04
――過去。
潮時かな。
黒竜は、何時もの川の岸辺に向かい、大空にその漆黒の体躯を羽ばたかせながら、そう思った。
今日はあの少年――もう青年と言っていいだろうが――との仕合の日。
普段なら、彼の愚直さを楽しむ日なのだが、ドラゴンは少し気後れしていた。
『嫌な予感』
この竜は非常に多才なドラゴンだ。絶大な力、の前にそもそも出来る事が圧倒的に多い。
その黒竜の持つ能力の中に、『運命線』を見る力がある。
簡潔に言えば『未来が分かる』力なのだが、そうなんでも見える訳でも、はっきりと見える訳でもなくて、なんとなく、この後良い事が起きる、悪いことが起きる、と言う曖昧なものでしかない。
そもそも、幾年か前、竜が巣から離れてこの辺境の地に来たのも、『良い予感』がしたからだ。ここに居れば、なんとなく、良い事が起こる。
結果、黒竜は一途で必死な少年と出会い、約三年間、退屈しない日々を送っていた。
だが今回は『嫌な予感』がする。
どこまでも澄んだ青空を優雅に飛びながら、竜は一つ嘆息した。
あの青年も、ちっとも村を襲う気配がないドラゴンを訝しんでいるだろうし、ただからかっているだけだと気付いてもおかしくない。
そうすれば、「もうこんな茶番は嫌だ」と投げ出すかも知れない。
それに対応して『では村を滅ぼすぞ』と言っても良いのだが……
(遊び過ぎた、かな)
いくら自分が強大な力を持ち、傲慢で、利己的なドラゴンであったとしても、それは明らかに度が過ぎて子供っぽい。玩具を取り上げられて肝癪を起した幼児の様なものだ。
黒竜自身はプライドも何もありはしないが、流石に竜の格を下げるのも如何なものだろうか。
(やむなし)
彼が止めると言ったのなら、もう終わりにしよう。竜はそう決めた。
強大な存在に立ち向かう、必死で、美しささえ感じるあの青年を見ることが出来なくなるのは残念だが、もしかしたら、後々話相手ぐらいにならなってくれるかも知れない。
(それで我慢するか)
雲を抜けると、森に囲まれた川が竜の視界に映る。そこに、ぽつんと立っている人影が見えた。
体勢を傾けて、ゆっくりと降下する。
この時点では、黒竜は視えた『嫌な予感』を、青年との仕合がなくなってしまうことだと断じていた。他の心当たりなんて、終ぞ思い至らなかった。
『死ぬほど傲慢だよね。実際、死にかけた訳だし』
後にドラゴンはそう述懐する。
(おや?)
岸辺に着陸して青年、ケイムと向かい合ったドラゴンは言葉にはせず疑問符を上げる。
青年を見る。安っぽい布の服、短い黒髪に鋭い目つき。何を考えているのか分からない表情。背中にある抜き身の剣。外見は、いつも通りだ。
ただ、雰囲気が何時もと違う、様な気がした。どこがどう違うかは分からなかったが、ただ漠然と違う、とだけ感じた。
『さて、今日は私に傷を負わせることは出来るかな?』
違和を感じたドラゴンではあるが、とりあえずは、何時も通りの台詞を吐く。尊大に、大仰に、正しく悪役の如く。
そこで、普段ならケイムは剣を構え、「やってやる」と言い、そうして真っ直ぐに突っ込み、だけど竜は無傷で、青年は必死に剣を振り続け、竜はただ笑う。と言うのが一連の流れなのだが、彼はそこで黙した。剣さえ構えていない。
(あー……終り、なのかな?)
嫌な予感の的中だ、と黒竜は思う。
この青年は、「もう付き会っていられるか」などと言う準備でもしているのかも知れない。
いつもある戦意が、全く感じられなかったからだ。
「お前は…………」
しょうがないか、と竜が考えていると、ケイムがゆっくりと口を開いた。
「お前は……本当に、本当に村を、襲う、悪い竜……なのか?」
何かを確かめる様に、もしくは何かを思いつめた様に。
青年の言葉は、遅く、重く、暗いものがあった。
本日二度目で、黒竜はおや、と思う。もしかして、この青年は、自分がからかわれているだけだと、未だ確証を持てていないのではないのだろうか。
それなら、まだどうにか出来る、と黒竜は内心でほくそ笑む。
ドラゴンの未来視は、やりようによっては回避することが出来る。例えば、『良い予感』がした、あの幾年か前、そこであえてドラゴンが予感を無視し外に出なければ、こうしてケイムに会うことはなかった。良い予感を無視することは全くメリットのない行為なので、普通なら有り得ないのだが。
そして朝にあった『嫌な予感』、これも、具体的な何かは分からないが、やり方によっては回避できる筈だ。それが、『ケイムがドラゴンの善悪を決めかねている状況で、場合によってはもう仕合が出来なくなる』だとすれば、ドラゴンの言葉一つで、それを覆す事だって可能なのだ。
『……そうだと言ったら、どうする?』
黒竜はそう嘯いた。厳密な肯定ではない、ある種どっちつかずの問いだ。どう受け取るかをケイムに任せたその言葉は、しかしこの場においては――
「そう、だよな……」
青年の声色は、どこか寒々しいものがあった。
ケイムは、表情を変えずに背中の剣を抜いた。ドラゴンがケイムにあげた、細身の突剣。刀身は長く、横幅は狭い。斬るのではなく、突くことを目的とした剣が、純白に煌いていた。
(よしきたっ)
ドラゴンは心中で喜んだ。この場面において、そんな思わせぶりな言葉を言えば、どう考えても『肯定』に捉える。それが、何年も(表向きには)敵対していた竜の言葉なら、尚更だ。
――嘘は言ってない、向こうが勝手に騙されただけだ。
ドラゴンは、極めてドラゴンらしく、自分勝手に満足げに頷いた。
まだこの楽しい日々を、足掻き抜く青年を見ることが出来る。ドラゴンは、知れず心を躍らせた。
ケイムは、そんな竜の心なぞ分からず、いつもの様に剣を構える。
左腕を前面に伸ばし、掌を竜に見せつける様に翳した。剣を持った右腕を肩より後方に置いて、弓を絞るかの如く体を捩じり、そして剣の切っ先を竜に向ける。所謂『突き』の構えだ。
これが青年のいつもの構え。
一年程前、この剣を使えども振れども、常に鱗に弾かれていたケイムではあったが、あの時、たまたま突きを放ったところ、これまでになかったような手ごたえを青年は感じた。それ以降、彼はマトモな剣技を捨て(そもそも誰かにきちんとした剣技を習った訳でもない)、『突き』だけに力を入れ始めた。そして、あるいはそれは正解だった。
田舎に住む少年は、剣と突剣の違いなど知りはしなかった。本能、もしくは運命が、その剣の正式な使い方を齎したのだ。
しかし、ドラゴンはこれまた「面白そうだ」と言う理由で言わなかったが、ケイムが手ごたえを感じられたのは、偶然、あるいは奇跡的に、剣の切っ先が僅かにある鱗と鱗の隙間に引っ掛かっただけなのだ。間違っても、突きが竜に効果的な訳ではない。
ドラゴンとしては、かえってこっちの方がずっと良い、と思い、青年の勘違いを訂正しなかった。
それは、今後この青年のためになる、と言う考えでは無く、ただ竜が見た事の無い構えを、動きを、やり方を堪能したかったからだ。
ここ何十年、ドラゴンに挑む人間たちは同じ様な戦法ばかりだ。防御壁や防御円を張り、デカイ魔法を詠唱。こればかりだ。竜にとって、それはただ退屈なだけで、また意味も無い。防御魔魔法に対応して『魔封結界』を敷き、即座に黒炎を吐く。これだけ。これで終わり。
それに比べたら、魔法を使えず、マトモな剣技も扱えないケイムの直向きさは、ドラゴンにとっては斬新で、いつも喜びに昂ぶらせる。
だけれども。
(……おや?)
今日三度目となるおや、だ。ドラゴンは、思わず首を傾げる。
やはり、明らかに今日のケイムはいつもと何かが違う。正体は不明だが、それでも決定的に、何かが違うのだ。
『倒せる算段でも、あるのかい?』
「……やってやる」
ドラゴンの嘲る様な言葉に対し、ケイムはただ一言呟く。いや、もしかしたら、そのいつもの彼の台詞は、誰に対して言った訳ではないのかもしれない。
戦意がない。敵意がない。やる気すら、見えやしない。
だけれども、青年は剣を構えている。切っ先を竜に向けている。
いつもなら、そこで彼は大地を蹴り上げ、黒竜に向かい即突進を仕掛けるのだが、これまた、今日の彼は普段とは違かった。
「……ふぅー」
動かない。
青年は、構えはそのままに、深く息を吐き、そして目を瞑ってしまう。
(……なんだ?)
ドラゴンは、その青年の様子に訝しげに視線を寄こすが、ケイムは変わらず瞳を閉じたままだ。
彼が何をしたいか分からないが――とりあえず、竜はいつもの如く、ただ待ちに入った。基本的に、ドラゴンから何かを仕掛けることはしない。防御手段を持たないケイムでは、竜の一撃はどうすることも出来ないからだ。それではつまらない。
「ふぅ……ふっ……ふっ」
『…………』
ただ、ゆっくりと時が流れる。青年も、竜も、動かず。
川の穏やかなせせらぎと、囲んでいる木々の葉が擦れる音と、そして青年の呼吸音だけが、岸辺に響いていた――と竜は思っていた。
「ふっ……ふっ、ふっ……」
――違う。
そこで、竜は気付く。青年は、呼吸をしていない。
ただ、只管に息を吐いているだけなのだ。
「ふっ、ふっ……ふっ…………ふっ…………」
ケイムはただ息を吐く。すると、その吐息の感覚が段々と長くなっていった。
息を吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、吐きつくして、吐息が止まった、その先。
スッ、とケイムは瞳を開けた。
切れ長の黒い瞳からは輝きが消え、ぼんやりと虚ろであり、何も、何もかも、彼の目には映って無いかの様だった。
それどころか、竜から見て、青年の存在自体が、空虚で、薄く感じられた。
川が流れるかの如く。森がざわめくかの如く。雲が宙にあるが如く。
――ただ、其処に有るが儘の如く。
之と言う一つの存在ではなく、漠然とした、幽鬼の様な何か。
ドラゴンは訝しげにケイムを見る。今まで見たことのない青年の状況。
そして、ケイムは虚ろな瞳のまま、体をぐらりと僅かに揺らして――
ドラゴンが覚えているのは、ここまでだった。
気付いた時には、己の心の臓付近に風穴が開いており、未だ経験したことがない、身体を焼き尽すかの様な痛みが全身に奔っていて、自慢の黒き鱗は、己の赤き血で醜く汚れていた。
激烈な痛みと混乱の最中、己を睥睨するケイムの、返り血に塗れた無表情を、かろうじてドラゴンは捉えた。
そうして、ケイムは、言葉も吐かず、顔に色はなく、再び突剣を構えて――
そこで、竜の意識は途絶えた。