う。そんな俺に向けて、クロムは得意げに頷いて見せた。
「やはり私の目に狂いはなかったな。分かる者には分かるのだ、ツバメがいかに〝ティアドロップ〟に向いているかが、な」
「ま、そういうことだから」茜が継ぐ。
「で、クロムちゃん、その儀式はいつするの?」
「今日の深夜、月が満ち、曙光が闇を切り裂くまでの間。この世界の時間でいうなら空を覆った雲が晴れる深夜一時三十二分から四時四十五分までの間だな」
深夜の冷え切ったプールで三時間は浸かっていろと? 正当な疑問を口にするより早く茜が結論を告げた。
「オーケイ、じゃあ監督に伝えとくから。今夜プール使えるように」
「すまぬ、アカネ」
侍のように居住まいを正すクロム。当事者の意志も関係なしに進む話に、俺は慌てて口を挟む。
「いや、ダメだろ。学校の設備を私事で使っちゃ。夜中のプールで事故が起こったら監督だって困るだろ」
「なぁに言ってんだよ燕。お前がいよいよ個人練習するくらいやる気になったって伝えりゃ、監督だって二つ返事さ。さあさ、話がまとまったからには一旦退出願いますよ。ウチの生徒じゃないクロムちゃんを見られる訳にはいかないし。なにより俺、そもそも重大な使命を預かってたんだよね。涙にくれる燕が帰ったかどうかみんなに伝えるって重大使命が」
なにひとつ収まっちゃいないクレームを吐き出そうとうする俺の代わりに、クロムが言ってのけたのは、
「アカネ、恩に着るぞ」
感謝の言葉だった。




