02
黒竜の声は、見た目の凶悪さとは裏腹に、穏やかだった。
村長は、先程まで子守りをしていた筈の突然現れたドラゴンに、大した反応を示さなかった。
元よりここでの話を聞いていたのは知っていたからだ。竜の聴力、もとい感覚は、人間の比類にはならない。空中で子供たちをあやしながらも、この竜は先程の会話に聞き耳を立てていたのだ。
老人は立ち上がり、両開きの窓を開けて、竜と顔を合わせる。
「だけどお前さんの『村を襲う』って言うのは、結局冗談だった訳だろ?」
『まぁね。凡そ四年前、たまたま――厳密に言えば全くの偶然ではないんだけど――村の近くを通りがかった私を、涙目で追い払おうとする少年が居た。私は退屈していたから、からかったんだ。今から村を焼きつくす。お前が一人で私に傷をつけることが出来たのなら、村は見逃してやろうってね。本当は、別にどうするつもりもなかった』
「悪質な冗談だ。おっと、お前さんは凶悪なドラゴンだったな、すっかり忘れていた」
ドラゴンに物おじせず、老人はからかう様に言った。
竜は自身の黒く鈍い輝きを放つ爪で、巨大な口元を軽く引っ掻いた。村長は、それが照れ隠しだと分かった。
『あはは……まぁ彼も今は知っているけどね、あれは冗談だったってね。でも、冗談でも「村を滅ぼす」なんて私が言っていたと村に知られたら、私の立場が悪くなる―――と彼は思っている。だから、彼はただ黙す』
「実際は、全部知っている訳なんだが。俺も、他の連中も。ま、ガキどもには言ってねぇが」
老人は肩を竦めた。ドラゴンは、瞳を澄ませて言う。
『昔からそうなんだね、彼は。最初に会った時も、彼は一人で、孤独に、無謀にも、愚かにも、私に突っ込んできた。安っぽい短剣一つで、矮小な身一つで、この黒竜に立ち向かったんだ。勿論、剣は折れた』
「だろうな」
『でも心は折れなかった。今度は素手で立ち向かって来た。今でも覚えているけど、あの時は愉快で仕方がなかった。力なく、武器を無くしても尚、彼はそれでも真っ直ぐだった』
「そう言うやつなんだ、あいつは」
村長のその言葉は、青年を嘲る様にも、また誇る様にも聞こえた。
ドラゴンといえば、何も分からない幼子でも恐怖を知る存在だ。今ここに居る人懐っこい黒竜とて、傷つき地に臥せていた時でさえ、最初は村全体で忌避されていたのだから。
老人は、一人得心した様に、続ける。
「ドラゴンに無手で立ちふさがるなんて、それこそ馬鹿のすることだ。でもあいつは、『そう』なんだ。思いこみが激しくて、あるいは起こりうる悪事全部を、自分の所為だと思ってやがる。ドラゴンなんざ、どうすることもできねぇよ、普通は。だけど、あいつはどうにかしようとしやがった」
『そうだね。だから、彼は村の誰にも私の存在を言わなかった。誰かに言ったら即座に村を落す、と言う私の戯れの言葉を信じて、結局、都合三年ぐらいかな? 私と対峙し続けたのだしね。独りで』
「お前さん、よっぽど暇だったんだな」
『往々にして、ドラゴンは皆暇しているんだ。断言するけど、その中でも私は世界で一番暇なドラゴンだった』
「過去形か」
『今や私は人気者だからね。この後も、ミリ―ちゃんにクッキーを食べさせて貰うんだ』
「このウキウキドラゴンめ」
この後にある甘味を期待しているのか、ドラゴンは瞳を輝かせていた。
自分より遥かに長い時を生きている竜の、しかし子供の様な純真さに村長は目を細めた。
ドラゴンはそんな老人の微笑ましい物を見る目に気付いたのか、また自身の爪で口元をなぞる。
『……それはそれとして』
「俺もクッキーは好きだぞ」
『それはそれとして! んんっ……まぁ、五日に一回ぐらいのペースで、私は付近の岸辺に赴いた。彼は毎回、私よりも早くそこに居た。表情は消えていたけど、必死なのは分かった。そして、やっぱり素手だった。錆付いた斧の日もあった』
「ああ、やっぱりそうだ。それ俺んちの薪割り様の斧だ。何年か前、使わない斧はないかとあいつが言って来たから何かと思ったが……ドラゴンを退治する為とは思わなかったな」
『私もびっくりだ。もしかして、私を薪の様にすっぱりと割って、暖炉にくべようとでもしていたのかな?』
「あれは薪でさえも満足に割れなかった筈だぞ」
『薪以下か、私は。ま、その斧が苦し紛れだと言うことは見てとれたけどね。だから、これもまた戯れだと、かつて私と戦った人間が持っていた「剣」をやった。これさえあれば、もしかしたらお前でも倒せるかもしれないな、と大仰に言ってね』
「……なぁ、ちょっといいか?」
『なに?』
そこで、村長は顎に手を当てながら、思い出したように問う。
「あの剣は、結局どう言うもんなんだ? ケイムに聞いても『何処かで拾った』の一点張りだ。まぁドラゴンに貰ったとは言えねぇだろうから、それは分かる。だけど、肝心の、その剣にどんな力があるのかは言いやしない。そう言えば、前にお前さんから同じ話を聞いた時には、その『剣』のことを聞きそびれていた」
『ああ、言ってなかったっけ』
「やっぱり、『魔剣』の類なのか?」
ドラゴンから受け取り、そしてドラゴンを貫いた剣。
それはさぞかし大層なものなのだろう、ケイムが大事にしているのも、その筈なのだから。
そう思い聞いた訳だが、しかし、ドラゴンは首を横に振った。
『いいや、普通の剣だよ?』
「……竜の鱗を貫いたんだろ?」
老人は怪訝な顔をする。ドラゴンの言う所の『普通』は、人間で言うところの普通ではないだろう、と。
そして竜を傷つけると言うことは、間違いなく、普通のものとは言えない。
だけど、それでも黒竜は首を振った。今度は先ほどよりゆっくりと。
その動きには、あの青年に対する限りない賞賛が滲み出ている様だった。
『そうだよ。だから、私は君たちに言ったんだ。彼はとんでもない実力者だってね』
「おい、まさか……」
老人は言い淀んだ。そうだ、確かに、このドラゴンはあの青年をそう評価した。しかし、村長は、それを『ドラゴンから貰った剣』込みで、そう言ったのだと考えていた。
しかし、実は、そうではなくて――
そうだよ、と繰り返し、ドラゴンは頷いた。
『あの剣に何か特別な力がある訳じゃない。生物最硬と言われる竜の鱗を、皮膚を貫いたのは――純粋な彼の力量だ』
「嘘だろ?」
村長は苦笑いを浮かべながら、今一度、竜に問うた。
とてもではないが、信じられなかった。
この竜は見た目に反し、誠実で、また人に良くしている。
子供に好かれ、たまに『魔法』を教えたりもしている。ケイムの村からの旅立ちを推奨したのもこのドラゴンであり、村長はそれを信じたからこそ(前々から村長本人も思うところがあったのだが)、無理やりにでもケイムを外へと送りだそうとしたのだ。
だけれども、それとこれとはまた別問題だ。
辺境にあるこの田舎の人間である老人でも、例えば名を轟かせている魔剣の数々は聞きしに及んでいた。
当然、ケイムが持つそれもその類だと思っていた。ドラゴンから直々に貰ったのだから。
しかし、彼が持つ剣は普通のものだと、竜は言う。
村長は自身の白髪を乱雑に摩り、一つ唸った。
そんな、老人の懐疑的な様子に、ドラゴンはううん、と軽く唸りを返す。
『強いて言うのなら、えらく頑丈なんだ、あれは。見た目は細いけど、ともかく硬い。あとは、そうだな……』
そう言って、竜は考える様に目線を落す。村長は『他にも何かあるだろ』と急かす様にじろりと視線を向けた。
うん、と竜は顔を上げる。
『頑丈なんだ』
「嘘だろ……」
二度目のその言葉は、疑問符では無く、茫然と諦めの言葉。
他になにもない、ただの丈夫な剣、それが、ケイムが持つ剣だった。