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雪乃の気分は、久しぶりに晴れ晴れとしていた。自室の机の上を片付けながら、こんなに勉強に集中できるのはしのぶのおかげなのだと、明日に起こるである状況の変化に思いをはせた。いったいあの場所になにがあるのだろう。しのぶは自分たちになにを伝えたいのだろう。今になって伝えようとするのは何故なのか。
部屋の中にあるものも、一時は現実感を失って遠く感じていたが、かつての親しみを取り戻していた。長年愛用しているベッド、本棚、ピンクのカーテンが雪乃を包むようで、本当にしばらくぶりに帰宅した錯覚を覚えて気持ちが安らいだ。
しのぶが死んだ後の一年間、自分はどう過ごしたのだったか。数ヶ月は悲観に暮れて、なにも手につかなかったように思う。もし彼方がそばにいたら、互いに傷を癒し合って、立ち直るきっかけが早く訪れたのかもしれないが、むしろしのぶの不在がより強調されてしまって、辛い思いが深くなったとも考えられる。いずれにしろ、彼方がしのぶの遺言を聞いてしまったことで、なにかが破綻してしまったことは確かだ。今も自分たちは、そのままで接しているのだ。もし今起こっている異常事態が解決したとしたら、彼方はまた離れて行ってしまうのだろうか。もしかしたら、離れているのは自分なのかもしれないと、雪乃はふと思った。自分が彼方に近寄っていけば、修復されたものもあったのかもしれないのに、そうしなかったのは何故だろう。かえって壊れてしまうと恐れたからか。
『あいつと付き合ってあげて』としのぶは言った。『そうじゃないとあいつが壊れてしまう!』と。彼方はもう壊れているということなのだろうか。そんなはずはない。彼方は今も彼方であって、ほとんど以前のように会話ができているではないか。しかし、雪乃の知らないところで崩壊が始まっている可能性は否定できない。しのぶにはそれがわかっているのか。
それでも、しのぶならなんとかしてくれる、という無責任な思いが去来した。死んでしまった、いなくなってしまったと思っていたしのぶが、その死を乗り越えて自分たちになにかを教えようとしている。その事実だけで、雪乃はほっとするのだ。
妙に浮ついた気持ちのまま、雪乃は立ち上がった。トイレに行こうと、部屋のドアを開ける。廊下は暗かった。電気をつけようとスイッチに手を伸ばす。
電気はつかなかった。
部屋の電気はついているのだから、停電ではないだろう。蛍光灯が切れているのだと思った。気にせず、そのまま進んで行こうとする。
すると、背中が急に重くなった。
ずっしりとしたものを背負わされたように体がけだるくなる。
なんだろうと肩に手を置いてみるが、なにもない。そこで、うかれていた雪乃はそれが悪寒であることに、ようやく気づいた。悪寒?どうして家の廊下でこんな感覚を味わわなければならないのだ。この重々しい空気はなんだ。ねっとりと肌にまとわりつくこの不快感はなんだ。息を苦しませる酸素の薄さはなんだ。雪乃の足は動かなくなった。
この感覚は知っている。一度、二度と味わった粘着性の殺気。饐えたような臭い。
振り向きたくなかった。振り向かなければならないこの場を呪った。
呪う?呪われているのは私の方じゃないの?
雪乃はゆっくりと首を巡らせていく。奥の窓から月明かりがぼんやりと差込み、人のシルエットを明らかにしていた。
コートの男がそこに立っていた。
声を出そうとしたが、喉になにかがつっかえたように、乾いた呼気が漏れるだけだった。脳裏に焼きついたコート、フード、マスク。男は幾度となくそうしたように、雪乃をじっと見つめていた。
体中の力が抜けて行き、雪乃は床に尻餅をついた。
家の中に入ってこられた!
どうして誰にも知られず、ここまで来たのだろうか。この男は、やはり幽霊のようなもので――。
違う。自分はなにを楽観しているのだろう。こいつは家族を全員殺してきたのかもしれないではないか。頭がじんじんして、胸にどす黒い不安が撒き散らされていった。お父さん、お母さん、一也!無事でいて!
そして、自分もなんとかして生き残らなければならない。しかし、以前のように走り回る気力が、どうしてかわいてこなかった。体に力が入らない。油断しきっていたところに不意打ちをされたので、全身がびっくりしているのか。お願い、動いて。私の体……。
動いたのは、男の体だった。のそり、のそりとこちらに歩いてくる。今度こそ殺される。頭を割られて、惨殺されてしまう。もう嫌。どうしてこんな目にあわなければならないの。助けて、しのぶ。助けて、彼方くん!
男は、雪乃の寸前で立ち止まった。
その手が、フードで隠れた顔に伸びていく。
どうするつもりなのだろうと思っていると、男はこちらに顔を近づけてきた。雪乃は後ろにさがろうとするが、そこでもがくだけで、上手くいかない。
男は顔を雪乃の目前まで近づけてくる。顔がだんだんとはっきりしてくる。一度も確認したことのない男の顔。
男は、マスクに手をかけた。それを少しずつ外していく。
顔が、あらわになっていく。
目を見開いて、男の顔を凝視した。
雪乃は見た。ずっと頭を悩ませていた疑問に、回答が得られた。目の奥がちりちりする。驚愕の眼がその顔を完全に捉えた。
「あなたは……」
ようやく声が出る。男は笑った。ふ、ふ、ふと小さく、不気味に。
すると、男の姿が、かすみはじめた。
初めは自分の目がおかしくなったのだと思った。しかしそれがまぎれもなく目の前で起こっているだということは、間もなくわかった。男の姿は、闇夜に溶け込むようにして、どんどんと薄くなっていった。彼の体に、奥の窓が透けて見えた。
「あ……」
あっけなく、男は煙のように消え失せた。そこに残ったのは倒れ、愕然とした雪乃だけだった。目の前でついにはっきりと超常現象を見て、雪乃は別の世界へつれて来られたような気分になった。今更なにも驚かないと思っていたのは甘かった。あの男は、やはりこの世のものではない。
雪乃は、息を整える、そして大声を上げた。
「一也!一也!」
階段を上がる音が聞こえた。よかった、生きていた……。彼は二階まで上がると、電気のスイッチを押した。
電気はついた。
「姉ちゃん、なにしてんの?大丈夫?」
彼は雪乃を助け起こす。
「一也、お父さんとお母さんは?」
「下でテレビ見てるけど?」
無事らしい。一気に緊張が解けた。
「どうしたんだよ」
「大丈夫。ちょっと貧血になっただけだから。ありがとう」
雪乃は部屋に戻った。
机の上の携帯電話が鳴っているのがわかった。彼方からだった。それをとる。
『桜庭、聴こえてたよ。大丈夫か?怪我はないか』
彼方は息を切らしていた。
「大丈夫……。彼方くん、今どこにいるの?」
『自転車でそっちに向かってたよ。もうすぐ、着くかな』
窓の外を見ると、遠くから自転車が向かってくるのがわかった。街灯が照らした一瞬で、彼方だとわかった。
『いよいよ、あの蜘蛛男は危険だ。家に中にまで入ってくるなんて……どうすればいいんだ』
煙のように現れ、煙のように去っていった男。この世には、安息の場所などないのだろうか。あいつから逃げることは不可能なのだろうか。
「彼方くん、私、あの人の顔を見たよ」
『うん。誰だったんだ?旧日本兵?』
「違うよ。あのね、やっぱり、今起こってることには、しのぶが関わってるんだと思う」
『しのぶ?それはそうだが、でもなんで……』
「しのぶ言ってた。最悪の敵の話。一番最悪なのは、もう一人の自分なんだって。自分だから、永遠に決着がつかないんだって」
早口になってしまっているので、落ち着こうと深呼吸をした。まだ自分の見たことが真実であると信じることができない。
『どういうことだ。まさか……』
「あの男は……影なのかもしれない。しのぶの言っていた……」
そうとしか考えられない。あの顔は知っている。不可思議なことだが、毎日、何度も何度も見た顔なのだ。あの恐ろしい殺人鬼の顔だけが、親しみがある部分にすげ変わっていた。どうしてしのぶはそれを予言するようなことを……。
『もしかして、きみか?』
彼方が唾を飲む音が聞こえる。
『あいつはきみだったのか?きみの顔が見えたのか?しのぶは……きみの中に男がいるって言ってた。アニムスだったか』
「違うよ。それは関係ないと思う」
『じゃあ、誰だったんだ?』
じれったそうに彼方は言う。雪乃はためらった。これを、言ってもいいものだろうか。しかし、ここまできて秘密にすることに意味はないと思った。どっちみち、声が知らせてしまうかもしれないのだから。
「あのね、それはね……」
『うん』
「あなただったんだよ」
『え?』
彼方は高い声を出した。
「彼方くん、蜘蛛男の顔はあなただったんだよ。彼方くんの顔が、マスクで隠れてたんだよ」
見慣れた顔。真面目で優しそうな彼方の顔。
「今までずっと、彼方くんの偽者が私を追い回してたんだ」
彼方は絶句した。雪乃も言葉が見つからなかった。なにもかもがおかしい。
しのぶが話したユングの思想。それがあの蜘蛛男にどう関係しているのか。
わからない。なにもわからない。わかりたくない気もする。頭が痛い。喉がひりひりする。どうしてこんな目にあわなければいけないの。
しのぶ、教えてよ。
それから雪乃は下に降りていって、家のそばで彼方と話した。だが先ほどあったことの疑問が解消されるはずもなく、二人の口数は少なかった。とにかく、明日しのぶが指定した場所へ行ってみて、それから考えようということになった。今できることはそれしかない。
雪乃は部屋に帰って机に突っ伏した。明日にすべてが解決するのだろうか。期待はあるが、どうもそうは思えなくなってきた。テレパシーの場所。そこに真実の一部が隠されているとしたら、しのぶはいったい何者なのだろう。たしかあの場所へ行ったのは高校一年生の時。
よく晴れた日だった。たしか、一也も一緒だったはずだ。
町のはずれのバスケットコートに、雪乃、彼方、しのぶ、一也の四人が集まり、昼下がりの光を一身に浴びていた。しのぶと一也はワン・オン・ワンをしている。金網を背にして、雪乃と彼方は黙ってそれを眺めていた。
雲はほとんどなく、抜けるような青空が清々しくて、空気がおいしかった。じっとしているだけで汗ばんでくるような季節の訪れを、雪乃は人知れず喜んでいて、どうして毎日が今日のような日でないのだろうと寂しく思った。金網の上部に整列している鳥たちの鳴き声は音楽的で、どこか優雅な空間を演出する。
一也はしのぶにスティールされた。しのぶの運動神経のよさもあるのだが、身長差が決定的に勝敗を分けているようだった。一也も急激に身長が伸びてきているが、それでもまだしのぶより小さい。バスケ部の意地か、彼は一生懸命にしのぶに食らいつく。しのぶはそれをひらりとかわして、レイアップを決めた。
『へへー、ざんねーん』
しのぶはおちょくるようにして言った。一也は『もう一回!』とボールをしのぶにパスする。彼女は楽しげにそれを返す。
一也はかなり前から彼方やしのぶと面識があった。雪乃に弟がいると聞くと、一人っ子の二人は過剰に興味を示したので、恥ずかしいのだが、紹介せざるを得なかった。弟が変なことを言わないか心配だったが、それをよそに、すぐに打ち解けてたまに一緒に遊ぶようになった。楽しそうに映画について議論するしのぶと彼方を見ていたことがきっかけになったのか、一也も映画をよく見るようになった。最初はテレビのロードショー、それに飽き足らなくなってDVDをレンタルするようになり、この頃ではちょくちょくと映画館にまで通うようになった。雪乃も映画は見る方だが、すぐに映画の知識は追い抜かれてしまった。一度興味を示すととことん追求しようとするのは、やはり男の子だからかな、と少し寂しく思った。
ふと隣の彼方を見ると、彼はいつになく憂鬱そうにしていた。そういう表情はたまに見せるのだが、この日はよりいっそう悩み深そうに見えた。雪乃はそっとしておいた。聞いてもはぐらかすのはわかりきっていたから。
しのぶは、この後に余命を宣告されるとは思えないほどに活発に動き回っていた。今弱っていく彼女を思い出してみると、その姿は一種の希望だったのかもしれない。それに気づかず過ごしていた自分は、なんて不幸だったのだろう。
彼方は、しのぶが病におかされているのを知っていたのだろうか。知っていたから、あんなに憂鬱そうにしていたのか。いや、確証はないが、彼は知らなかったのだと思う。そのような秘密を抱えながらあそこまで愉快にしのぶとやり取りをするというのは、彼の性格からして腑に落ちない。もし知っていたのなら、しのぶを見る目に陰りが混ざっていたはずだ。彼方は嘘がつけない男なのだ。
しのぶがジャンプシュートを決めた。一也は『くっそー!』と少年らしい素直な感情をあらわにした。彼方があの歳の頃はもっと大人っぽかったように思う。一也は彼方とまったく違った大人になっていくのだろう。彼方はどんな大人になるのだろうか?
しのぶと一也はバスケを終えて、こちらに戻ってきた。しのぶは一也の肩に腕を回して『ほんとだったらなんか賭けてたんだけどねー。ガキだから許してやる』と言った。それから自分の頭を一也の頭にぐりぐりと押し付ける。一也は、しのぶにすこぶるなついていて、されるがままになっていた。すると、その様子がおかしい。なんだか顔を赤くして、ぼうっと呆けるように目の焦点が合っていなかった。よく見ると、しのぶの胸が彼の腕に当たっている。
雪乃はきっ、と一也を睨んだ。彼はそれを敏感に察知し、しのぶを振り払って逃げる。しのぶは『なんだよ、かわいいなこいつ』と言って後ろから思いっきり抱きついた。一也は嫌がるそぶりを見せたが、内心嫌がっていないことは雪乃にはわかっていた。中学生め!
『こら、しのぶ!』
『うわ、雪乃が怒ったぞ』
しのぶは一也から離れる。その表情はにやついていた。一也もどことなくにやついている。なんだか腹が立った。この二人は本当に仲がいい。もしかしたらしのぶは弟がほしかったのかもしれないと思った。
『まあまあ、落ち着けよ、桜庭』
彼方は笑って言った。憂鬱さは消えているようだった。
『落ち着いてるけど』
困ったようにして、彼はまた笑う。自分たちとの関わりで、彼は悩みを一時忘れることができるのだろうかと思った。そうだとしたら、喜ばしいことだった。
その場で四人はくつろいだ。しのぶは持ってきたスポーツドリンクをがぶ飲みして、一也はダン、ダンと小気味よい音を響かせながらドリブルの練習をしていた。股の間を通して、足を組み替えてまた通す。なかなか上手い。雪乃と彼方は時折言葉を交わしては、それを眺めていた。
やがてとりとめのない雑談が始まって、くだらないことで笑い合った。のどかなひとときだった。その中で、しのぶがいつものように議論を開始した。
『昔さ、最悪の敵の話したじゃん。今度はさ、最高の主人公がどういうんだか考えようぜ』
そう言ってしのぶは飲み物を口に含んだ。
『主人公か。映画のだとしたら、好感の持てる人物じゃなきゃだめだよな』彼方が言う。
『そうそう』しのぶはうなずいた。『いけ好かないやつが主人公じゃ、感情移入できないもんな』
『でもさ、悪人が主人公の映画もあるじゃん』一也が言う。
『悪人でもいいんだよ、ボーズ。あたしもダーティヒーローは好きだけどさ、そういうやつも自分だけの道徳みたいのを持ってて、好きになれるんだよな。筋が通ってるっていうか』
しのぶが持って来た『スレッショルド』という脚本を思い出した。あれも、ダーティヒーローと言ってもいいだろう。
一也は真剣な顔をした。『俺はかっこいいヒーローがいいな。なんかすかっとするやつ。うじうじしてんのは見ててむかつくんだ』
『いいところを突くじゃんか、ボーズ。素朴な意見でかわいいね、この』
『しのぶ』雪乃は言う。
『おお、こわ』
『あとボーズって言うなよ。俺もう中二だし』
『はいはい。でもヒーローっていうのは主人公の理想だよな。彼方はどう思う?』
『だと思うよ。善人を描くのは難しいって言われてる。悪人は行動が多彩だけど、善人は常識にしたがってなきゃいけないから、制限されるってことだ。でもそれを説得力を持って描くことができれば、究極の主人公になる。万人に愛されるような……』
『みんな悪人にうんざりしてるんだよ』しのぶは言う。『普段悪人に嫌な思いをさせられてるから、そうでない善人の主人公が理想なんだよ。自分が悪人だとか、周りに悪人がいないような人からすればどうでもいいのかもしんないけど』
『完全無欠っていう主人公もつまらないけどな。強くて、かっこよくて、人を助けて、悪者を退治する。それもリアリティがない』
『リアリティってよく言うけどさ、なんかむかつくよ。なんだよリアリティって』一也は一人で怒っていた。『いいじゃん、リアリティなくても。面白ければ』
『そうだな。俺もそう思う。フィクションにリアリティを求めるっていうのは特別な意味があるんだよ。『この映画にはリアリティがない』っていう人の中には的を射ているのと、的外れのやつがいる。たしかに作り物っぽくて入り込めない映画はあるんだけど、その一方で作り物だから面白い映画もある。こういう食い違いが起こるのには、リアリティの質の違いが関わってると思うんだ』
『ほうほう、語りなよ』しのぶは言った。
『リアリティには大きく分けて『一般的な意味でのリアリティ』と『フィクション上のリアリティ』がある。前者の方は本当の意味で現実に則しているかってことだな。現実に起こり得ないことはリアリティがないってことになる。これに対して後者はフィクションの中で成立するリアリティだ。例えば『指輪物語』って知ってるだろう。あれは架空の世界での物語なんだけど、作者が本物の文献学者だから、設定がめちゃくちゃリアルで、実際は荒唐無稽な話なはずなのに本当の史実のように感じてしまう。これは作品の中でリアルが成立してしまってるんだ。これがフィクション上のリアリティ』
『なるほどねえ』
しのぶは感心している。彼方は続けた。
『この二つのリアリティを混同するとおかしなことになる。どっちのリアリティのことを言っているのか注意深く考えないと会話がかみ合わない。『実話を元にしたフィクション』ってあるだろ?ああいうのって不思議なことなんだけど、むしろリアリティがない場合が多いんだ。世界的に珍しい事件をあつかって話を作ってるから、都合のいい偶然が重なったりして逆に嘘っぽくなっちゃうんだよ。いくら『この映画は実話を元にしてます。だからリアルなんです』って言われても、つまらないんだからしょうがない。これはリアリティを履き違えているんだ。前者のリアリティで後者のリアリティを出そうとしてる。だから失敗する』
『たしかにねえ』しのぶは感嘆しているようだった。『素直にドキュメンタリーにしときゃいいのにって映画はたくさんあるね』
『もちろん二つのリアリティはまったく不可分ってわけじゃない。フィクションだって実話を参考にした方がリアルになる場合は多い。でもフィクションは本当に現実である必要はなくて、俗な言い方だけど、ただ現実っぽければいいんだ。文献学者じゃなくてもいい。その作品の中でリアルに構成されてればそれでいいんだよ』
一也は多分学校では一切見せないような知性のきらめきに満ちた目をして彼方を眺めていた。目から鱗といったところだろう。一也はどこか彼方を尊敬するような言動をすることが今でもよくある。そんなに歳が離れているわけではないのに、自分とはまったく違う彼方に、感じるところがあるのかもしれない。
『じゃあ話を戻そう』しのぶは仕切りなおす。『じゃあさ、主人公はヒーローで、かつ『フィクション上のリアリティ』を持った人物が理想ってことだよな』
『そうだろうな』
『じゃあさ、その主人公はどういう立ち回りをすればいいか考えてみようぜ。脚本ではどう描かれるのか』
『そこらへんはお前が詳しいんじゃないのか。いつも葛藤がどうのとか言ってるだろ』
『そうそう。まずね、主人公には目的がなきゃいけないんだよ。目的』
『そうなの?目的のない主人公は……いないかな?』雪乃は言う。
『つまんなくていいなら目的がなくてもいいんじゃないかな』しのぶは笑う。『でもあった方が引き締まるんだよ。別にさ、それがはっきりしてなくてもいいんだよ。ほのめかされるだけでもいい。主人公が自分の気持ちに気づいてなくてもいい。『ドラマ上の欲求』ってやつ?目的というか、願望というか、それはなんでもいいんだ。例えば悪人を倒すっていう単純なやつとか、離婚した妻とよりを戻すとか、個人的な悩みを解決するとか、なんでもいい。でもさ、そこで重要なのが『葛藤』なんだ』
『出た。葛藤』彼方はちゃちゃを入れた。
『馬鹿にすんな!葛藤は大事なんだよ。主人公はなにか壁にぶちあたって悩んで、それを解決して話が終わるんだ。葛藤もなんだっていいんだよ。好きなあの子が嫌いなあいつと付き合ってる、とか、大きな失敗をやらかして会社で肩身が狭いとか、差別や虐待をされてるとか、ミステリーだったら謎が葛藤になるのかな。これを解消させるのが主人公の目的なわけ』
『へえ。考えてみれば、たしかに面白い映画はそういうのがあるかな』一也は言う。
『そうそう。物語には方向性とか目的があるのが普通。それを構成するのが、発端、葛藤、結末だよ。最初に設定とか登場人物の関係とかを見せておいて、その後葛藤を描いて、最後にそれが解消される』
『解消のされ方はどうなんだ?解消されなくてもいいんじゃないか?』
『された方がいいだろ!悩みが悩みのまま終わったら単なる愚痴じゃんか』
『そうかな。別のまとめ方もあるだろう』
『ハッピーエンドの方が構成難しいんだよ!不自然じゃないように終わらせるのは大変なんだからさ』
『いっぱしの脚本家みたいだな』
『うっせえ屁理屈野朗』
『黙れ口裂け女』
『ハリウッド・スタイルは基本なんだよ。あたしはスピルバーグの生まれ変わりだ』
『はいはい、死んでない死んでない』
一也は一瞬『スピルバーグって死んだの?』という目を雪乃に向けたが、すぐ冗談だとわかったようだ。付き合いはもうそこそこ長いが、まだこのやり取りに慣れないらしい。
議論はそこで終了した。みんな思い思いに体をほぐし、立ち上がていく。しのぶは言った。
『じゃあ、さっそくあたしらもヒーローになろうか。ヒーローごっこ』
この日集まったのには理由があった。雪乃の家猫、ニアが行方不明になったから、それを探すことになったのである。すぐに追いかけた一也は場所の心当たりがあるというので、案内をすることになっていた。行方不明の姫を取り戻しに行くヒーローという子供っぽい名目で、しのぶは張り切っていたのだった。
しのぶは一也からバスケットボールを取り上げて、提案した。
『じゃんけんしようぜ』
『また?』雪乃は言う。
『負けたやつはこのボールを頭に乗せて歩く。間抜けだぜぇ』
一見いつものしのぶだったが、その様子にはどうも違和感があった。彼女は彼方を睨み据えている。彼もそれに気づいたのか、そわそわし始める。『なんだよ』
『彼方、今日はあんたに間抜けになってもらうよ』
『なに言ってんだよ』
直前の口論から彼を敵視しているわけではないようだった。彼女はいつになく真顔で、見たことがないくらいの目力があった。一也は不安そうに雪乃を見てくる。すると、彼女は気が抜けたように頬を緩めた。
『まあいいや。じゃあいくぜ』
雪乃はこっそりと一也に耳打ちした。しのぶはパーを出すからチョキを出せばいいと。しのぶは勢いよく『じゃんけんぽん!』と手を振り下ろす。
すると予想通り、彼女はパーを出した。他の三人はチョキ。しのぶの負けだ。
『くっそー、またかよ!』
頭にボールを乗せ、バランスをとって歩くしのぶを笑いながら、四人は行進を始めた。
めざましい緑の木の葉から漏れる日がまだらに四人を照らしていた。舗装された道路にもそれが落ちていて、万華鏡の中にいるようにきらびやかな光を散らしながら歩いた。風が吹くと汗が蒸発する涼しさを受け取り、車が通ると砂埃から逃げるように顔に手をかざした。
本当なら、ここでカメラを回すのが映画研究会のならわしなのだが、少し前にそれは紛失してしまったのだった。新しいのを買うまで、記録はお預けだった。だが、この時を雪乃は昨日のことのように思い出せる。おかしな動きでバランスをとるしのぶ、得意そうに先導する一也、そして、彼方。彼方は浮かない顔をしていた。この日、人と話していない時はずっとこうだった。どことなく、雪乃を意識しているように感じたのは気のせいだったのだろうか。自意識過剰?雪乃は考えを打ち消して歩みを揃えた。
道は森に入っていった。舗装が途切れ、地面が粗くなっていき、左右には植物が深まっていった。すると、急にニアが心配になってきた。ここにいなければ、車にひかれて死んでしまったかもしれない。もっと早く来ればよかったと後悔した。
『ここらへんだよ。ニアを見失ったのは』
一也が言った。それから、四人で手分けして探すことになった。危ないのであんまり横道に入っていかないことを確認すると、捜索を開始した。
雪乃は『ニア』と呼びかけながら、草むらを中心に探した。どうしてニアはこんなところまで来たのだろう、内気な家猫なのに、などと考えていた。猫の考えることはやはりわからない。探し始めてから三十分くらい経ったところで、遠くから彼方の呼ぶ声が聞こえた。
『おーい、見つかったぞ』
声の方へ行ってみた。道は広がり、風景が開けていくと、一つの桟橋がある場所が見えてきた。高く切り立った崖の下には川が流れていた。柳の木が一本あった。四人が集まってくる。
『あそこだ』
彼方が指差す方を見ると、橋の上にニアがいるのがわかった。だが、ニアはしきりに鳴いていて、こちらに目を向けようとしない。ニアの視線をたどってみると、合点がいった。雪乃たちから見て川を挟んだ橋の右側は、高く急な崖になっていて、その下の方のでっぱりに一匹の猫が取り残されているのだった。滑り落ちてしまったのか、そこから動けなくなったようだった。ニアの友達だろうか。ずっとここでその猫を励ましていたのか。
四人は歩いていってとりあえずニアを捕獲した。橋の真ん中から見ると、より崖は高かった。
『どうしよう』
雪乃はそう言って身を乗り出し、もう一匹の猫を見た。その猫は身を縮ませていて、いかにも憐れを誘った。
『下に行けそうだな』
見ると、確かに人一人が通れそうな幅が、崖にあった。そこから手を伸ばせば、猫を助けることができるかもしれない。四人はとりあえず猫がいる向かい側の、柳の木まで戻って行って、話し合った。
『どうする?誰か助けに行こうか』しのぶが言った。
『でも、危ないよ』雪乃が言う。
『俺が行く。男だし、年長だし』
彼方らしい正義感が溢れていた。だが、今回は危険すぎると思った。
『落ちたら大変だよ。大人を呼んでこよう』
『大丈夫だよ。俺に任せてくれ』
彼は力強かった。だから、雪乃はつい彼を信頼してしまったのである。三人はそこの向かい側でことの成り行きを見守ることにした。柵などはないので、注意しなければならない。
彼方は端を渡って、丘をぐるりと一周して岩がごつごつとしたあたりまで歩いていった。その岩をつたって、一段、また一段と慎重に身を降ろしていく。三人は固唾を飲んで見守った。実に危なっかしくて、握った手は汗ばんだ。
彼方はついに一番下まで降りる。
そこからが最も危険だった。掴まるものがないし、落ちたらどこにも引っかかることなく川に転落するだろう。川も浅いので、全身を強く打ってしまうはずだ。
彼方は背を岩につけて、一歩ずつ横に歩き始めた。猫が彼方を見る。おかしな行動をしないで、そのまま助けを待っていることを願った。一歩、また一歩。少しずつ距離が縮まっていく。やっとのことで、彼は猫の近くまで到達した。汗を拭う彼方。彼は下を気にしながら猫に向かって右手を伸ばした。もう少し……。
それが限界らしかった。だが手と猫の距離はまだ少し離れている。猫はおびえているようで、なかなか彼方の手に身を預けようとしない。
お願い。雪乃たちは祈った。彼方は猫に好かれる体質だっただろうか。それとも嫌われている?彼方はいい人だから安心して、と雪乃は猫に念を送った。他の二人も。食い入るように見つめている。
――猫が、動いた。
でっぱりから身を乗り出して、彼方の手の匂いを嗅ぐ。そう、その調子。猫は口を開けて、聞こえなかったがおそらく鳴いた。そして、彼方の手に前足をかけた。
彼方はその瞬間を逃さず、引き寄せてから左手でがっちりと猫を固定した。胸に抱いて、こちらを見てなにかを言った。
成功だ。三人はいっせいにため息をついた。よかった。
その時だった。一也が声を上げた。
『あ!』
指し示す方を見ると、彼方の丁度上から、落石があるのがわかった。
全身が総毛だった。
彼方はこっちを見ていない。
『彼方、上!』
しのぶが叫ぶ。三人で叫ぶ。彼方はこっちを見て、片手を上げた。聞こえていない!
岩はもう彼方のすぐ上まで迫っていた。
ぶつかる!
雪乃は目をつむった。岩が川へ落ちるどしゃり、という音が聞こえた。誰もなにも言わない。彼方が死んだ?目の前で死んだ?そんな現実は受け入れられない。ごめんなさい、私がニアのことを話したから。彼方が助けに行くのをとめなかったから。私のせいだ、私の……。
薄く、目を開けた。彼方がいた辺りを見る。すると、ぼんやりと人の形が見える。
目を開けた。彼方はまだそこにいた。幅の狭い岩に尻餅をついている。
『おーい、彼方!』
しのぶが呼びかける。彼方は手を上げて応答した。無事だ!
肺にたまっていた息を大きく吐き出した。
彼は猫を抱きしめながら、岩を登り始めた。それもまた危険だったが、彼はなんとかやり終えた。しばらくすると、橋へと姿を現す。
三人は橋を渡って駆け寄っていた。
彼方は青白い顔をしていた。無理もない。もう少しで死ぬところだったのだから。
『大丈夫?怪我はない?』
雪乃が言うと、彼方の手から猫が舞い降りて、町の方向へ走り去っていった。
『大丈夫だよ。大丈夫』
彼の顔はまだ青かった。よく見てみると、その放心は尋常ではないように思われた。
『どうしたの?本当に大丈夫?』
『あ、ああ……』
まったく平気そうではなかった。目が泳いでいて、なにも見ていないようだった。
『平気そうじゃないよ。なにかあるなら言ってよ、彼方さん』
一也も責任を感じているのか、取りすがるようにして言う。
『聴こえたんだ』
彼方はぽつりと呟いた。
『聞こえた?俺たちの声が?』一也は言う。
『違う。多分違う。まったく別のなにか……』彼方の声は低かった。ぶつぶつと、独り言のように続ける。『頭の中に、鳴り響いた。直接声が聞こえた。『上から岩が』って。誰かが俺に話しかけた。ここにいない誰かが。どこにもいない……俺だけに聴こえたのか?』
ようやく、彼方はこちらを見た。三人は首を振った。
『ああ、俺は……』
不思議なことだった。彼方が危険に見舞われたとき、彼にそれを伝える声が聴こえたという。気のせいではないと彼方は言った。それほどその声の印象は強かったらしい。
それから彼方はずっとその調子だった。話しかけてもろくに返事をせず、一人でぶつぶつと言っていた。町へ戻ると、すぐに解散した。
そしてその際、雪乃は見た。しのぶの顔色もまた、彼方のように蒼白だったのを、確かに見た。じっと彼方に視線を合わせ続けて、なにか考え込んでいるようだった。この二人は明らかにおかしいと思った。
この不可解な現象は、みんなの間でタブーのようになった。彼方が無言で『聞くな』と圧力をかけてきているように感じていた。しのぶも、その話題を避けていた。雪乃もなんだか恐くなってきて、記憶の片隅にこの出来事を追いやることになった。
雪乃は勉強机から身を起こして、伸びをした。そして、あの日のことをもう一度思い返してみる。
彼方に聴こえたのはテレパシーだったのだろうか。今彼に聴こえているのと同じ種類の声だったというのだろうか。だとしたら、何故あの日あの場所で聴こえてきたというのか。雪乃の危険を知らせるのと同様に、彼方の危険も知らせたということか。
雪乃ははっとした。一つの仮説が、浮かんできた。
でも、そんなことありえるだろうか。しかし、ありえなくはない。
あの時、テレパシーを送ったのはしのぶなのではないか?
彼女の見せたあの動揺。白い顔。咄嗟にテレパシーを送ったことで取り乱した?
しのぶは超能力者だったのか?
雪乃は首を振った。今結論付けてしまうのは早すぎる。すべては明日にかかっているのだ。しのぶがなにを言いたいのか。あの場所まで行けば、すべてがわかるかもしれない。
緊張が、高まってきた。




